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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(10)

ここで一旦今までを振り返り、「大行」の「大行」たる所以を確認しておきます。

Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」から。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 最勝真妙の正業(正しく浄土往生が決定する行業)だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 称名は、人間の声を借りた阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 凡聖自力の行ではない、不回向の行だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 念仏が、大小の聖人も、重軽の悪人も、みな同じく斉しく成仏する「万人共通の道」だから。


何とも尊いお示しですね。もう信心がどうだとか、自力だとか、他力だとか、いらんこと考えずに本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。これでこの度の浄土往生、成仏はきちっと決まりだ。

もし私の口から素直になんまんだぶつとお念仏が出ていないとしたら、それは凡夫の小賢しい詮索、先入観、つまりは自力の計らいが邪魔をしているのです。勿論いついかなる時も称えているというわけにはいきませんけれども、真実信心必具名号でありますから、称名を伴わない信心は怪しいと言わざるを得ません。


本願のはたらきといっても、信心といっても、この口に称え聞こえる南無阿弥陀仏の他にはありません。そして本願を仰ぎお念仏申すところに歓喜の心が起きてくるのです。お念仏称えずに、お念仏を忘れて、以前と変わらない煩悩にまみれた生活をしておって、法の喜びが起きるものか。私はそう思います。

実際、恥ずかしながら私は近年まで聴聞もせず、お念仏申すこともなく、御同行方と触れ合うこともなく、法に触れる機会と言えばブログを書いている時くらいでした。喜びの心が無い。喜びどころか生きていくのがつらい。親鸞会時代からの鬱的な症状を引きずっていたこともあり、どうにもしんどかったです。ほとんど周囲の真宗を知らない人々と同じ生活を繰り返していただけですから、それではね・・・。

現在はようやく聴聞の機会も少しずつできてきました。本願力に遇えた有難さ、お念仏を申す喜び、本願念仏を私まで伝えて下さった方々の御恩、また本願を聞けるまでお育て頂いた様々な有情非情の御恩、そういったものを少しずつ感じられるようになってきました。聴聞も念仏も何もせんとって歓喜の心、知恩報徳の心、大悲を行ずる心が起きるのではないことを、よくよく分からせてもらいました。


大体、私は喜びについて誤解があったようです。何が喜びか。それは法の喜びです。法に対する歓喜であり、慶喜です。本願の名号によって、この度の往生成仏が平生名号のいわれを聞信する一念に定まった喜びです。言葉を換えれば、如来選択回向のお念仏を称える身になった喜びです。また、人にもお念仏を伝えて共に浄土往生の道を歩むという大悲を行ずる喜びです。

その喜びを聖人は「歓喜地」と仰っています。

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。「行文類」行信利益

初めて真理をさとる智慧を得た初果の聖者は、たとえ修行中に居眠りするような、怠け心を起こしたり、修行を中断するようなことがあったとしても、天上界と人界と(中有と)を二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがない
歓喜地の菩薩は、必ず仏陀のさとりを完成することに決定している

だから41段目の初地を開いた菩薩は心に大いなる喜びが起こるというのです。ところが念仏の衆生は、真実の行信を獲得したその時に往生が定まり、臨終一念の夕には往生と同時に大般涅槃のさとり(仏のさとり)を開くという往相の利益、その後迷いの世界を舞台に衆生を思うが如く救済する還相の利益に恵まれます。それで「真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」と言われています。初地の聖者と比べて、真実の行信を獲た念仏行者の利益は量り知れません。その喜びは「大慶喜」と言われても当然です。

獲信見敬大慶喜

とはこのことです。これは「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たことではなく、「如来二種の回向」を恵まれたことによる喜びを仰っているのです。本願を疑いなく信じてお念仏を称える喜び。光明に摂取されて捨てられるということがない喜び。往生の志願がかなう喜び。如来大悲の恩徳を始め、様々な御恩を知らせて下さる喜び。有縁の方々に本願念仏が弘まっていく喜び。迷いの世界を出離してさとりの世界へ至る喜び。再び迷いの世界へ還り来て、衆生を思うが如く利益する喜び・・・。このようなことを聖人は喜びとされたことを知らず、「光明輝く生活」とやらを目当てにしている方々は、浄土真宗の教えの何たるかを全く知らない人達です。

