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相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長

先日日曜日は、

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか?


という質問に答える形式で高森顕徹会長の話がありました。


まずは阿弥陀仏の本願についていつものデタラメ創作教義を披露。

阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏のお約束。「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」。

と、相変わらず創価学会の信心を話していました。しかも、「絶対の幸福」とやらになったことを「大船に乗せる」「一念往生」などと真宗用語で説明している始末です。仏教の目的は迷界からの出離、成仏ですから、幻想的な現世利益を求めて何十年聞いたところで、「乗大悲願船」「一念往生」の意味は分からないでしょう。ましてや正しい法を説かない悪知識を盲信していてはね・・・。そうとも知らない会員は哀れ哀れです。

次に「ではどうすれば、一念で往生させられるのか、どうすれば大船に乗せて頂けるのか」の問いについては

・聞其名号
・仏法は聴聞に極まる


等の語を出すものの、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えません。それでいて聞く「姿勢」とやらを

たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。『大無量寿経』流通分
仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。『御一代記聞書』(155)

等のお言葉を挙げて「この大宇宙が火の海原になっても、そこを突破して聞け」「私たちが大切に取り組んでいる仕事をやめて聞け」と説明するに留まっています。結局、『白骨の章』を出して無常を煽る話をするのみで、そんなに真剣に、全てを投げ打ってでも聞くべきものは何かを明示することは終ぞありませんでした。


聞く一つ」と何とかの一つ覚えのように連呼する高森顕徹会長ですが、創価学会の真似事をして正しい真宗を説かない高森会長の話をいくら「聞く一つ」と真剣に聞いても徒事です。私達が聞くべき内容は、

・其名号
・かの仏の名号


とあるように、本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のいわれ、六字のこころです。迷いの世界に沈み、清浄の心、真実の心も、清浄の信楽、真実の信楽も、真実の回向心、清浄の回向心も何も持ち合わせていない我々のために、発願修行して成就された本願の名号。それを我々に施し与えて浄土に迎え取り、仏にしようというのが南無阿弥陀仏の六字に込められたいわれです。平たく言えば「我にまかせよ、必ず助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命です。この南無阿弥陀仏聞く一つで浄土の真因決定するというのが浄土真宗です。

我々は何の造作も要らず、ただ誓いの名号を聞き、仰せのままに受け容れてひとえに後生、往生を阿弥陀さまにおまかせするのみです。善をするだとかしないとか、横の線の道を進むとか進まないとか、そんな事は一切関係ありません。逆にそんな事にこだわって本願の名号だけでは不足に思っているのを、

阿弥陀仏の本願に対する疑いの心、「疑情」

というのです。高森会長の話をいくら聞いていても、疑いが深まるのみで晴れることはないでしょう。尤も、肝心の阿弥陀仏の本願が間違っていますから疑うも何もありませんけど。

この本願の名号を疑いなく聞き受けたその時(一念)に今度の一大事の往生が定まりますから、それを

一念往生

といい、南無阿弥陀仏におまかせした真実信心の称名による利益を

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

と仰っているのです。南無阿弥陀仏のいわれを説かず、念仏の尊さも教えない悪知識の話をどれだけ真剣に聞こうと、「一念往生」もなければ「乗大悲願船」もないことは当たり前の当たり前の事です。


浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号、南無阿弥陀仏を聞き受けた信心、南無阿弥陀仏と称える念仏を勧め、ひとえに本願の独用(ひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。

勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、その喜び、幸せを売り物にし、「絶対の幸福」という桃源郷に変えて勧誘し、会員を利用・搾取する手法は浄土真宗にはありません。会員の皆さんは、真宗に非ざる一新興宗教の教えを信じているに過ぎない事実に早く気付いて下さい。そしてそこを脱出し、正しい真宗を聞いて本願を信じお念仏を申して、この度の一大事の報土往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。
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No title

>相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長

>先日日曜日は、

>映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
>「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
>とは、どんなことでしょうか?

