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彼の人物へのコメント返信 及び 悔い無き選択を

相変わらず愚かな人物からのコメントが来ています。私は現時点でこの人物が誰か見当がつきません。ただ書き込みの内容から憶測して親鸞会会員と思われるので「親鸞会会員と思しき」と言っています。おいコメント主、この記事読んでるか? 読んでたら親鸞会会員かどうかくらい教えてくれ。そうしたらハッキリすることだから。

別に偽ってもいいけど、それは「妄語」だからな。「妄語」は善か悪か、それくらい区別つくよな? その報いは他でもない自分が受けていかないといけないんだから、そんな事でしょうもない嘘つくなよ?


さて、今回も彼の人物のコメントにツッコミを入れてみたいと思います。

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因果の道理を説く釈迦の教えがわからなければ「無碍の一道」もわかりません。
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⇒おいおい、因果の道理、廃悪修善って連呼する割に、親鸞会は廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例ばかりじゃないか。今パッと思いつくものだけでも結構あるぞ。

・大学での偽装勧誘(正体を隠した勧誘)
・高森会長の、大沼法竜師の著書の剽窃問題
・高森会長の息子の不倫疑惑事件
・会員を総動員しての、高森会長の著書の偽装ベストセラー、映画の偽装ロングヒット
・本願寺への法要妨害
・「あれで会計報告のつもりか」と言わざるを得ない、あいまいな会計報告
・お布施を流用して会館や病院に豪華な一族専用スペースを建設
『親鸞会教義の誤り』への反論を依頼した特専部員へ不当な処遇を与えた上に除名
・高森会長が『飛雲』との公開法論に応じないまま6年以上経過


古くはこの記事にも書いているから参照してくれ。これらは善か悪か? 更に個々の会長や息子、講師部員や幹部会員の数々の言動を見ていったらキリがないし取り扱わないが、知ってる人は知ってるぞ。因果の道理とか廃悪修善とかと言うつもりなら、まず高森会長が過去の公約通り『飛雲』との公開法論に応じるよう貴方からも進言してくれたまえ。せめて公開法論くらい実現しないと親鸞会の因果の道理、廃悪修善は信用できない。

・善とは親鸞会にとって都合がよいこと
・悪とは親鸞会にとって都合が悪いこと

としか思えないのでよろしく。


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親鸞会で日々一生懸命やっている活動(真宗宗歌の心から、そうせずにおれない)

高森会長の「一心一向に弥陀に帰命せよ」のご説法を、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも負けず、聴きに来られる、

後で「私はこのように聴きましたが、あなたはどのように聴かれました?」という信心の沙汰をし、

聞法善をする、

善き法の友の仲間入りし、

お布施https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BDをする、

「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)、

煩悩あるままで、廃悪修善につとめる

弥陀の願心によって横の線の道を進んで

「絶対の幸福」=「大安心、大満足」=「信楽」=「無碍の一道」

の大悲の願船に乗せていただけるまで聞法精進する。

すなわち、これ他力の念仏道=弥陀の願心による道=釈迦の教えによる道=七高僧の教えによる道=親鸞聖人のみ教え

********************

⇒はいはい、いつもの高森教ね。全く経典や聖教の根拠が無いんだが。「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を示してくれ。

いくら貴方がもっともらしいことを申されても、経典にないことでは仏教ではありません!

よく聞いてるセリフだろ? 間違いだらけのアニメだけど、珍しくこのセリフは正しい。そういえば以前の記事で、「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を求めたはずだが。無いのなら、創価学会のパクリ、高森教ということで決着だ。有るのなら、すぐ示してくれ。無常は迅速、生死は一大事、だろ?