このように人びとを本願を信じ念仏するものに育てて摂取する阿弥陀仏の本願力のはたらきを他力といい、それゆえに、龍樹菩薩は「阿弥陀仏を念ずるものは、即時に必定に入る」といわれ、曇鸞大師は「正定聚の数に入る」といわれたと仰せられています。勿論曇鸞大師は往生して死後に正定聚の数に入ると教えられたのですが、そこのところを親鸞聖人は読み替えによって現生正定聚を明らかにされたのでした。そして最後に

仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

とこの一段を結ばれています。「これ」とは、ここは「行文類」ですから、当然「本願の名号」、「真実の行」のことです。親鸞聖人は仰いで本願の名号を憑み(真実の信心で)、専ら念仏しなさいと教えられています。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
「総序」

からも判るように、聖人は専ら「円融至徳の嘉号」に奉え、ただ「難信金剛の信楽」を崇めよとお勧めになっています。「もつぱら」も「ただ」も、共に「これ以外に何も無い」「これ一つ」ということです。「これ」とは念仏一行であり、真実信心です。「総序」や「行文類」で親鸞聖人が「奉へ」、「行ずべき」と仰っているのは、念仏一行であることが判ります。なお、ここの

ゆゑに知んぬ(故知)

も、「まことに知んぬ(信知、真知、誠知、良知)」「あきらかに知んぬ(明知)」等と同様に「経釈を通して理屈として知らされた」ということです。まぁこれが親鸞会の言うように

「疑いなくハッキリ知らされた」
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」


という意味でも構いませんが、それならどうして親鸞会は

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

という聖人のお示し通り念仏一行を勧めないのでしょうか。理由は、高森会長が「ゆゑに知んぬ」より後のことを「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ていないか、高森会長が親鸞聖人より偉いかのどちらかでしょう。

ともあれ、私達は親鸞聖人のお勧めに順って専ら如来選択回向のお念仏を称え、ただ願力回向の信心を崇めて、今度の一大事の往生を遂げるべきであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『東本願寺』正信偈の教え-みんなの偈- 歓喜地
『WikiArc』歓喜地
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ブラック会社勤めが長いと社畜根性が叩き込まれるのか、今日からの3連休に逆に戸惑っている自分です(挨拶

俺も普段は以前と似たような感じでなんとか仕事をこなし疲れきってる毎日ですが、たまにお聴聞に行ったりお聖教を読むこと、そしてお勤めで正信念仏偈を拝読する事で煩悩、苦しみだらけの心中が阿弥陀さま視点にかわるというか、本来の自分の中からは絶対に出てこない穏やかというか幸せな心が出てきます。
そして、もちろんお念仏。

以前から朝のお勤めはサボり、夕方にしていたのですが夕方もたまにサボってましたが、猫ちゃんの里親になってからは毎日欠かさずに、今のところやっています。
名前がお天気ちゃんというのですが、正信念仏偈やお念仏を聞かせる事で天ちゃんも南無阿弥陀仏聞かないかな、一緒にお浄土にいきたいな、という気持ちからかもしれません。
真仏土巻に引かれている釈尊のお言葉によれば、凡夫の考えられないような方法で常に阿弥陀さまは全ての有情を導かれいるので、既に天ちゃんも念仏者?なのかもね。
分かりませんけどw

天ちゃんがうちにくるまでは休日も苦痛で、家にいても辛いだけだから特に用事もないのにブラブラ夜の都会に出かけたりしてましたが、今は家でのんびり休日を過ごしてます。
家で休日をくつろげるのって、人生で初めてかもしれません。
天ちゃんのぬくもりを感じながら眠るのも、トイレやご飯の世話をするのも一緒に遊んだりマッタリするのも幸せで、思わずお念仏してしまいます。
明日は天気が良さそうなので、布団干したりのんびり過ごす予定です。

