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コメント返信(『相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長』の、親鸞会会員と思しき名無しさんへ)

相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長

の記事に、親鸞会会員と思しき名無しさんから複数コメントがありました。今回はそれに答えるというかツッコミを入れるというか、とにかく書いていきたいと思います。


********************
>親鸞聖人は、絶対の幸福を「無碍の一道」(※)とおっしゃっています。
********************

⇒勝手に創作しないで下さい。正確には、

高森会長は、「無碍の一道」を「絶対の幸福」と勝手に読み替えています。

です。元学徒さんのコメントにあるように、

無碍の一道」≠「絶対の幸福

です。幻想的な楽、桃源郷のようなものを「無碍の一道」と思ってもらったら困りますね。


********************
>「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事
********************

⇒「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。


********************
>何の造作「聴く事も、聞く事も、受け入れる事も」も要らず『聴き誤り』・・・・只仏法は聴聞に極まることなり
********************

⇒何やら勝手に書き加えていますが、私は

我々は何の造作も要らず、ただ誓いの名号を聞き、仰せのままに受け容れてひとえに後生、往生を阿弥陀さまにおまかせするのみです

と書いています。とんだ断章取義ですね。ここで「造作」というのは、親鸞会で言えば貴方がたが日々一生懸命やっている活動のことです。高森会長の眠い話を我慢して記憶するように聞く、後で記憶力自慢大会をする、善(もどきの善)をする、人を誘って会員にする、お布施をする、会長や上司の指示に無条件に従う、煩悩と闘って活動する・・・。それらによって横の線の道を進んで「絶対の幸福」とやらになろうという活動のことです。そんなものは一切「要らず」と言っているんです。


********************
>仰せのままに受け容れて・・・・・・・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
>ひとえに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書くだけで意味知らず
>後生、往生を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・体失往生
>阿弥陀さまにおまかせするのみです。・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
********************

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

(中略)

さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』(2)

と仰った覚如上人は「他力か自力、水際たってない」ということか? 善知識をおろかにおもうことが常習化していますね。浄土真宗の人ではなく高森教徒だというのが明らかです。

ひとえに・・・《副》他には心を向けず、または他の事はさておき、全く。ただただ。

ちなみに、

体失往生
=諸行往生
=臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず
=第十九の願
=非本願なるによりて定散の機にかぎる

不体失往生
=念仏往生
=至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生す
=本願(第十八の願)
=本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる

だよ。『口伝鈔』をよく読みたまえ。往生するのはあくまで死んでからだ。その往生が平生に定まるのが不体失往生。これは報土往生。それに対して臨終に定まるのが体失往生。これは化土往生。貴方の先生は

不体失往生した者を体失往生させる。

などと言っているが、これでは

報土往生を遂げる身になった者が、死ねば化土往生する。

と言っているようなものだ。そんな頓珍漢で真宗に無知な人物に未だに付き従っているのが信じられない。


********************
>善をするだとかしないとか『仏教知らず』、

「諸悪 莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
********************

⇒聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ理論であることが判らないかね?

『飛雲』法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長

でも読んでおいて下さい。


********************
>横の線の道を進むとか進まないとか

『仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り』、
********************

⇒「白道」を、いつも高森会長が書いている横の線の道に当てはめるのがそもそも間違い。


********************
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
********************

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。

(中略)

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。
『選択本願念仏集』

念仏以外に善と称した組織拡大活動を勧める高森会長は断じて善知識でないことが明らかです。


********************
>ひとえに本願の独用(我々は何の造作も要らずひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、・・・・・・・・・・・・・いつかわからん

>その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。・・・・・・・・どの暁かもわからん

>勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『ありますが・・・というあいまいなものでない』
********************

⇒往生を遂げるのは「臨終一念の夕」。そして「大般涅槃を超証」した暁に今度は還相だよ。

御恩を喜ぶ心は「あります」って書いてるでしょ? あるかないか判らないならあいまいと言えるけどね。貴方は親鸞会によって失われた国語力を取り戻すのが先決だと思う。


********************
「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候。
 一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌に候」
********************

