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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(6)

本願のはたらき、名号のはたらきが我々の行為となって現れている。これが真宗の「」すなわち「称名念仏」です。それは念仏して助かろうという我が計らいを雑じえた行為ではありません。「念仏する者を助ける」という本願のはたらきにまるっきりまかせたすがたが、「称名」という行為なのです。

いわゆる所行派()の方々は、「称えられる名号」に重きを置いて「称える念仏」を軽視するきらいがあります。けれど、祖師は本願のはたらきがそのまま我々の口から現れてきた称名の位で「大行」と言われているのですから、やはり能所不二です。名号を信受したからには、称名という我々の行為になってくるのが当たり前です。

称名しているから真実信心とは言えませんが、やはり称名となって現れてこないとね。「念仏する者を助ける」という仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を計らい無く受け容れている信心の表れです。でないと名号と衆生の接点がありません。名号は衆生の周りを空転するのではなく、我々の心に飛び込んで信心となり、また称名となって下さる。この一連の本願のはたらきを「大行」と言わねばなりません。

そして「大行」たる念仏は正定業です。「往相の回向」だからです。阿弥陀仏が「どうか私の名を称えておくれ」と下さった行だからです。念仏は浄土往生の正しきしわざですから、命のある限り申し勤めてゆくべき行です。信一念で事足りるから信後の称名は要らんみたいな人は、どこか聞き違いをしていると言わざるを得ません。


しかし、あまり「称える念仏」、称名を強調すると今度は称名正因に陥る危険があります。能行派の方々が一番困るのはこの問題ですね。信心の対象は行ですが、行を「称える念仏」とすると信心は「念仏称えたら助かる」とこうなる。これでは称名正因と受け取られても仕方ない。これを人間の側で言うたらあかん。これでは、聞く側は私が称える私の念仏と心得て、その功徳を積み重ねて浄土に往生しようとなりやすい。

論釈の文には人間の称える念仏が説かれているが、ともすると念仏が私の行、私の善と受け取られやすい。自力の雑じらない、往相回向の念仏ということを示すには、「南無阿弥陀仏」の六字のいわれを説き開く必要があった。念仏は私の行でも善でもなく、阿弥陀仏からの「帰せよの命」であることを示しておく必要があったと推察されます。親鸞聖人によると、私の口から出ずるお念仏は、阿弥陀仏が私の口を借りて「助けるぞ」と喚んでおられる声だというのです。それが、

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音(こえ)なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。「行文類」親鸞聖人の六字釈

とのお言葉です。これは善導大師の六字釈など十文を挙げた後の結びとなるような御文です。

南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説(せつ)の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。

“説”のいろいろな読み方と例文によると、このように「説」には実に多くの読み方があります。「帰」を「帰説」と熟語して、阿弥陀仏が我々に思召しを述べられているということを細かに説明しておられます。

次に「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

このように丁寧に字訓を述べられ、最後に「帰命は本願招喚の勅命なり」と結ばれています。阿弥陀仏が我々に向かって「来いよ来いよ」「我にまかせよ」「助けるぞ」と喚んでおられる本願の仰せ、命令、勅命が、すなわち「南無阿弥陀仏」だというのです。


本来「帰命」とは「命に帰す」で、我々人間が仏に信順帰依することを意味する語です。しかし聖人は阿弥陀仏が我々人間に「帰せよと喚んでおられる命」だと、仏と人間の位置をひっくり返して説明されています。

また「帰命は本願招喚の勅命なり」に関しても、通常は「帰命は本願招喚の勅命を聞くことなり」とか、或いは「帰命は本願招喚の勅命を信ずることなり」と言わなければならないところです。そこを、聞く、信ずるということを取り除いてただ「帰命は本願招喚の勅命なり」と言われたということは、如来の喚び声というものが自ずからはたらいて我々の帰命の信となって下さる、我々人間の方でプラスするものは何も無いんだということでしょう。

それで私はたまにこの言葉を紹介しています。

「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」(※)

本願招喚の勅命を聞いて、我が胸に持ち込んで様々に思考を巡らし、「あぁそうか」と分かったのが信心のように思うかもしれませんが、そうではないのです。月がそのまま池に姿を宿すように、仰せがそのまま我々の心に宿る。我々があれこれ手を加え思考を加える必要は無いんです。逆にその計らいが蓋となって我々の心に宿ろうとする如来のはたらきを妨げているのです。

それでよく言うでしょう? 「助けるぞ」を聞くのがすなわち信だと。私は近藤智史さんからこの言葉を聞きましたが、当初は意味不明でしたね。けれど今は、これほど如来の勅命と、聞と、信の関係を言い得て妙だと思える語は見当たらないと思います。「助けるぞ」をただ聞くばかり、ただ頂くばかり、それがそのまま信心。だから信心といっても「助けるぞ」の仰せ、すなわち「南無阿弥陀仏」以外に無い。その「南無阿弥陀仏」が領受されたなら、今度はそれが我々の口に称名となって現れてくる。これが聞即信、信即称とこういうことですね。