いつ命が終わっても後生は阿弥陀さまにお任せしているし、明日のことなんて分からないから今の天ちゃんとの時間を大切にしようと思うようになったのも、自殺願望がなくなってきた理由のひとつかもしれません。
淳心房さんの記事の意図とは離れたコメになってしまった気がしますが、全ては阿弥陀さまのお一人働き、念仏のみぞまことですね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

Re:R1000さん

こんばんわ、Abcです。

>以前から朝のお勤めはサボり、夕方にしていたのですが夕方もたまにサボってましたが、猫ちゃんの里親になってからは毎日欠かさずに、今のところやっています。
>名前がお天気ちゃんというのですが、『正信念仏偈』やお念仏を聞かせる事で天ちゃんも南無阿弥陀仏聞かないかな、一緒にお浄土にいきたいな、という気持ちからかもしれません。

 R1000さんは、今は猫ちゃんとお念仏されているのですね。コメントを読ませていただきましたが、やはり一人でいたら、なんだか落ち着かなくてソワソワしますよね。この猫ちゃんとR1000さんが逢われたのも「縁 えにし」でありますから、お互いいつまでいられるか分かりませんが、共にお念仏を行って参りたいものです。

 ご存知のとおり、猫ちゃんは「畜生界の衆生」で、R1000さんは「人間界の衆生」です。この「六道」はともに「迷いの衆生」でありますから、『和讃』に「世の妄冥てらすなり」とございます阿弥陀さまにおたのみするより他がありません。むしろ、阿弥陀さまご自身が、「私に任せてくれ」といわれております。

 「畜生界の同行」といわれますと、私は「馬」でしたね。よく周りからは「「馬の耳に念仏」を地でいくもの」ともいわれました。そのように周りからはいわれますが、毎日、厩(うまや 今で言う馬舎)にいってご飯をあげているとやはり「南無阿弥陀仏を聞いてもらいたい」とおもわさせていただくのです。 私は人間なので、馬の本当の気持ちは分かりかねましたが、「眼は口ほどにものをいう」といわれますように馬も私のことを見ていたのでした。

>真仏土巻に引かれている釈尊のお言葉によれば、凡夫の考えられないような方法で常に阿弥陀さまは全ての有情を導かれいるので、既に天ちゃんも念仏者?なのかもね。 分かりませんけどw

さようですね。このように動物たちも「私 や R1000さん という人間」をみられておりますが、阿弥陀さまも私たち衆生をみられております。共にお念仏して、安楽国に生まれたいものであります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re:R1000さん

連投もうしわけございません、Abcです。

>名前がお天気ちゃんというのですが、『正信念仏偈』やお念仏を聞かせる事で天ちゃんも南無阿弥陀仏聞かないかな、一緒にお浄土にいきたいな、という気持ちからかもしれません。

『正信念仏偈』には、
「獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣」とございます。

「獲信見敬大慶喜」について淳心房さんは、
>真実の行信を獲た念仏行者の利益は量り知れません。その喜びは「大慶喜」と言われても当然です。 獲信見敬大慶喜 とはこのことです。

といわれております。

私が説明するのはその次の「即横超截五悪趣」です。
これは「即ち 五悪趣(六道から地獄を抜いた五つ)を横超(おうちょう 十八願のこと)し 截(ぜつ)す」 (截すは、断つ 捌く 分かつ と同義)と言う意味であり、この「五悪趣」が先ほど私が言った「『和讃』に「世の妄冥をてらすなり」とございます阿弥陀さまにおたのみするより他がありません。」です。

連投申し訳ございません。
Abc

コメント返信

R1000様

いや~、完全に社畜根性ですね(;^ω^) さて、

現世を、すぐべきようは、念仏の申されんかたによりて、すぐべし。
(『浄土真宗のお坊さんのブログ』念仏申せるように生活すべし
http://jyoushouji.blog17.fc2.com/blog-entry-360.htmlより)

と法然聖人が言われているように、お天気ちゃんと生活することで身も心も軽くなり、お念仏申せるのでしたらそれは大変良いことだと思います。天ちゃんは念仏者の域を超えて還相の菩薩かも分からんですよ(^^) R1000さんのことを見るに見かねて遣わして下さったのかなと傍から見ていて思いました。