⇒無信心の集まりが信心欲しさに勧誘し、最近は新聞広告まで使って大体的に人集めしているのに、よくこの蓮如上人のお言葉が出せるものだわ。それでいて幽霊会員はほったらかしだもんね。


********************
生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞かせていただく以上に、ありがたく尊い幸せがあるでしょうか。
********************

幸せですよ。高森教の邪道を離れ、まことの真宗に遇えて本当に幸せです。危ないところでした。



以上、所詮根拠は高森本の名無しさんへの回答(ツッコミ)でした。
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Re: 名無し様

> >幻想的な楽、桃源郷のようなものを「無碍の一道」と思ってもらったら困りますね。
> 〇とおっしゃるあなたの言われる「無碍の一道」とは?

無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。(飛雲より)

とあるでしょう? 高森教の布教ばかりせずに他人の文章をきちんと読んで下さい。

No title

>********************
>>「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事
>********************

>⇒「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」
>とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。


因果の道理・・・・因果の道理というのは、お釈迦様の説かれた仏教の根っこであり、 幹にあたる教えです。(添付)

秘事法門・・・・・秘事法門(ひじほうもん)とは浄土真宗の異安心(異端)とされる教えの中で、そ
         の主張の内容を公表せず、秘密の間に伝授しつつあるもの。
         いわば、秘密結社的なグループである。善鸞が父・親鸞から特別に教えられたとして伝えたものなどを含む。(添付)


「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」・・・因果の道理というのは、仏教の根っこであり、 幹にあたる教えだからです。


>とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。・・・・・仏教の根幹知らず、秘事法門の事も知らず。

Re: 名無し様

> >********************
> >>「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事
> >********************

これは貴方が言い出したことだよ。「何十年聞いても分からない」というのは秘事法門の者が言う事なんでしょ? なら親鸞会も同じことをよく言っているじゃないかと反論したまで。

それより、「無碍の一道」が「絶対の幸福」だという聖教の根拠でも出したらどう?

No title

>因果の道理というのは、仏教の根っこであり、 幹にあたる教えだからです。

こう言って法然上人を非難攻撃したのが比叡山です。
少しは、浄土仏教のことを勉強したらどうですか?
聖道門と同じ主張をしている高森会が浄土門なわけないでしょうに。

Re:名無しさん

おはようございます、Abcです。

>「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」・・・因果の道理というのは、仏教の根っこであり、 幹にあたる教えだからです。


>とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。・・・・・仏教の根幹知らず、秘事法門の事も知らず。

「幹にあたる教え」ですか。確かにそうかもしれません。
ただ、浄土教は「因果の道理にあてたならば、他因他果である。」とも言われます。
下には「因果撥無について」を示しますが、全文はリンク先にてご参照ください。

『改邪鈔』
「おなじく祖師(親鸞)の御門流と号するやから、因果撥無といふことを持言とすること、いはれなき事。

 それ三経のなかにこの名言をもとむるに、『観経』に「深信因果」の文あり、もしこれをおもへるか。(中略)弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。(中略)いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきに あらず、また撥無すべきにあらず。」

と覚如上人はしるされております。

 しかし、名無し様がいわれている「因果の道理」には、「他因他果」だけではなく、「自因自果」も含まれているのでは、とお見受けいたしております。
 元学徒さまがいわれる、「こう言って法然上人を非難攻撃したのが比叡山です。」というのは事実でありますし、そこから法然上人は叡山の学僧をあつめられてご説法せられました。今一度、「法然上人」についてご確認されてはいかがでしょうか。

Abc

追記

連投申し訳ございません。Abcです。

『改邪鈔』のリンクでございます。ご参照くださいませ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%94%B9%E9%82%AA%E9%88%94

Abc

No title

>Re: 名無し様

>> >幻想的な楽、桃源郷のようなものを「無碍の一道」と思ってもらったら困りますね。
>> 〇とおっしゃるあなたの言われる「無碍の一道」とは?

