FC2ブログ

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(5)

本日は「破闇満願」の釈について見ていきたいと思います。これは大行釈の後、経典からの引文と、論釈の文からの引文の間に出てきます。諸仏讃嘆の名号を信受して、真実信心の念仏を称えるなら「破闇満願」の徳益を得ることを

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」

と示されています。

ここでもただ「名は」とは仰らずに「名を称するに」と仰っています。名号そのものに我々の無明を破り、志願を満たして下さるはたらきがあるのだけれども、聖人は名号が衆生の中へ入ってきて信心となり、それが我々の身の上に現れてきた称名の位で「破闇満願」の徳益を教えられています。『浄土論註』には名号の徳用、名号のもつはたらきに主眼が置かれていますが、親鸞聖人は、名号に我々の無明を破り志願を満たすはたらきがあるなら、それを信受した真実信心の称名にもまた「破闇満願」のはたらきがあると仰るのです。

経典と論釈の文の間にこうしたご自釈を置かれているのが私達には大変有難いですね。昔から承上起下といって、上をうけて下をおこす、とこういう言葉があるそうです。

上のお経に諸仏が南無阿弥陀仏を称揚称讃するということがあって、下の論釈に人間が称える念仏がある。その真ん中にご自釈を置いたということは、私達の称える念仏が諸仏の称讃と少しも変わらない、素晴らしい念仏なんだということなんですね。

そりゃそうです。我が計らいの心をもって称えているんじゃない。本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏なんだから。念仏は往相の回向による行、阿弥陀仏がただ一つ選び択って「称えよ」と与えて下さった本願の行ですから、その名義にかなって称えるお念仏には我々の無明を破り、往生の志願を満たすはたらきがある。だから「大行」だというのです。

このようなことですから、「称名」は「最勝真妙の正業」なり。正しく浄土往生が決定する行業であると言われていますね。「称名」には報恩の意味もあるけれども、その徳義から言えば「正定業」なのです。これを、私を主体に置いて「称える」という行為に目をやり、称えて助かろうと計らいを雑じえるから本願名号のはたらきが阻害されてしまうんです。私が主体ではなく、また「称える」行為に目をやるのでもなく、阿弥陀仏が主体、阿弥陀仏の「助けるぞ」のお慈悲がそのまま我々の念仏となる。そのお慈悲を受け容れ、本願他力にまかせた「称名」が「正定業」ということです。念仏は私の口から出ているけれども、それで助かろうというのではない。「助けるぞ」の仰せに全てまかせている。これが他力念仏行者の心持ちです。

次に「正業」、正定業は念仏の他にありませんから「正業はすなはちこれ念仏なり」と仰っています。善導大師は他の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の行を助業と仰っていますが、これらは称名の助けとなり称名に伴う行であるからですね。これを、やはり私の行為に目をやって正定業と助業の区別なく並べて修め、それによって助かろうというのを「助正間雑」といい、それでは報土へは参れないと教えられています。

それから、「念仏」は「南無阿弥陀仏」なりと続きます。ここでは、お念仏、名号を離れて阿弥陀仏という仏様は無いんだと名体不二であることを表されています。お念仏の他に阿弥陀仏という仏様を考えても我々には分からない。南無阿弥陀仏の名号が、すなわち阿弥陀仏という仏、阿弥陀仏という正覚である。

最後に「南無阿弥陀仏」は「正念」なり、つまり信心であると仰せられています。これは、なんまんだぶを称えることの他に信心は無いんだと行信不二を表しています。本願のはたらきも、それを計らい無く受け容れる信心も、念仏を称えることの他には無いんだということです。そのことは先に紹介した大行釈で往相の回向について「大行あり、大信あり」と行と信を一緒に教えられていることからも判るでしょう。往相回向の行には、当然往相回向の信が具足しています。本願力を疑い無く信じてまかせる信心を南無阿弥陀仏に込めてお与え下さるので、南無阿弥陀仏と称える行の中に自ずから信心を具足しているのです。


信心が大事、信心正因、唯信独達と、真宗にはとにかく信心を追い求める人が多いようですが、南無阿弥陀仏の他に信心はありませんよ。けっこう前に、淳心房の信心は「南無阿弥陀仏の他に何もない」と書いた覚えがありますが、この口に称え聞こえるなんまんだぶがすなわち信心です。なんまんだぶは「助けるぞ」の仰せ。「助けるぞ」の仰せを聞くのがすなわち信心です。念仏の他に信心を探すから分からなくなるのだと思います。

また、聴聞が大事、聴聞に極まるというけれども、この口より聞こえるなんまんだぶの他に一体何を聞こうというのでしょうか。なんまんだぶはすなわち、「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という阿弥陀仏の喚び声、帰せよの命であり、直の説法なんです。善知識よりこうした念仏のいわれを聞くのが聴聞です。御文の意味を聞くんじゃない。何か変わったことを聞くんじゃない。南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞くんだ。

「同じことを聞く」と言いますが、「同じこと」とは南無阿弥陀仏の六字のいわれです。お前は決して迷いの世界を出られない者だ。そのお前を目当てに阿弥陀仏は「念仏する者を助ける」と誓われた。そして今やその願成就して南無阿弥陀仏と成られている。だから、私達はその誓いをそのまま受け容れてお念仏申すのみなんだ。我々の口から出てくるなんまんだぶ、なんまんだぶという一声一声に、「助けるぞ」「お前の後生引き受けた」「安心してまかせなさい」という阿弥陀仏のお慈悲が満ち満ちているんだ。その阿弥陀仏のお慈悲を聞く。