まぁ何にせよ、心身の病気が急に良くなったりとかはしないので、過度な無理をしないようお互い気をつけましょう。時にはなるようにしかならないさとあきらめて、ボチボチとやっていかなきゃならんです。俺も今から年末がこえぇよ(;O;) んで、お念仏して過ごしていきましょう。記事と関係ないコメでも歓迎なんで、思ったことあれば書き込んじゃって下さい(^ω^)



Abc様

信心を獲て見て敬い大きに慶喜すれば、すなはち横に五悪趣を超截す。

本願のはたらきによって、迷いの世界から離れ、二度と迷わない身になったこと。浄土往生が今決定したこと。往生の後、今度は還相のはたらきをさせて頂くこと。これみな往相回向の念仏、往相回向の信心によるものです。『正信偈』の二行はこのことを言われているのだと拝します。大変尊いお示しですね。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

大行

ども、林遊@なんまんだぶです。

猫派、犬派や、海派、山派ということがいわれますが、猫派の人は猫の持つ自由性が好きなのかもです。自由というより天真爛漫というのが近いかも。
『阿弥陀経』には、浄土での「かの国にはつねに種々奇妙なる雑色の鳥あり(彼国常有種種奇妙雑色之鳥)」とあり、このような鳥は、阿弥陀仏が変幻し法を説く姿だとされています。
その意味では、 R1000さんのところへ来た猫も、還相の菩薩の寄り添うすがたかもですね。
https://goo.gl/QAbx71

閑話休題。

で、大行に関してですが、梯實圓和上は、

 念仏が、私のはたらきではなくて、如来の本願他力の具体的なあらわれであるとうけとるならば、「念仏する」という「おこない=行」は、私の「おこない」であるままが、如来の「おこない=行」であるという意味をもちます。
https://goo.gl/zY3vvp
と、いわれていましたが、如来の行であるから「大行」といえるのでしょう。

ともあれ、淳心房さんに触発され「トーク:信知」に、「故知」を追記しておきました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%BF%A1%E7%9F%A5

ある意味では、知るということは雑多な知識の蓄積ではなく、御文章の「八万法蔵章」にあるように「後世をしるを智者とす」p.1189 でした。

なんまんだぶが「大行」であるということは、あらゆる衆生を済度する行法は、なんまんだぶ以外にはないという「誓願一仏乗」のご法義であるからです。御開山が、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」p.737 とされた所以である。
高森顕徹氏は、妄想の信心に捉われて、こういう浄土真宗の、なんまんだぶの綱格が解らなかったのですね。
「機の深信」をよくよく考察すれば、なんまんだぶを称える以外に私の往生はありえないという事なのですが、行なくして信に狂ったのが高森顕徹氏だったのだと思ふ。ある意味では狂気のような彼のカリスマ性に騙されたのが、親鸞会の会員であったのだろう。人生の羅針盤は他者(善知識)が示す道ではなく、自らが仏教の経典と対峙して見つける道であった。知らんけど。

越前の同行は、なんまんだぶを称えることが、生死を離脱する仏法であると御開山の真意を領解して、あほみたいに、なんまんだぶ なんまんだぶと、如来のよび声を聞いて楽しんでいたのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。

> R1000さんのところへ来た猫も、還相の菩薩の寄り添うすがたかもですね。

これが言いたかったです。私に御恩報謝、お念仏を勧めにいらした阿弥陀仏の化身と味わうならば良いことだと思ったのですが、前のコメントでは上手く言葉にできないまま発信してしまいました(;^ω^)


> 如来の行であるから「大行」といえるのでしょう。

私の行ではない、往相の回向による如来の行だから「大行」ですね。


> 「トーク:信知」に、「故知」を追記しておきました。
> http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%BF%A1%E7%9F%A5

ありがとうございます。WikiArcは進化する聖典ですね。当ブログも進化するブログでありたいです。


> なんまんだぶが「大行」であるということは、あらゆる衆生を済度する行法は、なんまんだぶ以外にはないという「誓願一仏乗」のご法義であるからです。

今はまだ「歓喜地」の釈について伺っていますが、やがて「誓願一仏乗」の釈を伺うことがあれば

Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. あらゆる衆生を済度する行法は、なんまんだぶ以外にはないという「誓願一仏乗」のご法義であるから。