>無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、
>「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。(飛雲より)

>とあるでしょう? 高森教の布教ばかりせずに他人の文章をきちんと読んで下さい。





〇とおっしゃるあなたの言われる「無碍の一道」とは?

飛雲さんの言われる意と同じということですね。





>無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、
>「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っているのです。(飛雲より)


元々は『浄土論註』のお言葉ですが、
それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、
これはやく仏になることを得たまへるなり。
〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、
〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく
〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
「無上」は、言うこころは、
この道、理を窮め性を尽くすこと、更に過ぎたる者なし。
何をもってかこれを言わば、正をもってのゆえに。
「正」は聖智なり。
法相のごとくして知るがゆえに、称して正智とす。
法性は相なきゆえに、聖智は無知なり。
「遍」に二種あり。一つには、聖心遍く一切の法を知ろしめす。
二つには、法身遍く法界に満てり。
もしは身、もしは心、遍ぜざることなきなり。


速得・・・・・・・・・・・これはやく仏になることを得たまへるなり。

阿・・・・・・・・・・・・無に名づく

耨多羅・・・・・・・・・・上に名づく

三藐・・・・・・・・・・・正に名づく

三・・・・・・・・・・・・遍に名づく

菩提・・・・・・・・・・・道に名づく





以下意訳を交えて(暫定・・・・異なれば正して頂きたい)

〇この道(無上正遍道)、理を窮め性を尽くすこと、更に過ぎたる者なし。何をもってかこれを言わば、正をもってのゆえに。


正・・・・・・・・・・・・聖智(等正覚)なり。法相のごとく(等正覚)して知るがゆえに、称して(いいかえると)正智(悪を転じて徳を成す正智)とす。

法性(本性、大智度論は諸法実相(全ての存在のありのままの真実の姿のことの異名であるとする。)は相(仏覚の相)なきゆえに、

聖智は無知(等正覚で仏覚で無い)なり。

遍・・・・・・・・・・・・

一つには、聖心(等正覚)遍く、一切の法(仏教、真仮「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」)を知ろしめす。

二つには、法身(色も形もない真実そのものの体をいう。(聞即信の一念で仏凡一体となった、その仏心(名号)))
遍く法界(真如 。実相。)に満てり。もしは身、もしは心、遍ぜざることなきなり(仏凡一体)。



一乗(他力の信心)を得るは阿耨多羅三藐三菩提(無上正遍道)を得るなり。
阿耨菩提は即ち是れ涅槃界(*生死の苦しみから離れた世界である。意訳添付)なり。

*生死の苦しみから離れた世界
生死の苦界に沈んでた者が弥陀弘誓の船に乗った世界(弥陀の力によって)


注意書き
私の中では・・・・このように拝読すると・・・すらすらとはいかないまでも・・・『教行信証』行巻(上記の原文)の意をもらす事なく拝読出来るのですが・・・


念仏者(聞即信の一念で他力の信心を獲た念仏者)は、無碍の一道(無上正遍道)なり。
そのいわれ如何とならば、信心(他力の信心)の行者(念仏者)には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々。



m(_ _)mしばし休憩^^



No title

涅槃界とは、仏界のことですが。

勘違いも甚だしい

No title

休憩中だけど・・・

>無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたこと

無碍人・・・・諸仏だけ?

他力の信心獲た人は、入るの入らないの?

ただ一つの道=念仏?

仏になる前、念仏する者は?

迷いを出られ・・・・いつ?死んでから仏になって?聖人は死んでから?


>それより、「無碍の一道」が「絶対の幸福」だという聖教の根拠でも出したらどう?

については・・・・
シャバでの遊び(仕事ww)終わってから(私のザレゴト)・・・・m(_ _)m

No title

>無碍人・・・・諸仏だけ?

>他力の信心獲た人は、入るの入らないの?

仏だけ。仏になっていない人は入らない。当たり前。

行巻の「無碍人」の前提がこの前にある。

仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもつてのゆゑに、名づけて仏とす。いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。

仏の説明。仏の説明をしているのに、何を寝惚けたことを言っているの?



>ただ一つの道=念仏?

