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この世でさとれるわけがないのに、「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」と一益法門を説く高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話は、毎度毎度の

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とは、どう変わるのでしょうか。


という質問に答えるというものでした。既に

『飛雲』国語力の乏しい高森顕徹会長とそれを信じる思考停止の会員

でも取り扱われていますが、指摘されている通り「代り映えのしないいつもの現世利益の内容」でした。


高森会長は今回も、大悲の願船に乗ると、つまり信心決定すると等覚をさとるかのように教えていました。

51段目の覚りになったことを、親鸞聖人はハッキリと『教行信証』に述べている
大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる
「定聚の数」とは52位ある覚りの51段目。「等覚」とも呼ばれる、阿弥陀仏の本願に助けられ、「絶対の幸福」になった覚の境地。

親鸞会では「さとってもいないのに『さとった』と言うこと」を「増上慢」と言うらしいですが、まさにその「増上慢」です。それでいて

大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない

と宣っています。煩悩具足が少しも変わっていないのに51段をさとれるかっちゅうの(-_-;)

そして嘘ばっかりです。親鸞聖人が「51段目の覚りになった」根拠として

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。「信文類」

を挙げていますが、どこにそんなことを仰ってるのか理解不能です。


この世でさとりを開くという邪義については

『歎異抄』第15条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

でも扱われている通りです。なお『歎異抄』では「仏覚」のことを言われていますが、高森会長は51段の「等覚」をさとるかのように説いていますから内容的には同じことです。第15条に、

弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。

とあるように、迷いの海を渡り、浄土の岸に至りついたなら「さとった」と言えるでしょうが、現在の

弥陀の願船に乗じて

の状態は「定聚の数に入」ったことであって、それと51段の「等覚」をさとったこととは全く別物です。もし

信心決定して大悲の願船に乗ったら51段目の等覚になったことはハッキリする。それがハッキリしないのはまだ大悲の願船に乗っていない証拠であり、異安心だ

と非難するようであれば、曇鸞大師は異安心になります。大師は『浄土論註』に

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

と仰って、浄土に往生した後、つまり死後に正定聚に入ると教えられました。何も曇鸞大師のみでなく、本願を信受したその時、この世で正定聚に入ると明言されたのは親鸞聖人が初めてですから、親鸞会の説を是とすれば七高僧方はみな異安心になります。

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。

と『歎異抄』第15条は締め括られていますが、この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりを開くというのが浄土真宗です。親鸞聖人は「今生に本願を信じ」たその時に「正定聚に入る」と教えられましたが、それと「51段目の等覚になる」ことは当然異なります。この世でさとれるわけがないのに、「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」と一益法門を説いているのが高森顕徹会長ですから、こんな珍しい教えは浄土真宗でも何でもありません。


ところで高森会長は、「ガラリと変わる」根拠に

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。「信文類」悲嘆述懐

を出していますが、これもおかしな話です。

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

とアニメの蓮如上人に言わせておきながら、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いる我が身は何も変わらず、「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざる」ですから。

「悲しきかな」「恥ずべし傷むべし」と「懺悔」されているのが「ガラリと変わる」の一つ

などと言っていますが、これは言わば「我が身は何も変わらない」根拠でしょう。横超の金剛心を得ているから間違いなく次生浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開くことが決定しているのに、「ガラリと変わる」も何も、「大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない」からそれを喜ばず、楽しいとも思わない、恥しく、嘆かわしいことである、というのです。

親鸞聖人は、大悲の願船に乗じて浄土往生が決定し、字の如く「ガラリと変わる」と言われて当然の身となったのに、現実は「我が身は何も変わらない」。激変のあまり死んでしまっても全然不思議ではないのに、喜びも楽しみもしない煩悩具足の我が身を恥じているのです。高森会長にもしこの「恥づべし傷むべし」の懺悔心があるなら、まず『飛雲』との公開法論に6年以上も応じない公約違反の我が身を「恥づべし傷むべし」と懺悔して、直ちに公開法論に応じてもらいたいものです。