浄土真宗には、高森教の説くような因果の道理や、獲信・往生のために廃悪修善を実践せよという教えはありません。浄土真宗とは何を教えたものか。それは「教文類」に明らかなように往相、還相の二種の回向です。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

往相とは「往生浄土の相状の意。衆生が浄土に生れゆくすがた」で、それは阿弥陀仏からの回向によるんだと教えられたのが浄土真宗です。その往相の回向について「真実の教行信証あり」。真実の教行信証によって私達は浄土に往生させて頂くんだということです。じゃあ真実の教行信証って何かと言ったら、

真実の教 - 大無量寿経
真実の行 - 無碍光如来の名を称する(念仏一行)
真実の信 - 至心・信楽・欲生(本願力回向の信心)
真実の証 - 利他円満の妙位、無上涅槃の極果


です。これらを全て回向されるというのが浄土真宗です。弥陀の正覚と衆生の往生は同時に誓われており、弥陀の正覚は既に成就している。ではなぜ衆生は往生しないのかと言うと、衆生がそれを領受していないから。私達はこの道理を領受することが必要なので、こうした如来の回向を聞かせて頂く、いわゆる聴聞ということが勧められるのです。

この真実の教行信証の中に、因果の道理をよく知れとか、廃悪修善の実践をせよとか、どこかありますか? そう、無いんですよ。真実の教行信証は如来の回向、本願力の回向によるものだから、我々の計らいは要らないんだ、我々の方から回向することは何も無いんだ、としか教えられていません。

もう我々の救いは南無阿弥陀仏と仕上がっています。もはや我々のすることは何も無いのです。強いて言えば、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて領受することです。南無阿弥陀仏の名号を心に受けたのが信心、それが口に出れば念仏で、名称こそ違いますが全て南無阿弥陀仏のはたらき以外の何物でもありません。

この如来の回向、本願力の回向を聞かせて頂くのを聴聞とか聞法と言いますが、それを自分の修した善のように聞法善などと言うことはありません。また、聞法善とやらを積み重ねて救われる、あるいは聞法善をしていくことで救いに近づくということもありません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

これは念仏を己の善根として、これを称えて往生しようとする者は報土往生できないことを述べられたものですが、親鸞会ではこの中の「本願の嘉号」が「聞法善」に変化しただけです。ただ、正しい真宗が説かれているならばまだいいのですが、聞く内容が高森教なので、その結果は報土どころか、化土どころか、悪道です。最悪、彼らが言うように「必堕無間」というのもあながち間違いではないかも知れません。


このように親鸞会では本願力の回向に対して自力の命がけの聞法善というように救いへのベクトルも違えば、真実の教行信証に対して方便の教行信証とも言い難い高森の教行信証を授けられますから、そんな教えをまともに信じていて真実の信真実の証が獲得できっこないことは火を見るよりも明らかです。

真実の証は、真実の教に説かれる真実の行真実の信によって得られます。真実の行も、真実の信も、共に南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏のはたらき一つで報土往生を遂げるのだから、私達は誓いの名号、本願をふかく信じて、つまり真実の信心で念仏しなさいと、こう教えられたのが浄土真宗です。聖人は、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

とお示しになっています。因果の道理をよく知れとか廃悪修善をやれとか、そんな勧めはどこにもありません。

親鸞聖人のお言葉を選ぶか、高森会長の言葉を選ぶか、あるいはどちらも選ばず別の選択肢を選ぶか。選択権は一人一人にあります。最後は自分の選択です。悔いの残らない方を自分で選んで頂きたく思います。
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Abcです

こんにちは、Abcです。

 今回も、淳心房さんが示された「往相、還相の二種の回向」、「真実の教行信証」について、『親鸞の著書』を通してお伝えできたらと考えております。

・往相、還相の二種の回向

報土因果顕誓願 往還回向由他力 正定之因唯信心 (『正信念仏偈』より)
 報土の因果は誓願であると顕され、 (すなわち「他因他果」の因果であるとされる ゆえに、「これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。」(『教行証 行巻』より)とも記される。)

 往還、二種の回向もまた他力に由る。
→このことは別書『如来二種回向文』に詳しく記されている。以下には、「結論」の部分だけ抄出するが、全文をご覧になりたい場合は、リンク先を参照していただきたい。
 「等正覚と申すは、補処の弥勒菩薩とおなじからしめんと誓ひたまへるなり。これらの選択本願は、法蔵菩薩の不思議の弘誓なり。しかれば真実信心の念仏者は、『大経』(下)には「次如弥勒」とのたまへり。これらの大誓願を往相の回向と申すとみえたり。

 これは如来の還相回向の御ちかひなり。これは他力の還相の回向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。よくよくこの選択悲願をこころえたまふべし。」
参照 : http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A6%82%E6%9D%A5%E4%BA%8C%E7%A8%AE%E5%9B%9E%E5%90%91%E6%96%87

