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『歎異抄』という名の由来も、「摂取不捨の利益」も、何一つ理解していない高森顕徹会長

先日10月13日(土)、14日(日)は親鸞会で報恩講が催され、高森顕徹会長の話がありました。今回は

歎異抄第一章にある「摂取不捨の利益(りやく)」の世界とはどんな世界か?

という質問に関してだったそうです。しかし内容を聞けば、創価学会の信心に加えて親鸞聖人の言われたことのない珍らしき法を説いていただけ。これで親鸞聖人の御恩に報いる講のつもりかと言いたくなります。もしも御開山が高森会長の話を聞いたとしたら、どんなにか悲しまれることでしょう。なお、話の一部は

『飛雲』親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』有名俳優のトークと歌。そして映画「歎異抄をひらく」制作発表しかなかったような60周年大会(2018年10月13日14日親鸞会館報恩講について)

にて既に取り扱われています。


当ブログも内容を一つずつ区切って見ていきます。まず『歎異抄』という名の由来について高森会長は

親鸞聖人が教えられたことと異なることに対する歎きであることから『歎異抄』

と話していました。これに関しては全く的外れではありませんが、唯円房自身が語っていることとは違います。それについては「後序」にある通り、

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

ということです。一室の行者のなかに、幸いに念仏申しながら、報土ではなく化土に生まれる同行がいること、すなわち信心の異なる同行がいることを歎き、そういう同行がいないように筆を執ったというのです。

一室の行者」とは同じ念仏の教えをうけた同門の人々ということで、第六条で言えば「専修念仏のともがら」のことです。念仏以外の助業を兼修していたり、五正行以外の雑行を兼修していたりしたら「専修念仏」になりません。でははたして親鸞会の会員は「一室の行者」「専修念仏のともがら」の中に入るのかどうか。こんな事は論ずるまでもない問題ですね。そういう者達が『歎異抄』について話をするとか、「摂取不捨の利益」がどうだとか話をする事自体、ギャグ以外の何物でもありません。


次に、話の中心である「摂取不捨の利益」については

1、阿弥陀仏の誓願、本願によって絶対の幸福の身になったこと

と説明し、その「絶対の幸福」とは

2、死んだら阿弥陀仏の浄土に往って生まれることがハッキリすること

だと話していました。更にここで「無明の闇」の語を出し、それは

3、「死んだらどうなるか分からない心」「なぜ生きるか分からない心」

なのだと解説。お判りの通り、浄土真宗ではなく、いつもの高森教の話をしただけでした。

1については、そんな「絶対の幸福」という語が連想させるような、莫大な幸福感が得られ、その幸福感が常に満ち溢れているといったものではありません。それに第一、「摂取不捨」とは

一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『観無量寿経』真身観

から出てきたもので、阿弥陀仏の光明は「念仏の衆生」を「摂取して捨てたまはず」です。三願転入の教えだとか言って雑行や雑行もどきの組織拡大活動に走っている会員が「念仏の衆生」なのか。これも先ほどと同様に論ずるまでもない問題です。阿弥陀仏の光明は雑行を修める者を照らし摂めることはありません。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

会員の皆さんは、「摂取不捨の利益」の世界がどんな世界かを知る前に、どのような者が「摂取不捨の利益」にあずかれるのか、親鸞会はどのような団体なのか、まず自分達自身を知った方が良いと思います。

さて、さすがに1だけでは非難を免れないからか、高森会長は「絶対の幸福」を2の意味で説明していました。が、これも聖教に反する珍しい教えです。

『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

を読まれればお判りのように、信心獲得とは死後がどうなるかハッキリすることではありません。

死後どうなるかまで含めて、全て阿弥陀仏に、本願力におまかせすること

です。これが「摂取不捨の利益」にあずかった念仏行者の信心ですから、「死後どうなるかハッキリする」という神がかった智慧を体得することとは違うのです。

この違いが理解できない高森教徒は盲目的に高森会長の説を信じ切っていますが、それは教えの正しさ云々ではなく、何十年と信じて従ってきた教えが今更間違いであっては困るという我執ゆえではないでしょうか。

これまでの事がお判り頂けたら、3もデタラメであることが明らかに知られると思います。「無明の闇」とは言葉を換えれば「本願疑惑心」であり「自力の心」です。それは

「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」という本願を疑う心

であって、その「無明の闇」が破られても死後どうなるか分かるわけでも、「なぜ生きる」かの答えが分かるわけでもありません。親鸞聖人は「なぜ生きる」かの答えを示された方ではなく、我々の浄土往生、成仏の道である「念仏」を教えられた方です。その「念仏」の信心も教えられていますが、とにかく

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

と主張する高森会長の信心とは正反対であることはまたまた論ずるまでもない問題です。


親鸞聖人の教えによって人生は「お念仏申すための人生だった」と知らされたというのが淳心房の領解です。これに同調される方もあるでしょうし、されない方もあるでしょう。あるいは私とは全く違う領解の方と色々あると思います。「人生の目的」「なぜ生きる」の捉え方は他力の信心とは無関係であり、各人各別で一つに限定されるものではありませんから、この辺は自由で良いのです。