幸せな人生にガラリと変わる」と精神的大飛躍に憧れ、その瞬間、その体験を夢見て聞いている会員ばかりかと思いますが、会長の教える「絶対の幸福」という現世利益を求めていくら聞いていても「定聚の数に入る」「真証の証に近づく」ことはできません。これらは真実の行信を獲得したことによる利益です。念仏一行ただ念仏を否定し、間違った教え、間違った行、間違った信心を説く者に仕えておって、真実の行信、真実の証果が得られるわけがないのです。会員の皆さんは思考停止状態から早く抜け出し、「念仏する者を往生させる」という本願をふかく信じて念仏して頂きたいと思います。
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「等覚」と「横超」

いつもご教説ありがとうございます。
親鸞会にいたときは「信心決定すると弥勒菩薩と同じさとりが得られる」と聞いていました。
縦線で「さとりの五十二位」の路線図のような図を示し、五十一位の所を指して、「ここになる」と解説を受けて、
そのようにすり込みされておりました。

最初にご紹介頂いた信文類のご文ですが
……………………………………………………………………………………………………
まことに知んぬ、
弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
……………………………………………………………………………………………………
を対になっているところをわかるように書くと
「弥勒大士」…「等覚の金剛心を窮むるがゆゑ」…「竜華三会の暁」…「まさに無上覚位を極むべし。」
「念仏の衆生」…「横超の金剛心を窮むるがゆゑ」…「臨終一念の夕べ」…「大般涅槃を超証す。」
となります。
並べて見ると弥勒菩薩と念仏の衆生は「同じ」というよりもむしろ「異なる」という事を説明されているように見えます。
同じ金剛心の言葉にを弥勒菩薩では「等覚の金剛心」と書かれ、念仏の衆生には「横超の金剛心」と書かれています。
この「等覚」と「横超」によって弥勒菩薩と念仏の衆生の金剛心(の内容)が違ってくると理解して良いでしょうか?
ご教示ください。

(余談になりますが、親鸞会でこの話を聞いた時に「信心決定した人は命終する時に『弥勒、ご免』と弥勒菩薩を飛び越えて
仏になる」との話でした。また、それが「横超」の意味であると。話を聞きながら妙な「優越感」「痛快感」を覚えて
おりましたが、仏教はそのように他を出し抜くとか、他に勝つという教えではないと今は思っています。
会員に「高揚感」を与えて、心が「ガラリと変わる」と印象づけて会の活動を煽っていたのだと思います。)

便同弥勒

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土門と聖道門では、そもそも法門の綱格が違うので、聖道門仏教の用語と浄土門で使う言葉の意味が違います。
また御開山は、聖道門VS浄土門と対比してご法義を語るので混乱するのかもです。
お示しの、「弥勒」と「念仏者」云々は、弥勒(聖道門)と念仏者(浄土門)を対比させているのでした。素直に読んでいけば判るのですが、高森親鸞会の方はおかしなバイアスがかかっているので判りにくいのかも知れません。高森親鸞会では意図的に、さとりと信心を混同させているのでしょうね。
例すれば、三昧発得の善導大師でさえ「いはんやわれ信外の軽毛なり、あへて旨趣を知らんや」『観経疏』玄義分p.301 と自らを、十信の位にも入ることのできない、風に吹かれて飛ぶ軽い毛のような凡夫と言われていました。
御開山は、そのような「信外の軽毛」である凡夫を正定聚であるとされたのは、阿弥陀仏のご信心を「正受」した者は、阿弥陀仏のご信心の「真実の徳」を正受した者として正定聚と表現されたのでした。あくまでご信心の徳なのでした。
阿弥陀仏の必ず摂取するという信は仏心でもありますが、それはわたくしの上にあるけれども私のものではないのでした。
それはまた「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(御消息 P.735) とあるように、『観経』の「一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」p.102 の摂取不捨のゆえに「正定聚」といわれるのでした。

ともあれ、和讃では、

(26)
五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

(27)
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

(28)
真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり

と、されておられます。
高森親鸞会では、信心を摩訶不可思議な心理状態のように説きますが、『歎異抄』でいえば、

 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり
と信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

でした。なお上の文の改行は「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」というのが信心の内容であるからという先達のお示しだからでした。
それが、