そう。当たり前のこと。


>仏になる前、念仏する者は?

正定聚の意味知らないの?仏になるに定まった人だから、仏ではないでしょ。
日本語分かるの?


>迷いを出られ・・・・いつ?死んでから仏になって?聖人は死んでから?

迷いを出ることが定まった状態が信心を獲たこと。
迷いを実際に出るのは死んでから。

当たり前のことでしょうが。
キミは、基本中の基本中の基本が分かっていないのよ。

だから、七仏通誡偈とかだして喜んでいる訳よ。
聖道門と浄土門とは違うから、聖道門と浄土門と別れているのよ。
ちなみに聖道門側では浄土門とは言わないの。聖道門の中に浄土の教えがあるとしている。
キミがまさにそれだ。

No title

>涅槃界とは、仏界のことですが。

>勘違いも甚だしい



【原文】
能 発 一 念 喜 愛 心
不 断 煩 悩 得 涅 槃


【読み方】
よく一念いちねん喜愛きあいの心を発ほっすれば、
煩悩ぼんのうを断だんぜずして涅槃ねはんを得るなり。


ここで得る涅槃とは?

No title

>ここで得る涅槃とは?

言ってくると思ったよ(笑)

ここは「涅槃分」つまり正定聚ということなんだな。

「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。(正信偈大意)

キミの単純な思考はお見通しだからさ、即答できるんだよ。

他のことは認めたんだね。

No title

>>無碍人・・・・諸仏だけ?
>>
>>他力の信心獲た人は、入るの入らないの?

>仏だけ。仏になっていない人は入らない。当たり前。

>行巻の「無碍人」の前提がこの前にある。


文殊法常爾。法王唯一法。

一切無礙人 一道出生死。

一切諸仏身 唯是一法身。

一心一智慧。力・無畏亦然。


{已上}
「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。

一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。

一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。

一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上} (行巻p.196)

*******************************************

一切(すべての)無礙人(仏) 一道(念仏)出生死(煩悩から離れる、死ぬ)。


一切の無碍人(仏だけ)、一道(念仏)より生死を出で(肉体の臨終、煩悩を離れ)たまへり。


*******************************************




〇生死を出で・・・・死んだ時?



〇煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す、といえり。p.206 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)

・・・・・応化を示すのは、死んだ後ですか?


〇惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。p.206 顕浄土真実行文類二(教行信証・行)

・・・・・・・・・・・生死即涅槃、死んだ後ですか?

No title

「涅槃分」は理解できたんだ。少しは知能があるようで。

>〇生死を出で・・・・死んだ時?

そうですが、何回も言っているでしょ。まだ理解できないの?

キミは進歩向上と言うことがないんだな。
さっき、正信偈大意をだしてあげたんだから、正信偈大意を見たら?

>・・・・・応化を示すのは、死んだ後ですか?

「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」といふは、これは還相回向のこころなり。弥陀の浄土にいたりなば、娑婆にもまたたちかへり、神通自在をもつて、こころにまかせて、衆生をも利益せしむべきものなり。


還相回向っていつのことか知ってるの?


>・・・・・・・・・・・生死即涅槃、死んだ後ですか?

「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」といふは、一念の信おこりぬれば、いかなる惑染の機なりといふとも、不可思議の法なるがゆゑに、生死すなはち涅槃なりといへるこころなり。

ここは行巻の無碍の一道の話のところ

〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無碍の相なり。

仏の話だよね。
どういうことかというと、
「不断煩悩得涅槃」
こういうこと。

分かったかな?

No title

以下のようなコメント待っているのですが。

「惑染の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。」だから、
信心を獲た平生に生死即涅槃なりと知らされるのではないか?


まだ?

