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「阿弥陀仏の勅命に順うまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない」と教えるのが親鸞会の実態。こうした親鸞会の教えは正しいのかどうか。

本日は響さんのコメントや皆さんのコメントを読んで、親鸞会の教えの実態について思ったことを書きます。


この記事にも書いていますが、親鸞会では

信心獲得するまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

と教えています。以下、『なぜ私は親鸞会をやめたのか』3.高森顕徹会長と絶対無条件服従より抜粋。

********************
私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。【顕正新聞 昭和49年12月】

我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。 
この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。【顕正新聞 昭和54年8月】

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

********************

後生は必堕無間と叩き込まれ、「助かるには高森先生から真実の仏法を聞かせて頂くよりない」と信じている会員の皆さんは、たとえ意に沿わない命令でも後生の一大事の解決のためということで従っていることと思います。中には「そんな事まで上司に相談して指示を仰ぎ、指示通りに従うのか?」と思うことまで相談し、受けた指示に素直に従うマジメなと言うか、思考停止と言うか、そういう会員もいます。

また、教義の誤りに気付いた人が親切に教えて差し上げても、相手を説得できないということもしばしばです。報告・連絡・相談が染み付いていると、説得を受けた会員はその内容を逐一上司に報告します。自身は上司の詭弁を正しいと信じ、これに丸め込まれてしまいます。一方、上司は情報網を張って周囲の会員に警戒を促して、会員の離反を防ぐという手法を用います。家族や友人を説得しようにも、後生を人質にとられている上に高森信心が篤いと来ているので、説得が失敗するケースが大半かと思われます。


交通費や宿泊費をかけて富山へ行くのはなぜか。顕正(入会)目標人数を達成するのはなぜか。目標財施額を達成するのはなぜか。高森顕徹会長や上司の指示に無条件で従うのはなぜか。それは己の後生の一大事の解決、信心獲得のため以外にはないでしょう。

その信心獲得のことを「阿弥陀仏に帰命する」と言い、帰命とは阿弥陀仏(釈迦弥陀二尊)の勅命に順うことを言いますから、先に挙げた親鸞会の教えは言葉を換えれば

阿弥陀仏の勅命に順うまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

という教えだと言えます。こうした親鸞会の教えは正しいのかどうか。これが問題ですね。


結論から言うと、これは間違いです。これは、「本願招喚の勅命」と「善知識」、「善知識の仰せ」とは何たるかについて無知である、または誤解していることから来るトンデモ邪義です。

まず「本願招喚の勅命」についてです。詳しくはこの記事を参照願いますが、

本願招喚の勅命
阿弥陀仏が我々に向かって「来いよ来いよ」「我にまかせよ」「助けるぞ」と喚んでおられる本願の仰せ

です。これは人の命令ではありません。真実の仏様の「勅命」であります。「勅命」と言っても、我々にあれせいこれせいと命じる命令ではありません。「助ける、まかせよ」との仰せです。「そなたを助ける手筈は全て整えたから、安心して我にまかせよ」との命令です。

その「本願招喚の勅命」に順う、本願の仰せに順うとはどういうことかと言えば、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へん(念仏する者を浄土に迎える)

本願の仰せをもう一つ詳しく説き開くとこういうことですから、その仰せをふかく信じて、つまり真実の信心でお念仏申すのが「帰命」であり「本願招喚の勅命」に順ったすがたということになります。勅命に順うといっても、「本願招喚の勅命」というものが自ずからはたらいて我々の「帰命」の信となり、称名となって下さいます。我々がすることはただ本願の仰せをそのまま聞き受けてお念仏申す以外ありません。ですから、

阿弥陀仏の勅命に順う
本願の仰せをふかく信じて(=真実の信心で)念仏する

ということです。この支部で一年に何人入会させるとか、何万円財施させるとか、その他会長や上司から様々に下される指示命令は、当然ですが「本願招喚の勅命」ではありません。そういう指示命令に何でもかんでも無条件に従うことと、阿弥陀仏の勅命に順うことは当たり前の当たり前ですが無関係です。


次に「善知識」です。「善知識」のお役目は

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2帖目11通

であることは親鸞会会員なら耳タコでしょうが、「一心一向」が間違っているために正しく理解できていません。さすがに「一心一向に弥陀に帰命」=「一向専念無量寿仏」であること位は判ると思いますが、阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神を捨てることだけかと思っていたら大間違いです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。(中略)
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択本願念仏集』廃立

諸行を廃してただ念仏を用」いることを「一向」と言います。親鸞会では諸行(諸善)を廃するどころか強烈に勧めています。これでは「一向」になりません。「一向専念無量寿仏」にならないのです。

この「一向」が諸善を捨てて念仏一行であれば、「一心」は

信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。「信文類」三心一心問答

とあるように真実の信心です。このことから、

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし
=「一向専念無量寿仏」せよ
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい

となります。これは先ほど話した「本願招喚の勅命」そのものです。まとめると、

本願招喚の勅命
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい

善知識
=「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかり」の人
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさいとばかり教える人

善知識の仰せ
=「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい
=「本願招喚の勅命

です。これを踏まえれば、諸善を勧め、自らの指示に無条件に従わせようとする高森会長が「善知識」なのかどうか。聖教を素直に読むことができればそれは明らかですね。ですから先ほどの問いの答えは

「善知識の仰せ」=「阿弥陀仏の勅命」であり、「善知識の仰せ」と称した会長や上司の指示に何でも無条件服従しなければ信心獲得できない、阿弥陀仏の勅命に順うことはできない、という教えは無い

です。会員の皆さんは、普段どんなことを教えられ、どんな指示を受けているか、静かに振り返ってみましょう。


善知識」とは、「本願招喚の勅命」を正しく説いて、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とばかり教える人、真実の信心で念仏しなさいとばかり教える方です。「善知識の仰せ」とは人の言葉ではありますが、その内容は人々を助けたい、助けたいという阿弥陀仏の大慈悲心です。ですから、「組織拡大」「会員倍増」など、阿弥陀仏の大慈悲心に私利私欲を混ぜてこれを正しく教えないような人は「善知識」ではないので、いくらそういう人の指示命令に従ったところで信心獲得とは無関係であることは再三述べている通りです。

善知識の仰せ」、「本願招喚の勅命」をお聞かせ頂くのが「聴聞」です。また「聴聞」とは「善知識」という「人」から直接聞くに限らず、聖教を読むことも、それを解説した和上さん方の著書を読むことも、法話の動画や音声を聞くことも、広義で「聴聞」と言えるでしょう。

そしてお念仏申すこと、これが何よりの「聴聞」です。お念仏とは、私の口を借りて阿弥陀仏が「助けるぞ」と喚んでおられる声です。念仏を往生の取引材料に用いるのではなく、大悲招喚の声として聞く。聞即信、信即称、称即聞とはこういうことです。すべて南無阿弥陀仏のおはたらきです。

本願招喚の勅命」を正しく説きもしない、なんちゃって善知識の話をいくら聞いてその指示に無条件で従ったところで、阿弥陀仏の勅命に順う、すなわち信心獲得できるわけがないことは当然すぎるほど当然の話です。親鸞会の外には正しい浄土真宗を説かれる「善知識」が多くおられますから、浄土往生、成仏を願う方は親鸞会から離れて聞くことをお勧めします。在籍しながらでも構いませんが、親鸞会の邪義が染み付いた状態ではどうしても親鸞会以外の人の話が聞き難いです。

一方、「絶対の幸福」だとかいう現世利益を夢見る人は残ったらよいでしょう。せいぜい、悔いの残らない方を自分で選んで頂きたいと思います。
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善知識だのみ

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会の異義の一つに「善知識帰命」があるのですが、希代の善知識であった蓮如さんは、善知識帰命説を否定して、

 そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし。信心をとりて弥陀如来をたのみたてまつらんひとならでは、後生はたすかるべからず。
わがまへゝきたらんずるよりは、山野の墓原へゆきて五輪卒塔婆をおがみたらんずるは、まことにもてその利益もあるべし。すでに経文にいわく、一見卒塔婆永離三悪道といへり。この卒塔婆をひとたびおがみたらんひとは、ながく三悪道の苦患をば一定のがるべしと、あきらかに経にみえたり。
かえすがえす当山へなにのこゝろえもなきひときたりて、予に対面して手をあはせおがめること、もてのほかなげきおもふところなり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%96%84%E7%9F%A5%E8%AD%98

と、我をたのむより、墓場の卒塔婆を拝む方が利益があるといわれておられました。
高森親鸞会の会員は「五重の義」を出すことが多いのですが、これは善知識だのみを否定する御文章なのですが、全く逆の意味で使う人がいるので驚いたことがありました。

たしかにご法義は、人を通して伝わるのですが、「真偽検証」さんのように、人よりお聖教が大事ですからお聖教の言葉を引用して、なんまんだぶのご法義をお示しすべきなのでした。
以下、お節介ですが参考用に過去の善知識否定の記述へリンクしておきます。

「歎異抄の仮定法」
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/11/05/%e6%ad%8e%e7%95%b0%e6%8a%84%e3%81%ae%e4%bb%ae%e5%ae%9a%e6%b3%95/

「善知識帰命の過ち」
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2009/10/26/203/

「法を見るものはわれを見る」
http://www.hongwan.net/index.php/%E6%B3%95%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%82%8B

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>そもそも予がまえへゝきたりて、見参対面をとげたりといふとも、さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし (蓮如上人)

