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他力自力の水際

現在当ブログの複数の記事に愚かなコメントが延々と投稿されています。それに対して元学徒さん、Abcさん、林遊@なんまんだぶさん、その他多くの方々が応じて下さっています。ありがとうございます。しかし彼の人物は揚げ足取りに躍起になり、質問攻めにして困らせる、高森教の邪義をまき散らすことしか頭に無いようです。

さて、コメントの中で

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肝心の何を「聞く一つ」が書かれていない淳心房&しゃあさん
他力か自力、水際を明確にしない淳心房&しゃあさん
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というのがありましたので、これには触れておきたいと思います。愚かな人物は当ブログの記事をほとんど読まない(読めない?)でコメントを書き連ねているので困ったものですが、まずは何を「聞く一つ」なのかから。

聞其名号 信心歓喜 乃至一念『大無量寿経』
その名号(第十七願で誓われた名号)を聞く。

それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。『大無量寿経』
かの仏(阿弥陀仏)の名号を聞く。

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「行文類」
阿弥陀仏の願力を聞く。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」
仏願の生起本末を聞く。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。『一念多念証文』
本願の名号を聞く。本願を聞く。

「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。『御文章』3帖目6通
南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらく。

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。『御文章』5帖目9通
ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞く。

ということで、親鸞会の大好きな「因果の道理」とか、彼の人物が出して喜んでいる「七仏通戒偈」などを聞くのではありません。勿論、「因果の道理」の結論であるという「廃悪修善」をやれという話を聞くのでもなければ、「19願、20願をせよ」という高森会長の邪説を聞くのでもありません。

17願を18願に含めて「18願一つ聞く」、「本願の名号一つ聞く」、「南無阿弥陀仏の六字のいはれ一つ聞く」ということです。18願というのはどのようなものかと言えば、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。『末灯鈔』12通

とあるように「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いだと親鸞聖人は仰っています。彼の人物の説なので浄土宗が本願をどう説明しているか詳しくは知りませんが、「念仏を称える者を浄土に迎える」というのは現在の浄土宗のみの言うことではないのです。親鸞聖人のお言葉を否定するならそれまでですが、そんな者は「親鸞学徒」とか名乗る資格は全く無いので、今から「高森教徒」に名称変更しましょう。

それで、親鸞聖人は「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いを深く信じて称えなさいと仰せです。これも愚かな人物は誤解しているでしょうが、「ふかく」は他力を顕します。つまり「他力(真実)信心で念仏しなさい」と仰っているわけです。


ここから次の他力、自力の水際と関連していきますが、何が自力で何が他力かということはAbcさんがコメントされているお言葉をよくお読み下さい。念仏を自分の功徳のように思い、これを称えて浄土へ往生しようというのを「自力」と言います。釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにこちらで勝手に混ぜ物を加えて、本願をあれこれ計らっている。これを「自力」と言います。善をしなければとか、横の線の道を進まなければとか、我々に19願、20願が必要とかというのは自力の典型例です(正確には自力以前の問題ですが・・・)。

他力」とは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。自力の計らいを離れ、本願のはたらき、名号のはたらきを疑いなく信じたこと、計らいなく受け容れたことです。阿弥陀仏の「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いをそのまま受け容れて称える。これが他力の称名念仏です。念仏は本願のはたらきがそのまま出てくるというのが浄土真宗の教えで、これを「自然法爾」と言われます。

自力の計らいは自分で捨てようと思って捨てられるのではなく、他力を聞く、真実なる誓願を聞くところに廃るのですから、我々は兎にも角にも本願、本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のこころをよくお聞かせ頂くことが大事なのです。親鸞聖人によれば、南無阿弥陀仏とは

本願招喚の勅命

ですから、「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と喚んでおられる声です。また

如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心

ですから、他力回施の大慈悲心です。我々は真実の心も、清浄の心も、疑いの雑じらない真実の信楽も、清浄の信楽も、真実の回向心も清浄の回向心も、何一つ持ち合わせていません。それで阿弥陀仏は