>という質問に答える形式で高森顕徹会長の話がありました。


>まずは阿弥陀仏の本願についていつものデタラメ創作教義を披露。

>阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏のお約束。「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」。






親鸞聖人は、絶対の幸福を「無碍の一道」(※)とおっしゃっています。
 そして、その世界を、こう教えておられます。

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり(『歎異抄』第7章)

“弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神々も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩も妨げることができなくなるからだ。犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である”

大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず(『教行信証』行巻)

“阿弥陀仏の造られた、大悲の願船に乗って見る人生は、千波万波きらめく明るい広い海ではないか。
順風に帆をあげる航海のように、なんと生きるとは素晴らしいことなのか”

 これらのお言葉は、絶対の幸福を喝破なされたものです。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)

“弥陀の本願に救われてからは、もう迷い人ではないのである。欲や怒り、
ねたみそねみの煩悩は少しも変わらないけれども、心は極楽で遊んでいるようだ”

とおっしゃっているのも、絶対の幸福になった一大宣言であります。

 そんな絶対の幸福なんてあるものかという人は、
まだ阿弥陀仏の救いの素晴らしさを知らないだけなのだと親鸞聖人は教えられています。

No title

>と、相変わらず創価学会の信心を話していました。しかも、「絶対の幸福」とやらになったことを
>「大船に乗せる」「一念往生」などと真宗用語で説明している始末です。
>仏教の目的は迷界からの出離、成仏ですから、幻想的な現世利益を求めて何十年聞いたところで、
>「乗大悲願船」「一念往生」の意味は分からないでしょう。




仏教の究極の目的は、“浄土往生“であるhttp://www.shinrankai.net/2012/08/hikaku-6.htm



「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事

No title

>ましてや正しい法を説かない悪知識を盲信していてはね・・・。そうとも知らない会員は哀れ哀れです。

>次に「ではどうすれば、一念で往生させられるのか、どうすれば大船に乗せて頂けるのか」の問いについては

>・聞其名号
>・仏法は聴聞に極まる

>等の語を出すものの、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えません。







「聞く一つで救われる」阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏) https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20161001kikuhitotu.htm

No title

>それでいて聞く「姿勢」とやらを

>・たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、
>この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。(『大無量寿経』流通分)
>・仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、
>あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。(『御一代記聞書』(155))

>等のお言葉を挙げて「この大宇宙が火の海原になっても、そこを突破して聞け」
>「私たちが大切に取り組んでいる仕事をやめて聞け」と説明するに留まっています。
>結局、『白骨の章』を出して無常を煽る話をするのみで、そんなに真剣に、
>全てを投げ打ってでも聞くべきものは何かを明示することは終ぞありませんでした。





この経法を聞きて

No title

>「聞く一つ」と何とかの一つ覚えのように連呼する高森顕徹会長ですが、
>創価学会の真似事をして正しい真宗を説かない高森会長の話をいくら
>「聞く一つ」と真剣に聞いても徒事です。私達が聞くべき内容は、
>・其名号
>・かの仏の名号

>とあるように、本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のいわれ、六字のこころです。





「聞く一つで救われる」阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20161001kikuhitotu.htm
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり(『教行信証』信巻)https://www.shinrankai.or.jp/b/shinsyu/infoshinsyu/qa0404.htm





>本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のいわれ、六字のこころです。



仏法の話を聞かれれば、なぜ阿弥陀仏が本願を建てられたのか、どのようにして名号を成就されたのかということを、聞かれることがあると思います。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090708/1247056172

No title

>迷いの世界に沈み、清浄の心、真実の心も、清浄の信楽、真実の信楽も、真実の回向心、
>清浄の回向心も何も持ち合わせていない我々のために、発願修行して成就された本願の名号。
>それを我々に施し与えて『聞即信の一念』浄土に迎え取り『他力の信心獲たひとの後生』、
>仏にしようというのが南無阿弥陀仏の六字に込められた『願行具足』いわれです。
>平たく言えば「我にまかせよ、必ず助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命です。
>この南無阿弥陀仏『願行具足の南無阿弥陀仏』を聞く一つで浄土の真因決定する『聞即信の一念』というのが浄土真宗です。