「人生の目的」「なぜ生きる」の答えではなく、全ての衆生(私)を迷いの世界から出離させ、往生成仏させるという「阿弥陀仏の目的」、その目的を果たす(全ての衆生が往生成仏する)万人共通の道である「念仏」を明示されたのが親鸞聖人です。「人生の目的」「なぜ生きる」ではどうしても自分が主体となって阿弥陀仏の救いを求めていく方向に走りがちです。それが親鸞聖人の誡められた「自力の心」であり、「無明の闇」です。

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。「総序」

二日目はこの御文を出して話をしていましたが、親鸞会の教えはどう考えても「無明の闇」を深めるような教えなので、それをいくらまともに信じて聞いたところで「無明の闇」は破られません。我が身の無常、罪悪を思い、迷いの世界からの出離、往生を願うなら、

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

と仰せのように専ら如来選択回向の念仏一行を修め、ただ願力回向の信心を崇めて頂きたいと思います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。
今回も有難く読ませていただきました。月並みですが、思ったことを記してゆきたいと考えております。

>「念仏を称えると極楽浄土に生まれる」というのは間違い(高森さんの主張)
 これだと「念仏を称える」人は信・不信どちらとも往生するような感じになってしまうので、少し直すとすれば
 「念仏を称えて、極楽浄土に生まれようと願う」というのは間違い(修正後)

でしょうか。もし、この主張を通すのでしたら、その結果わかることとしまして、
「高森教は高森教であり、いよいよ浄土真宗ではない。」ということです。

この修正後の文を漢文風にしますと、
「「称念佛(称 帰命尽十方無碍光如来)故 願生安楽国」者違也。」です。

わたしは、よく「天親の回向文」を用いてますが、その内容として
世尊一心 帰命尽十方無碍光如来 願生ま安楽国」で、これに先ほどの
「称念佛(称 帰命尽十方無碍光如来)故 願生安楽国」也。
 をならべると、いよいよ方向性が違っていることがわかります。

そのように記しますと、「念仏ないから信心ひとつ」という「信心」は、色々あるとは思いますがすくなくとも「弥陀より賜りたる信心」ではないことがわかるかと思います。また、「弥陀より賜りたる信心 = (浄土)真宗」でありますので、その教えは、やはり「真宗」ではないのでしょう。

 すこし、脱線してしまいましたが 私が思ったことを書かせていただきました。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

高森会長の主張はこちらで勝手に修正はできません。私が言いたかったことは、高森会長の信心は念仏と無関係な信心であることです。他力の信心とは

念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心

ですから、

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

と主張する高森会長の信心は悟りのような何か特別なものであって、念仏とは別の代物、他力の信心とは別の代物だと言いたかったわけです。

なお、念仏を称える人で信心が浅い人は化土往生、深い人は報土往生すると聖人は仰せです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。(末灯鈔12通)

Abcです

おはようございます、Abcです。

>私が言いたかったことは、高森会長の信心は念仏と無関係な信心であることです。他力の信心とは

念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心

ですから、

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

と主張する高森会長の信心は悟りのような何か特別なものであって、念仏とは別の代物、他力の信心とは別の代物だと言いたかったわけです。

かさねがさねのご解説ありがとうございます。『末灯抄』からの引用だったのですね。ありがとうございます。

改めて、「高森さんの主張」を「親鸞が『末灯抄』にていわれている言葉(今しがた淳心房さんが示していただいた文献)」から抜き出しますと

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」というのは間違い

≠弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

でしたね。ご指摘ありがとうございます。
 いずれにしましても「名号をとなふる = 真宗」であり、「名号をとなふる = 念仏」でありますから、私も巻末にて述べました

「念仏ないから信心ひとつ」という「信心」は、色々あるとは思いますがすくなくとも「弥陀より賜りたる信心」ではないことがわかるかと思います。また、「弥陀より賜りたる信心 = (浄土)真宗」でありますので、その教えは、やはり「真宗」ではないのでしょう。(私の発言)

と続きます。
Abc

Re: Abc様

>念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い
>
>=「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふる」というのは間違い

上の等式は成立しないと思います。あくまでも、

「念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い」と主張する高森会長の信心は、「念仏を称えると極楽浄土に生まれることができると深く信じた心」という念仏の信心、他力の信心とは別の代物

だということです。ですから、親鸞会が「弥陀より賜りたる信心」だと主張していても、

>すくなくとも「弥陀より賜りたる信心」ではない

というAbcさんの仰ることはご尤もです。

行信不離

ども、林遊@なんまんだぶです。

仏教が、信仰型の宗教や哲学、一般の思想と最も異なる点は「行」の有無です。仏教は「信解行証(しん・げ・ぎょう・しょう)」というように実践しなければ証果がなく、日々の生活の中で教えの行が実行できてこそ、仏道の真の具体的意味があるのでした。

そもそも本願を信ずるとは、第十八願の「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん」という三心一心の「信」と、乃至十念のなんまんだぶと称える「行」を信ずることです。