No title

>まだ?

m(_ _)m

今仕事終わって帰ってきたところです。

疲れたので・・・・

とりあえず、ご挨拶だけ。

m(_ _)m

No title

・・・休ましてあたらん・・・頭パンクしそう・・・

面白いとこ見つけた^^

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1139378376?__ysp=44CM6YGK54Wp5oKp5p6X54%2B%2B56We6YCaIOWFpeeUn%2Batu%2BWckuekuuW%2FnOWMluOAjeOBqOOBhOOBteOBr%2BOAgeOBk%2BOCjOOBr%2BmChOebuOWbnuWQkeOBruOBk%2BOBk%2BOCjeOBquOCig%3D%3D

Qは分かりやすい文章でした。

Aは・・・・・・今は・・・読み込む元気無し^^


(添付)
『論註』に「未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。
浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑに」
と未証と証が同じと説明があり、『教行信証』の「還相回向釈」に最初に引用されています。

これについては・・・・拝読しがいがありそう・・・
今は・・・・仕事で頭、こきつかったので・・・
文字の意味(聖人が何のことをおっしゃられて、又、現代どういう意味で使われるか)を調べる元気無し・・・・

m(_ _)m申し訳ございません。


時間かかっても・・・あらためてコメントします。

No title

高森会長のデタラメを知る上で、本願寺の僧侶の説明を読むのはよいのではないですかね。

真宗の教学を真面目に学ぶつもりがあるなら、退会者の皆さんはやさしく教えてくれますよ。

No title

真宗学は難しいですね。
同じ涅槃という言葉なのに「涅槃」と「涅槃分」に読み分けるとか、私には無理です。
高森学徒に丸め込まれてしまいます。
トホホ。
真宗学自体があまり論理的ではないように見えて仕方ない。

No title

正信偈は文字数が限られているため、涅槃分とするところを涅槃と一文字削らざるを得なかったという理由でしょう。
論註では涅槃分となってますから、元の御文を読むことが必要です。

No title

元学徒様、 無知蒙昧の徒様、コメント有難うございます。


初心に帰りたいと思いますm(_ _)m

Re:元学徒さん

こんばんわ、Abcです。

>>・・・・・・・・・・・生死即涅槃、死んだ後ですか?

>「惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃」といふは、一念の信おこりぬれば、いかなる惑染の機なりといふとも、不可思議の法なるがゆゑに、生死すなはち涅槃なりといへるこころなり。

>ここは行巻の無碍の一道の話のところ

>〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無碍の相なり。

>仏の話だよね。
>どういうことかというと、「不断煩悩得涅槃」こういうこと。(元学徒さん)

ご解説ありがとうございます。私なりの付けたし(「味わい」ともいわれるかもしれませんが)としましては、

そもそも、涅槃に入る(滅度に入る 仏果をえる など)時には『十二支縁起』に代表される各々の迷いをなくするためとしてバラモン教など聖道的おしえがございました。

ですが、この浄土門では「難行・苦行は法蔵比丘が私たちの代わりに行っていただいて、なおかつ私たちには『わが名を称えよ。わが名を称えんものは、涅槃へ生じさせる』とお誓いなされました」とされております。

 ですから、聖道仏教をなされている叡山からは非難の嵐であったのです。
この「不断煩悩得涅槃」と言うお言葉には、
「往生は親様(阿弥陀さま)の御計らい(弥陀回向、自然法爾)であり、私たちの計らいではない(不回向の行)から、私たちが煩悩を持ったままでも、涅槃へと生まれさせていただける」とされるのであります。

『浄土高僧和讃』
 「信は願より生ずれば 念仏成仏自然なり
 自然はすなはち報土なり 証大涅槃うたがはず」

「わが名を称えよ」というのは王本願(18願)から出ているのだから、念仏成仏(18願)は自然(自然というはもとよりしからしむという御ことばなり 自然法爾より)なのである

 この自然(阿弥陀さまの計らい)は報土(安養浄土 安楽国 弥陀国土)であり、
 証(南無阿弥陀仏)が則ち大涅槃であると疑わないことである

なのであります。ですから
>信心を獲た平生に生死即涅槃なりと知らされるのではないか?
と言うことは、「親様が知ることであって、わたしたちが知ることではない」となります。まぁ、当人は疲れたらしいのでコメントはされないようですが。

なもあみだ なもあみだ
Abc

No title

**********************************

〇一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。

生死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?