この「さればわれらがちからにて後生をたすくべきむねなし」と言う言葉こそ真宗を顕しているともいえましょう。真宗は何度も申し挙げているように、
「義なきを義とす」を宗(むね)とする教え つまり宗教であります。

淳心房さんや、林遊さんが記していただいた「善知識だのみ」はこの「義なきを義とす」に真っ向に対する、「○○のおかげで」(親鸞会でいう「会長先生のお導きによって」に同義)などと「~の計らいが」と申し上げることに疑問が上がるのです。

「真宗」は「信心」であり「念仏」であり「称仏名(南無阿弥陀仏 名号)」であり、
この「名号」を文字(または称える言葉)としてあるのが「名号(六字 九字 十字)」であり、
「絵(平面としての「ほとけさま」)」としてあるのが「絵像」(浄土変相図も含む)であり、 「像(立体としての「ほとけさま」)」としてあるのが「木像」(代表例として三千院の木像 など)であります。
「絵像」では描画技術が追いついていないころは「背面を十二等分するような後光」で描き、「十二光仏」とされ、
細やかな描写が出来るようになってからは「背面を四十八等分するような後光」で描かれております。時には仏像に倣って「船形後光」で描かれることもございますが、「後光がどうのこうの」で論ずるのではなく「今、阿弥陀さまが手を差し伸べてくださっている」ということこそが重要なのではないでしょうか。

 また「絵像のこと」でアツくなりすぎましたが、つまるところ「義なきを義とす」であり「行者のいいのもわるいも思わない心を「自然」と申すぞ」であり、そこから「不回向の行」とも言われるのです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

コメント返信

林遊@なんまんだぶ様
Abc様

私達がなんまんだぶの法を領受し、往生を遂げるには、法を示して下さる善知識の存在が不可欠であり、その方に全幅の信頼を置いて御法義を賜らねばならないことは言うまでもありません。

しかし問題なのは法を示す人が真の善知識でなく、邪な善知識の場合です。私のような退会者は長らく邪の善知識に仕えていたため、中には善知識より教えを受けるということ自体がアレルギーな方もあるかも知れません。

中々難しい問題ですが、要はAbcさんが示されたように「義なきを義とす」、「行者のいいのもわるいも思わない心を「自然」と申すぞ」、「不回向の行」をお示し下さる方の教えを受けてふたごころなく阿弥陀さまにおまかせするばかりです。御法義以外の、訳の分からない指示命令にまで従う必要はないということを申し上げておきたいと思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・

No title

30数年前の親鸞会の学生部の夏合宿では小さな講義室で担当講師一人から数名の受講生が講義をうけるという形でした。合宿も半ばを過ぎると、仏教の話だけではなくなり、一人一人、受講生が立たされ、講師から
「会長先生(高森会長)がビルの上から飛び下りろと仰ったら、飛び下りるか?」
とか
「会長先生が犯罪をおかせと仰ったら、犯罪をおかすか?」
という質問を顔の間近で、大声で怒鳴られました。まさに恫喝でした。
受講生の答は
「ハイ」
しか認められず、「ハイ」と言うまでは色々と詰問されるという具合でした。
絶対服従を迫る儀式としか言いようがありませんでした。

今はどうだか、勿論、知りません。ただ、過去にはこのようなことが行われていたことは事実です。親鸞会関係者は「それはあくまでもたとえだから」「真剣になるようにするための指導の一つだ」などと言い訳をするかもしれませんが、親鸞会の本質だと思います。その後、「洗脳」「マインドコントロール」という言葉が流行ってきましたが、すぐに浮かぶのは学生時代の合宿の講義シーンでした。

林遊様が蓮如上人の話を紹介しておりますが、そのころの真宗教団は親鸞会のような会長や上司に絶対服従をさせるようなおかしな団体では無かったことがわかりました。本当は講師の名前を晒してやりたいところですが、実のところはすでに脱会されている方ばかりです。ますます「あの団体はなんなの?」と嘲笑を感じながら思ってしまいます。

Re: 園児様

昔はそんなことがなされていたんですね・・・

私は2001年入会ですが、夏合宿やその他合宿においてそのような脅迫、恫喝は受けませんでした。勿論私が知らないだけで、そういう学生の洗脳度を試すような儀式がある(あった)のかも知れません。なお合宿ではありませんが、幹部以上の指摘会合で、前に出させられて指摘を受け、参加者の前で反省の気持ちを述べ、また今後の活動について決意を述べるようなことはありました。

真宗教団は今も昔も親鸞会のような組織とは違います。目的も教義も全く異なる新興宗教の教え、新興宗教の団体です。お互いそのような所から離れられ、またまことの真宗に遇えて本当に良かったですね(^^)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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