南無阿弥陀仏」は「助けるぞ」という大悲招喚の声。私が称えるには称えるのだけれども、それは私の口を借りた如来の喚び声である。だから名号を称えるというのは、喚び声を聞くということ。称名はすなわち聞名。この喚び声一つで安心してしまうのが浄土真宗です。

有難いことです、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【浄土真宗本願寺派 鹿鳴山 願生寺】私的研究室 16.浄土真宗の行
『安心論題』(16)六字釈義
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勅命のほかに領解なし

ども、林遊@なんまんだぶです。

原理と現象とか理論と実践ということが言われますが、本願を信じ念仏を申せば仏に成る、と愚直に〔なんまんだぶ〕を称える行を実践している門徒を、底辺で支えているのが教学でしょうね。
ある意味では、教学とは学僧の知的好奇心で御開山の思想を弄り回しているとも言える。
ともあれ、御開山の思想は重層構造であり、一筋縄ではいかないのであり、各学説も理解を助ける補助線だと思っていればよい、などと思っていたりします。
あまり学説に執着すると、

「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、『歎異抄』(第11条) にあるように人を「いひおどろか」すことなってしまうのかもです。
もちろん諸先達の講録は参考になることも多いのですが、えてして議論の為の議論になっている場合もあります。また、覚如、蓮如両上人の「信心正因 称名報恩」という規矩の中でしか宗義を論じられなかったという時代背景もあるので、諸先輩方は苦労しておられます。
林遊は「称名正因」ではないかと言われることもありますが、御開山が『尊号真像銘文』p.665 で、


「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

と、されていますが何か? と言い、あなたの言う信心正因とはどういう事か述べてみなさいよと云うことにしてます(笑
wikiarcの目次では、御開山以降の著述は聖典に準ずるものとしていますが、御開山の思想は御開山のところで把握するのであって、御開山以降に展開された「信因称報」説だけでご法義を理解しようとすると、高森親鸞会のようになるのかもです。むかしから越前の浄土真宗の僧俗は、高森親鸞会をお文による通俗的な蓮如教学だけに依拠して、蓮如さんが熟読された御開山の『教行証文類』に拠らない異端であると揶揄していたものです。
なお、林遊は法体名号という概念は好かんです。名号は私に〔なんまんだぶ〕と来て名号となるのであり、私の称える前の名号というものは無いのでした。名号があるから信ずるという領解は、少しく御開山のお示しと違うと思っていたりします。
https://goo.gl/vkCZiF

本願力回向という宗旨は、私の思いを離したときに開示されるご法義でしょうね。
ともあれ、独力で教学の迷路に踏み込むのは危険なのですが、よい師匠に遇えたらいいですね。
そんなこんなで、教学とは義を論ずることなのですが、

 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。p.779

ですから、愚直に〔なんまんだぶ〕を称えて「義なきを義」とする他力(利他力)のご法義を楽しんでいきましょうよ。「勅命のほかに領解なし」でしたです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E3%80%8E%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%80%8F%E8%A1%8C%E5%B7%BB%E3%81%AE%E6%A7%8B%E9%80%A0


空華学轍

林遊@なんまんだぶです。

いい忘れましたが、空華派発祥の地である善巧寺さんのHPから、「空華学轍の思想/桐谷順忍」をリンクしておきます。
坊さんの学校である「行信教校」は、この空華の流れを汲む学寮であり、梯實圓和上もこの「行信教校」で学ばれたのでした。
ただ、和上は論議に固執することなく、石泉派の教学も熟知され御開山の本願力回向の思想を展開されておられました。あほの林遊は時々ツッコミを入れて完膚なきほどに叩かれたのは、いい思い出です。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://www.zengyou.net/?p=1064

Re:淳心房さん 林遊さん

こんばんわ、Abcです。
以下に、コメントを記していきます。

淳心房さん

>あまり「称える念仏」、称名を強調すると今度は称名正因に陥る危険があります。能行派の方々が一番困るのはこの問題ですね。信心の対象は行ですが、行を「称える念仏」とすると信心は「念仏称えたら助かる」とこうなる。これでは称名正因と受け取られても仕方ない。これを人間の側で言うたらあかん。これでは、聞く側は私が称える私の念仏と心得て、その功徳を積み重ねて浄土に往生しようとなりやすい。

私は...いや、私の家柄はねんごろに「称名念仏もうすべし」ともうしておりますので、よく大谷からは「そのような称名正因に傾倒させるような布教はやめるべきである」といわれ続けております。現に、大谷(真宗本廟 および 西本願寺)は「学校法人」と「宗憲」を持っておられます。対して、高田派は「学校法人」を有しておりません。

 それでも、親鸞が

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。 (『教行証』 行巻)

不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし (『浄土高僧和讃』(高僧和讃))

といわれ、 源空聖人が

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり (『選択集』三選の文)

次に合を二種となすといふは、一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。すなはち文(散善義)に、
「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といふこれなり。
次に助業は、第四の口称を除きてのほかの読誦等の四種をもつてしかも助業となす。すなはち文(同)に、「もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす」といふこれなり。 (『選択集』二行章)

