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高森顕徹会長の説では、親鸞聖人と一味の信心だという覚如上人は「絶対の幸福」とやらになっていません

『飛雲』創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

でも紹介されているように、先日8月5日は親鸞会では追悼法要が営まれ、

「私が死んだら、川に捨てて魚に与えよ」
親鸞聖人は、なぜ言われたのでしょうか


という質問に答える形式で高森顕徹会長の話がありました。

「私が死んだら、川に捨てて魚に与えよ」とは、覚如上人のお言葉

本師聖人(親鸞)の仰せにいはく、「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。『改邪鈔』(16)

が元になっていることは言うまでもありませんが、高森会長は「仏法の信心」については

本願によって絶対の幸福の心になるのが「仏法の信心」

などとうそぶき、その「絶対の幸福」については

・死んだらどうなるかハッキリする人を絶対の幸福という
・後生暗い心を明るくして絶対の幸福にするというのが阿弥陀仏のお約束


などと説いて、今回も当然ながら浄土真宗の信心を伝えるつもりが全くない有り様でした。


さて、覚如上人は「仏法の信心」である「捨自帰他」について以下のように教えられています。

往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり
執持鈔(2)

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。


現代語訳を読めばお判りのように、高森会長の教える「仏法の信心」とはまるっきり違います。

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず


これらの御文から、

・往生について、阿弥陀仏に何もかも全ておまかせすることが仏法の信心
・我々凡夫に死んだらどうなるかハッキリ判るものではない
・たとえ行き先が地獄であっても法然聖人のいらっしゃる処へ行くのだと心得る


等のことが言えます。高森顕徹会長の説では、「絶対の幸福」とは

・死んだらどうなるかハッキリすること
・後生暗い心が後生明るい心になったこと


ですので、親鸞聖人と一味の信心だという覚如上人は「絶対の幸福」とやらになっていません。阿弥陀仏に救われたら後生ハッキリするものだとカンカンに信じている会員ばかりでしょうが、これが現実です。会員は浄土真宗に非ざる高森教を真実と思い込まされているだけです。


所詮「絶対の幸福」など創価学会からのパクリ用語であり、現世利益を求める人を釣り上げるルアー(疑似餌)に過ぎません。それに気付かず、高森会長が亡くなるまで、あるいは没後も騙され続ける会員の事を思うと、実にお気の毒です。

仏法の信心」とは、往生について阿弥陀仏のお誓いに何もかも全ておまかせすることであると覚如上人は仰っています。阿弥陀仏は本願において「念仏を称える者を浄土に迎える」と仰せなのですから、我々はその仰せを計らい無く受け容れて阿弥陀仏に計らわれるままにお念仏申すのみです。そうして念仏して仮に地獄へ堕ちても、法然聖人や親鸞聖人のいらっしゃる処へ参るのです。繰り返しになりますが、他力の信心とは我々の側から死んだらどうなるかハッキリするということではありません。

本願も間違い。信心も間違い。念仏も間違い。そんな教えを聞いていて親鸞聖人や覚如上人と一味の信心になれるわけないでしょう。会員の皆さんは、早く親鸞会の邪義に気付いて高森教から脱し、浄土真宗に帰して本願を信じ念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)
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No title

以前のことですが高森会長は、後生明るい心とは死んだらどうなるかハッキリした心であり、地獄に堕ちるとハッキリしたのも後生明るい心だと言っていました。
当時親鸞会教義を信じていた私も、これにはさすがに釈然としないものを感じました。
罪悪観信仰を叩き込まれた会員はこれで喜んでしまうのでしょうか。

Re: 名無し様

> 以前のことですが高森会長は、後生明るい心とは死んだらどうなるかハッキリした心であり、地獄に堕ちるとハッキリしたのも後生明るい心だと言っていました。

⇒そのようなことを言っていたかは私の記憶にはありませんが、仮に地獄に堕ちるとハッキリしたら、毎日が地獄へのカウントダウンですから、それで喜びなどあるのでしょうかね?
会員としては、極楽参り間違いなしとハッキリした上の、地獄に堕ちるとハッキリするという理解でしょう。そんな摩訶不思議な境地に憧れて搾取され続ける会員は哀れ哀れです。

Re:名無しさん

こんばんわ、お初にお目にかかります。Abcです。

>高森会長は、後生明るい心とは死んだらどうなるかハッキリした心であり、地獄に堕ちるとハッキリしたのも後生明るい心だと言っていました。

この発言は何度もなされていることであり、「高森会の重要な教義」でもあります。
「阿弥陀仏に遇われた所を「三定死」という」といわれていましたが、

「三定死」
・「後生暗いこころ」が死ぬ ということ
・「これら自らが作っている三業では、地獄しか行くことができないのではないか」という迷いが死ぬ ということ
・「阿弥陀さまにおまかせしたら本当に極楽にいけるのだろうか」という迷いが死ぬ ということ

らしいのですが、「いま死ぬもの」に対して延々と「人間とはこうでこうでこうなのだ。」と説いても仕方ないと思ってしまいます。

上に記した「三定死」は「三定死と言う言葉はあっても、意義は全く異なるもの」であります

「真宗のおしえ」は「捨自帰他」「自然法爾」「義なきを儀とす」「願作回向」等など、色々言われますが つまるところ「法が船となり薬となるのだから、阿弥陀さまにおまかせして 称名念仏をはげみなさい」ということです。
 ただ、「私が唱えたから」と「私」を主軸においてはなりません。「親様(阿弥陀さま)を主(あるじ)とせよ」でありますから、「親様のすすめにて口をついて出てきている」のであります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

※私は「なもあみだ」をはしるしますが、そのほかの人が「なんまんだぶ」「なまんだぶ」「なもあみだぶつ」と記されておりましてももとは「南無阿弥陀仏」でありますから気に留める必要はありません。
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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