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ようやく「二河白道の譬え」を話すも省略した内容で、相変わらず「白道」=「聞法心」と邪義を唱え続ける高森顕徹会長

『飛雲』よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

にあるように、先日日曜日は高森顕徹会長の話がありました。今回は映画『なぜ生きる』への質問

「聞く一つで、大船に乗せる」とはどういうことか?

についてでした。それでようやく『二河白道の譬え』について話があったのですが、頂いた情報からはかなり省略した話しかなされなかった模様です。さすがに創作『二河白道の譬え』を話すのはためらわれたのでしょう。かと言って話をまるっきり変えてしまっては過去の話との整合性が取れませんから、何とか苦肉の策を練って取り繕っていたという印象を受けました。


今回、高森会長は善導大師が『二河白道の譬え』で明らかにされたものが3つあるとして、

(1)阿弥陀仏の救いは「聞く一つ」
(2)「どんな人でも」助けるお約束
(3)(阿弥陀仏に救われるまでの)「心の道のり」


と話していました。しかしこれも随分とデタラメ創作教義が雑じっています。特に(3)です。

『二河白道の譬え』信後の他力信心を守護する譬えです。

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。「信文類」二河白道

信前の阿弥陀仏に救われるまでの「心の道のり」とやらを明らかにした譬えでないことは明白です。「信文類」は信後の真実の信心を顕かにした文類であって、信前のことを言われているのではありません。親鸞聖人は、『二河白道の譬え』を「信文類」でしか引文されず、信前のことを言われていると話している「化身土文類」には引文されていません。この事実一つ取っても高森教の邪義は明らかです。


また(1)についても、善導大師はそうは教えられていません。

『飛雲』麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

等をお読み頂ければお判りのように、阿弥陀仏に救われるには

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ
⇒「真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい」=「白道を歩みなさい」

と教えられたのが善導大師です。この念仏、信心を往相回向である他力念仏、他力信心と明らかにされ、他力の信心は仏願の生起本末、すなわち南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞いたまさにその時に決定すると教えられたのが親鸞聖人でした。

確かに18願の救いは「聞く一つ」と言っても差し支えありませんが、それは高森会長の言う「聞く一つ」とは違います。南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という本願招喚の勅命「聞く一つ」です。

高森教のように因果の道理廃悪修善十九願定散二善等の話を聞き、その実践と称した組織拡大活動をしていくことではないのです。煩悩と闘って様々な「高森の行」を実践することで白道を進み、やがて阿弥陀仏の喚び声を聞く、という邪義を真に受けている会員ばかりでしょうが、そうではありません。現在只今、ここで、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という喚び声を聞き受けて白道を歩むのです。

白道を歩み出したのが真実信心になった時で、それには「高森の行」の実践は一切不要です。ただ「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いをそのまま聞き受けてお念仏申すのみです。


他力の意味しかない白道自力の聞法心と教えられ、聞いたことの実践と称して献金、勧誘、無条件服従といった様々な「高森の行」をやらされる会員は哀れです。大悲の願船に乗じるのは真実信心の念仏一行という大行の利益であって、助正間雑、雑行、悪業悪行をやっている内はそれは永久に訪れません。会員の皆さんには、19願という方便仮門、また高森教という外教邪偽の異執は直ちに捨てて、「助けるぞ」の仰せを疑い無く聞き受けて念仏して頂きたいものです。
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No title

こんばんわ、Abcです。

高森さんが懲りもせずにいまだに上で言われていることを発言されているとおもうと正直何も申し上げることが出来ません。

そして『観経』の「顕教と隠教」は「19願と18願」です。そのうち「19願」については『和讃』にて

定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし

とありますように「自力の三心ひるがへし」となっております。
 (このことからこちらの和讃は 上の段が19願 で 下の段が18願であることがわかる)