・ 真実の教行信証

真実の教 - 大無量寿経
 「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」(『教行証』教巻 標挙)

真実の行 - 無碍光如来の名を称する(念仏一行)
真実の信 - 至心・信楽・欲生(本願力回向の信心)

 「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。」(『末灯抄 信行一念』より)

真実の証 - 利他円満の妙位、無上涅槃の極果

 「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。」『教行証』証巻 標挙)

 「成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」(『正信念仏偈』より)
  訳:等覚と成らせていただき証大涅槃をえるのは 必至滅度願(11願)も成就せられたからである


と色々しめしました。あと、
>因果の道理を説く釈迦の教えがわからなければ「無碍の一道」もわかりません。 (名無しさん のコメント)

といわれる通り、「釈迦の(説かれた)教え」を順を追って示しますと。

 「五濁悪時群生海 応信如来如実言」(『正信念仏偈』より)
訳 五濁悪時のひとびとは、釈迦如来(しゃかにょらい)の真実のお言葉を信じるべきである

  「釈迦如来の真実のお言葉」とは?
 「釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。」 (源空聖人『選択集 念仏付属章』より)

  「なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とは?

 この文にも記されているように「無量寿仏の名を持て」である。
親鸞は、「無量寿仏の名を持て」について、以下のように述べられている。

 「能念皆見化仏菩薩」と申すは、「能念」はよく名号を念ずとなり、よく念ずと申すはふかく信ずるなり。」(『尊号真像銘文 日本源空聖人真影』より)

 「「証大涅槃」と申すは、必至滅度の願(第十一願)成就のゆゑにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」と申すは、大涅槃なり。」(『尊号真像銘文 正信偈の文』より)

最後に示した、『尊号真像銘文 正信偈の文』は、「真実の証 - 利他円満の妙位、無上涅槃の極果」の箇所に記されている部分と全く同じものとなります。

 淳心房さんが以前のエントリーにしめした、

・往相回向 (おおもとは、18願)

教 : 『大無量寿経』
行 : 17願
信 : 18願
証 : 11願
化土 : 19、20願
報土 : 12、13願

・還相回向 (22願)

 というものもあります、(これは各標挙に沿ったものです)
名無しさん自らがいわれている「釈迦の教えがわからなければ」という箇所だけ観たならば尤もですが、詮ずるところそれは、「無量寿仏の名を持て」(「一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」)にほからならいのであります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re:名無しさん

こんばんわ、Abcです。

こちらに記すことは、単なる「反論文」でありますので
このコメントの1つ前のコメントに関してご質問ください。

>親鸞会で日々一生懸命やっている活動(真宗宗歌の心から、そうせずにおれない)

 では、真宗宗歌にございます、「六字のみ名を となえつつ 世の生業(なりわい)に いそしまん」の如く、「阿弥陀仏の尊さを心にもたれて 各々の生活を営む」ように生活ください。 「会長の為」等思いながら富山に行くことは乱暴な言い方かもしれませんが「知識帰命」であります。「富山でしか信心決定できない」としたならば、真宗関係では井波の別院にいかなければなりません。
 阿弥陀さまは「あまねく十方を照らすかた」であります。私が生活している「その場所」もまた「阿弥陀さまにあわれる場所」であります。

>高森会長の「一心一向に弥陀に帰命せよ」のご説法を、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも負けず、聴きに来られる、

 さようでありますか。この箇所だけ聞きましたら尤もではありますが、「念仏ないから信心ひとつ」や「親鸞聖人は生涯「名号」のみを本尊とせられた」などとは、いわないでいただきたいです。確かに「木像にしがみついている私」も大概なのは認めますが、「善光寺とのつながり」を「高森の計らい」だけで両断するのはいかがかとおもいます。また当麻寺にございます「浄土変相図(絵像)」に対しての批判にもあたります。

>後で「私はこのように聴きましたが、あなたはどのように聴かれました?」という信心の沙汰をし、聞法善をする、

淳心房さんもご指摘されておりますが、「聞法善」と「わたしが行った善」をするのはいかがかと思います。以下に「善」に関連する書物を引用します。

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり(伝・唯円房『歎異抄』第8)

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。(覚如上人『口伝抄』 自力の修善と他力の仏智)

>善き法の友の仲間入りし、
お布施https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BDをする、

私は月々3000円で「正本尊」をお借りしておりましたが、聖教には以下のようにございます。

 「大師聖人(親鸞)の御自筆をもつて諸人に書き与へわたしまします聖教をみたてまつるに、みな願主の名をあそばされたり。いまの新義のごとくならば、もつとも聖人の御名をのせらるべきか。しかるにその義なきうへは、これまた非義たるべし。」(覚如上人『改邪抄』本尊ならびに聖教の外題のしたに、願主の名字をさしおきて...)

