他力自力の水際
現在当ブログの複数の記事に愚かなコメントが延々と投稿されています。それに対して元学徒さん、Abcさん、林遊@なんまんだぶさん、その他多くの方々が応じて下さっています。ありがとうございます。しかし彼の人物は揚げ足取りに躍起になり、質問攻めにして困らせる、高森教の邪義をまき散らすことしか頭に無いようです。
さて、コメントの中で
********************
肝心の何を「聞く一つ」が書かれていない淳心房&しゃあさん
他力か自力、水際を明確にしない淳心房&しゃあさん
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というのがありましたので、これには触れておきたいと思います。愚かな人物は当ブログの記事をほとんど読まない(読めない?)でコメントを書き連ねているので困ったものですが、まずは何を「聞く一つ」なのかから。
・聞其名号 信心歓喜 乃至一念(『大無量寿経』)
その名号(第十七願で誓われた名号)を聞く。
・それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。(『大無量寿経』)
かの仏(阿弥陀仏)の名号を聞く。
・「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(「行文類」)
阿弥陀仏の願力を聞く。
・しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(「信文類」)
仏願の生起本末を聞く。
・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『一念多念証文』)
本願の名号を聞く。本願を聞く。
・「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(『御文章』3帖目6通)
南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらく。
・当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。(『御文章』5帖目9通)
ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞く。
ということで、親鸞会の大好きな「因果の道理」とか、彼の人物が出して喜んでいる「七仏通戒偈」などを聞くのではありません。勿論、「因果の道理」の結論であるという「廃悪修善」をやれという話を聞くのでもなければ、「19願、20願をせよ」という高森会長の邪説を聞くのでもありません。
17願を18願に含めて「18願一つ聞く」、「本願の名号一つ聞く」、「南無阿弥陀仏の六字のいはれ一つ聞く」ということです。18願というのはどのようなものかと言えば、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(『末灯鈔』12通)
とあるように「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いだと親鸞聖人は仰っています。彼の人物の説なので浄土宗が本願をどう説明しているか詳しくは知りませんが、「念仏を称える者を浄土に迎える」というのは現在の浄土宗のみの言うことではないのです。親鸞聖人のお言葉を否定するならそれまでですが、そんな者は「親鸞学徒」とか名乗る資格は全く無いので、今から「高森教徒」に名称変更しましょう。
それで、親鸞聖人は「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いを深く信じて称えなさいと仰せです。これも愚かな人物は誤解しているでしょうが、「ふかく」は他力を顕します。つまり「他力(真実)信心で念仏しなさい」と仰っているわけです。
ここから次の他力、自力の水際と関連していきますが、何が自力で何が他力かということはAbcさんがコメントされているお言葉をよくお読み下さい。念仏を自分の功徳のように思い、これを称えて浄土へ往生しようというのを「自力」と言います。釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにこちらで勝手に混ぜ物を加えて、本願をあれこれ計らっている。これを「自力」と言います。善をしなければとか、横の線の道を進まなければとか、我々に19願、20願が必要とかというのは自力の典型例です(正確には自力以前の問題ですが・・・)。
「他力」とは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。自力の計らいを離れ、本願のはたらき、名号のはたらきを疑いなく信じたこと、計らいなく受け容れたことです。阿弥陀仏の「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いをそのまま受け容れて称える。これが他力の称名念仏です。念仏は本願のはたらきがそのまま出てくるというのが浄土真宗の教えで、これを「自然法爾」と言われます。
自力の計らいは自分で捨てようと思って捨てられるのではなく、他力を聞く、真実なる誓願を聞くところに廃るのですから、我々は兎にも角にも本願、本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のこころをよくお聞かせ頂くことが大事なのです。親鸞聖人によれば、南無阿弥陀仏とは
本願招喚の勅命
ですから、「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と喚んでおられる声です。また
如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心
