HANABI

どれくらいの値打ちがあるだろう?
僕が今生きているこの世界に
すべてが無意味だって思える
ちょっと疲れてんのかなぁ

手に入れたものと引き換えにして
切り捨てたいくつもの輝き
いちいち憂いていれるほど
平和な世の中じゃないし

一体どんな理想を描いたらいい?
どんな希望を抱き進んだらいい?
答えようのないその問いかけは
日常に葬られていく

君がいたらなんていうかなぁ
「暗い」と茶化して笑うのかなぁ
その柔らかな笑顔に触れて
僕の憂鬱が吹き飛んだらいいのに

決して捕まえることの出来ない
花火のような光だとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
僕はこの手を伸ばしたい
誰も皆 悲しみを抱いてる
だけど素敵な明日を願っている
臆病風に吹かれて 波風がたった世界を
どれだけ愛することができるだろう?

考えすぎて言葉に詰まる
自分の不器用さが嫌い
でも妙に器用に立ち振舞う自分は
それ以上に嫌い

笑っていても
泣いて過ごしても平等に時は流れる
未来が僕らを呼んでる
その声は今 君にも聞こえていますか?

さよならが迎えに来ることを
最初からわかっていたとしたって
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
何度でも君に逢いたい
めぐり逢えたことでこんなに
世界が美しく見えるなんて
想像さえもしていない 単純だって笑うかい?
君に心からありがとうを言うよ

滞らないように 揺れて流れて
透き通ってく水のような
心であれたら

逢いたくなったときの分まで
寂しくなったときの分まで
もう一回 もう一回
もう一回 もう一回
君を強く焼き付けたい
誰も皆 問題を抱えている
だけど素敵な明日を願っている

・・・


(Mr.Children「HANABI」より)


2008年の曲ですが、今でも大好きです。
当時は、異動で職場が遠くになって通勤時間が増え、また新天地で知人がいない寂しさもあって、よく口ずさんでいました。
季節は秋から冬へ向かう時で、この時期気持ちも沈む私としては、本当にこの歌詞が心に染みました。

辛い仕事に耐えて毎日を生きているが、空しく月日ばかり積み重ねて、やがて年老いて死んでいかねばならないのか・・・
こんなことが頭をよぎると、ますます空しくやる気も低下してしまいました。

「苦しくても生きなければならないのは、仏法を聞いて絶対の幸福になるためだ。どんなに苦しくても、この目的果たすまでは生き抜かないといけない。自分はまず知り得ないことを知ることができた幸せ者だ」
当時聞いていた教えを明かりに自分を奮い立たせ、聴聞参詣に頑張っていたのを懐かしく思います。

ただ、もうほとんど惰性でした。何千人の参詣者の中で、救われている人は皆無と言っていい状態だったと思います。
なぜなら、皆、口を揃えて「光に向かって進ませて頂きます」と言っていましたから、まだ進む途中の人ばかりだったのです。
「人生の目的は簡単に達成できるものではない。何せ多生永劫の目的だし、何十年かかるかわからない。何千人といる会員の中のほんの一握りが救われるんだろう。自分は果たしてその内の一人になり得るだろうか・・・?」
不安に押し潰されそうな中、とにかく聞き続けるしかないという気持ち一つで続けていました。



今になって知らされるのは、阿弥陀仏の救いは只今なのだということ、私がどこかへ向かって進むのではなく、阿弥陀仏の方から助けに来て下さるということ、阿弥陀仏の本願はこの淳心房一人助けるために建てられたのだということです。

善をやって、信仰が進んで助かるのではありませんでした。
既に阿弥陀仏の方で一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って本願の行として下さっていたのです。
念仏とは、「只今救う」と淳心房を呼び覚ます、救いを告げる御名であり、その仰せを計らいなく聞き受けるのが信心、そして口に称える称名は御恩報謝のお念仏でした。
間違った教えに止まっていてはダメでした。ようこそ私に教えて下さいました。この場を借りて教えて下さった方々に深く感謝致します。

そもそも、「私→弥陀」というベクトルでしか考えられなかったのが根本的な誤りでした。
聴聞をして、おつとめをして、善をして、善ができない、念仏も称えられないと知らされた時に救うなどと、てぐすねひいて待っておられる阿弥陀仏ではありませんでした。
私がどれだけ励もうとも、知らされる自己は如来の見抜かれた自己とは全然違います。私が知らされる知らされないに関係なく、如来が見抜かれた私を如来が救って下さるということだとは知りませんでした。

いつも縦の線を指して、「ここが決勝点、ここがゴールですよ」と教えられましたが、「ここってどこだ?」と常々思っていました。縦の線が遥か彼方に感じられ、果たして自分はそこまでたどり着けるのか不安でした。
しかし、速やかに生死を離れようとするなら、私が進むも進まないもあったものじゃありません。
「弥陀→私」という一方的な救いであり、常に私の側で呼びかけて働き続けて下さっていた真実大悲の御方が阿弥陀仏でした。

何千人の聴衆の中で自分は救われるだろうか? これはつまり、自分は何千人の聴衆の一人であり、阿弥陀仏に選んで頂けるだろうかという心配でした。
しかしそれは違いました。
そもそも本願は、この淳心房一人を救おうと阿弥陀仏が建てて下さっていたのです。他にどれだけの人が聞いていようと、常に阿弥陀仏と私の一対一。常にいま、私のいるここが本願を聞く聞法道場でした。



親鸞会で教えられる活動にどれだけ励んだら、善のできない自分が知らされるんでしょう?
15年、30年と講師部で活動に専念している者達でさえ信仰が進んでいないのでは、一般会員はもはやこの教えでは助かりようがありません。
「善ができないと知らされた者を救う」という条件付きの救いになっているので、只今無条件で救うという本願ではなくなっています。活動に励んだ先に救いはありません。

速やかに生死を離れようというなら、弥陀の名号一つに向かって下さい。迂回の善、化土往生の行である定散二善を、18願の救いを求める人に親鸞聖人、蓮如上人は勧められていません。必要ないからです。
それでも頑なに根拠のない寄せ集め教義を信じて、親鸞会についていくのは勝手ですが、他人まで巻き込まないで頂きたい。
特にこの時期、将来有望な大学新入生を引きずり込むのは止めて頂きたい。
自損損他の罪は免れ難いですから。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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