至心信楽 欲生我国

とお誓いになり、それを南無阿弥陀仏の名号と成就してお与え下さるのです。こうした「仏願の生起本末」を聞いたなら、もう我々の計らいは要らんでしょう。ただ誓いの名号におまかせするばかりです。ただ如来の御誓いにおまかせするばかりです。これを覚如上人は『執持鈔』に

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

と仰っているわけですよ。それを「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことが他力の信心」などとうそぶいているのが高森会長です。二種深信の誤解と真宗の無知から来る甚だしい誤りです。『執持鈔』の続きには

・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず


とあるように、後生が浄土か地獄か、善い所へ生まれるか悪い所へ生まれるか、我々の側でハッキリこうだと定めることはできないのです。後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。これが

自力をすてて他力に帰するすがたなり

と仰っているでしょう? 高森教徒は高森会長の言葉のみを信じる連中ですから、善知識方のお言葉が目に入らない、耳に入らないと見えます。これが「無眼人、無耳人」ということの正しい意味です。


・後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。
・たとえ地獄だろうと法然聖人や親鸞聖人と同じ所へ生まれると心得る。
・自力の行では出離はかなわず悪道に堕するよりないのだから、念仏して地獄へ堕ちても後悔ない。


このように心が定まっているかどうか、それが他力自力の水際です。これに文句があれば、とりとめのない下らないコメントをグダグダ書き連ねていないで『執持鈔』の正しい解釈をしてみなさい。

それを邪義に冒されて、「ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業」と縦の線を指して連呼し、どこが決勝点か、どこがゴールか、どこが卒業か全くもってあいまいな高森会長の他力自力の水際の話を聞いて、分かったつもりになって喜んでいるのが彼の人物始め親鸞会会員です。

高森教徒が聞いているのは親鸞聖人の教えではなく、親鸞聖人のお言葉を利用した高森会長の教えです。なので、他力自力の水際どころか、外道か仏教かという問題です。そういう外道の教えを受けている輩には、今まで説明してきた他力自力の水際は分からないでしょうが、答えるものには答えておきました。反論があれば、きちんとした文章で、聖教の根拠も添えてして下さい。また、名無しでは他の方と区別がつかないので、適当にハンドルネームを決めてコメントして下さい。


下らないコメントに付き合って下さっている皆様、本当にありがとうございます。重ねて感謝申し上げます。
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非公開コメント

ご苦労さまです。

淳心房さま、ご苦労さまです。
名無しさんの質問は、揚げ足取りだとしても、淳心房さんが 書いてくださる 親鸞聖人のお言葉を、たくさんの皆さんが読まれて、気づかれる方が いらっしゃると思います。
名無しさんも 南無阿弥陀仏のおはたらきの中で その役目を果たされているのかと思います。
名無しさんにも、早く気づいていただきたいですねー。

南無阿弥陀仏

有り難うございました

大変有り難いお話でした。
一人の先生に目を向けるのではなく、阿弥陀仏にしっかりと向かい「本願の名号を聞く」ということがわかりました。
私たちをお救いになるのは阿弥陀仏お一人ですから。

高森教の信者は「短冊教学の学徒」ですから、上の文章をまともに読んで理解しようともせずに文章を切り刻み、自分の短冊と照らし合わせて、何か書こうとするのでしょうね。理解ではなく単なる照合作業をずっとして来た人たちですね。

前回のだらだらとした書き込みでこちらのブログを拝見している心ある人はみな、笑いながら呆れていますよ。だらだらと書けば書くほど逆効果です。「名無しさん」、今後は止めましょうよ。

No title

お久さですw

どこぞのブログにもうご法話には行かない!とか書きましたけど、先日RCさんに駄々をこねて車出してもらってお寺でお聴聞してきました。
以前の俺ならもうスッパリ縁を切ってたところですが、阿弥陀さまは一度摂取して下さったら決して捨てられない方なので、どんなに凹んでても辛くても、常に阿弥陀さまは一緒だなぁと最近は特に思います。

