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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(8)

「行文類」決釈のお言葉と順番が前後しますが、親鸞聖人の六字釈が途中でしたので、本日はその続きを拝読し、往相回向の大行について伺っていきたいと思います。


発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

南無」のもう一つの義である「発願回向」について聖人は、

如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり

と仰っています。私達が「迷いの世界を離れたい」「清らかな世界に往生したい」と願う遥か以前に阿弥陀如来は私達衆生を「迷いの世界を離れさせる」「清らかな世界に往生させる」と願いを発し、その願いを果たし遂げるために不可思議兆載永劫の行を修めて「南無阿弥陀仏」の名号を成就し、これを衆生の行として施し与えて下さる。これが善導大師の仰った「発願回向」の義であるというのです。

善導大師にあっては、「発願回向」とは私が浄土に心を向けて往生を願うことでしたが()、私達には真に浄土を願う心、真実の回向心、清浄の回向心が無いと聖人は仰り、これは阿弥陀仏が往生させたいと先に願いをおこされて、衆生往生の行を与えてくださるお慈悲の心であると他力回向の意を明らかにされたのでした。


それから、「阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり」の「即是其行」については

即是其行といふは、すなはち選択本願これなり

と仰せられています。阿弥陀仏が法蔵の昔に発願し、与えて下された衆生の行すなわち「南無阿弥陀仏」が、本願において選び定められたものであるというのです。阿弥陀仏が、よろづの善の中からただ一つ選び択り、「お願いだから称えておくれ」と我々衆生に施し与えられたのが称名念仏の一行なのです。名号を聞かせたいがために諸仏は「南無阿弥陀仏」を称揚し称讃するわけですから、念仏一行を専らにするというのは阿弥陀仏のお心は勿論、諸仏のお心にもかなった行為なわけですね。

この念仏一行を専ら修するということについて、『唯信鈔文意』にはこのように教えられています。

「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。

善と呼べるかどうかわからない代物を含め、念仏以外の余行を修めていたら「一行」になりません。「一行」すなわち真実行と、「一心」すなわち真実信は常にセットです。念仏を伴わない真実信心は無いし、真実信心は必ず念仏を伴う。このようなことですから、真宗では「念仏一行」が当たり前なんです。これが判ったならば、「念仏一行」を差し置いて念仏以外の余善、また善と呼べるか怪しい行為を勧める教えが、いかに阿弥陀仏や釈尊、諸仏のお心に反した悪魔外道の法かということがよく知られるのではないかと思います。

また、ここで聖人は他力信心を様々に言い換えられています。

「一心」
=「横超の信心」
=「金剛心」
=「『大経』の本願の三信心」
=「真実信心」
=「願作仏心」
=「度衆生心」
=「信楽」
=「大菩提心」
=「大慈大悲心」
=「仏性」
=「如来」


このようなことですから、我々の心が信楽になるなどと軽々しく言えるものではありません。信楽を獲たことと、我々の心が信楽になったこととは違うのです。最後の言い換えが「如来」ですから、信楽を獲たからといって我々の心が如来の心になるわけがないことはお判り頂けると思います。

信楽を獲ても我々の心は何も変わらないことは「二河白道の譬」に明らかです。信心獲得したら火の河水の河が光明の広海に変わったとか、幅四五寸の白道が広い広い無碍の大道に変わったとか、そんな変化はありません。水火二河も、白道もそのままです。自力と他力の違いは、釈迦弥陀二尊の教勅に順って、決定して白道を歩み始めたかどうかです。獲信の瞬間に落雷に打たれたかの如き体験や変化を期待している人は、今すぐその考えを改めた方がよいでしょう。あくまで「助けるぞ」の仰せをそのまま聞いて、後生を阿弥陀仏の計らいにおまかせし、計らわれるままにお念仏申すのみです。


そして「かならず往生を得(必得往生)」とはどういうことかについては、

不退の位に至ることを獲ることを彰すなり

と仰せです。これについても、善導大師は次の生に間違いなく往生できると示されるのですが、宗祖はこの世で早くも正定聚不退の身にならせて頂くのである、と顕わされています。こんなことを言われたのも親鸞聖人が初めてです。龍樹菩薩も、曇鸞、善導、法然聖人も、どなたも名号を聞信したその時、この世で正定聚の位に入ると明言された方はありません。この点からだけ見ても親鸞聖人はやはり只人ではありません。

このことを『大無量寿経』には「即得往生」と説かれ、『十住毘婆沙論』には「即時入必定」と言われているのだと親鸞聖人は仰います。「即得往生」の「」については、

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と仰せられています。阿弥陀仏の本願力を聞いて、すなわち名号のいわれを聞いて報土の真因が決定する。その「時剋の極促」を明らかに示されたのが「」であるというのです。「南無阿弥陀仏」のいわれを疑いなく聞き受けた真実信心の称名により、この世は「不退の位に至」り、この世の縁尽きたら間違いなく「報土」に往生する。このような「現当二益」の教えがこのお言葉からもよく知られます。


善導大師の六字釈に更にご自身の解釈を加え、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と示された法然聖人の教えを、他力回向、現生正定聚という観点から「帰せよの命」「願行回向の大慈大悲」「現当二益」の仏意であると開顕して下されたのが親鸞聖人でありましょう。であるから、「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことは字の如く「大行」なのであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

前コメントでは、『和讃』を前面に出したばっかりに、説明がおろそかになりまことに申し訳ございませんでした。考えて観ましたら、木像をだして「あんな気持ち悪いもの」とはき捨てるものが「阿弥陀さまにおまかせする」ということが出来ないことは肯かざるをえないかとはおもいました。

 さて、淳心房さんが挙げられている
『唯信鈔文意』 ー 聖覚法印『唯信鈔』を親鸞が解説されたもの。『文意』とも称される。

 「「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。」 と記されています。

これらを一つ一つ記してゆきたいと思います。記すことに熱が入りすぎて「出拠がない」とならぬよう、進めてまいりたいとも思っております。

「「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。」

 こちらは「さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。」(蓮如上人『御文』一帖一通 より)に代表されるように「如来の教法」であります。「釈尊の教勅」は「如来の教法」の言い換えに当たります。

「「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。」

 この箇所、「選択本願」が重要な部分となります。「選択本願」は源空聖人がいわれた文言で、「一に選択本願といふは、念仏はこれ法蔵比丘、二百一十億のなかにおいて選択するところの往生の行なり。細しき旨上に見えたり。ゆゑに選択本願といふ。」(源空聖人『選択集 結勧流通』より)としるされています。また、親鸞は『正信念仏偈』にて「選択本願弘悪世 選択本願を悪世に弘められ」とも記されています。

「「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。」

 こちらをこの文に順じて示しますと、「一行を修すこと、また、一心なれ」となります。淳心房さんも示されていますとおり、

>「一行」すなわち真実行と、「一心」すなわち真実信は常にセットです。(淳心房さん)

なのです。親鸞は「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。」(『親鸞聖人御消息 信行一念章』より)とも記されております。

「この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。」

 この「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」は、私がよくこちらに記させていただいております『和讃』、

『浄土和讃』 弥陀経讃
「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

と記されている通りであります。この和讃に於きましても、「念仏の衆生」と記されていますように、「なんまんだぶと称える衆生」ということであります。

おわりに

 今回は出拠に留意しながら書き進めさせていただきました。注意しながら記したつもりですが、「ここが足りない!」などありましたらご指摘のほどよろしくおねがいします。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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