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親鸞会会員の誤解ー信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

会員の皆さんは、そう思っていませんか。違うんです。大変な誤解です。

こんな誤解が生まれてしまう原因の一つに、高森会長が「真に知んぬ」を

「疑いなくハッキリ知らされた」
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」


と教えていることが考えられます。この間まで『飛雲』に書き込みをしていた「さとし」なる人物も

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「真に知んぬ」を「疑いなくハッキリ知らされた」以外にどう解釈すればいいのでしょうか。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時32分
「真に知んぬ」は「疑いなくハッキリと知らされた」ですよ。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時46分
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と書いていました。彼のこの発言からも、会員は信心獲得した暁には相当の事が「疑いなくハッキリ知らされ」るように勘違いしてしまっていると伺えます。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

この『信文類』のお言葉を親鸞会では

"本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏の覚りが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏の覚りが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか"

と説明し、「真に知んぬ」については

「真に知んぬ」とは、他の宗教のように、疑いの心を抑えて信じ込もうとする信心とは、全く異なる。

「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」驚嘆の叫びであり、今は弥勒菩薩と肩を並べる身であるが、死ねば、"弥勒お先ご免"と最高無上の仏の覚りが得られるのだ。この世と後世(死後)の、二度の弥陀の救いに疑い晴れた、聖人の他力金剛心の表明なのである。

この弥勒と同格の大信心を獲得することこそ、人生の目的である。


と書いています。親鸞聖人が経典や聖教を読み解いて理屈の上で知らされたことを、すべてまるで我が体験のように「疑いなくハッキリ知らされ」るように教えているのですから、誤解するのも尤もな話です。


ここで親鸞会の説が正しいとすると、いくつか矛盾点が出てきます。上の「まことに知んぬ・・・」のお言葉では、親鸞聖人が「疑いなくハッキリ知らされた」ことが二つあります。その二つとは

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。


です。①は弥勒菩薩の成仏の時期について、②は親鸞聖人を含めた「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人が教えられたお言葉です。「さとし」さんは

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>51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員

とありますが、高森先生がどこにそのように言われているのか示してもらえませんでしょうか。

                              投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 20時35分
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と、51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ることを否定しているようですが、それなりの智慧、どころか仏のさとりを開いて仏智でも獲なければ①も②も「疑いなくハッキリ知らされた」とは言えない内容となっています。

もし①が「疑いなくハッキリ知らされた」なら、その人は仏の智慧を身に具えた仏陀です。特別な智慧が授からない限り、弥勒菩薩の成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

ちなみに、「真に知んぬ」が②だけにかかっていて、①にはかかっていないと強弁するつもりなら、その人物はもはや小学生の国語の能力すら持ち合わせていないということです。私の娘が現在小3ですから、もしお近くにお住まいなら一緒のクラスで国語の授業をやり直すことをお勧めしたい位です(笑)

そして②は、主語が「親鸞は」ではなく「念仏の衆生は」ですから、親鸞聖人がご自身を含めた「念仏の衆生」全ての成仏の時期を「疑いなくハッキリ知らされた」ことになります。これは

他人の体験は、自覚はできない

とW氏が教えてくれている通りで間違いです。他人の臨終一念の夕のことまで「疑いなくハッキリ知らされ」ることはありません。こちらも先ほどと同じで、特別な智慧が授からない限り、「念仏の衆生」全ての成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

それに、七高僧方は死後に浄土に往生して正定聚になり、そこで修行して成仏すると教えられていますから、往生と同時に成仏すると教えられた親鸞聖人とは解釈が異なっています。つまり、七高僧方は「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人のようには「疑いなくハッキリ知らされ」ていないことになります。

このように、②に絞ってみても七高僧方と親鸞聖人とで解釈の仕方が異なっています。まして①が体験で知らされるなどあり得ません。飛雲さんの仰る通り、「まことに知んぬ・・・」以下の内容は親鸞聖人がご自身の体験で「疑いなくハッキリ知らされた」というものではなく、経釈を通して理屈として知らされたことです。理屈の上のことであって、信心とは関係ない話ですから、信心の上での疑いの話とは関係ないです。

それを無理やり関係づけ、答えようのない質問をして喜んでいるのが「さとし」という人物です。ですから、以前『飛雲』のコメントにこのように書かせて頂きました。

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残念でしたね、さとしさん。貴方が言っていようがいまいが、「真に知んぬ」は

②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

だけではなく

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

にもかかっているわけですよ。これが判らないなら国語の勉強を小学生からやり直した方がいいです。

飛雲さんが仰っているように、②に関してさえ七高僧と親鸞聖人で違っています。これは信心とは無関係な解釈上の問題です。それを無理やり関係づけて喜んでいるようですが、②が「疑いなくハッキリと知らされた」ことをもって真実信心とするなら、往生と同時に成仏すると疑いなくハッキリと知らされていない七高僧は異安心となります。