生死を出で・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


〇「超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり」(帖外和讃)


生死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫かは・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?






〇念仏者は無碍の一道なり。

そのいわれ如何とならば、信心の行者には、
天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたわず、
諸善も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々。

念仏者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?

信心の行者・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?



***********************************

No title

***********************************

〇「不断煩悩得涅槃」といふは、願力の不思議なるがゆゑに、
わが身には煩悩を断ぜざれども、仏のかたよりはつひに涅槃にいたるべき分に定まるものなり。(正信偈大意)

定まる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・死んだ時?


***********************************

No title

今まで書いたことが理解できるなら、簡単なこと話です。
生死は、迷いの世界での生まれて死んでいく、
いわゆる輪廻
そこから出ることを出離
輪廻から出られないから生死の凡夫
出離して成仏する唯一の道が念仏だから、念仏は無碍の一道なり
その道を行く行者を念仏者とか信心の行者
現世では煩悩があるままの凡夫ではあるが、成仏することが定まっているので正定聚、それを涅槃分という

No title

ついでに、帖外和讃は、親鸞聖人が作られたものかどうか不明

元学徒さんへ

分かりやすくまとめて頂き有難うございます。


帖外和讃は真宗のお聖教ではないという事と理解してよろしいでしょうか?

真宗の教えと異なると理解してよろしいでしょうか?

異なるなら何処がどう異なるか示して頂ければ幸いです。



以下、素朴な疑問


嘆異鈔は誰が書かれたものか不明だがお聖教ですよね?

根拠となるならないの基準は何ですか?

No title

帖外和讃は聖教に入らないとか真宗の教えと違うとは言っていません。
言ってもいないことを勝手に決めつけることをやめましょう。

聖教の基準は宗派によって違うでしょうが、一致しているのは、親鸞聖人が書かれたものと認められている著書です。歎異抄は有名になりすぎたことと蓮如上人が書写されたものですし、それで聖教に入っているのでしょう。

私は、親鸞聖人が作られたと認められているのものを元として、内容が同じか違っているかで他を見るだけのことです。

No title

「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃・一一六)。
往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰った覚如上人は「他力か自力、水際たってない」ということか?




他力自力の水際・・・非常に大事なことなので、全文現代語訳お願いします。


No title

有難うございます。

>ついでに、帖外和讃は、親鸞聖人が作られたものかどうか不明

良かったです。下記説明してくだらるのですよね?



〇「超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり」(帖外和讃)


生死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫かは・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?

No title

和讃について何がわからないのかわからないです。
難しいところはありません。

覚如上人のお言葉については、すでにこのブログでも説明済みです。

日本語の使い方から説明しなければならなかったり、私はあなたの家庭教師ではないので、そのことくらいはわきまえるべきです。

Abcです

おはようございます、Abcです。

--- 以下引用
>〇「超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土に遊ぶなり」(帖外和讃)


生死・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫・・・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?


生死の凡夫かは・・・・・・・・・・・・・・・・どういう意味ですか?
--- 以上引用

ご提示されている和讃のうちご質問されているところが「生死の凡夫かは」にかぎっているのはどうしてなのでしょう?

「有漏の穢身」、「心は浄土に遊ぶ」などは理解されているということでよろしいでしょうか?

Abc

No title

ひたすら失礼な奴ですね。
質問ぜめにして答えられなくなったら勝利宣言が、親鸞会のパターン。

教えを請う気などさらさらないんだよね

No title

>和讃について何がわからないのかわからないです。
>難しいところはありません。


われら(超世の悲願ききしよりの)は生死の凡夫かは・・・生死の凡夫ではない

相違ありませんか?

No title

ここは、高森会長でも正しく答えるところ。

何が難しいのかさっぱり分からない。

No title

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

(中略)

さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。(『執持鈔』)

(中略)の中の

生死のはなれがたきをはなれ・・・・・・・・死後ですね?


>と仰った覚如上人は「他力か自力、水際たってない」ということか?