>我々は何の造作「聴く事も、聞く事も、受け入れる事も」も要らず『聴き誤り』・・・・只仏法は聴聞に極まることなり

『「至りて堅きは石なり、至りて軟かなるは水なり、水よく石を穿つ。
―乃至―いかに不信なりとも聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。只仏法は聴聞に極まることなり」
(御一代記聞書)』、



>ただ誓いの名号を聞き『聞即信の一念』、


>仰せのままに受け容れて・・・・・・・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
>ひとえに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書くだけで意味知らず
>後生、往生を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・体失往生
>阿弥陀さまにおまかせするのみです。・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない

No title

>善をするだとかしないとか『仏教知らず』、

「諸悪 莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」



>横の線の道を進むとか進まないとか


『仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り』、



>そんな事は一切関係ありません。

願海に就きて、真有り仮有り。(教行信証 真仏土巻)


従真垂仮
方便引入

方便引入せしめけり

「真・仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)
https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20100815shin-ke-oshie.htm

No title

>逆にそんな事にこだわって本願の名号だけでは不足に思っているのを、

>阿弥陀仏の本願に対する疑いの心、「疑情」

>というのです。

>高森会長の話をいくら聞いていても、疑いが深まるのみで晴れることはないでしょう。





私たちを始まりのない始まりから迷わせ、今も未来も苦しめる元凶はただ一つ、「疑情」だと親鸞聖人は断言されている。
https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20140215gijougaharerumade.htm

No title

>尤も、肝心の阿弥陀仏の本願が間違っていますから疑うも何もありませんけど。
https://shinrankai.jp/article/1306




>この本願の名号を疑いなく聞き受けたその時(一念『言葉だけ意味知らず』)に今度の一大事の往生が定まりますから、それを

>一念往生といい、南無阿弥陀仏におまかせ(おまかせ『言葉だけ意味知らず』)『弥陀をたのむ』した
>真実信心の称名による利益を
>しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
>すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。
>と仰っているのです。


>南無阿弥陀仏のいわれを説かず、
https://1kara.tulip-k.jp/rennyo/2017112698.html


>念仏の尊さも教えない悪知識の話をどれだけ真剣に聞こうと、
>「一念往生」もなければ「乗大悲願船」もないことは当たり前の当たり前の事です。



「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖目十一通)
https://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20160601zendisiki.htm

No title

>浄土真宗は、南無阿弥陀仏の名号、・・・・・・・・・『願行具足』

>南無阿弥陀仏を聞き受けた(あいまい)信心、・・・・『聞即信の一念』

>南無阿弥陀仏と称える念仏を勧め、・・・・・・・・・『信心正因 称名報恩』



>ひとえに本願の独用(我々は何の造作も要らずひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、・・・・・・・・・・・・・いつかわからん

>その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。・・・・・・・・どの暁かもわからん

>勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『ありますが・・・というあいまいなものでない』



作詞 真宗各派協和会 / 作曲 島崎赤太郎


1.信前の喜び

ふかきみ法(のり)に あいまつる
身の幸(さち)なにに たとうべき
ひたすら道を ききひらき
まことのみ旨(むね) いただかん


2.聞即信、信後の喜び

とわの闇より すくわれし
身の幸(さち)なにに くらぶべき
六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん


3.恩徳報謝

海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん

No title

>その喜び、幸せを売り物にし、

>「絶対の幸福」という桃源郷に変えて勧誘し、会員を利用・搾取する手法は浄土真宗にはありません。

>会員の皆さんは、真宗に非ざる一新興宗教の教えを信じているに過ぎない事実に早く気付いて下さい。

>そしてそこを脱出し、



>正しい真宗
>を聞いて
>本願を信じお念仏を申して、


「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖目十一通)