と記されておりますゆえ、私たちは「称名正因の異安心ではないか」と問われましたら



覚如上人『改邪抄』
「正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」

とございますように、「正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」と自力を交えるために「20願」となられるのです」

と大谷の方にご返答を行います。


林遊さん

>なお、林遊は法体名号という概念は好かんです。名号は私に〔なんまんだぶ〕と来て名号となるのであり、私の称える前の名号というものは無いのでした。名号があるから信ずるという領解は、少しく御開山のお示しと違うと思っていたりします。

仰るとおり、「私の称える前の名号というもの」というものはございません。いや、「私が作り上げた名号」といいますと顕著になりますが、そのようなものは断じてありませんし、仮に知識(親鸞 やそのほかの知識)より「本尊」を頂く場合でありましてもそれを「方便法身尊号」と申し、「方便(いつわり かりそめ の意)」と記します。

林遊さんが既にご存知であります『化身土巻』は、正式名称を『顕浄土方便化身土文類』と申し、他5巻とは違い「浄土方便」と記されております。ですから、「親鸞教学 及び 行学」に正しくあるならば、「念仏称ふべし」とあるべきなのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcさん。

Abcさん。
出拠を示して下さってありがとうさんです。
お聖教を読んでいない方は、お聖教の文句を切り出して示しても意味不明だと思ふので、林遊は出来るだけ出拠を表示するようにしてます。
なお、前に提示して下さった仏の三七号は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』からですが、御開山は『涅槃経』p.352に拠って阿弥陀仏は無量の名を持っているとされたのかもです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%AE%83%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E5%81%88%E3%81%A8%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92%8C%E8%AE%83

ともあれ、讃阿弥陀仏偈と讃阿弥陀仏偈和讃の対応を考察したことがあったのでリンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%AE%83%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%BB%8F%E5%81%88%E3%81%A8%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%92%8C%E8%AE%83

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: Abc様、林遊@なんまんだぶ様

往生の正因は念仏であり、信心ですね。なぜなら、念仏も信心も南無阿弥陀仏を離れて存在しない、不離の関係だから。


穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)


仰せの通り、専ら念仏一行を称え、ただ本願力回向の信心を崇めるばかりであります。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

能信と所信

ども、林遊@なんまんだぶです。

>往生の正因は念仏であり、信心ですね。なぜなら、念仏も信心も南無阿弥陀仏を離れて存在しない、不離の関係だから。

親鸞会の方に、そもそも信心、信心とうるさいけど何をどう信じるてるの? と訊いてうろたえさせたことがあります。
浄土真宗では能信、所信というのですが図示すれば以下のような能・所の関係になりますね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%83%BD%E6%89%80

  ┏能詮━━━━━━━━教┓
  ┃    ┏所信━━━行┫
  ┃  ┏因┫      ┣四法
  ┗所詮┫ ┗能信━━━信┫
     ┗果━━━━━━証┛

上図は100年ほど前の、山邊習學 赤沼智善 共著の『教行信証講義』からですが、『教行証文類』を立体的に把握するための図示があるので便利です。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E8%A8%BC%E8%AC%9B%E7%BE%A9/%E5%BA%8F%E8%AC%9B

同書は、現代の我々の普段使っている語例と少しく違う(実験とか霊などの用例)ので読みにくいかも。また現代の各種の研究成果が反映されていない面もありますが『教行証文類』のベースの宗乗を学ぶには適書だとおもふ。
ネットでゲットした文書なので少しくタイポがあるので、暇な時に修正しています。
そういうわけで、明らかなタイポやおかしな用語例を見つけたら知らせて下されれば幸甚です。林遊は在野の一門徒ですが、ネットは共有知の場だと思量して「慶所聞 嘆所獲」と自己の琴線に触れた文書をUPしてるのですが莫迦ですねえ(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 親鸞会の方に、そもそも信心、信心とうるさいけど何をどう信じてるの? と訊いてうろたえさせたことがあります。

「高森先生の教えに間違いない」と信じているといったところでしょう。本願寺を無安心無信心集団と非難する割に、自分達こそが無安心無信心集団なのでした。自分というのはよく分からないものだと彼らが言っている通りです。

何を信じるかと言えば行ですね。この場合の行は「本願のはたらき」です。念仏を称える者を浄土に迎えるという本願を信ずる。計らい無く受け容れる。これが受け容れられたなら、そのまま称名念仏となってあらわれてくる。その真実信心の称名をも行というので、行も信も本願の名号、南無阿弥陀仏のはたらきにより行ぜられ信ぜられるものですから分けるに分けられません。念仏一行を称えて往生を願う人に「念仏の信」が問題になるわけで、行に惑い信に惑う人達が信心、信心と喚いてもなんのこっちゃです。

ネット上に聖典や先哲のお言葉を紹介して頂き、私には大変有難く、感謝しております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

何かしら「林遊さん」の文章には惹かれます。きっと懐が広いからでしょう。合掌
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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