他力自力の水際を説かれた覚如上人のお言葉の意味わからなく、

元会員さんも他力自力の水際あきらかに出来ない、ということですか?

かは…疑問または反語の係助詞
この場合、生死の凡夫であろうか、いや、凡夫ではない、となります。

和讃は本願寺などから書籍が出ています。
富山往復の交通費より余程安いですよ。

No title

No title

>和讃について何がわからないのかわからないです。
>難しいところはありません。


われら(超世の悲願ききしよりの)は生死の凡夫かは・・・生死の凡夫ではない

相違ありませんか?


2018-08-23(10:57) :
URL :
編集

No title

ここは、高森会長でも正しく答えるところ。
・・・・高森会長は何と答えたのですか?

〇ここは、の「ここ」とは「われら(超世の悲願ききしよりの)は生死の凡夫かは」・・の事ですか?


何が難しいのかさっぱり分からない。・・・・・大悲の願船のったら生死の凡夫か生死の凡夫でないのか・・・という問い(難しくありません)



2018-08-23(11:03) :
元学徒 URL :
編集

No title

>かは…疑問または反語の係助詞
>この場合、生死の凡夫であろうか、いや、凡夫ではない、となります。

>和讃は本願寺などから書籍が出ています。

ありがとうございます。


>この場合、生死の凡夫であろうか、いや、「生死の」凡夫ではない、となります。

ということに相違ありませんか?

凡夫ではない、というと死んで仏となった事と読めるので
「生死の」凡夫ではない、と書き加えました。

相違ありませんか?

No title

>他力自力の水際を説かれた覚如上人のお言葉の意味わからなく、

>元会員さんも他力自力の水際あきらかに出来ない、ということですか?

何これ?
キミは関連箇所読んだの?

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1157.html

決めつけ、レッテル貼り、嘘、誤魔化しのオンパレードが親鸞会。

法論をしたいならいつでも受けるし、教えを請うなら教えるが、
キミは挙げ足を取りたいだけ。学ぶ姿勢が全く感じられない。
今までコメントして教えたことを無きものとしている。

くだらないコメントに付き合わないよ。

もう一度言う、法論ならいつでも受けるし、教えを請うなら教える。

キミはどちらでもないから、相手にしない。

以上

No title

肝心の何を「聞く一つ」が書かれていない淳心房&しゃあさん

他力か自力、水際を明確にしない淳心房&しゃあさん


No title

>他力か自力、水際を明確にしない淳心房&しゃあさん

本音が出た。

キミとの「法論」は、キミの惨敗だということは知っておきたまえ。
キミの出した根拠が全て勘違い、曲解だった、なぜなら、キミは私の反論に何一つ答えることができなかったから。

「ノーエ節 」

ども、林遊@なんまんだぶです。

コピペ( Copy and Paste)で(添付)というのが気になっていたのですが、高森親鸞会の添付指示で一会員が「新人太郎」風の質問攻めで相手を疲弊させようとした作戦かな(笑

通仏教では「信解行証」(信じて解して行じて証する)といいますが、「信は道の元とす、功徳の母なり」p.238 という説く人に信がない人には何を言っても無益です。

これを蓮如さんは、

されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。p.1158

と、無宿善の人に浄土真宗の法を説くことを誡められたのでした。

 富士の白雪ゃ朝日で溶ける
  凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
   とけよとけよというよりも
   晴れたお慈悲を聞きほれる

などと越前の先達は言っていましたが、私の心に信心があるかないかに着目するよりも私を助ける法に着目すべきなのでした。
私の疑心を晴らそうとするよりも、必ず済度するという「若不生者 不取正覚」と、自らのさとりと衆生の救いを生仏一如に誓われた第十八願に着目すべきなのでした。
もっとも高森親鸞会では「若不生者 不取正覚」を衆生に信心を生じせしめる願だというのでした。
で、信心を得た者がいないという現実に対処するために、阿弥陀仏はいったん仏のさとりを捨てると高森顕徹氏は言うそうですが、あほですか(笑
ともあれ、高森親鸞会の人はこころの余裕が無くて、「ノーエ節 」を聞いたことがないのだろけど、「野毛節」を紹介しておく。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
https://www.youtube.com/watch?v=LMwGqP9Jsw4