ですから、他力回施の大慈悲心です。我々は真実の心も、清浄の心も、疑いの雑じらない真実の信楽も、清浄の信楽も、真実の回向心も清浄の回向心も、何一つ持ち合わせていません。それで阿弥陀仏は
至心信楽 欲生我国
とお誓いになり、それを南無阿弥陀仏の名号と成就してお与え下さるのです。こうした「仏願の生起本末」を聞いたなら、もう我々の計らいは要らんでしょう。ただ誓いの名号におまかせするばかりです。ただ如来の御誓いにおまかせするばかりです。これを覚如上人は『執持鈔』に
かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
と仰っているわけですよ。それを「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことが他力の信心」などとうそぶいているのが高森会長です。二種深信の誤解と真宗の無知から来る甚だしい誤りです。『執持鈔』の続きには
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
とあるように、後生が浄土か地獄か、善い所へ生まれるか悪い所へ生まれるか、我々の側でハッキリこうだと定めることはできないのです。後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。これが
自力をすてて他力に帰するすがたなり
と仰っているでしょう? 高森教徒は高森会長の言葉のみを信じる連中ですから、善知識方のお言葉が目に入らない、耳に入らないと見えます。これが「無眼人、無耳人」ということの正しい意味です。
・後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。
・たとえ地獄だろうと法然聖人や親鸞聖人と同じ所へ生まれると心得る。
・自力の行では出離はかなわず悪道に堕するよりないのだから、念仏して地獄へ堕ちても後悔ない。
このように心が定まっているかどうか、それが他力自力の水際です。これに文句があれば、とりとめのない下らないコメントをグダグダ書き連ねていないで『執持鈔』の正しい解釈をしてみなさい。
それを邪義に冒されて、「ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業」と縦の線を指して連呼し、どこが決勝点か、どこがゴールか、どこが卒業か全くもってあいまいな高森会長の他力自力の水際の話を聞いて、分かったつもりになって喜んでいるのが彼の人物始め親鸞会会員です。
高森教徒が聞いているのは親鸞聖人の教えではなく、親鸞聖人のお言葉を利用した高森会長の教えです。なので、他力自力の水際どころか、外道か仏教かという問題です。そういう外道の教えを受けている輩には、今まで説明してきた他力自力の水際は分からないでしょうが、答えるものには答えておきました。反論があれば、きちんとした文章で、聖教の根拠も添えてして下さい。また、名無しでは他の方と区別がつかないので、適当にハンドルネームを決めてコメントして下さい。
下らないコメントに付き合って下さっている皆様、本当にありがとうございます。重ねて感謝申し上げます。
さて、コメントの中で
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肝心の何を「聞く一つ」が書かれていない淳心房&しゃあさん
他力か自力、水際を明確にしない淳心房&しゃあさん
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というのがありましたので、これには触れておきたいと思います。愚かな人物は当ブログの記事をほとんど読まない(読めない?)でコメントを書き連ねているので困ったものですが、まずは何を「聞く一つ」なのかから。
・聞其名号 信心歓喜 乃至一念(『大無量寿経』)
その名号(第十七願で誓われた名号)を聞く。
・それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。(『大無量寿経』)
かの仏(阿弥陀仏)の名号を聞く。
・「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(「行文類」)
阿弥陀仏の願力を聞く。
・しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(「信文類」)
仏願の生起本末を聞く。
・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『一念多念証文』)
本願の名号を聞く。本願を聞く。
・「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(『御文章』3帖目6通)
南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらく。
・当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。(『御文章』5帖目9通)
ただ南無阿弥陀仏の六字のこころを聞く。
ということで、親鸞会の大好きな「因果の道理」とか、彼の人物が出して喜んでいる「七仏通戒偈」などを聞くのではありません。勿論、「因果の道理」の結論であるという「廃悪修善」をやれという話を聞くのでもなければ、「19願、20願をせよ」という高森会長の邪説を聞くのでもありません。
17願を18願に含めて「18願一つ聞く」、「本願の名号一つ聞く」、「南無阿弥陀仏の六字のいはれ一つ聞く」ということです。18願というのはどのようなものかと言えば、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(『末灯鈔』12通)
