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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(11)

真実の行信による利益を述べられた後、続いて聖人は両重因縁についてお示しです。

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。「行文類」両重因縁

ここでは、阿弥陀仏のどのようなはたらきによって衆生の往生成仏が成立するのか、その因と縁とを二種類に分けて示されています。まず最初の因縁(初重の因縁)が、

因-徳号の慈父(名号)
縁-光明の悲母(光明)
果-報土の真身(衆生の往生成仏)

です。父なる名号と母なる光明によって私が仏に生まれることを明かされています。なお、名号と光明は敢えて因と縁とに分けられているだけであって、この二つは分けることができない、不二の関係です。

初重の因縁は、名号と光明のはたらきによって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは行と証とが直接する教・行・証の三法門を表しているというのです。行証直接の三法門とは、例するに、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。『歎異抄』第二条

等に見られる法然聖人の御化導が判り易いと思います。聖道門の諸行に対して念仏の超勝性をあきらかにし、名号の独用(ひとりばたらき)によって衆生が往生成仏することが示されています。この場合、信はどこへ行ったのかと言いますと「行中摂信」と言いまして行の中へ入れてしまっています。

一方、後の因縁(後重の因縁)は次の通りです。

因-真実信の業識(真実信心)
縁-光明名の父母(光明と名号)
果-報土の真身(衆生の往生成仏)

衆生往生のいわれ、南無阿弥陀仏のいわれを聞き受けた真実信心を内因、阿弥陀仏の光明と名号を外縁として私が報土往生し、仏と成ることを顕されています。

後重の因縁は、信心(内因)と光明・名号(外縁)によって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは信と証とが直接する教・行・信・証の四法門を表しているというのです。信証直接の四法門は、『教行証文類』を始め蓮如上人の信心正因称名報恩の御法義に基づいて書かれた『御文章』に特に明らかですね。


ところで、初重の因縁を獲信の因縁、後重の因縁を報土の真身得証の因縁とすると、色々と釈義に合わない部分が出てきます。元々、両重因縁の解釈は、喩えを

もし父なくは能生の因すなはち闕け、もし母なくは所生の縁すなはち乖きなん。 もし二人ともになくはすなはち託生の地を失はん。かならずすべからく父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆゑにこの身あり。『観経疏 序分義』散善顕行縁

の釈により、その釈義は

弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。『往生礼讃』光号摂化

等の義を承けて顕わされたものでした。ここで初重と後重とで果が違うとすると、まず「序文義」の釈が「受身」「この身」という同一の果を得るについて両重を示されているものと合いません。次に、宗祖の釈の上で後重の

能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは・・・

の文を領解することができません。「能所の因縁和合」して信心獲得するなら、「といへども」とはつながらないからです。ですから、初重の因縁も後重の因縁も、共に「光明土に到る」「報土の真身を得証する」という果の因縁を明らかにされたものと見なければなりません。

報土往生という果の真因が名号であることは、『口伝鈔』【2】光明・名号の因縁といふ事

もし光明の縁もよほさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。

にも言われています。その報土の真因たる名号のいわれを聞いた、領受したのが信心であり、この信心がまた涅槃の真因と言われます。じゃあどっちが真因なんだと問われる方もあるでしょうが、どっちも真因です。名号(行)と信心(信)は一応分けて説かれてありますが、行は南無阿弥陀仏という行、信も南無阿弥陀仏という信なわけで、この二つは光明と名号の如く分けるに分けられない不離不二の関係です。

ただ、この行と信がバラバラな状態というのがあります。それが、無信単称の場合や、衆生の側が念仏を自分の功徳のように思って、それを積み重ねて助かろうという自力心で称えている場合です。これでは報土の真因たる名号のはたらきが阻害されてしまい、衆生は報土往生することができません。悲しいことに、念仏称えておっても名義に相応しない、自己流を混ぜた念仏を称えている者がいるのです。それで親鸞聖人、蓮如上人はご親切に名号のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく聞いて信心獲得(領受)しなさいよ、その信心が正因だぞと明らかにして下されたのであります。