No title

結局、悔しくて頭に血が上っただけだったのですかね。
教えを乞うふりをするという卑しい態度も高森会らしいです。
信心決定したい人はもうあらかた高森学徒を辞めて、自分が何を言っているのかも分からないようなのしか残っていないということかな。

Re:無知蒙昧の徒さん

こんばんわ、Abcです。

>信心決定したい人はもうあらかた高森学徒を辞めて、自分が何を言っているのかも分からないようなのしか残っていないということかな。

少し違いますね。修正するとしたならば、

信心決定したい人はもうあらかた除名処分を受けて、自分が何を言っているのかも分からないようなのしか残っていないということかな。

ですね。近藤元講師も深松元講師もいない以上もう何もないでしょう。

Abc

No title

こんばんは。Abcさん。
そういう見方もありましょう。
もはや高森親鸞会は衰退する一方です。
ただ、真面目な心を持ってひっそり活動していた末端会員もいる(いた)かと思っています。そういう人が決して日の目を見ないのも高森会の特徴です。
派手な立ち回りをするサイコパスは脚光を浴びて会の中で出世していきます。
私としては、誰にも認められることも無く地道に努力していた末端会員こそ、早く(ひっそりと)脱会して本当の仏法に出会って欲しいと思っています。

他力自力の水際

こんばんわ、Abcです。

>他力自力の水際

この言葉が数多く出てきているので、『親鸞のお手紙』より、簡単に記しておきます。
 (本当にカンタンにであり、単語しか記さないこともあるので、気にかかったところは別途しるしてください)

・他力

 『笠間の念仏者の疑ひとはれたる事』 (『真宗聖典』p630)
「他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」

 『自然法爾の事』 (『真宗聖典』p633)
「法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。」

 『摂取不捨の事』 (『真宗聖典』p640)
「摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。」

・自力
 『笠間の念仏者の疑ひとはれたる事』 (『真宗聖典』p630)
「自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり」

 『自然法爾の事』 (『真宗聖典』p633)
「つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。」


名無しさんは、これでご納得いただけたでしょうか。
今まで私がしるしてきたことについて、一つたりとも質問がとわれていないのですが、そのままでしたら「沈黙は是なり」ということになりますが、よろしいでしょうか。

Abc

No title

勝手に創作しないでください

無碍の一道とは、念仏が仏になる唯一の道という意味。

何が絶対の幸福だよ、創作というより、創価学会のパクリだろうが

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>名号の功徳、その名号を聞と聞いた水際を、簡単に記せるAbcさんへ

権化の方と思わずにおれない。


〇〇〇〇〇〇

合掌 (名無しさんのメッセージ)

これは、名無しさんにほめられているのでyしょうか。どうなんでしょう。

 私の家柄は、元々13世紀ごろ下野国にて親鸞が説かれていたことを衆生にといており、その後文明年間(1468年ごろ)から伊勢国の方にお引越しをしました。

院号は「無量寿院」 山号は「高田山」 寺号は「専修寺」と申し、現在までかれこれ790年余り伝えてまいりました。 大谷の本拠地「大谷山 本願寺」は本来の名前を「久遠実成 阿弥陀本願寺」と申し、この「本願寺」の前の名前が『映画 なぜ生きる』のガイドブック にも記されております、「専修寺」であります。

 すこし話が変わりますが、伊勢国に引越しを行った際、蓮如さんからは「なぜ、よりにもよって天照の膝元に・・・」といわれたものであります。
 私はこのときもそうですが、「万の神祇冥道蔑り奉ること、ゆめゆめあるべからず」という親鸞のいわれたことを「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」のように「よきひとの仰せ」としてきいております。

 名無しさんも、どうか「弥陀の誓い」を聞かれていただきたいとただただおもうばかりであります。

なもあみだ なもあみだ

平成参拾歳 葉月弐拾五日 真宗高田派 布教使
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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