とございます。この「義」の通りであったならば、そこらで火にくべても問題なかったのですが、まえに「後で返す」といった人に対して夜中に玄関先で講師陣が泣き喚くということがございましたゆえ、私が去る際は規定に従って返納いたしました。

>「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)、

「本願招喚の勅命」というなら、過去にございました「上司の命は会長の命とこころえよ」とは申されないのではないでしょうか。

>煩悩あるままで、廃悪修善につとめる

正しくは「煩悩あるままで、称名念仏につとめる」です。先のコメントに記しました「念仏付属」がこれにあたります。

>弥陀の願心によって横の線の道を進んで

さきほど「善をおこなって」等と言われてたではないですか。間違えは間違えなりに主語を統一してください。これの反は覚如上人『口伝抄 自力の修善と他力の仏智』に当たります。

>「絶対の幸福」=「大安心、大満足」=「信楽」=「無碍の一道」
の大悲の願船に乗せていただけるまで聞法精進する。

ですから、それだけ豪語するのならば「絶対の幸福」の文証を顕してください。

>すなわち、これ他力の念仏道=弥陀の願心による道=釈迦の教えによる道=七高僧の教えによる道=親鸞聖人のみ教え

 「すなわち」とありますが、この「すなわち」より前の文が総じて一貫性がないために説得力がありません。「論説」にあるような、「ですから、よくよく聞かせていただきましょう」という定型文と同じ感じがします。

Abc

「因果の道理」という呪縛

「因果の道理」という呪縛

高森親鸞会の教義の根本は、「因果の道理」という自己責任を説く教義です。竪と横の線も、善の奨め(廃悪修善)も、絶対の幸福というタームも、会員の煩悩を煽り駆り立てる宗教テクニックに過ぎないのでした。
要するに他者を利用し己の名聞・利養をはかる狡猾な高森顕徹氏の宗教を使用した生活の手段なのでした。
特に悪質なのは、以下のように、

>********************
>因果の道理を説く釈迦の教えがわからなければ「無碍の一道」もわかりません。
>********************

としか思考できずに、因果の道理を超えた阿弥陀仏から回向される仏因・仏果という本願力回向の救済の論理を理解できない会員を増産してきたきたことでした。
それは、「絶対の幸福」という妄想の信心のエサを強調し、幾多の有意な若者を求道地獄へ叩き込んできたのでした。浄土真宗の求道は、私が修するのではなく、阿弥陀仏の「修因感果」である、なんまんだぶを受容することなのですが、自因自果の「因果の道理」に呪縛されている会員は、これが解らんのでした。

なお、ブログにツッコミするようなアクティブな会員は、園児さんが述べていたように、

>>>>
高森教の信者は「短冊教学の学徒」ですから、上の文章をまともに読んで理解しようともせずに文章を切り刻み、自分の短冊と照らし合わせて、何か書こうとするのでしょうね。理解ではなく単なる照合作業をずっとして来た人たちですね。
>>>>

であり、高森教で学んだ言葉を、高森顕徹氏の説く言葉との照らし合わせをしているだけですから、三行以上の文章は理解できません。
その意味では、どれだけお聖教の根拠を引用して説明しても説得は不可能だと思ふ。脱会者の方が述懐していましたが、高森親鸞会に所属していると日本語を理解する能力が無くなるのでしょう。そもそもお聖教の言葉の意味を学ぼうという発想がないのでした。これを世間では洗脳(brainwashing)といいます(笑
アイデンティティとは、自己の自由意思による自己を確立する要素のことであると云われますが、「因果の道理」という語に呪縛され「絶対の幸福」という高森教の妄想に支配されて方は、少しく真面目に脱会者の声に耳を傾けるべきだと思っていたりします。
ある意味では、高森親鸞会を脱会するということは、自己のアイディンティティの崩壊を招くのかもしれませんが、この意味を示す面白いブログを見つけました。
https://pontawa.hatenablog.com/entry/2018/08/23/173740