のようなQ&Aを設けたいと考えています。御指南ありがとうございます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

>>Abcさん
淳心房さん
林遊@なんまんだぶさん

レス、有難うございます。
自分としては、地獄のような人生の中で阿弥陀さまに出遇えた事でこれ以上ない幸せ者だと思っています。
毎日薬を飲まないとロクに動くことも出来ないのは相変わらずですが、俺より苦しんでる衆生はそれこそ星の数ほどいるので、そういった方にこそ早く南無阿弥陀仏を聞いて頂きたいので、後生救って下さっただけでなく、天ちゃん始めお同行方、その他多くのものを頂き、今も阿弥陀さまのお育てを頂いているのを感じるので申し訳ないやら勿体ないやらと複雑な気持ちでもあります。

それでも俺はあくまでも阿弥陀さまに一方的に救われる側でとても阿弥陀さまのお手伝いなど出来ない自分です。
地頭がいい上に勤勉で、教義には鬼のように詳しい方が大勢おられるので、俺はこれまでのように生き恥晒し系でいくつもりですw
あれだけ投稿文でぶっちゃけたし、こんな奴でも救われるのが浄土真宗なんだと一人でも思って頂ければ、そして南無阿弥陀仏を聞いて下さればそれ以上に嬉しいことはありません。
まぁそういう方が1人もいなかったとしても、阿弥陀さまのお一人働きで皆さん救われていくので関係ないのですけれど。

ポンコツなりにお聖教を拝読してますが、皆さんの投稿には勉強させてもらっています。
有難うございます。

楞伽山

ども、林遊@なんまんだぶです。

WikiArcはブログ化してますね(笑
まあ、ブログはWebにLogするという意味ですからいいのかも。

歓喜地については、「正信念仏偈」の釈迦如来楞伽山について考察したことがありました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%A5%9E%E4%BC%BD%E5%B1%B1

『楞伽経』には、龍樹菩薩は「歓喜地」を証して安楽国に往生したとされていますから、御開山も関心を持たれたのでしょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>「なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?」

について記してみたく思いましたので、記します。

命題: なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
※()内で書物名の記載がないものは『正信念仏偈』に依るところとする。

・高僧がたの論説にて勧められているから。 (唯可信斯高僧説)

・「阿弥陀様にお任せせよ」と親鸞が『和讃』にていわれているから。
(真実明に帰命せよ 平等覚に帰命せよ 難思議を帰命せよ (『浄土和讃』)等)

・「私に任せよ」と阿弥陀さまがいわれているから(帰命無量寿如来 南無不可思議光)

・お釈迦さまが『観経』に「智者復 教合掌叉手 称南無阿弥陀仏 称仏名故 除五十億劫 生死之罪。
爾時彼仏 即遣 化仏・化観世音・化大勢至 至行者前 讃言善男子 汝称仏名故 諸罪消滅 我来迎汝。」と「称南無阿弥陀仏」とあるから (浄土三部経 『観経』 漢偈文)

・龍樹大士が、
「難行道(聖道門)は、陸を歩くように大変であり、
対して易行道(浄土門)は、船の旅(易行の水道=信心)のように楽である」といわれ「易行道を行いなさい」とお示しになられたから (顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽)

・天親菩薩が『願生偈』(『浄土論』の一節)にて。
「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来 願生安楽国」といわれたから。 (天親菩薩造論説 帰命無碍光如来)

・曇鸞禅師が「仙人のお経」を燃やしてまで、「楽邦(安楽国 安養国)に帰す」をされたから (本師曇鸞梁天子 [乃至] 焚焼仙経帰楽邦)

・道綽禅師が、「聖道にて証をうることは難しく、唯浄土を通入す可し」をいわれたから。また、「万善自力」と記されている「自力の道(聖道)をけなされ、「円満徳号」と記されている「名号」を専ら称えよ」と一切衆生(わたしたち)に勧められているから (道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称)

