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「自然法爾」を正しく説かない、「聞く一つ」「真剣な聞法」と言うが、肝心の「何を」聞く一つなのかを正しく教えない高森顕徹会長

『飛雲』屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

に挙がっているように、前の日曜日は岐阜県各務ヶ原会館の落慶法要ということで高森顕徹会長の話がありました。どっかの巨大組織をライバル視してか、未だハコモノ建設に余念のない親鸞会です。

頂いた情報によると、今回は午前中のみの話(座談会)で、その後会食会もあったそうです。内容は

念仏者は無碍の一道なり。『歎異抄』第七条

の「無碍の一道」についてでした。そこで高森会長からほとんど聞いたこともなかった「自然法爾の念仏」という言葉が出てきたのですが、その説明が高森会長らしいというか、

絶対の幸福にさせて頂いた人がその御恩報謝、お礼の心で称える念仏

というものでした。「自然法爾」についてしゃべるなら根拠位出せばいいのに、高森教へ誘導するのみで本当の親鸞聖人の教えを話す気はないようです。

自然法爾の事

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
『末灯鈔』5通

なお、『正像末和讃』自然法爾章にもほぼ同様のお言葉があります。

自然とは、阿弥陀仏の救済は人間のはからいによって成立することではなく、本願力の自ずからなるはからいによって往生成仏せしめられることをいいます。「おのづから」「しからしむ」と言われているように、行者のはからいによるのではなく、一方的な本願のはたらきかけによって救われるのです。

法爾とは自然と同義語です。如来のお誓いであるから自ずから働いて下さる。だから法爾といいます。私達は如来のお誓い、本願のはたらきを聞いてそのままおまかせするのみだということです。

このようなことですから、「自然法爾の念仏」というのは行者のはからいで称える念仏ではなく、本願が自ずからはたらいて出てくる念仏です。本願のはたらきがそのまま私の口を通して現れる、そういう念仏だということです。ですから「自然法爾の念仏」とは現在当ブログにて考察中の往相回向の大行、真実の行と同義です。


勿論称える我々の心持ちとしては、我が往生を定めて下された御恩報尽の思い、感謝の思いもあるでしょう。しかしここでは聖人はそのようなことを仰っていません。「行者のはからひのなき」「義なきを義とす」というのが「自然」であり「法爾」だと教えられています。

また、高森会長は相変わらず創価学会のパクリ用語である「絶対の幸福」が云々と言っていますが、親鸞聖人は本願をそんな「絶対の幸福」にするだとかいう誓いであるとは仰せられていません。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり

ですから、本願は私達を無上仏に成らせようという誓いです。その誓いは我々にあれこれせよというにあらず、

もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたる

とあるように、我々の計らいが雑じる隙はありません。南無阿弥陀仏とたのませて浄土に迎えようと阿弥陀仏がお計らいになっている、そのような誓いだというのです。ですから私達はただ誓いの名号を計らい無く聞き受け、本願のはたらきにそのままおまかせしてお念仏申すばかりです。


ところが高森会長は絶対にこのようなことは言いません。目的である「打倒本願寺」「組織拡大」のためには、因果の道理を説いて善と言う名の献金、勧誘をしてもらう必要があるからです。それによって阿弥陀仏の救いに近づくとか、横の道を進むとかと考えるのはまさに「行者のはからひ」です。

聞く者をそのように「自業自得の道理」に押し留め、本願のはたらきを妨げるような教えを説いているのが高森会長です。「自然法爾」ということを正しく教えない、本願を正しく説かない、これで聞く者が本願の通りになるわけがありません。最近「聞く一つ」ということを強調している会長は、今回も

どうすれば無碍の一道に出られるのか

という質問に

「聞く一つ」「真剣な聞法」。家族が重大な病気にかかり、その結果を医師から聞く時のような態度(で聞く)。

などと答えたそうですが、何を「聞く一つ」なのか。何を「真剣」に聞法するのか。家族の病気について医師から聞く時のような態度で一体何を聞くのか。それが明らかにされていない、正しく説かれていないのです。

聞くのは「本願の名号」である南無阿弥陀仏の六字のこころです。言葉を換えれば「自然法爾」、阿弥陀仏のお計らいを聞くのです。「自然法爾」を正しく説かない、「聞く一つ」「真剣な聞法」と言うが、肝心の「何を」聞く一つなのかを正しく教えない高森顕徹会長の与太話をいくら真剣に聞いていたって徒事です。会員の皆さんは、浄土真宗に非ざる高森教から一刻も早く抜け出し、阿弥陀仏のお計らいにまかせてお念仏を申して、この度の浄土往生の本懐を遂げて頂きたく思います。



【参照】
『WikiArc』自然法爾
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自然(じねん)

ども、林遊@なんまんだぶです。

「自然法爾の念仏」という語から、高森顕徹氏の「横と竪の線」の図の原型となったであろう、大沼氏の教判の図を思い出しましたのでリンクしておきます。
http://blog.wikidharma.org/blogs/files/2010/09/oonuma.jpg

仏教語のじねん「自然」という語はややこしいのですが、高森氏は意図せずに称えられるなんまんだぶを「自然法爾の念仏」と思い込んでいるのかもですね。
https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E7%84%B6-74616

大経には五十数回「自然」という語が出てきますが、本願寺派ではこの自然を、

1. 業道自然。善悪の行為によって因果の法則どおりに結果を生ずること。「自ずから然り」という意にあたる。『大経』「五善五悪」(五悪段)の用例の多くはこの意であるが、親鸞聖人は「自然」の語をこの意で用いることはない。

2.願力自然。「自ずから然らしむ」という他力の意。阿弥陀仏の本願力を信じ、願力にまかせる行者は、何のはからいをもなく本願力によって自ずから浄土に往生せしめられることをいう。