 親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

でした。
浄土真宗の先達は「勅命のほかに領解なし」と言われましたが、なんまんだぶと称えて、後生は、「お前が心配するな、私がシッカリしてるから、俺にまかせとけ」と聞くのでしょうね。
「なんまんだぶの響き」
https://goo.gl/PJiEpQ

なお「現生正定聚説」の教学的背景については、少しく難しいですが下記のリンク先が参考になるのかもです。
https://goo.gl/r4QjZD

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 園児様

「等覚の金剛心」と「横超の金剛心」については以下が参考になると思います。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%87%91%E5%89%9B

リンク先の1が「等覚の金剛心」、2が「横超の金剛心」ということです。「等覚の金剛心」とは、菩薩の最高位の智慧の境地であり、「横超の金剛心」とは他力の信心、願力回向の信心の言い換えです。信心を獲ても等覚の菩薩の智慧の境地に出られるわけがないことは言うまでもありません。これを意図的に誤解させ、信心決定すると51段の智慧の境地を体得できると勘違いさせているのが高森会長です。

余談の話ですが、私も同様の感想を抱いていました。親鸞会会員にありがちな、高森会長を唯一無二の善知識と崇める態度、また世間や人々を見下す傲慢な思想はここから来ていると考えられます。信心を獲ても何も変わりませんし、逆に信を獲た人は喜ぶべきことを喜ばない煩悩具足の我が身に呆れ果て、何と浅ましい奴だと懺悔して謙虚になっていかねばならないように思います。

そして有難い光が差してくるように絶えずお念仏を申して、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳、その他様々な有情非情の御恩に感謝し報謝する人生をと思うようになるのではと思うのです。妙な「優越感」「痛快感」、また選民思想を抱いている内は、きっと一切衆生を平等に救おうとされた阿弥陀仏の大慈悲心が判らないでしょう。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 高森親鸞会では意図的に、さとりと信心を混同させているのでしょうね。

その気があります。会員は信心決定すると信心の智慧を体得し、相当の事が判る、ハッキリするものだと理解していると考えられます。だから信心決定したと信じる高森会長をあれほど持ち上げ、また親鸞会以外の世間一般の人、特に退会者に対しあれほど傲慢になれるのでしょう。

ご信心の徳を讃嘆されたお言葉を、自分が偉くなるように痛い勘違いしているのが彼らです。早くデタラメ創作教義を離れて、「お前が心配するな、私がシッカリしてるから、俺にまかせとけ」という勅命を受けてお念仏して頂きたいものです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

有り難うございました

林遊様

>浄土門と聖道門では、そもそも法門の綱格が違うので、聖道門仏教の用語と浄土門で使う言葉の意味が違います。

>高森親鸞会では意図的に、さとりと信心を混同させているのでしょうね。

ご教示ありがとうございました。
この二つに留意して先のご文を拝読するとよくわかるように思います。
親鸞会のホームページには現在も正定聚は
「正定聚とは、さとりの52位のうちの51段目、あと一段で最高無上の仏になれるという位である。」
と定義されていますが、これは全く間違っていますよね。
この文章ではまるで51位の菩薩のさとりを開くように見えます。そもそも「聚(=ともがら)」を「位」としてしまっています。浄土真宗の基本の言葉の定義をねじ曲げているように思います。

淳心房様
リンク先拝見しました。ようやく理解できました。ありがとうございます。
まだまだ、頭の中で親鸞会に染まった部分があります。今回も思い切って質問して良かったです。ブログの発信先のお目当ては親鸞会に留まる会員の方々かもしれませんが、私のように会は離れましたが、一度染まってしまった頭をリセットするには最高の環境です。
今後もよろしくお願いします。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

「弥勒菩薩の得られた等覚」と「念仏者が得られるとされる等覚」は
園児さんのご質問や林遊さんの回答などでお分かりになられると思いますので
このことについては今回は触れません。

ですが、
>「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」
>大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない

には触れさせていただきます。

>「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」
これは、他の方が言われているように明らかな勘違いであり刷り込みです。

この後に
>大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない
とあることからも「51段目の等覚になる」というのが妄言であるとわかるハズなのですが、「(高森教の)信仰が進んでいる人」には理解し難いことかもしれません。