「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候。
 一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌に候」

吉崎御坊http://shiga.jodoshinshu.net/rennyo/story02.html

祇樹給孤独園https://www.sokanet.jp/pr/creatio/dagaya-63/
祇陀(ジェータ)太子が所有していた林苑を見つけ、ジェータ太子に譲ってほしいと頼んだ。
するとジェータ太子は冗談で「必要な土地の表面を金貨で敷き詰めたら譲ってやろう」と言ったら、
シュダッタは本当に金貨を敷き詰め始めたためジェータ太子は驚いて、
土地を素直に譲りさらに自らも樹木を寄付して寺院建設を援助した、という逸話がある。



>この度の一大事の報土往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」(釈尊)

生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞かせていただく以上に、ありがたく尊い幸せがあるでしょうか。



No title

私が出るまでもないことでしょうが、最初の絶対の幸福の間違いだけ「飛雲」より引用しておきます。

高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-02a0.html

『歎異抄』にある「無碍の一道」を絶対の幸福と勘違いし、親鸞聖人の教えを現世利益に貶めた話にしていました。珍釈の最たるものが、「無碍の一道」の「一道」を幸福だとしたことです。噴飯物以外の何物でもありません。

一応説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。

「一道」とは、同然ながら、ただ一つの道のことで、それは念仏を意味しています。

したがいまして、

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

になるのですが、『歎異抄』では「念仏者は」となっているので、学者の間でも様々な説がでています。いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」が迷いの世界を出て成仏するたった1つの道だと教えられたのです。

No title

高森学徒は自分がなってもいない絶対の幸福を、「なればわかる」かのように宣伝していて虚しくならないのか実に不思議です。
自分がわかりもしないことを居丈高に説く不誠実さ、嘘つきぶりはカルト特有のものですね。

絶対の幸福…もちろん経典にない言葉。

Re:名無しさん

こんばんわ、Abcです。

なんだかすごいことになっておりますが、いかがなされましたでしょうか。

>「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
(御文章二帖目十一通)

「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候。
 一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌に候」

蓮如上人のお手紙ですね。名無しさんが示していただきました「『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と人を勧むべき」と言うのは正しく「真宗をつたえるもの」でありましょう。

また、2つめの「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく、一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌である」というのもその通りでございます。名無しさまが「阿弥陀さまにお任せする」と申されるのでしたら私はことなら何も申しはいたしませんが、「信心を獲るためには会長の話を聞かなければならない」と申されるのでしたら、私の力が及ぶべき場所では御座いませぬゆえ、すみやかに「真宗」という宗号をおろしていただいたく存じます。

 もう少しハッキリ言いますと、2つめの通りであったならば「二千畳に5人しかいなくてもその中の1人が信を獲たならば繁昌である」ということです。ですから二千畳に人をたくさん集めるために熱心になることは如何かと私は思います。

Abc

無碍の一道

ども、林遊@なんまんだぶです。

「蟷螂の斧」とか「群盲象をなでる」や「夜郎自大」という故事ことわざを想起した。
勇気をふるって名前(HN)を記述することもなく長々とコピペしたのだが、まるで淳心房さんに対する蟷螂の斧である。
コピペの内容は、まさに群盲象をなでるであり、文章を断章して高森顕徹氏の主張を立証しようとするのだが、御開山の説かれた浄土真宗全体を理解していないから枝葉末節の語だけの整合性を求めようよするのである。その為には、sokanet.jpという創価学会公式サイトの記述をも利用するのは、高森顕徹氏が学会二代目会長戸田城聖さんの「絶対的幸福」の語をパクる(盗用)のと同じ発想であろう。
高森顕徹氏は「絶対の幸福」を主張し「正御本尊」を主張するのだが、その言葉の元となった戸田城聖さんも仏教語では無いといるのだけど、高森親鸞会の「正御本尊」はひょっとして日蓮さんの本門戒壇の大御本尊なのかな(笑
https://www.youtube.com/watch?v=PB1GkEwPB7w