そのような意味に於いて、高森親鸞会の脱会者は親鸞会側からは「聞法の敗残者」とか「信仰の奇形児」と非難されるようですが、実は、阿弥陀仏の本願力回向のご法義は、このような「聞法の敗残者」や「信仰の奇形児」と揶揄される方へ、選択本願のなんまんだぶを領受した者は必ず浄土へ往生させるという大悲の目当てのまなざし(焦点を結ぶ)なのだと領解されたのが御開山親鸞聖人でした。

ともあれ、自業自得の「因果の道理」という呪縛に捉われている会員は、以下の『改邪鈔』17の文章を百回読んでみませう。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E6%92%A5%E7%84%A1

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

Abc様

ブログの記事への補足、彼の人物へのツッコミを頂きまして、ありがとうございます。

釈迦の教えとうるさい彼の人物には、以下のお言葉を100回は読むことを勧めたいです。

 「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。

 「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。

 「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。(唯信鈔文意)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%94%AF%E4%BF%A1%E9%88%94%E6%96%87%E6%84%8F

私達に授けて下さった釈迦の教えは「選択本願の名号を一向専修なれ」だと判ります。ちゃんと読めれば。



林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。「因果の道理」という呪縛の他にも、必堕無間の呪縛、高森顕徹会長及び上司の呪縛など、会員は様々な呪縛によってなんまんだぶの教法を聞けずにいます。

しかりといへども、弥陀超世の大願、十悪・五逆・ 四重・謗法の機のためなれば、かの願力の強盛なるに、よこさまに超截せられたてまつりて、三途の苦因をながくたちて猛火洞燃の業果をとどめられたてまつること、おほきに因果の道理にそむけり。もし深信因果の機たるべくんば、植うるところの悪因のひかんところは悪果なるべければ、たとひ弥陀の本願を信ずといふとも、その願力はいたづらごとにて、念仏の衆生、三途に堕在すべきをや。もししかりといはば、弥陀五劫思惟の本願も、釈尊無虚妄の金言も、諸仏誠諦の証誠も、いたづらごとなるべきにや。おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。いま報土得生の機にあたへまします仏智の一念は、すなはち仏因なり。かの仏因にひかれてうるところの定聚の位、滅度に至るといふは、すなはち仏果なり。この仏因仏果においては、他力より成ずれば、さらに凡夫のちからにてみだすべきにあらず、また撥無すべきにあらず。(改邪鈔)

特にこの部分を彼の人物始め会員には100回位読んでもらいたいですね。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

『業道経』

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土教に対する非難の多くは、阿弥陀仏の浄土を説く浄土教は「因果の道理」に反しているのではないかでした。悪をおかした者が救われるという道理は仏教の教理に反しているとして『業道経』を引いて〈業道は秤のごとし、重きものまづ牽く〉としてきたのでした。
これへの反論が『論註』の八番問答に於ける「十念念仏による業道の超越」でした。御開山は「信巻下」p.298で引文しておられます。道綽禅師も『安楽集』p.223で、この業道と十念の念仏について述べておられます。

後年、法然聖人はなんまんだぶを『選択本願念仏集』「本願章」で「勝劣義」(選択集 P.1207) と「難易義」(選択集 P.1208) として示され、念仏一行「のみ」によって凡夫が浄土に往生する意を明かされたのでした。

ところが高森親鸞会のような「自業自得、その理必然なり」とする廃悪修善の聖道門仏教側は、法然は「第六に浄土に暗き失」であるとして法然浄土教を非難したのでした。『興福寺奏状』の第六がそれです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E5%A5%8F%E7%8A%B6#.E8.88.88.E7.A6.8F.E5.AF.BA.E5.A5.8F.E7.8A.B6.E3.80.80.E7.AC.AC.E5.85.AD

この『興福寺奏状』を因として、

 一 法然聖人ならびに御弟子七人、流罪。また御弟子四人、死罪におこなはるるなり。(『歎異抄』p855)

と、越後へ遠島に処されたのが御開山でした。

浄土真宗親鸞会を名乗る高森親鸞会のHPの「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。
https://www.shinrankai.or.jp/nenpyo/19jogennohounan2.htm

