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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(12)

更に往相回向の行信についての解釈が続きます。今回は「行の一念」についてです。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。「行文類」行一念釈

弥陀選択回向の称名と、願力回向の信心、それぞれに一念ということがあります。

行に「則ち」一念あり、また信に一念あり。

行については「則」の字がついていますが、信については「則」の字がありません。信の一念はそのもの当体で顕されているのに対し、行の一念は違います。行の一念は、「称名の遍数について」、念仏ではなく、念仏の数について顕されているからです。

称名の遍数に「」いて選択易行の至極を「」開す、ですから、就顕の法門とこれを言うそうです。対して信の一念は、「」れ信楽開発の時剋の極促を「」す、ですから、斯顕の法門と言われます。参考までに「信文類」の信一念釈を載せておきます。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。「信文類」信一念釈

信の一念は往生の因を直接あらわしているのに対し、行の一念は念仏の数にことよせて、わずか一声の念仏で往生が決まってしまうと「選択易行の至極」を顕されています。我々が往生成仏するのに、これ以上易しい、これ以上楽な方法は無いということを教えられているのです。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。楽なと言ったらお念仏。浄土往生の最高に楽な法、これが釈尊や七高僧方が示して下された念仏成仏の教えだというのです。私には行一念釈にて「行を間違えるなよ」と言われている気がしてなりません。「行は弥陀選択回向のお念仏以外に無いぞ」とお諭しなのではないか。

信心を獲なさい、貰いなさいとこう言われると、それを求めてガタガタと苦労して、一生の間かかっても信心が頂けないように不安に思う方もあるでしょう。それで、どうすれば信心を獲られるかと考えて、自分なりの一番真剣な姿勢で聞法に臨んだり、無常や罪悪をとりつめたり、聞いた体験談の真似事をしてみたり、知識や同行がこうしたらいいあぁしたらいいということを試してみたりと方法論に走ってしまいがちになります。

信心というのは考えれば考えるほど分からないものです。そして、何とかして獲たい、それで安心したいと求めるのですが、形あるものと違って雲をつかむような話ですから、真剣になって求めれば求めるほど苦しくなります。しかし考えても頑張っても求めても何をしても獲られない。果てはどうして阿弥陀さま助けて下さらないんだと阿弥陀さまにまで刃を向ける、そんな始末です。

信心正因、唯信正因、唯信独達、と信心を強調する話を聞いている人はたいていこのようになると思います。信心が報土の因には違いないんだけれども、その信心の何たるかを誤解して、念仏、南無阿弥陀仏と無関係なありもしない信心、安心、満足、ハッキリスッキリ体験を求めることにつながってしまうのです。

信心正因称名報恩のご法義を誤解すると、信心さえあればいい、念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、等の異安心に陥りがちです。特に真宗以外の、念仏を呪文やまじないの類、また他宗の題目と同類かその変化形位にしか思っていなかった人にとっては。そのような人がいきなり信心正因称名報恩と聞いても何のこっちゃとなるだけではないかと思われます。これではせっかく親鸞聖人が行中摂信から信を別開して明らかにして下されたというのに、聖人のお心に背く結果となるでしょう。


信前だろうと信後だろうと関係ありません。念仏は阿弥陀仏が選択し、往生の行として唯一つ我々に称えよと回向して下さった至易最勝の妙行ですから、称名それ自体は正定業に違いないんです。これを知らない人は、まずそこから理解する必要があります。釈尊や七高僧方が念仏一行を勧める理由はここにあるのです。呪文やまじない、題目なんかと一緒くたにして「念仏くらい・・・」と思ってもらっては困ります。

そして、念仏自体には自力も他力もありません。これを称える人の心に自力、他力の別があるのです。念仏を称えながら大慶喜心を獲られない、仏恩を報ずる心が起きないのは、念仏のこころを知らずに我が善根功徳としているからです。阿弥陀仏の与えられし往相回向の大行であることを知らないからです。

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
「化身土文類」真門決釈

ここではまず「専修にして」とあります。この世からの出離を願い、往生を願った上で、この悪凡夫が助かる道は念仏しかないと念仏一行を往生行として称える人です。だもの、それ以外の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養等の助業を兼行して往生の助太刀にしようとか、五正行以外の雑行にまで手出ししてあれもこれもとやっている者が「大慶喜心を獲」られないなんて、そんな事当たり前すぎるほど当たり前じゃないか。

釈尊や諸仏はおろか阿弥陀仏の脇士さえも拝まず、ただ阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来、南無阿弥陀仏のみを本尊としているのは、「ただ念仏」のみが我ら末代不善の凡夫の助かる道だからです。そしてその念仏は、我が善根功徳ではない。「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という如来の喚び声であると共に、我々の心へ入って来て疑いを除きさとりを獲させる帰命の信となってくださるもの、それが念仏なんだ。我々は大悲招喚の声として念仏を称え聞き、ただなんまんだぶに往生をおまかせするばかりなんだ。