以下には、『正信聖典』(高森親鸞会発行書物)より抜粋しながら、説明してゆきます。

P56から始まる『白骨の章』では、
「夫れ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、(乃至)人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心に掛けて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」とあります、

 この「人間のはかなき事は老少不定のさかい」と言う箇所は、「自力(自分)のはかなさ、危うさ」を言われている箇所でありこの後の、「他力をたのみなさい」につながります。
 「誰の人も、はやく後生の一大事を心に掛けて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり」は、「阿弥陀仏を深くたのみまいらせて」の「信」と「念仏申すべき」の「行」となっております。「信」と「行」は共に「南無阿弥陀仏」でありますから、蓮如上人は『聖人一流の章』(P54)のなかに
 「一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。」とございます。
 この「不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう」は「本願力回向」のこと指しているのですが、彼(会長)は、「自業自得」にこだわるので、やはり理解し難いことなのでしょう。

また、P46にございます『和讃』、
 超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身はかはらねど こころは浄土にあそぶなり
の「有漏の穢身」は
>大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない
ということにほかならないので、このことからでもやはり
>「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」
ということは、違えていると読むことができます。

 なもあみだ なもあみだ
Abc

聖道門と浄土門の綱格

ども、林遊@なんまんだぶです。

園児さん。
高森親鸞会では、本願力回向ということを正しく説かないから言葉の意味がぐちゃぐちゃになっているのですね。

>「正定聚とは、さとりの52位のうちの51段目、あと一段で最高無上の仏になれるという位である。」
>と定義されていますが、これは全く間違っていますよね。

このような表現は一概には間違いではありません。
ただ、正定聚とは本願力回向の信心の利益であるという視点からの考察がないと、まるで自己が求めた信心(心理的変化=妄想)の意味で理解すると全くの間違いです。

そもそも一般にいわれる『菩薩瓔珞本業経』の菩薩の階位でいえば正定聚とは、
 第一阿僧祇劫(十住・十行・十回向)
 第二阿僧祇劫(初地~七地)
 第三阿僧祇劫(八地~十地)を経過する発心と修行によって到達しうる境の位でした。この阿僧祇とは、数えることができない無量の数を意味するのですが、この無数の三倍の三阿僧祇を経て正定聚に至るというのが聖道門の意です。
少しく頭を使えば、世俗で高森親鸞会に騙されている者が、このような境位に達することは不可能だと解るはずなのでした。
その全く不可能なことを、なんまんだぶの一句におさめて、我が名を称えよ、というのが浄土真宗の「真実信心の行人」でした。信と行です。

おその同行でしたか、

 機を見れば どこをとらえて 正定聚
  法にむかえば うれしはずかし

という句がありますが、正定聚とは機の受け心を表現する語ではなく、法の側から法を受け容れた者を表現する言葉なのでした。

梯實圓和上は、浄土真宗では、

 私達ご法義を味わうときに、人間から言っちゃいけないという言葉、というものがいくらかあるんですよ。
https://goo.gl/Xpzr8Y

と示して下さいましたが「現生正定聚」というような言葉も、我々の側から言えば嘘になるのでした。
ありがたいこっちゃなあと、なんまんだぶ なんまんだぶですね。

もちろん、真摯な求道を否定するのではないのですが、因幡の源左同行は、ただ頂くばかりの全分他力のご法義を、

 ただのただでも、ただならず
  聞かねば、ただは貰われぬ
  聞けば聞くほど、ただのただ
  はいの返事も、あなたから

と、なんまんだぶを称えて、おっしゃる通りでしたと、なんまんだぶと称える道もあるのでした。
林遊は頭が悪いので「教学」というものは大嫌いなのですが、ぐちゃぐちゃと理屈を説く人に騙されちゃイカンと、暇つぶしでネット上で落書きしてます(笑
ともあれ、高森親鸞会は聖道門の理論で浄土教を説くのですが、かっての高森顕徹氏が狂気のように主張していた、聖・浄の「廃立」をすべきかもです。もっとも高森顕徹氏が聖道門と浄土門の綱格の違いを知らないから無理か(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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