とあるように「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いだと親鸞聖人は仰っています。彼の人物の説なので浄土宗が本願をどう説明しているか詳しくは知りませんが、「念仏を称える者を浄土に迎える」というのは現在の浄土宗のみの言うことではないのです。親鸞聖人のお言葉を否定するならそれまでですが、そんな者は「親鸞学徒」とか名乗る資格は全く無いので、今から「高森教徒」に名称変更しましょう。
それで、親鸞聖人は「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いを深く信じて称えなさいと仰せです。これも愚かな人物は誤解しているでしょうが、「ふかく」は他力を顕します。つまり「他力(真実)信心で念仏しなさい」と仰っているわけです。
ここから次の他力、自力の水際と関連していきますが、何が自力で何が他力かということはAbcさんがコメントされているお言葉をよくお読み下さい。念仏を自分の功徳のように思い、これを称えて浄土へ往生しようというのを「自力」と言います。釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにこちらで勝手に混ぜ物を加えて、本願をあれこれ計らっている。これを「自力」と言います。善をしなければとか、横の線の道を進まなければとか、我々に19願、20願が必要とかというのは自力の典型例です(正確には自力以前の問題ですが・・・)。
「他力」とは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。自力の計らいを離れ、本願のはたらき、名号のはたらきを疑いなく信じたこと、計らいなく受け容れたことです。阿弥陀仏の「念仏を称える者を浄土に迎える」という誓いをそのまま受け容れて称える。これが他力の称名念仏です。念仏は本願のはたらきがそのまま出てくるというのが浄土真宗の教えで、これを「自然法爾」と言われます。
自力の計らいは自分で捨てようと思って捨てられるのではなく、他力を聞く、真実なる誓願を聞くところに廃るのですから、我々は兎にも角にも本願、本願の名号である南無阿弥陀仏の六字のこころをよくお聞かせ頂くことが大事なのです。親鸞聖人によれば、南無阿弥陀仏とは
本願招喚の勅命
ですから、「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と喚んでおられる声です。また
如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心
ですから、他力回施の大慈悲心です。我々は真実の心も、清浄の心も、疑いの雑じらない真実の信楽も、清浄の信楽も、真実の回向心も清浄の回向心も、何一つ持ち合わせていません。それで阿弥陀仏は
至心信楽 欲生我国
とお誓いになり、それを南無阿弥陀仏の名号と成就してお与え下さるのです。こうした「仏願の生起本末」を聞いたなら、もう我々の計らいは要らんでしょう。ただ誓いの名号におまかせするばかりです。ただ如来の御誓いにおまかせするばかりです。これを覚如上人は『執持鈔』に
かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
と仰っているわけですよ。それを「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことが他力の信心」などとうそぶいているのが高森会長です。二種深信の誤解と真宗の無知から来る甚だしい誤りです。『執持鈔』の続きには
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず
とあるように、後生が浄土か地獄か、善い所へ生まれるか悪い所へ生まれるか、我々の側でハッキリこうだと定めることはできないのです。後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。これが
自力をすてて他力に帰するすがたなり
と仰っているでしょう? 高森教徒は高森会長の言葉のみを信じる連中ですから、善知識方のお言葉が目に入らない、耳に入らないと見えます。これが「無眼人、無耳人」ということの正しい意味です。
・後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせする。
・たとえ地獄だろうと法然聖人や親鸞聖人と同じ所へ生まれると心得る。
・自力の行では出離はかなわず悪道に堕するよりないのだから、念仏して地獄へ堕ちても後悔ない。
このように心が定まっているかどうか、それが他力自力の水際です。これに文句があれば、とりとめのない下らないコメントをグダグダ書き連ねていないで『執持鈔』の正しい解釈をしてみなさい。
それを邪義に冒されて、「ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業」と縦の線を指して連呼し、どこが決勝点か、どこがゴールか、どこが卒業か全くもってあいまいな高森会長の他力自力の水際の話を聞いて、分かったつもりになって喜んでいるのが彼の人物始め親鸞会会員です。
高森教徒が聞いているのは親鸞聖人の教えではなく、親鸞聖人のお言葉を利用した高森会長の教えです。なので、他力自力の水際どころか、外道か仏教かという問題です。そういう外道の教えを受けている輩には、今まで説明してきた他力自力の水際は分からないでしょうが、答えるものには答えておきました。反論があれば、きちんとした文章で、聖教の根拠も添えてして下さい。また、名無しでは他の方と区別がつかないので、適当にハンドルネームを決めてコメントして下さい。
下らないコメントに付き合って下さっている皆様、本当にありがとうございます。重ねて感謝申し上げます。
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