気が向いたら阿弥陀さまに連れられてまたお聴聞しに行くこともあるでしょうし、淳心房さんともまたどっかのご法話会場で会えたらなぁとか思ってます。

名無しさんの書き込みは真宗教義に詳しくない方が読んでも誠意のない荒らしにしかみえないと思うので、結果的に会員さんが辞める縁になってると思います。
実際、そういう方も知ってますし。

まだまだくっそ暑い日が続きますので、お仕事、無理しない程度に頑張って下さいね。

南無阿弥陀仏




Abcです

こんばんわ、Abcです。

リンクありがとうございます。これでもなお、「水際が説かれていない」と言われるのでしたら、どうしようもありません。

そして、付け足しとして「私が引用した箇所」と「淳心房さんが記された箇所」の対応も載せておきます。

・他力 (18願 横超の機)
 他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。 (『笠間の念仏者の疑ひとはれたる事』)

 →至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生す(不体失往生)

 → 『愚禿抄』の 「(1)」と記してあるところ

・自力 (19・20願 竪出・横出・竪超の機)
 自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり(『笠間の念仏者の疑ひとはれたる事』)

 →臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず (体失往生)

 →『愚禿抄』の 「(2)」と記してあるところ


『愚禿抄』
頓教について、また二教・二超あり。

二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。 (2)

二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。 (1)

二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。 (2)

二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり (1)

※ 本来は「漸教の横出 竪出」、「頓教の横超 竪超」としなければならないのですが、「阿弥陀仏の教え」「それ以外(の教え)」としたために上表となっております。少々腑に落ちないかたがいらっしゃるでしょうが、どうかご容赦ください。

なもあみだ なもあみだ
Abc

コメント返信

RC様

> 名無しさんも 南無阿弥陀仏のおはたらきの中で その役目を果たされているのかと思います。

意外とそうかも分かりませんね。そのように思えるRCさんは素晴らしいです。


園児様

この口に称え聞こえる名号、南無阿弥陀仏の六字のこころを常にお聞かせ頂くことが大切です。教えを授ける知識が真の善知識ならいいですが、そうでない場合も多分にありますので、他の方の話を聞いてみる、本を読んでみるというのも時に必要です。

仰る通り高森教は「短冊教学」です。まず高森教と言う教えがあって、それに合う経典や聖教の言葉を切り貼りし、装飾して浄土真宗に見せかけているだけです。無常など、一部本当のことから入っていくので、聞く者はその後も全部本当だろうと勘違いしてしまうわけですね。

しかしもうお分かりのように、機の部分については勿論、法の部分については主要部分のほとんどがデタラメです。それに気が付かず、善と称した組織拡大活動、破邪顕正と称した誹謗正法を繰り返す彼らは本当に哀れ哀れです。


R1000様

RCさんは法を聞かす縁となる善知識というわけですね。素晴らしい。R1000さんに法を伝えにやってきた還相の菩薩かも分かりません。
RCさんは元気の無いR1000さんの言動を心配しておられましたよ。まぁ無理に言葉を飾って体面・体裁をよくする必要はありませんが、そういう御恩のある方にあまり心配をかけないであげて下さい(^ω^)

縁があればやがてお会いすることもあるでしょう。一緒に法を聞かせて頂き、お念仏を申して、共に浄土への道を歩みたいものですね。子供の手がかかる内は勉強も聴聞も思うように進みませんが、お念仏申して如来大悲の恩を感じつつ、これからも綴っていきたいと思います。

いつでも書き込みに来て下さい(^^♪ なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


Abc様

そうですね。私なりに、長くなり過ぎないように書いたつもりですが、これでも明らかにされていないと言われてしまったら・・・。その時は、名無しさんに文章を依頼して明らかにしてもらうしかないですね(笑)

最近は、Abcさんがお示し下さる「不回向の行」「自然法爾」「念仏成仏」の語が有り難くて・・・。五濁の世、煩悩具足で法の欠片もない我を見聞きする度に、この私が助かる道は念仏よりないと思わされます。