因果の道理」を聞くんじゃない。「廃悪修善」をせよという話を聞くんじゃない。「真実の自己」がどうたらという話を聞くんじゃない。「19願」「20願」を聞くんじゃない。「相対の幸福」「絶対の幸福」が云々という話を聞くんじゃない。参詣目標人数、入会目標人数が何人、目標財施額がいくらという話を聞くんじゃない。

私達が聞くべき南無阿弥陀仏の六字のいわれ。口では「信心決定あれかし」と蓮如上人の真似をしていても、これを話さないようではその知識は善知識ではありません。信心の体は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を話さないということは、信心を獲させる気がないということです。もし今の知識、先生が南無阿弥陀仏を話さないのなら、その先生から離れて別の知識を求めた方がよいでしょう。


話が逸れてしまいましたが、一応これで「破闇満願」の釈についての考察を終えたいと思います。



【参照】
称名破満の釈義
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Abcです

こんにちは、Abcです。

今回もありがたく読ませていただきました。
 以下に、私jなりの補足を『お聖教』のなかから記してゆきたいと思います。

>が計らいの心をもって称えているんじゃない。本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏なんだから。念仏は往相の回向による行、阿弥陀仏がただ一つ選び択って「称えよ」と与えて下さった本願の行ですから、その名義にかなって称えるお念仏には我々の無明を破り、往生の志願を満たすはたらきがある。だから「大行」だというのです。(淳心房さん)

さようであります。「称名」につきましては覚如上人が、「第四の称名」といわれたり、親鸞が「南無阿弥陀仏をとなふれば」と『和讃』にあるとおりであります。この「真宗」の大網は「南無阿弥陀仏」であります。

覚如上人『改邪抄』
「正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」

親鸞『浄土和讃』
南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて 定業中夭のぞこりぬ

ですから蓮如上人は『御文』のなかにて、

蓮如上人『御文』五帖目13通
「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。」

と記されております。

>それから、「念仏」は「南無阿弥陀仏」なりと続きます。ここでは、お念仏、名号を離れて阿弥陀仏という仏様は無いんだと名体不二であることを表されています。お念仏の他に阿弥陀仏という仏様を考えても我々には分からない。南無阿弥陀仏の名号が、すなわち阿弥陀仏という仏、阿弥陀仏という正覚である。

最後に「南無阿弥陀仏」は「正念」なり、つまり信心であると仰せられています。これは、なんまんだぶを称えることの他に信心は無いんだと行信不二を表しています。(淳心房さん)

ありがとうございます。端的に(単語だけで)記した場合は以下のようになりますね。
「念仏」 = 「南無阿弥陀仏(弥陀名号)」 = 「正念」 = 「信心」

また、こちらの「南無阿弥陀仏」は「真宗」とも言われます。
 出処は「念仏成仏コレ真宗」という親鸞の『和讃』からであります。

「信」と「行」とは2つではない(行信不二)につきましては、
『末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」』(親鸞のお手紙)に記されておりますので、もしこのことに関心があるのでしたらご一読ください。

簡潔にですが、記させていただきました。
なもあみだ なもあみだ
Abc

行中摂信

ども林遊@なんまんだぶです。
この文の漢文では、

 爾者称名 能破衆生一切無明 能満衆生一切志願。
 称名則是 最勝真妙正業。正業則是念仏。念仏則是 南無阿弥陀仏。
 南無阿弥陀仏 即是正念也。可知。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E6%96%87%E9%A1%9E-%E6%BC%A2%E6%96%87#no12

とあり、日本語での「すなわち」を、南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、「即」とされているのが面白いですね。
時として、お聖教は漢文で読むと、その意図が窺えることもあるので面白いです。すなわちとして乃至の乃という言葉がありますが、かってこの語を考察したことがありました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B9%83%E8%87%B3

ともあれ「行中摂信」の、なんまんだぶと、なんまんだぶから信を開いた「信別開」の信が判らないから口に称えられる、なんまんだぶがワカランのでした。
法然聖人は、往生の「難易義」で、

 ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
 しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
 もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
 まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
https://goo.gl/ADQYSb

といわれていましたが、「行」のない「信」に迷っている高森顕徹氏と高森親鸞会の会員は、この「称名念仏一行」が判らんのですよ。

「名号」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%90%8D%E5%8F%B7

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

Abc様

行と信は分けて説かれているけれども、この二つは共に本願の名号を信じ(信)、本願の名号を称える(行)ことで、二つであって一つ、一つであって二つという不離の関係ですね。往相の回向ということが受け容れられたなら、信心が正定業であり、同時に称名が正定業である。行も信も、南無阿弥陀仏を信じ称える他にはないことが知らされます。

阿弥陀仏の行が私に届いて信心となり、信心が今度は私の口より念仏の行となる。念仏は本願のはたらきが至り届いた証ですから正しく浄土往生が決定する行業です。もう私の後生は南無阿弥陀仏にひとえにおまかせです。念仏一行を称え、ただ回向の信を崇めて往生を願うよりありません。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・



林遊@なんまんだぶ様

> 「行」のない「信」に迷っている高森顕徹氏と高森親鸞会の会員は、この「称名念仏一行」が判らんのですよ。

間違いないです。「高森の信」は、「絶対の幸福」とか、「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」など、南無阿弥陀仏と何の関係があるのかよく分からない「信」です。
また「行」は称名念仏一行ではなく、助正間雑、雑行、悪業悪行です。こんなことで真実の行信が分かる方がおかしいです。

口に称えられるなんまんだぶが如来の喚び声であり、喚び声が心に届いて信心となる。だから我称え我聞くといえども、これはこれ、大悲招喚の声と言われる。南無阿弥陀仏を離れて信も行も、勿論証も、大悲の必然である還相もありません。会員の皆さんには専ら念仏一行を称え、念仏のこころを受け容れて往生を願って頂きたいものです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード