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『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」について

少し前に、承元の法難の直接のきっかけとなった『興福寺奏状』について、林遊@なんまんだぶ様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。


私も親鸞会を退会した当初、『興福寺奏状』について調べたことがありました。コメントにあるように、また

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」(「親鸞聖人を学ぶ」より)は間違いといえるのは、なぜか

にもあるように、親鸞会の公式ホームページでは『興福寺奏状』第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれています。古くは高森顕徹著『こんなことが知りたい③』にも

(11)親鸞聖人が総攻撃を受けられた原因は何か

と題して『興福寺奏状』のことが書かれていますが、やはり「浄土に暗き失」についての説明はありません。どうして省かれているのか、また、聖道諸宗がなぜ「浄土宗」を立てた法然聖人を「浄土に暗い」と非難したのか。これらの疑問が調べるきっかけになったのですが、調べて解ったことは、親鸞会が本願寺を攻撃しているのは聖道諸宗が法然聖人を攻撃したのと理屈が同じだということでした。


法然聖人の教えは、『興福寺奏状』第一「新宗を立つる失」

ただ弥陀一仏の称名のみを説き

とあるように専修念仏、念仏往生であり、諸行兼修、諸行往生は認められませんでした。『選択本願念仏集』には、それがハッキり打ち出されています。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。「純雑対」

すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。「廃立」

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「難易義」

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。「傍正」

今はほんの一部を抜き出すに止めますが、諸行諸善を廃して念仏一行を専らにせよ、それが釈迦弥陀二尊のお勧めだ、十方諸仏のお勧めだ、末世の我々の往生の道はこれ以外無いと念仏ばかりを勧められています。勿論、法然聖人も信心について教えられていますが、それは裏の方で、表向きはとにかく「念仏申せ」「念仏の他に救われる道は無い」と念仏に急なる教えでありました。

こうした諸行諸善を廃して専修念仏という教えが、どうも聖道諸宗の逆鱗に触れたようです。最も手厳しい批判は明恵上人の『摧邪輪』ですが、それはさておき、『興福寺奏状』第六 浄土に暗き失ではまず浄土教でも諸行往生を認めているではないかと非難しています。

観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。
一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。
二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。
三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。
また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。
曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。
また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺(しゅうしゅう)せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。


『観無量寿経』にこう説かれている、念仏の大祖である曇鸞大師も、道綽禅師もこう教えられている、善導大師はこういうことをされている。このようにいずれも諸行による往生を教え認めているのに、法然は諸行を捨てて専修念仏と言うておる。とんでもない間違いであり、浄土の教えに暗い奴だ、というのです。

この中には親鸞会の大好きな「深く因果を信じ」「修諸功徳」等の文があります。因果の道理や七仏通戒偈、十九願や定散二善等を根拠に本願寺を非難している親鸞会と理屈はほぼ同じです。諸善を勧める親鸞会は、その結果から言えば諸行往生を勧めていることになります。ですから、「「往生の資助になる」ということでは、断じてない」など色々と詭弁を使っていますが、「親鸞会は諸行往生」と批判されても何の文句も言えません。


それから法然は善人と悪人が一処に倶に生ずるように主張しているが、それは因果の道理に反した間違った思想であり「愚痴の過」であると次のように非難しています。

かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜(しゅくや)の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯している)、というのです。

法然聖人によれば、『観経』に説かれる三福九品の往生の違いは釈尊の巧みな御教化によるもので、善人も悪人も同じ浄土に生まれると言ったら悪人は慢心を起こすから、品位差別を設けて善人は上品の往生を、悪人は下品の往生を遂げると説かれているのだと仰せです。

 問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。

 答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。 云云
『西方指南抄』

ところがそのようなことを聖道門の学僧は到底認められないでしょう。さとりを求めて菩提心を発し、諸々の悪を廃し衆々の善を修めて仏道を成就しようというのが根本的な考えですから、この理屈で言えば善人も悪人もただ念仏のみで一処に往生するという法然の主張は自業自得の道理に反したものだというのです。

自業自得、その理必然なり

とあるように、善悪因果の道理、自業自得、廃悪修善の因果論をもって法然聖人を批判しています。「浄土宗」と名乗りながら仏教の根本教義も分かっとらんし、あんたらの重んじている経典や中国の高僧方の説にも反しているじゃないか、全くもって「浄土に暗い」を言わざるを得ない、ということでしょうね。


阿弥陀仏の本願は、衆生の力を全く要せず、ただ本願力の回向によって善悪賢愚の隔てなく平等に救おうというものですから、その点「おほきに因果の道理にそむけり」で、聖道門の論理とは全く別物です。その本願を説く団体や退会者を、聖道門の論理とほぼ同じ論理、同じ根拠で非難しているのが親鸞会です。本願寺が呆れて相手にしなくなったのも道理です。浄土真宗と名乗りながらその教えが全く分かっていないのですから。

法然聖人、親鸞聖人を始めとし、門徒数輩が死罪、流罪となってまで明らかにして下された念仏の教え。世間難信の法と言われるように、とても世法の理屈にも聖道門の理屈にも合わない破格の教えですが、このような教えでなければ末世の、しかも淳心房のような者は出離、往生のみちはありませんでした。如来広大の恩徳、師主知識の恩徳に感泣すると共に、浄土真宗と名乗りながらこの法を破壊せんとする親鸞会の教義の誤りを、これからも世に知らしめていきたいと思う所存です。


なお、今回取り上げた「浄土に暗き失」については様々なブログで既に取り扱われています。

『用管窺天記』自業自得の救済論
『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生10
『21世紀の浄土真宗を考える会』興福寺奏状 第六 浄土に暗き失
『WikiArc』興福寺奏状と教行証文類

これらも合わせてご覧下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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興福寺奏状と教行証文類

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山の著述を拝読するときには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方は仰ってましたです。

もちろん全体は解りませんが、例えば『興福寺奏状』という補助線を入れることによって、こういうことだったのかと、お聖教を拝読するときに助(資)けになることもあります。

ともあれ専門書は、ある程度の語彙が理解出来ていないと意味不明状態に陥りますし、古語の場合は現代語と違う意味を持つので辞書を引くことになります。特に浄土教に於ける言葉は、聖道門仏教の言葉を使いながら、その意味を変更しているので難解なのですが、本願力回向という立場で読んでいくと少しく判るものでした。

ある意味では、高森親鸞会の会員の方は、言葉の意味の奴隷になっているように思われるのですが「戯論寂滅」と言葉の解体をしてみると、あほみたいに、なんまんだぶを称える違った世界が見えてくるのかもです。知らんけど。

そんなこんなで「興福寺奏状と教行証文類」という文書をUPしてみました。高森親鸞会の、聖道門風の自業自得論に嵌って、ありしない「絶対の幸福」というタームに嵌っている方には、お奨めかもです。
https://goo.gl/3E2XHN

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

「興福寺奏状と教行証文類」

記事の中にもリンクしました。『興福寺奏状』の内容がより判り易くなります。ありがとうございます。

Abcです

 こんにちは、Abcです。
暑さも少しづつ収まり、同時に秋の薫りもしてきました。
このような季節の変わり目こそ、体調管理はしっかりとしなければなりません。お体に気を使いつつ、更新していただけたらとおもっております。

 さて、以下の文
>『観無量寿経』にこう説かれている、念仏の大祖である曇鸞大師も、道綽禅師もこう教えられている、善導大師はこういうことをされている。このようにいずれも諸行による往生を教え認めているのに、法然は諸行を捨てて専修念仏と言うておる。とんでもない間違いであり、浄土の教えに暗い奴だ、(『興福寺奏状』第六 浄土に暗き失 を読まれてのコメント)

について「自力」「他力」を交えながらコメントを行っていきたいと思います。

 早速、私事が入りますが法然上人(源空聖人)は私や親鸞の師であり、「念仏を称えるものは必ず浄土に往生する」といわれた方でした。また、過去に私が記しました「選択本願」や「義なきを以って義とす」なども師を代表する言葉となっております。

選択摂取の本願 -18願 選択本願 「義なきを義とす」願 自然法爾の願 他力(横超)

源空は『選択集』において、

源空聖人『選択集』結勧流通
「わたくし(法然)にいはく、おほよそ三経の意を案ずるに、諸行のなかに念仏を選択してもつて旨帰となす。【乃至】
 次に『観経』のなかにまた三の選択あり。
一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。
一に選択摂取といふは、『観経』のなかに定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。ゆゑに選択摂取といふ。
二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故諸罪消滅我来迎汝」(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。
三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。ゆゑに選択付属といふ。」

とございます。「ただ独り念仏の一行を付属す」(親鸞の言い方にしますと「ただ念仏のみぞまこと」)とありますように「釈迦・弥陀は念仏一行を選び取られた」とされます。

~「選択捨離の本願」の箇所 につつく~

選択捨離の本願 -19、20願 非本願 自業自得の願  他力のなかの自力(横出)

それで今挙げていただいた『興福寺奏上』には、

『興福寺奏上』
「自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。」
「それが自業自得の道理の必然だからである。たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯している」

と「自業自得の道理の必然」から大きく背いている、といわれています。
 対して源空聖人は、『選択集』において

『選択集』由理深解微
「一には難行道、二には易行道なり〉と。〈難行道〉とは、いはく五濁の世に無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多くの途あり。ほぼ五三をいひてもつて義意を示さん。
一には外道の相善、菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障ふ。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善の果、よく梵行を壊る。五にはただこれ自力のみにして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。
たとへば陸路より歩行するはすなはち苦しきがごとし。
〈易行道〉とは、いはくただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗りてすなはちかの清浄の土に往生することを得。
仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路より船に乗りてすなはち楽なるがごとし」と。[以上]
このなかの難行道は、すなはちこれ聖道門なり。易行道は、すなはちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言異なりといへども、その意これ同じ。天台(智顗)・迦才これに同じ、知るべし。」

といわれ、また同書では
『選択集』由大聖遥遠
「大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る。」

ともあり、「釈尊がこの世界を離れてから歳月があまりにも経っているから、阿毘跋致を求むることは難しいとされる」といわれています。

 むすび
今回は、師である現空聖人の著書を示しながらの解説をおこなってまいりました。淳心房さんがエントリー内でしめしていただいた『西方指南抄』は「源空聖人の法語集」ではありますが、長くわたしどもの宝物殿に眠っていたばっかりにその存在はあまり知られてはおりません。(『西方指南抄』は『教行証』の土台の役割として記されたという説もあります。)
 そのため「信心の行者」が法然教学を学ぶ際には、『選択集』を代々依用してきました。 ともかく、法然教学は「義なきを義とす。義といふは計らふことなり」であり、「弥陀は衆生のために、選択本願を建てられたのだ」「計らいを交えることは疑情にほかならない」ともいわれているのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

今年は若干涼しい日もあったものの、例年にない暑さでした。これから暑さ寒さが入り混じる時期に入りますが、健康へのお心遣い頂きありがとうございます。お互いに気をつけて日々過ごしてまいりたいものです。

『選択本願念仏集』はどこもかしこも念仏、念仏、念仏と言っていい位、諸行を捨てて念仏、助業を傍らにして念仏、ただ念仏して弥陀に助けられるのだとこればかり教えられています。この諸行を捨てて念仏、それで善人も悪人も同じ浄土に生まれるという教えが、自業自得の理、すなわち因果の道理に反すると非難されたのでした。

親鸞会がかつての聖道門の理屈で本願寺や退会者を攻撃していることを、会員の皆さんにはぜひ知ってもらいたいです。そして、挙げて頂いた御文をよく読まれ、往生には因果の道理云々はさて置いて、「念仏する者を往生させるぞ」と誓われた本願にまかせてただ念仏して頂きたいものです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

我が称える念仏と云うもの何処にありや。

ども、林遊@なんまんだぶです。

紹介した「興福寺奏状と教行証文類」を一応完成させました。ついでに「興福寺奏状」に、この文書へのリンクを張っておきました。
林遊のような、伝統的なんまんだぶの門徒は、専修念仏弾圧の契機となった「興福寺奏状」を読めば、本願力回向の宗義を知らないあほかと思ふのですが、当時の顕密体制の中でしか仏教を考察できなかった貞慶上人は、法然聖人の説く浄土教の論理は理解し得ないものであったと思ひます。