いつもありがとうございます。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

「他力の水際」

「他力の水際」

浄土真宗で「水際」という用語は、昭和時代に布教使の間でよく使われた用語です。お説教などでよく「水際」という言葉が使われていました。
他力と自力の水際とは、要するに「廃立(はいりゅう)」という宗学用語の言い換えです。
かっての高森顕徹氏も、「三重廃立」という造語(浄土真宗ではあまり用いない用語)で厳しく廃立を論じていたものです。高森顕徹氏はこの「廃立」という阿弥陀仏が衆生を済度する「法」を示す宗学用語を、個々人が「スッキリ、ハッキリ」する機の分斉に於いて語るから、訳の判らない会員の煩悩(絶対の幸福)を煽る異端となっていったのでしょう。
「廃立」という概念は、我々は何を「信」じ、何を「行」ずるかということをあらわす「名目」であって、わたくしの受け心をあらわす概念ではないのです。高森顕徹氏は意図的にこの概念を混淆することによって会員を混乱させてきたのでした。
これが「一念覚知」の高森親鸞会の異安心を生みだす背景であり、
山田行雄師の「現代における異義の研究」に、

>>>>>
 まず一念覚知の問題であるが、親鸞会の会員(信者)の信心獲得の告白を窺って見る。

四月十三日、私の信は全く驚くほどに決定しました。この時をもって私は先生の信界に対して全く一点の疑いも持たなくなった。(顕正新聞十二号・富山青年部長、大島清氏)
十一月八口午後三時五分、御仏壇のランカンの角で、銀の棒が五分置きにキラキラ光り輝いて下さった不思議なる体験をハッキリさせて頂きました。(絶対の幸福・上・五八・谷口春子女史)
昭和三十一年八月初めて尊い御法座にあわせていただきました。それからは尊い善知識高森先生を深く信じ、求道一すじに進ませていただいたのでございます。中略 そして翌年四月二十七日朝から如来の本願に救われました。(顕正新聞五号・滋賀県 大森ふみ子女史)
昭和四十三年四月三日。この目が私の第二の誕生日なのだ。中略 高森先生という方は何とすばらしい助産婦さんだ。亀井勝一郎なんて問題ではない。払をこんな見事に誕生させてしまったではないか。(人生の目的を知った・一三四・浅倉保氏)

等と示すごとく、大島氏の体験記をはじめ、みな「信心決定」の年月日を明記するのである。そして、その信心決定の状態を述べて、高森氏はその著『こんなことが知りたい』のなかで、

阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか、「一念の信心」とも仰言っています。中略 他力の信心を獲ると、火にさわったようにハッキリするものである。(こんなことが知りたい・三三)
https://goo.gl/zCGUXH
>>>>

とあるように、法義の「廃立」の論理と衆生の「機の受け心」を、意図的に混乱させてきたのが高森顕徹会の歴史だったのでしょう。所詮は高森顕徹という個人の思想(妄想)に立脚した組織であり、彼の一代で忘れられていく教団にでしか過ぎないのですが……

浄土真宗の信心は、私が堅く堅く思い固める「信」ではなく、本願力回向の信によって私の想いから解放される信なのでした。これが自力と他力の本当の「水際」なのでした。
ともあれ、専門的な宗学用語(仏教に於ける名目)を安易に理解して使用すると、高森顕徹氏のようになってしまうのかもです。(彼は本当に救われているのであろうか?)

「廃立」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%83%E7%AB%8B

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 専門的な宗学用語(仏教に於ける名目)を安易に理解して使用すると、高森顕徹氏のようになってしまうのかもです。

助言を頂きありがとうございます。この度は彼の人物が「他力自力の水際」という語を遣い、それでいて高森会長が「他力自力の水際」を講演において正しく説きませんので、自力とは何か、他力とは何かを聖教上で示したかったのでした。以後、注意していきたいと思います。

それにしても、このように非難されてからは獲信時の年月日時を言わないようにと通達があり、「宿善を積め」という教えが非難されてからは「宿善を積め」と言わないようにと通達がありました。外部からの非難によって教義を修正、変更しているのが親鸞会です。高森会長一代の内にコロコロ変わってしまう教えが真実なわけないでしょうに、未だに信じている会員が哀れでなりません。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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