ともあれ、高森親鸞会の人は、おかしな選民思想に嵌って「夜郎自大」なのだが、まるで僕の考えた浄土真宗みたいな中二病ですね。
高森親鸞会に所属していると、三行以上の文章は理解できなくなり、聖教全体を読むことが出来なくなる、と脱会者の方が言われてましたが、高森顕徹氏の説く妄想の信心を捨てて、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて聞える「本願招喚の勅命」を聞きましょうや。

でも、「仏教概論」すら学んだことがない信心至上主義の高森親鸞会の会員には意味不明だろう。あほみたいな高森短冊教学なるものを学ぶことは、本願を信じ念仏を申せば仏に成るという、浄土真宗の教義を遮蔽するものだが困ったものだ。

蓮如さんは信心獲得と煩いのだが、その信心とは仏心であり、それはわたくしの上にあるけれどもわたしのものでは無いのです。ですから古来から浄土真宗の門徒は御信心と呼称してきたのでした。
なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶと聞えるでしょ。それを先達は「勅命の他に領解無し」と言われていたのでした。これも高森顕徹信心に狂うている輩には判らんやろな(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「念仏者は無碍の一道なり」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E8%80%85%E3%81%AF%E2%80%A6
「文殊の法はつねにしかなり」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%87%E6%AE%8A%E3%81%AE%E6%B3%95%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%81%AD%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%8B%E3%81%AA%E3%82%8A

Re:名無しさん

再び申し訳御座いません、Abcです。

1.>ひとえに本願の独用(我々は何の造作も要らずひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、・・・・・・・・・・・・・いつかわからん

1. およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。(中略)弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏[1]とたのませたま ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(中略)弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。 (『親鸞聖人御消息 自然法爾の事』より)

2.>その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。・・・・・・・・どの暁かもわからん

2. 智慧の光明量るべからず。ゆゑに仏をまた無量光と号けたてまつる。
有量の諸相光暁を蒙る。このゆゑに真実明を稽首したてまつる。(曇鸞大師『讃阿弥陀仏偈』より)

 こちらに「智慧の光明量るべからず」とありますとおり、「自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」(先述より引用)であります。あなたがもし、「こうこうこのような暁で」と論じるならば、それは「あなたの暁」であり「弥陀よりたまわりたる」ではないのです。

3.>勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『ありますが・・・というあいまいなものでない』

3. こちらは日本語の問題ですね。

原文は、「我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、その喜び、幸せを売り物にし、「絶対の幸福」という桃源郷に変えて勧誘し、会員を利用・搾取する手法は浄土真宗にはありません。」です。

これは、言い換えますと

「浄土真宗には、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はあります。
 しかし、喜び、幸せを売り物にし、「絶対の幸福」という桃源郷に変えて勧誘し、会員を利用・搾取する手法はありません。」ということであります。この文は2文をつなげて記されておりますので、「恩徳」と言うことに関しましてはございます。

Abc

No title

寝る前のつぶやき

〇無上正遍道

正覚、等正覚、両方の意で読めそうだが


〇菩提

正覚、等正覚、両方の意で読めそうだが


云々



『歎異抄』では「念仏者は」となっているので、
学者の間でも様々な説がでています。


等正覚と拝読すると

念仏者は無碍の一道なり

等正覚の身になりて、他力の念仏者は一無碍道と読める


日をあらてめて・・・・後ほど


No title

>念仏者は無碍の一道なり

>は本来の意味では

>念仏は無碍の一道なり


>結論を言うと、無碍人である仏方は、

>ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、

>「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。


上記は・・・・

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)
省略
ここからですか?


No title

無碍の一道の語源は、ここからですよ。
唐突に、親鸞聖人が創作された言葉ではないことくらいは、少しくらいの思考力があるなら理解できるでしょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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