3.無為自然。さとりの世界は有無の分別をはなれ、分別による限定を超えた絶対無限の境地であることをいう。 親鸞聖人は3の場合も「自ずから然らしむ」という動的な救済活動の根源としての意味をもつものとする。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%87%AA%E7%84%B6

の三種に分類し、高森親鸞会のいう「因果の道理」を示す、業道自然の義は使いません。
無為とか自然という概念は『荘子』などを読むと面白いのですが、モノ/コトに白黒を付けたがる真面目な人にはちょっと?です(笑

ちなみに「南無阿弥陀仏とたのませたまひて」は文選読み(同一の漢語を漢字音と訓 (和語) で2度読む方式)で、「南無阿弥陀仏」と「たのませたまひて」は同義の同語反復だと聞いたことがありました。なんまんだぶと称えていることが、阿弥陀仏がたのませたまう相(すがた)でしたです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>「自然法爾の念仏」という語から、高森顕徹氏の「横と竪の線」の図の原型となったであろう、大沼氏の教判の図を思い出しましたのでリンクしておきます。
http://blog.wikidharma.org/blogs/files/2010/09/oonuma.jpg

林遊さん、リンクありがとうございます。この図説を観ますと
放射状の線の左が「真実」 右が「方便」 と記されております。
 このことから林遊さんがいわれているように「縦と横の線」につながり、
この図では「信前の念仏」は「方便」の域におさまるので、
「念仏は御恩報謝に限る」等と言うことが出てくるのかとおもいます。

 「自然について」
「自然法爾」は淳心房さんがいわれているように「自然」と「法爾」にわけることができ、なおかつ「自然」と「法爾」は同意語であります。

 「自然」
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。

※ここに「行者のはからひにあらず」とありますから、前のエントリーにありました「(行者)不回向の行」、ともいわれます。この文章の末尾
 ・このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 ・この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

等とあり、「義なきを義とす」もまた「仏智の不思議にてある」のです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。
林遊は、大沼法龍さんに関しては、南本願寺を造ろうと企図しているのではないかと、一時話題になった程度にしか知りません。
ある意味では沈滞した本願寺派に対抗して三願転入の論理で求道の重要なことを説き一世を風靡した方でした。
高森顕徹氏は当初は、この三願転入の論理に批判的だったのですが、本願寺派との宿善論に敗北してから利養の為に三願転入の論理を使い始めたのでした(笑
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/24/%e5%b8%b8%e3%81%ab%e8%99%8e%e3%81%ae%e8%aa%ac%e6%b3%95/

かって、SNSにこの図をUPしたところ、脱会者である近藤智史さんが画像の各用語をタイプしてくれたこともありました。
その一部が「万行随一念仏」(第十九願)、「万行超過念仏」(第二十願)、「自然法爾念仏」(第十八願)という念仏でした。当時の布教使もこのように、なんまんだぶを三種に分けて説教していましたです。これはこれで面白いのですが、なんまんだぶを「機」から論じているので? ですね。

ともあれ、他力の「他」を阿弥陀仏だと思っていることからの間違いなのですが、浄土真宗の「大綱」というものの論理構造の違いを誤解するから、林遊のようにあほみたいに、なんまんだぶを称えることが出来ないのかもです、知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E7%B6%B1

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様

この度もコメントにてご解説ありがとうございます。
高森会長の「自然法爾の念仏」はお礼の念仏です。救われたうれしさから吹き上がってくる、称えずにおれないものらしいですが、それなら「はげむべし」と言われなくても称えるはずですのでよく分かりません。

他力は利他力、他(衆生)を利する本願力のことですね。親鸞会では絶対に教えられないことの一つです。真宗大綱が分かれば高森教に迷うことはほぼないでしょうが、何せ会員は会長や上司の言葉しか聞かないので困ったものです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


Abc様

今回このエントリーを書いたことで、ようやく自分の中で「不回向の行」「自然法爾」「義なきを義とす」が一本線につながった気がします。今までAbcさんが重ねて書かれてきたこれらのお言葉が、大変有難く感じられます。私は仕事や家事の合間に真宗を勉強している程度ですので、恥ずかしながら不勉強であることは否めません。Abcさんや林遊さんのような方々に読んで頂き、色々と教えて頂けるのは貴重なことです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>今回このエントリーを書いたことで、ようやく自分の中で「不回向の行」「自然法爾」「義なきを義とす」が一本線につながった気がします。今までAbcさんが重ねて書かれてきたこれらのお言葉が、大変有難く感じられます。

 さようでありますか。このこともまたありがたいことであります。
私や林遊さん、親鸞や本願寺各世の上人、専修寺各世の上人、更に上にさかのぼりますと七高僧なども私がおこなうこととしましたら「西へむかえ」と西を指差すことしか出来ませんが、どうぞこれからもよろしくおねがいします。

善導禅師 『観経四帖疏』 散善義 二河白道譬喩
 「「なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け、かならず死の難なからん。 もし住まらば、すなはち死せん>」と。

また西の岸の上に人ありて喚ばひていはく、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」と。

この人すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづから身心を正当にして、決定して道を尋ねてただちに進みて、疑怯退心を生ぜず。

あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、「なんぢ、回り来れ。 この道嶮悪にして過ぐることを得ず。 かならず死すること疑はず。 われらすべて悪心をもつてあひ向かふことなし」と。 この人喚ばふ声を聞くといへどもまた回顧せず。 一心にただちに進みて道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。 善友あひ見えて慶楽すること已むことなし。」


※わたしが夕べに読ませていただいています『念仏正信偈』の最初の行には、「西方不可思議尊 法蔵菩薩因位中」とございます。みなみな西に往かれて阿弥陀さまに遇われて頂きたくおもいます。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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