いわゆる高森親鸞会の主張する「因果の道理」による、「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。実にゲスの極みである(笑
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/29/%e8%87%aa%e6%a5%ad%e8%87%aa%e5%be%97%e3%81%ae%e6%95%91%e6%b8%88%e8%ab%96/

昔、あるドラマで、鬱になりそうな人が、

 会社の人や世間では、みんな私のことをブスだ、嫌いだ、汚い、臭い、あっち行けと非難するんです。

という言葉に対して、

 会社の誰が、どこの世間の人が言うの? あなたを非難する人を指を折って数えて教えてよ。

 いち、に、さん、し、ご、ろく、しち……です。

 ほほ~、あなたの全世界は、たった七人で成り立っているの? 社会や世の中はもっと広いものだよ。自分で拵えた狭い世界で悩むのじゃなくて、もっと広い世界を見てみようよ。

というような台詞の応酬があったのを記憶してたりします。
仏教風にいえば、自己の心が拵えた妄想からの脱却であり、浄土真宗風にいえば自力を捨てて他力(本願力)に帰すでした。
加賀の藤原正遠師は

 いずれにも 行くべき道の 絶えたれば 口割り給う南無阿弥陀仏

という句を示して下さいましたが、信心に迷う高森会の一般の会員さんは、「念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門」p.569という道に出て頂きたいものです。

林遊は攻撃的な性格ですから、上から目線とか、お聖教の論理を武器にしていると誤解されやすいのですが、ただの越前の田舎の、なんまんだぶを称える古希(古稀)の門徒のじじいです。
林遊は、知らないことは三歳の子供にも聴き、知っていることは百歳の翁にも示すという姿勢であり、脱会者のブログに示唆されることも多いのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ これ最強!

「本願招喚の勅命」について

真偽検証様コメント欄の皆様方
失礼いたします。
「本願招喚の勅命」について気になっていることがあり、この記事の中にそのことを示唆する文章があり、コメント欄にもお念仏にお詳しい方々がいらっしゃるようなのでお聞きしたいのですが

この「親鸞会会員と思しき」方のコメントの中に、

>「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)

とあります。

>本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢

と言っていますが、これは「勅命」というのを「無条件に従う」と解釈しています。
つまり「無条件に従うというのは本願勅命にであって、会長や上司に従うのではない」とこの人は言っているわけです。

たしかに「信心決定するのは阿彌陀佛に無条件にハイと従ったとき」
こんなふうに親鸞会の人は聞いているように思います。

「本願召喚の勅命」に、”無条件に従う”という意味はあるのでしょうか?(日本語としても、勅命に従う、ならまだわかるのです、でも勅命という言葉に無条件に従うという意味をも込めてしまっているし)

(「ハイと素直に従えないから助からない。
だからまずはハイと素直に従えるような人間になれ。
善知識に無条件で従えるようにならなければ
阿弥陀仏にハイと従えるようにはなれない(助からない)。」
これは実際に専任講師から聞いた言葉です。これが善知識への無条件服従の教えの実態だと思います)

勅命

響さま
阿弥陀様は、絶対服従しろ!なんて言われてませんよ。
どうか称えておくれと言われる親さまです。称えないものを罰して地獄に落とすこともありません。南無阿弥陀仏の南無は、私が、阿弥陀様に心を差し向けて帰命するのでなくて、阿弥陀様が私に帰命を差し向けてくださっているのですね。私が称えて聞こえる南無阿弥陀仏が本願招喚の呼び声です。
 信心をびっくりドッキリ体験と解釈してる高森教は、お念仏を信心体験をした後のただのサンキューだメルシーなど御礼の言葉で阿弥陀語だとおもってます。それ以上はないようです。以前ここを荒らした自称獲信者火星人は、調子こいて火星語ではラーメンといいます。と阿呆なことをぬかしてました。今こちらを荒らしている、匿名さん(愚逆さん)も、高森教の獲信者です。奴らは、阿弥陀様と私の南無阿弥陀仏のお念仏で繋ぐ関係性を、皇帝陛下と下僕と思っているから、無条件絶対服従を強いるわけです。実際高森教は従えなければペナルティを課せれますよね。私もやられましたよ。奴らの理屈は、勅命ってかいてあるから絶対服従だろ!阿弥陀様のことを一番分かっているのは高森先生しかいないのだから、先生にも絶対服従は当たり前だろ!ということですね。しかもダブルスタンダードなので知識帰命と批判されたら、そんなことは高森先生は言ってない。お前の聞き間違いだ。私は聞いたことがない。と嘘をつきます。結局そのような解釈をする荒らしの匿名さん(愚逆さんです。安心問答も飛雲も荒らしてます)も信心獲得詐称者ということですね。この詐称者達ネットだと無双らしい(笑)けど直接会うと名乗らないし、違うよなんて言う輩です。詐称してる自覚はあるようです(笑)