もっとも貞慶上人は、最晩年の『観心為清浄円明事』では、

 「出離の道は取(う)ける身の惘然として其の法を聞かざるに非ず、ただ其の心〔清浄円明な菩提心〕の発(おこ)らざるなり。是れ則ち機の教と乖(そむ)き、望みと分と之に違(たが)ふの故か。心広大の門に入らんと欲すれば、我が性堪えず、微少の業を修せむと欲すれば、自心頼み難し、賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず」
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E5%BF%83%E7%82%BA%E6%B8%85%E6%B5%84%E5%86%86%E6%98%8E%E4%BA%8B

と、機と教の乖離について悩み、各諸先輩に問うたとされていますが、この乖離についての解答を得ておられたのが法然聖人でした。
貞慶上人は、この法然聖人の説かれる「選択本願念仏」を敵(かたき)にしてしまったのでした。
もっとも貞慶上人は晩年には修行の行き詰まりを、

 予は深く西方を信ずるが故に、竊かに此の案を廻らす。学者性相の疑に同ぜず。世人一向の信に同ぜず。恐らくは一期の所作に於いて、以前の称念等は仏を感ずること大なりと雖も、多くはなお疎因なり。真実の正因正業は瑞相を見て後に希有の心〔正念〕を発す。

と、此の世でのスッキリ・ハッキリの聖道門の道を断念し、臨終正念の正念に仏道の因とされる真実の「菩提心」の発起を願ったのでした。
御開山の眼からみれば、第十九願の来迎を願う「仮令」の願いでした。
まるで、不確かな(仮令)の横の線を歩む高森親鸞会の会員のようですね。

『香樹院講師語録』には、

 予(禅僧弘海)問うて云はく、法話を聞くことと、自ら聖教を読んで我が耳に聞くと云うこととは、有難く承わりぬ。但、念仏するを聞くと申すは、我れ称えて我が声を聞く事に候や。
 師大喝して曰く、汝何事をか云う。我が称える念仏と云うもの何処にありや。称えさせる人なくして、罪悪の我が身何ぞ称うることを得ん。称えさせる人ありて称えさせ給う念仏なれば、抑(そもそ)もこの念仏は、何のために成就して、何のためにか称えさせ給うやと、心を砕きて思えば、即ちこれ常に称えるのが、常に聞くのなり、と。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%BE%E3%81%AB%E6%9C%AC%E9%A1%98%E3%82%92%E8%81%9E%E3%81%8F

とあります。
この意を喩えていえば、松の枝が揺れるのは風が吹くから揺れるのであり、松の枝が動こうとして揺れるのではないのでした。大悲の風は常にふいているのです。高森顕徹氏の妄想の信心に誑かされている会員は、自らが拵えた信心によって、この大悲の風に疑蓋の蓋をして遮蔽しているから選択本願の、信海度出の、なんまんだぶが称えられないのでした。悲しきことです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

おはようございます、Abcです。

>と、此の世でのスッキリ・ハッキリの聖道門の道を断念し、臨終正念の正念に仏道の因とされる真実の「菩提心」の発起を願ったのでした。
>御開山の眼からみれば、第十九願の来迎を願う「仮令」の願いでした。
>まるで、不確かな(仮令)の横の線を歩む高森親鸞会の会員のようですね。

誠に不確かなことであり、ある種危ういことでもあります。
高森親鸞会の会員の求める「阿毘跋致」というのは、このような危ういものであると今回読ませていただき改めて感じました。ご執筆ありがとうございます。

>松の枝が揺れるのは風が吹くから揺れるのであり、松の枝が動こうとして揺れるのではないのでした。

ありがたい譬えを示していただき、ありがとうございます。この譬えを使わせていただくと「松の枝が動こうとして揺れること」が「自力(行者各々の計らい)」であり、「松の枝が揺れるのは風が吹くから揺れる」のは「他力(阿弥陀さまの御計らい)」ですね。
 高森親鸞会は「風」と聞くと「無常の風(会館のトラの絵)」を連想されますが、
「大悲によって生かされ、大悲の風によって「南無阿弥陀仏」の教えを絶え間なくつたえてくださっている」とあらわしますと、いよいよ阿弥陀さまの大慈悲心が大きく思われます。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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