また、貴方の釈だと①は弥勒菩薩が竜華三会の暁に成仏することを「疑いなくハッキリと知らされた」ことになります。弥勒の成仏の時期は仏陀の智慧によって判ることですから、さとしさんは信心獲得した一念に仏のさとりを開くと言っているようなものです。貴方が必死に否定しても、「真に知んぬ」=「疑いなくハッキリと知らされた」という意味ならそうなるんですよ。これは勿論

『歎異抄』第十五条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

にあるように「もつてのほかのことに候ふ」です。

答えようのない質問をして喜んでいるようで、何とも幼稚です。七高僧とも親鸞聖人とも違う異安心の親玉を無二の善知識と仰ぎ、思考力を奪われて、組織拡大を「真実開顕」という名目でやっているさとしさんは哀れ哀れです。

                              投稿: 淳心房 | 2018年9月14日 (金) 05時21分
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往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。『執持鈔』(2)

信心獲得したとて「凡夫の浅智」は変わらないのです。特別な智慧が授かるのではなく、「往生ほどの一大事」を「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつる」のが「他力に帰したる信心発得の行者」です。それを特別な智慧が授かって相当の事が知らされるように誤解しているから、高森会長のような人物を絶対視して「蓮如上人以来500年に一度の善知識」などともてはやすのです。また、後生を握られて、高森会長の仰せに何事も何事も無条件に従わなければ後生の一大事の解決はできないように信じ込んでしまうのです。


なお、他にも会員の皆さんは、信心獲得の暁には

・地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
・全ての人は五逆、謗法、闡提であるとハッキリする
・一切の過去も未来も皆分かる
・阿頼耶識におさまっている業が分かる
・経典や聖教のお言葉がすらすら読めるようになる
・人生の目的と趣味生き甲斐の違いがハッキリする
・「人命は地球より重い」とハッキリする


とまぁこのようになるとお思いかも知れませんが、いずれも、聖教に根拠のない高森教のそらごとたわごとから発生する妄想です。『執持鈔』の続きを読まれたらお判りのように我が身の後生すら私の側からはハッキリしませんし、たとえ私のことは判ったとしても全ての人のことがこうだとハッキリ判るものではありません。

会員の皆さんは、このような人生の劇的な変化に憧れるばかりで、肝心の浄土往生、成仏という浄土真宗の目的を知らないと見えます。また、本願力を回向して救う南無阿弥陀仏の名号法を知らず、こちらから救いに向かって進む教えのように思いこんでいると伺えます。このような皆さんの親鸞会教義による様々な誤解が、南無阿弥陀仏のはたらきを阻害する一番の障害に思えてなりません。会員の皆さんには、様々な教義の誤解から解き放たれて、只今、この場で、この私を救う本願のはたらきをそのまま受け容れてお念仏を申すようになってもらいたいです。
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淳心房さんへの支援

ども、林遊@なんまんだぶです。

で、淳心房さんへの支援。

梯實圓和上は「浄土真宗の特長」として、

 「興福寺奏状」や「延暦寺奏状」、あるいは明恵上人の『擢邪輪』などの論難に対して、選択本願念仏の法門の真実性を顕し、浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明していこうとされたのが『教行証文類』だったのです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97

とも云われていました。
この為に自著を「教行証文類」という「文類形式」で著述されたのでした。いわゆる法然聖人の「選択本願念仏」の教えを《証明》するために文類形式をとられたのでしょう。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%87%E9%A1%9E

こういう御開山の根本動機を抜きにして「教行証文類」を自らの字力で読むから訳の判らない高森親鸞会教学になるのでした。ましてや高森顕徹氏は断章しますから、会員はその断片のみを読むのでおかしな真宗理解になるのでしょう。
大昔の高森親鸞会の会員は、文証(教証)という概念も知っていて、ある程度の議論も出来たのですが、最近では「一念覚知」のビックリ・ハッキリ体験だけを主張するのでしょうかね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%95%99%E8%A8%BC

ともあれ、仏とも法とも知らない時に、高森顕徹氏の「刷り込み」(刻印づけともいわれ、特定の思想を学ばされて自己の頭でものを考えられなくなること)からの脱却は、かなり困難なことだと思われます。自己実現とか自分探しというタームに嵌って、高森顕徹というカリスマ風(超自然的、または常人を超える資質を持つ者)妄想に騙されてきたのでしょう。ある意味では、真の思考停(秦の始皇帝のもじり)で、自らの学びを放棄した立場でしょう。
そのような意味では脱会者は、よく脱会できたものだと思っていたりもします。
そんなこんなで、高森顕徹信心を離れた時に、本当の浄土真宗の本願力回向の阿弥陀仏のご信心に遇えるのかもです。知らんけど。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1%E5%BF%83

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
PS
まことにしんぬ、の用例
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E4%BF%A1%E7%9F%A5

Re: 林遊@なんまんだぶ様

ありがとうございます。

そもそも高森会長の目的が「打倒本願寺」「組織拡大」等にあり、「みなみな信心決定あれかし」の気持ちが無いことが、こうした邪義だらけの教義が生まれてしまった根本原因であります。