この両重因縁釈を是とすれば、『正信偈』の

光明名号顕因縁

とは報土往生、成仏の因縁は名号と光明であると顕かにしたお言葉と言えます。一方、名号を因とし光明を縁として信心を獲ると解釈している方もあります。名号、光明ともに阿弥陀仏のおはたらきですから、そういう解釈もあって然るべきかと思います。しかし間違っても「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、「信心獲得」と称した神秘的体験の因縁が名号と光明ということではありません。その意味で、

********************
 悪ばかり造り続けている私たちが、信心獲得し、本当の幸福になる因縁とは何か。これこそ、全人類が最も知りたいことであり、知らなければならないことである。

 その絶対の幸福の因と縁とを、親鸞聖人は『正信偈』の一行で、

「光明・名号の因縁を顕す」

と明らかにしてくださっている。
『親鸞会公式ホームページ』名号を因とし光明を縁として
********************

というのは誤りです。それに、光明・名号の因縁で信心獲得するなら自力修善は要らないでしょう。自力修善を勧める親鸞会は何重にも間違っています。方便の善とかそれらしいことを言って適当にごまかしているだけで、会員の獲信・往生を願って教えを説いているのはないことがここからも明らかに知られます。


このように、阿弥陀仏の名号と光明のはたらきによって私が仏の教えを聞くようになり、やがて本願を信じ念仏する者に育てられ、摂取不捨の利益にあずかって往生成仏せしめられるまでの因縁を二重に示されたのが、この両重因縁釈です。お判りのように全て阿弥陀仏のおはたらきです。真実信さえ自分で起こすのではなく、南無阿弥陀仏が私の中へ入ってきて帰命の信心となって下さいます。私の力は一切間に合わない、全て如来さまのご用意下された浄土への旅支度に乗託するばかりであると、こう聞き受けたのが信心です。

この衆生往生の道理を、「念仏成仏これ真宗」と言われ、「真宗遇ひがたし」とも仰せられています。遇い難い「念仏成仏」という真実の教えに遇わせて頂き、真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知らせて頂けたことは喜びの中の喜びであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』両重因縁
『安心問答』御文章「五重の義」の光明とは?(摂取の意味で、調熟ではありません)
『安居会読判決』光号因縁
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念仏成仏

こんばんわ、Abcです。

今回も有難く読ませていただきました。
「両重因縁」に於きましては、なかなか説明できない箇所でありましたので、改めて学ばさせていただきました。

>「念仏成仏これ真宗」
こちらは『和讃』のなかの、有名な一節ですね。よく「真宗」というものを伝える看板に「念仏成仏これ真宗」とございます。その看板にもあるように「真宗 = 念仏成仏」なのです。

 この一節の出処は、『浄土和讃』

(71)
念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ

であります。私釈を下に記します。

「念仏成仏=18願」は「真宗」であり、 「万行諸善=19(・20)願」は「仮門(真門)」である。
 権仮(自力)と真実(他力)を区別しなかったならば 自然の浄土(安楽国)を到底知ることは出来ない。

※この中で私は「権仮(自力)と真実(他力)」としるしました。また、「他力」は「自然」とも言われますので、その箇所のお手紙を記載しておきます。

権仮(自力)と真実(他力)
 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。

 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひ自力なればといふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。
 (末灯鈔(2)真蹟 笠間の念仏者の疑ひとはれたる事 より)

自然(他力)
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法(名号法)の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。
 (末灯鈔(5) 自然法爾の事 より)

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

両重因縁釈は中々難しいところでありますが、親鸞聖人が高僧方のどのような御文を基に解釈されたのかを知ることによって何の因縁を顕かにされたのかを学ぶことができます。一つは往相回向の念仏が報土の因であるとする名号業因、もう一つは念仏が我々の心に届いたところの信心が同じく報土の因であるとする信心正因、この二つを明らかにされたお言葉であると伺います。念仏が我々の心に入って帰命の信となりますから、両重因縁釈の後には『集諸経礼懺儀』から二種深信を示して「信文類」へと進む道筋をもう作っていらっしゃるのですね。

二重の因縁を示して、我々が往生成仏するのは全て阿弥陀仏のおはたらきであって自力が雑じる隙は微塵もないぞ、自力の行信を離れて他力往相回向の行信を用いよと、こう仰りたかったのではなかろうかと思います。またそれが、Abcさんが示された自然法爾章のお言葉でしょう。有難いお示しですね。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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