ダブルスタンダード

響様
>「本願召喚の勅命」に、”無条件に従う”という意味はあるのでしょうか?

無いと思います。勅命についてはここで詳しく解説されております。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8B%85%E5%91%BD
取り消したり、訂正出来ない命ということだと思います。

>「ハイと素直に従えないから助からない。
>だからまずはハイと素直に従えるような人間になれ。
>善知識に無条件で従えるようにならなければ
>阿弥陀仏にハイと従えるようにはなれない(助からない)。」
>これは実際に専任講師から聞いた言葉です。これが善知識への無条件服
>従の教えの実態だと思います。

「善知識に無条件で従えるようにならなければ
阿弥陀仏にハイと従えるようにはなれない」
無条件の阿弥陀仏の救いに『善知識に無条件で従えるようにならなければ』
と条件を差しはさんでおりますが、おかしいとは思いませんか?
チュウビさんもご指摘ですが、親鸞会にいる時分には上のようなことをよく言われました。
でも荒らしで来る人に質問すると「そんなことはない」ととぼけます。
ダブルスタンダードもはなはだしい団体だと思います。

Re: 響様

「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。(尊号真像銘文)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E7%9C%9F%E5%83%8F%E9%8A%98%E6%96%87#.E4.B8.96.E5.B0.8A.E6.88.91.E4.B8.80.E5.BF.83.E3.81.AE.E6.96.87

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。 (同上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E7%9C%9F%E5%83%8F%E9%8A%98%E6%96%87#.E5.96.84.E5.B0.8E.E5.92.8C.E5.B0.9A.E3.81.AE.E5.85.AD.E5.AD.97.E9.87.88

等とありまして、衆生に浄土往生を勧める釈迦の発遣と、衆生を浄土へ来れと招き喚ぶ弥陀の招喚に順ってその思召し通りになることを南無とか帰命と言われています。本願招喚の勅命に”無条件に従う”という意味はあるのかどうかは分かりませんが、普通勅命と言ったら天皇の命令とか、この場合も釈迦弥陀二尊の勅命ですから、その命令に「こういう条件付きで従います」なんてことはあり得ませんね。

これに、阿弥陀仏の勅命に順うにはまず善知識に無条件服従しなければならないとしているのが親鸞会です。講師部聖則には、

・会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
・上司の指示は会長先生の命と心得ます。

とあって、高森顕徹会長や上司の指示に無条件で従ってゆくことがやがて信心獲得、阿弥陀仏の勅命に順うことになるという思想につながってゆきます。批判されるとチュウビさんのコメントのように否定してきます。内外不相応とはこのことです。

Re:響さん

お初にお目にかかります。Abcです。

>>「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)
とあります。

>>本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢

>と言っていますが、これは「勅命」というのを「無条件に従う」と解釈しています。
つまり「無条件に従うというのは本願勅命にであって、会長や上司に従うのではない」とこの人は言っているわけです。

 この「無条件に従うというのは本願勅命にであって、会長や上司に従うのではない」というのは少々肯定しがたきことでございます。

なぜならば、淳心房さんもいわれている
『講師部聖則』 (親鸞会発行 書物)
 ・上司の指示は会長先生の命と心得ます。

と記されているからであります。

「矢印を含んだ説明」を行いますと

本願招喚の勅命(阿弥陀さまの呼びかけ) → 善知識 → 私たち

と言う構図であります。 しかし、「善知識」とは本当に「教えを伝える人間」だけなのでしょうか? 後2つには()部が記していませんので()を記しますと、

本願招喚の勅命(阿弥陀さまの呼びかけ) → 善知識(高森会長) → 私たち(名無しさんを含めた、会員の方) という具合かとおもいます。ですから先ほど引用させていただきました『講師部聖則』には、