・善導禅師が、阿弥陀さまの意(こころ)を正しく明らかにされ、
 「光明名号はともに因縁である」と顕し、(「念仏」を称え、阿弥陀様にお任せすることにて)「本願の海にはいらさせていただき、金剛心を受けよ」といわれたから
(善導独明仏正意 [乃至] 光明名号顕因縁 開入本願大智海 行者正受金剛心)

・源信僧都が、「偏へに安養に帰せよ」と一切衆生に勧められたから。
また、「専修」と「雑修」によって「深心(深信)」、「浅心(浅信)」とわけられ、
それぞれ、「報土(安楽国)」と「化土(疑城胎宮)」があることをわきまえられたから。
(源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立)

・源空聖人が、選択本願があることを弘められ「生死の家にもどってくるのは、「疑情」があるからであり、寂静無為のみやこに速やかに入るには、信心を以って能入(通入と同義)となせり」といわれたから (還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入)

おわりに

 今回は、淳心房さんが設けられた、「なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?」と言うことに対しまして、『正信念仏偈』を主としまして説明を行いましたが、いかがでしたでしょうか。
 毎朝・毎晩おつとめされているであろう『正信念仏偈』でありますが、彼らは「正信偈をひらく」と称しての講座を幾度となく開いておりますが、このような説明は終までなかったので、自分なりにしるしました。

 また、ツッコミどころがおおくあるとはおもいますが、少なくとも私は「『正信念仏偈』ではこのようにしるされております」と信心の沙汰を行いたいだけなのでした。

 前に私が記した「漢字だけの『正信念仏偈』」よりは読みやすくはなっているとおもいますのでご一読いただけたらと思います。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

第十七願

ども、林遊@なんまんだぶです。

>・お釈迦さまが『観経』に「智者復 教合掌叉手 称南無阿弥陀仏 称仏名故 除五十億劫 生死之罪。
爾時彼仏 即遣 化仏・化観世音・化大勢至 至行者前 讃言善男子 汝称仏名故 諸罪消滅 我来迎汝。」と「称南無阿弥陀仏」とあるから (浄土三部経 『観経』 漢偈文)

御開山は『観経』での南無阿弥陀仏も依用されますが、根源的には第十七願を称名の出拠とされています。
御開山は『大無量寿経』を真実の経として『観経』には隠顕を見られるからです。
「行の一念転釈」
https://goo.gl/wiwMXe

ともあれ、第十八願の「乃至十念」の出拠を第十七願に求められたのでした。で、第十七願は、諸仏の行でもあるから「大行」とされたのでしょう。

「第十七願」
https://goo.gl/Qj5m5P

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>ともあれ、第十八願の「乃至十念」の出拠を第十七願に求められたのでした。で、第十七願は、諸仏の行でもあるから「大行」とされたのでしょう。(林遊さん)

ご解説ありがとうございます。この「十八願と十七願の関係」は切ることが出来ない関係であります。ですから「諸仏称名願:仏名を称える「大行」」と「至心信楽願:阿弥陀様にお任せする「大信」」とは、全く同じものであると『末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」』に記されております。以下は、抄出であります。

  さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。

と言われております。末筆とはなりますが、ご解説ありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

リンク:WikiArc 『親鸞聖人御消息』 :
 http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF

コメント返信

Abc様

『正信念仏偈』は「行文類」の末に示されています。ある意味、

なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?

ということを偈文の形式で示されたのかも知れませんね。親鸞聖人は「唯可信斯高僧説」と仰って、集めた高僧方の御文が尊いのだ、高僧方の説を信ぜよとお勧めですが、我らにとっては聖人のご自釈が大変有難いですね。


林遊@なんまんだぶ様

ご解説ありがとうございます。17願より出でたる往相回向の行、諸仏の称讃と等しい徳を具えた行であるから「大行」だと、これに尽きるわけですが、何やかんや「行文類」の御文を追っている内に「行文類」の考察になってきてしまいました(笑)
まぁ有難いことです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

依義不依語

ども、林遊@なんまんだぶです。

> さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。

ですが、浄土真宗では、教義概念を「名目(教義上の術語)」としてあらわします。この場合は「行信不離」という名目でいいます。
もっとも「名目」に幻惑されて、その語(ことば)の生みだされてきた背景を考察しないと言葉を振り回すだけになりますから要注意です。
その意味では、真宗の教学とは、言葉の概念規定を学ぶことである、といわれますが、その為に御開山が使われた言葉の「出拠」を探求するのも面白いです。
御開山の場合は、いわゆる「依義不依語(義によりて語によらず)」の釈風ですから、何でこうなるん? となるのですが、それがまたありがたいです。