リンクを貼っていただいた箇所(飛雲さんのブログ)では、

 「『観無量寿経』の表面に18願の教えは少ないですがあるのです。『観無量寿経』の表面上が全て19願の教えだったら、18願が隠されているというより、無い18願をでっち上げたことになります。」(飛雲さん のブログ)

とございます。このことについて『歎異抄 後序』には、
 「おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。」(『歎異抄』より)

とあり、「方便と真実が入り混じっているが、そこから真実を選び取りなさい」といわれています。この「選び取る」ということも「阿弥陀さまが選び取ってくだされた」という見方から「選択本願」と源空聖人がいわれるようになられたのであります。 ですから前に記しました「標挙」でありますが、

『化身土文類 六』 巻頭
至心発願の願 邪定聚の機 双樹林下往生 無量寿仏観経の意なり (19願)
至心回向の願 不定聚の機 難思往生 阿弥陀経の意なり (20願)

は、どちらも「18願」に誘入させるための「方便」なのです。

 このような言い方をしますと「では、三願転入ではないか。私たちの意見は正しい」といいはじめますので私は、あまりこの説明はしませんでしたが、
「19願・20願」の要(このことから「19願」は「要門」といわれます)である「自力回向」について、『正信念仏偈』には、

「弥陀仏本願念仏 邪見僑慢悪衆生
 信楽受持甚以難 難中之難無過斯」 
(18願は「因果の道理」を信じている人にとっては難しい)

「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」、(前が19願 後ろが18願)

「焚焼仙経帰楽邦」 (「焚焼仙経」が19願 「帰楽邦」が18願)、

「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 (前が19願 後ろが18願)
 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」 (前が19願 後ろが18願)

「矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁」 (前のうち「定散与」が19願 後ろが18願)

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」 「雑 、 浅 、 化」は19願であり、「専 、 深 、 報」は18願である
「極重悪人唯称仏」 は18願

「真宗教証興片州 選択本願弘悪世」は18願、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」は19願
(このことから「還来生死輪転家」を「化土」とみる説もある)
「速入寂静無為楽 必以信心為能入」は18願、

そしてこの最後に、
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」と「みなみな18願を信じなさい」としめられています。

おわりに

 今回も色々かかせていただきましたが、途中から『正信念仏偈』の解説になってしまい、『観経』の解説ではなくなっていることについてはご了承ください。

『正信念仏偈』にて親鸞が言いたかったことは「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」であり、「阿弥陀さまにおまかせして、高僧の説(選択本願 など)を信じなさい」ということです。
 ここで注意しなければならないのは「高僧を信じなさい」ではなく、「高僧の説を信じなさい」である。前者だと「知識帰命」になってしまいます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

観経の三心と大経の三信

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山が「信巻」で善導大師の『観経』の三心を引文されるのは、『大経』の至心・信楽・欲生の三信を釈する為ですね。
このことは御開山の三心釈の読みかえを読めばあきらかです。
https://goo.gl/bMhW9y

それは善導大師が『観経』を釈するに、

 しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。
「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。

弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。
「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
https://goo.gl/MezBAP

と、要門と弘願という名目で『観経』に『大経』の弘願を示しておられたからです。善導大師は『大経』の意に拠って『観経疏」を述されたのでした。この善導大師の深意を承けて、『大経』の本願の義意をあきらかにされたのが御開山でした。
ですから、御開山はほとんど『観経』を引かずに、『観経』の意を引文する場合は善導大師の『観経疏』に拠っています。
参考までに御開山の『観経』の13文例を考察したページをリンクしておきます。末尾の脚注を参照。
https://goo.gl/evKX76

と、いうわけで二河譬を論ずるなら『大経』の本願力回向の三信釈から反顕すべきなのですが、『観経』という自力の罠に嵌って、本願力回向の行信を見失っているのが高森会の会員でしょうね。
善知識だと思ひこみ、自らが学ぶことを放棄して悪知識の妄想につきあうから会員は「迷行惑信(行に迷ひ信に惑ひ)」っているのでしょう。
もっとも自覚としての「絶対の幸福」なる自己の描く欲望に迷い惑うのも一因ですが、自らの欲望の延長として仏教のさとりを欣求するなら、それは既に仏教ではないのでした。
信心獲得とかハッキリしたいということは、己の欲望の延長なのですが、高森親鸞会は欲望を煽る邪義なる宗教とも言えるかもです(笑
https://goo.gl/utTrAE