確かに、未だ騙されている友人、先輩後輩達が多くいる中で自分なんかはよく脱会できたと思いますが、

・教義に疑問や矛盾を感じていたこと(特に、今の救いなのに、とても今救われる教義ではないこと等)
・求道心も、活動も、日常の行為も、自分より明らかに優れていると思っていた先輩が辞めたこと
・高森会長を信じる因縁が尽きたこと
・阿弥陀仏が何とかしてこの淳心房を浄土に導きたいという願力

などがそうなった要因かなぁと今振り返って感じます。

> 高森顕徹信心を離れた時に、本当の浄土真宗の本願力回向の阿弥陀仏のご信心に遇えるのかも

これは私も共感するところですね。高森信心を離れ、染み付いたデタラメ創作教義から離れないと、それと真っ向から対立する本願力回向の行信はどうしても受け入れ難いと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

失礼します。
振り返ると、自分が辞められたのは、「もう求めなくてもいいよ。」「夜行のバスは危ないし、辛いよね。」「世間のことも大切にしないとね。」「正座しても報われないよ。痛いだけ。」「徳育講義を聞くと馬鹿になるよ。」「お金は大切だよ。」「美味しいお酒呑もうよ。」という悪鬼神(正確には善鬼神)の誘惑、はたらきがあったからです。
かなり強力なはたらきだったので、それから仏法に出遇えるまでかなりかなりのブランクができてしまいましたがそれも笑い話になりました。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

私が会から離れた「1つの要因」としまして、

明日ありと思う心の仇桜
 夜半に嵐の吹かぬものかは (『親鸞上人絵詞伝』より)

という『和讃』と、

されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(『御文』5帖目 白骨 より)

という『御文』からでした。

これだけ「明日はないかもしれない」といわれながら「聞法善」といい、いつまでもいつまでも繰り返すことに拙いながらも疑問を持った、そこから「もう少し、御聖教をひらいてみよう」と考える契機となった、ともいえるかもしれません。

 『大谷の教本(『御文』や『執持抄』)』に関しましては、「明治5年の規定」によって流布されましたが、やはり嫌っている部分もございました。
 いまでもこのように、林遊さんなどにツッコミをいれられますが、それでもなお、『お聖教』を手に持っていることは、「あみだ様のおはたらき」なのかなとも思っております。

 わたしの所は、まだ手にとって100年とすこししか経ってはおりませんが、今後ともよろしくお願いします。

Abc

コメント返信

愚愚流様

そういう方もあるでしょうね。普通ならそれで浄土真宗もろとも縁が無くなってしまうところでしょうが、南無阿弥陀仏のおはたらきましませばの今ですね。


Abc様

御聖教を開こうと思われたのでしたら、その頃から高森信心はあまり深くなかったのでしょう。今も残るほとんどの会員は御聖教を開こうとせず、高森教に従って縦の線を目指し横の道を進もうとばかりしています。元々Abcさんのように真宗の知識がある方は少数派ですから、会員は難しい、あるいは読み間違えると思って取り組みもしないのでしょうね。

Re:淳心房さん

こんばんわ、ご返信ありがとうございます。Abcです。

>御聖教を開こうと思われたのでしたら、その頃から高森信心はあまり深くなかったのでしょう。

左様でしょうか、「巧妙に張られている高森の教え」には幾度となく足をすくわれてはしまいますが。

まず、すこし前に示していただいた
「法に依りて 人に依らざれ」というお言葉、

それと『文類偈』『正信偈』どちらの最終句である、
「唯可信斯高僧説」であります。

 「人に依る」つまり「知識帰命」は、今記した『正信偈』の「高僧説(南無阿弥陀仏)」を「高僧(その「人」ということ)」と読み違えることから起こる事柄です。

その流れから林遊さんが「人間親鸞ではなくなんまんだぶの御法義こそ説かねばならないのでは」といわれていることは尤もだと私は考えます。

---
 ここからは、私の独り言として読まれてください。(若しくは読み飛ばしていただいても構いません。)

 ですが、私たちの「(大谷から観て、)外野のもの」としましては、「大谷こそ全てであり、浄土真宗である。」といっていることに端を発さなければ、とも思っております。(このように記しますと各箇所から色々言われますが)

『顕正』(高森顕徹 著)p15、p21
「 一体、教師や布教使という本願寺のつける資格や肩書が説法するのであろうか、そして同行は、その肩書にお参りするのであろうか[乃至]規則にしばられ、その精神を忘れれば、一事が万事この皮肉極まる矛盾となって現れるのである。」

とあり、この箇所の「肩書が説法するのか」という問いかけはもっともかとおもいます。

 ただ、この後に「三願転入」や「善のすすめ」など「真宗ではないおしえ」を掲げ始め、自らがいっていた「戦後の新興宗教が怒涛の勢いでせまってくる」となっていることを留意せねばなりません。

 この、「高森の教え」は「あきらかな異である」としましても、
私がいいたいのは、「「大谷」を絶対権力とし、木辺や横曽根、高田を「浄土真宗ではない」といっている」ところが腑に落ちない箇所であります。

ですから、私は「宗憲2条」を2つ返事で肯定することはできないとともに、今後の課題ともみております。

 なんだか長くなってしまい、申し訳ございません。
---
なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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