だから、色々と迷う必要はない。信心がどうだとか、自力だとか他力だとか、称え心がどうだとか、お前の考えに用事は無い。「お前を浄土に迎えて仏にするぞ」という本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。これでこの度の往生は一定だと如来の方できちっと決め定めて下さるんだ。

このようにただ念仏で往生すると心が定まったのが信心です。獲る、頂く、貰うと言うけど、ものを貰うように何かを頂くんじゃない。我が往生は念仏によるしかないことに疑いが無くなってしまった、それが信心であり、この信心が往生の正因だ。

そしてその上の称名念仏は如来我が往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と言わざるを得ない。信心が正因なら称名は報恩。一声の念仏をも待たない究極の慈悲だから、仏の御恩に報いざるを得ない。信心を獲た上の称名はもはや自分の功徳として称えるのではなく、如来さまの御恩に報いる行、本願が弘まってゆく報恩の行だと明らかにして下されたのが蓮如上人でございます。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。信心を獲る方法が判りませんもの。楽なと言ったらお念仏。その初一声のところで往生が決まってしまうという阿弥陀仏のお慈悲のきわまりを示されたのが

選択易行の至極を顕開す

と言われたお心かと伺います。これは勿論、下のリンク先にあるように、阿弥陀如来の願力一つで救われることを顕しています。一声称名することによって始めて往生の因が決定するとか、あるいは本願を信受したとき(信の一念)に、同時に最初の一声が必ず称えられるといったものではないことに注意が必要です。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六文字ですが、我々の往生はこれ以外無いし、仏教もこれ以外無い、これが全てと教えられたのが法然聖人であり親鸞聖人であり蓮如上人です。なんまんだぶがアルファでオメガってのはこういう事かな。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心論題』行一念義
『21世紀の浄土真宗を考える会』行の一念
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

>南無阿弥陀仏。字にすればたった六文字ですが、我々の往生はこれ以外無いし、仏教もこれ以外無い、これが全てと教えられたのが法然聖人であり親鸞聖人であり蓮如上人です。なんまんだぶがアルファでオメガってのはこういう事かな。

まことにありがたいことであります、われわれ「信心の行者」においては仰るように「なんまんだぶがアルファでオメガ」であります。以下には上の文をひとつひとつ区切って、考察したものを載せます。ご一読いただけると幸いです。

>南無阿弥陀仏。字にすればたった六文字ですが、
 これについて蓮如上人は「無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」(『御文』より)といわれております。この「南無阿弥陀仏」は、「名号法」であり、「如来の教法」ともいわれます。

>我々の往生はこれ以外無い
 左様であります。源空聖人も「末法五濁の凡夫には、選択本願しかないのだ。」といわれております。その理由として、「お釈迦様が還帰されてから歳月が経ってしまっているから」ともいわれております。

>仏教もこれ以外無い
 正しくは「浄土門はこれ以外無い」ですね。ただ、末法五濁の私たちにおいてはこの阿弥陀様がおつくりになられた「名号法(六字の嘉号)」しかありません。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

この度もコメントを頂き、ありがとうございます。
コメントにある根拠を探せば以下のようでしょうか。

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(『御文章』5帖目13通)

まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。またこのなかに「遐代」とは、『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐きを挙げて邇きを摂するなり。しかれば、法滅の後なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。末法すでにしかり。いかにいはんや正法・像法をや。ゆゑに知りぬ、念仏往生の道は正像末の三時、および法滅百歳の時に通ず。(『選択本願念仏集』随自随他)


>「浄土門はこれ以外無い」

⇒それが角が立たない言い方でしょう。しかし、仰せのように末法五濁の世において、我ら造悪不善の凡夫にとっては念仏往生以外に出離、往生、成仏の手立てがありませんから「仏教はこれ以外無い」としました。また

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(『御文章』5帖目9通)

を承けての意もあります。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。
ご返信ありがとうございます。

>我ら造悪不善の凡夫にとっては念仏往生以外に出離、往生、成仏の手立てがありませんから「仏教はこれ以外無い」としました。また、『御文章』5帖目9通 を承けての意もあります。

 さようでしたか。そのような意でありましたならば、仰るとおりかとおもいます。
また、『和讃』(『正像末和讃』)には、

(11)
末法第五の五百年 この世の一切有情
 如来の悲願を信ぜずは 出離その期はなかるべし
(12)
九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます
 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益自然なる

とございます。以下に簡単にですが、記しておきます。

一切有情
こちらは、私たち「信心の行者」のことをいわれております。他の言い換えとしまして「一切衆生」というのもございます。

九十五種
こちらは「自力の行い」をいわれております。言い換えとして有名なのは蓮如上人の「雑行雑修自力のこころ」(『領解文』)ですね。

如来の悲願
・如来の悲願
・唯仏一道
・専修・専心
・如来の教法
・自然


等など、さまざまな言われ方をされておりますが、これらは「名号法」である「南無阿弥陀仏」におさまっていますので、この仏智を信知させていただくことによって、この「迷いの世界」から出離させていただくのです。ただ、信知させていただいても「私がハッキリ・スッキリ体験」をするというものではないので、この辺りを未だ会員の方は留意していただきたい所ではあります。

この度は、ご返信ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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