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



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Abc様

高森教では方便について、「我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものをいう」等と教えられています。だから方便と聞くと、自分達に必要なものと思ってしまう傾向があります。善巧方便と権仮方便がごちゃ混ぜになった教えを受けていたらそうなるのも尤もですが、会員の多くは内心は「知識帰命」なので中々そういった邪偽の教えから抜け出せません。

・方便といっても我々に要る方便と要らない方便とがある
・19願、『観経』顕説の定散二善の教えは我々には不要

こういったことが分かればマインドコントロールは抜け出たも同然でしょうが・・・


林遊@なんまんだぶ様

> 二河譬を論ずるなら『大経』の本願力回向の三信釈から反顕すべきなのですが、『観経』という自力の罠に嵌って、本願力回向の行信を見失っているのが高森会の会員でしょうね。

先ほど書いた「方便」についての理解、また縦と横の線の図と、信一念とそれまでとを分ける教えのせいで、会員は他力に救われるところまで自力で求めていくものとしか思えないのでしょう。

・高森先生以外お聖教の意味は正しく分からない
・信心獲得すると火に触ったよりもハッキリする
・信心獲得すると想像を絶する喜びが沸き上がる

加えてこんな妄想を抱いて自ら学ぶことを放棄し、仏教の目的に反してこの世の幻想的な楽を求めているので、真宗の行信は理解不能と思われます。未だに騙されている方々は哀れ哀れです。

廃悪修善とかいうもの

お世話様です。聞く1つと言いながら、絶対の幸福になる為、そこに到るまで善知識高森の仰せを色々聞いて実行しなければならないのが高森教です。その1つにチュウビという邪にたいして破邪顕正しなさいと、夢で阿弥陀仏より勅命がくだったと曰わった人がいます。更に私もやりたくないが阿弥陀仏の仰せなので甘んじて受け入れなさいと曰わってます。廃悪修善を手前勝手に解釈するとオウム真理教がサリン撒いた論理なみに自己都合の解釈になりますね。しかも何かあっても、それは会員の暴走であって親鸞会並びに会長には責任がないと言うことは火を触るより明らかです。

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会の現役の人との会話が成立しないのは、言葉の概念定義が違うからですね。
サッカーの話をしているのに野球の話をするという議論の噛み合わないのは以下の「真宗教義の研究」の各論文によってあきらかです。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E6%95%99%E7%BE%A9%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6

仏教の「信」については、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、バクティなどがありますが高森氏は激烈な己の性格からか、熱烈な絶対帰依の感情であるバクティを浄土真宗の「信」と取り違えたのでした。彼の形容詞を多用し会員の感情を煽る説教からわかりますね。中身は聴衆の情念を煽るだけで何もないけど(笑
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86

なお、浄土真宗では「浄信」といい、信とは、「澄浄の義」としてプラサーダのことだとしています。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1

ともあれ脱会者の方は、高森会の教義を熟知しているので、一般の林遊のような門徒と違い、彼らの教義? の異端を突くことが出来ると思っています。真からは仮偽は見えるのでした。
偽物は本物と比べてみて、初めて偽物が偽物であると判るのですが、真を知るには仮を修せ、という高森会には困ったものです。
https://goo.gl/ARh6Z8

高森会では、お示しの「方便」についての理解が無茶苦茶だから、方便というより「嘘」の教えに騙されているのが高森会の会員でしょう。なお真宗では「嘘も方便」という表現はしません。嘘は何処までも虚妄のマイナス概念であって仏教の方便という概念とは相容れないものだからです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%96%B9%E4%BE%BF