ともあれ日本語の場合は、言葉の意味がはっきりしない場合がありますが、漢語では概念定義がはっきりするということもありそうです。日本仏教は漢語によって伝えられた漢訳仏教ですから、欧米語に於けるキリスト教の語義を探るラテン語が漢語なのかと思っていたりします。

浄土真宗(仏教)が難しいといわれる背景は、あれはあれ、これはこれという、我々の分別意識を超えている言葉が使われていることでもあるのでしょう。

その意味では、「行信不離」、二種深信は「二種一具」とか、「機法一体」という用語例は、我々の分けて知るという分別意識を超えているのでした。

ある意味では高森親鸞会の会員の方は、高森顕徹氏の説く似非真宗風の言葉の呪縛に嵌っているのですが、言葉は義を指す指であって、高森顕徹氏自身の盲信の指の先の、「絶対の幸福」という形容詞を多用するアートネイルの指の言葉に幻惑されて、自分の人生を浪費したのかもです。

もちろん、本願力のご法義は、このような高森親鸞会の会員にも届いているのですが、林遊のように、アホみたいに〔なんまんだぶ〕を称えるご法義を知らないから、自己実現という妄想に嵌るのでした(笑

深川倫雄和上は、私を大切にするよりも、私を大事にして下さった阿弥陀様を大切にするように、とお示しでした。
その私を大切にして下さる阿弥陀様が、口に称え耳に聞こえる、声となって下さった、なんまんだぶという仏陀でした。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>の意味では、真宗の教学とは、言葉の概念規定を学ぶことである、といわれますが、その為に御開山が使われた言葉の「出拠」を探求するのも面白いです。(林遊さん)

さようであります。この「御開山が使われた言葉の「出拠」を探求する」足がかりといたしまして「文類」があるのです。また、林遊さんが随時更新していただいている『浄土真宗聖典 七祖篇』を直接ひらくことも面白いかとおもいます。

ご解説ありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc

浄土真宗聖典 七祖篇

ども、林遊@なんまんだぶです。

少しく説明が判りにくかったのですが、概念定義とは御開山が使われた言葉の意味内容です。単にこの文章は七祖聖教の、ここにあるという意味ではなく、その言葉を御開山がどのように受容し、ご自分の思想を表明されたということです。
本願寺派では、註釈版聖典七祖篇を刊行するに際して「当面読み」を採用しました。このことによって独自の御開山の漢文の読み方によって御開山の仏教思想を知る事ができるのでした。
「註釈版聖典七祖篇を読む」
https://goo.gl/fP2ZCX

浄土真宗では七祖は、まるでラインダンス(今の人は知らんか)のように、御開山と同一の事を説いているように思っていますが、それぞれが置かれた時代に応じて浄土の教えを示して下さったのでした。
その意味では、「正信念仏偈」でしめされる七高僧とは、御開山の到達された仏教思想と違うのでした。「正信念仏偈」で示された七祖の精選した言説を引文することによって、御開山独自の大乗仏教思想を展開されたのでしょう。御開山が「正信念仏偈」で引文された七祖の教説だけを正意として取り、その他は、なんまんぶを称えるご法義の助顕とされたのでした。
いわゆる御開山の「読みかえ」というところが、御開山の思想の独自性があるのであり、そのような意味で林遊は、親鸞聖人を「御開山」と表記してます。御開山を故意に親鸞と呼び捨てにする高田派と違う発想なのでした。
ある意味では「親鸞会」というあほな団体に騙されて、善信房親鸞という親鸞の「諱(いみな)」を忌避したいのかもですが、判らないこともないです。

ともあれ仏教上の概念定義でいえば、御開山は「増上縁」という仏教語を本願力の意味に領解されていますが、こういうところが、浄土真宗における概念定義でした。知らんけど。
https://goo.gl/LJHXQv

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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