 ・会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。

と、「会長先生のご指示に無条件で従うこと」を前提とした構図となっているのかとおもいます。

しかし、それは「先哲を倣って、自らも行っていく」という考えでしかないのです。
 淳心房さんがピックアップして下さった、過去の私のコメントの下線の箇所を挙げますと、

・「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき
・およそ行者のはからひのなきをもつて
・ひとのはじめてはからはざる
・義なきを義とすとしるべし
・行者のはからひあるべからず
・行者のはからひをちりばかりもあるべからず

と記しました。またその後の私が記したコメントでは、

--- 『正信念仏偈』 の説明 ---

>報土因果顕誓願 (『正信念仏偈』より)

> 報土の因果は誓願であると顕され、 (すなわち「他因他果」の因果であるとされる ゆえに、「これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。」(『教行証 行巻』より)とも記される。)

ーーー 以上 ---

とも記しました。「自然法爾」とは、上に記しました「弥陀の御計らい」にほかならなく、またそれを阿弥陀さまが携えて「われに任せよ」と言われている言葉が
「南無-阿弥陀仏」(「帰命-尽十方無碍光如来」「南無-不可思議光如来」)なのであります。ですから、蓮如上人は、

 「また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。」(『御文』2帖15通)

とも記されています。

 少し戻って先ほどの「矢印を使った説明」となりますが、真宗では
本願招喚の勅命(阿弥陀さまの呼びかけ) → 善知識(「なんまんだぶ」が説かれている書物 や それを伝える人) → 私たち(真宗に生かされる人)

ではないかと私は認識しております。ですから「法(義なきを義とす)に依りて、人に依らざれ」といわれているのでは、と思っております。

なもあみだ なもあみだ [南無阿弥陀仏は自然なるがゆえに 自然とは報土であり証大涅槃なるがゆえに]

Abc

ダブルスタンダートはどこからくるのか

チュウビ様、園児様、淳心房様、Abc様ありがとうございます。勉強になります。有り難いです。

>阿弥陀様と私の南無阿弥陀仏のお念仏で繋ぐ関係性を、皇帝陛下と下僕と思っている

阿弥陀様を仏の中の王(これは正しいとしても)、絶対者として君臨する存在、ははー阿弥陀様ーとなると思っていますね。

>無条件の阿弥陀仏の救いに『善知識に無条件で従えるようにならなければ』

「無条件の救い」と「無条件服従」を混同させているのでしょうかね。

>本願招喚の勅命に”無条件に従う”という意味はあるのかどうかは分かりませんが、普通勅命と言ったら天皇の命令とか、この場合も釈迦弥陀二尊の勅命ですから、その命令に「こういう条件付きで従います」なんてことはあり得ませんね。

従う(順う)の意味を取り違えているのかも知れませんね。

〜・〜・〜
ダブルスタンダートはどこからくるのか。

先に書いたような発言をする専任講師を見てきましたし幹部の絶対服従ぶりは知っていますし、建前はどうであれ絶対服従が存在していることは知っています。
表向きは否定するのです。確かに「知識帰命は間違い」と言っているし知っている。しかし実態はそうなっている。そうなってしまう心の根拠を別に持っているのです。それはどこからくるのだろうかと。
阿彌陀佛を絶対君主的存在として、そこに服従する前段階として知識への服従が必須と思っているのか、そもそも「阿弥陀仏にハイと従ったとき」というのが正しいのか。そんなたとえ話聞いたことありませんか・・(たとえ話でよく騙されました)

ひとまず、ありがとうございました。

Re: 響様

> ダブルスタンダートはどこからくるのか。

簡単に言えば、高森会長の深い欲望からでしょうね。

阿弥陀仏の勅命と言いましても、「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」ということですから、それを計らい無くそのまま受領するのみです。その勅命に順うまでに善知識と称した人物の、朝令暮改の無理難題に何でもハイハイと従う義理も義務も必要もありません。よく出てくる「琵琶湖を一人で埋めて来い」云々はあくまで例えであり、しかも道宗の言葉であって蓮如上人のお言葉ではないことに注意が必要です。我々が帰命すべきは法であって人ではありません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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