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ







チュウビさん

ども、林遊@なんまんだぶです。

マルクスは、

 宗教は、逆境に悩める者のため息であり、心なき世界の心情であるとともに、精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である。

と言ったそうですね。もちろんここで言う宗教とは当時のキリスト教を指すのですが、信心獲得を命題とする高森会に通じるものがあるのかもでさす。知らんけど。

ともあれ宗教の怖いところは行為の責任の主体が私ではなく神であるとするところです。ですからユダヤ・キリスト・イスラムのセム族の宗教では聖戦という言葉があるのでした。その意味での妄想に対して仏教では智慧を説くのでした。浄土真宗では「信心の智慧」といいますね。

高森親鸞会では廃悪修善をどのように理解しているか知らないのですが、仏教に於ける十善とは、否定形で示されており、それをキリスト教の善とを考察したことがありました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%81%E5%96%84

蓮如上人は「宿善」という語で、法を受け容れる準備の出来ていない人に法を説くな、と言われていましたが、自分にして貰ったことは、必ずしも相手にとって善とはならないからでしょう。

そのような意味において「自信教人信」という言葉に含まれている独断性を考えてみるのも面白いかもです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E4%BF%A1%E6%95%99%E4%BA%BA%E4%BF%A1


なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



Re: チュウビ様

そういう輩に付き合っている時間がもったいないですね。法論のチャンスと言えばチャンスですが、会員は理解力と思考力が著しく低下しているのでこちらの論理が理解不能で平行線を辿って終わるかもです。やるなら公開法論がいいと思いますね。

林遊さん、淳心房さんありがとうございました。

自信教人信について教えていただきありがとうございました。親鸞聖人のこの言い換えは親鸞会では言われないですね〜。未信のものは多いに善だから破邪顕正しなさいと勧められ、日蓮正宗の様な折伏する事のように捉えている親鸞会とはまだ縁が切れなくて、色々面白い説を言ってきますが、かと言って表立って正面から法論はする気がないようですね。私もつまらない時間を過ごしたと思うときもありますが、お陰で色々お聖教を読ませてもらえるなあとも思います。プラサーダとバクティの話も面白いですね。バクティだと思う人が多いのでしょうかね。

真実は如来なり

ども、林遊@なんまんだぶです。

どこかで、
 ワインに一滴の泥水を垂らせば、それは泥水となる。
ということを書きましたが、浄土真宗という真実の教えに自力の善を持ちめば、それは全て虚偽のご法義になります。

御開山が、本願力回向の「大信」と言われたのは、清浄な浄土へ往生するには清浄な信でなければならないと領解されたからでした。
それが、淳心房さんが示された二河譬の「清浄願往生の心」でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B8%85%E6%B5%84%E9%A1%98%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%BF%83

どこかで、高森顕徹氏は、山邊習學 赤沼智善共著の『教行信証講義』を読んだことがあるという書き込みを見たことがありますが、仏教学や真宗学の素養(基礎概念)がなかったために、理解できなかったか、又は名聞利養の為に宗教を利用して幾多の人々を塗炭の苦しみに叩き落したのでした。
あまりにも大衆の情念を煽るので、真宗教団から寺院での説教を禁じられた頃から、高森氏は、うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ、いやみ、ひがみ、やっかみという負のエネルギーに取りつかれ、会員を組織拡大の利養の対象としか見られなかったのだと思ふ。
その跡には死屍累々という心まで病んだ脱会者の山を築いたのでした。
ある意味では、親鸞会の教えや実践についていけない者こそが、阿弥陀様のお目当てなのですが、これが解らんので困ったものです。
林遊は在野の一門徒ですが、孫氏に、

 彼を知り己を知れば百戦殆ふからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば戦ふ毎に殆ふし。

とあるので、他者に騙されないようにお聖教を拝読してたりします。ワカランけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
https://goo.gl/mRoZBn
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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