法然聖人は「つよく信ずるかたをすすむれば邪見をおこし、邪見をおこさせじとこしらふれば、信心つよからずなるが術(すべ)なき事にて侍る也」『和語灯録』と述べておられました。
信心を強く勧めれば、行を忘れた邪見に陥り、称名(なんまんだぶ)を称えることに工夫を巡らせ勧めれば(こしらふ)、信心を忘れた自力念仏に陥るということでしょう。

御開山は、この行と信を「信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし」(御消息(7))と示されたので古来から「行信不離」という名目を使います。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

この「念仏」と「信心」の関係を詳細に論じられた梯實圓和上の講義録を「行信不離」のノートにUPしておきました。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

ともあれ、阿弥陀仏の「第十八願」があるから、釈尊の説かれる「本願成就文」が成立するのですが、高森親鸞会では成就文の一念の「信」に拘泥するあまり、救済の法(なんまんだぶ)を忘却しているのでしょうね。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

この度も有難い教えを紹介して下さりありがとうございます。

親鸞会では念仏をお礼としか説いていませんので、何を「信」ずるのか、何ゆえ念仏は有難いのか、会員は理解できていないと見えます。それで信心の何たるかを誤解して、林遊さんがいつも仰っている「ありもしない信心」、ハッキリスッキリ体験を追い求めて彷徨っているのでしょう。如来から何を賜るのか。信だけじゃない。行を賜り、信を賜る。その行と信は二であり一、一であり二という不離不二の関係である。こういうことを分かって頂きたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

信因称報説の弊害

ども、林遊@なんまんだぶです。

>親鸞会では念仏をお礼としか説いていませんので、何を「信」ずるのか、何ゆえ念仏は有難いのか、会員は理解できていないと見えます。

高森親鸞会では、覚如上人や蓮如さんが示された「信心正因 称名報恩」説をドグマ(固定された堅固な信条)化して、御開山が展開された躍動する〔なんまんだぶ〕の「教・法」を理解できないのでしょう。

御開山は「教巻」で、

 それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。p.135

とされ、拠るべき経を指定され、そして「経」に拠って浄土真宗の「宗体」を決示され、

 ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。p.135

と、「仏の名号をもつて経の体」である、とされたのでした。
つまり、浄土真宗とは「仏の名号を体」とするご法義であり、なんまんだぶが「教」であり、浄土往生の「法」であり、それは我々が修する「行」である、と展開されたのが御開山の『教行証文類』なのでした。名号は「教」であり「法」であり、我々が修する選択本願の「行」のご法義なのでした。
高森顕徹氏はこれが解らんからありもしない「行」無き「信心」に狂奔したのでした。高森親鸞会の不幸の始まりです。← VS 絶対の幸福という妄想(笑 

なんまんだぶと称える「行」は、衆生を浄土へ運載する「法」であるから、御開山は、なんまんだぶの「行」を顕す「行巻」で、

 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。p.189

と、なんまんだぶの船に乗託する「乗船譬喩」を説かれたのでした。
この乗船譬喩を『浄土文類聚鈔』では、

 いま庶はくは道俗等、大悲の願船には清浄の信心を順風とし、無明の闇夜には、功徳の宝珠を大炬とす。心昏く識寡なきもの、敬ひてこの道を勉めよ。p.484

と、「清浄の信心を順風」とし、「功徳の宝珠」のなんまんだぶを闇を破する大炬として安養の浄土を目指せとされたのでした。
それが「誓願一仏乗」という「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」p.737 の、なんまんだぶの船に乗るご法義でした。

(98)
小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき p.617

仏教では「小乗」「大乗」という「乗」という語を使いますが、自らの拵えた「信心」を離して、誓願一仏乗の、なんまんだぶを称える「如来の願船」に乗託するのが浄土真宗のご法義なのでした。
「信因称報説」に呪縛されている人には解らんのだろうけど、どうでもいいか(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

まったく、高森会長の邪義のせいで、「信因称報説」まで悪いように思えてしまいます。

なんまんだぶこそが教えであり、法であり、行である。それは私が修める凡夫自力の行ではなく、「助けるぞ」と回向せられる他力の行なのだと本願のはたらきを信ずる。親鸞会では、最初にして根本であり肝心の

「なんまんだぶこそが教えであり、法であり、行である。」

が抜けてしまっていて、ただ信心のみが独り歩きし、更に暴走していますから、そんな教えをまともに信じて行も信も判るわけがないのでした。で、この度またも「三願転入の教え」を復活させて会員に化土の行信(実態は流転輪廻の因、必堕無間の因)を授け、迷わせています。会長を信じるしかない会員は、哀れ哀れです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

信因称報説

ども、林遊@なんまんだぶです。

特定の用語を教条化してしまうと、その言葉の持っている意味内容を自分で考えることをしなくなります。悪しきドグマ化です。
何故、その言葉(用語)が使われるようになったのか、という考察をしてこそ、言葉を生みだした思想の背景を知ることができるのでした。
高森親鸞会では「称名報恩説」を、たすけて頂いた後のお礼だから、信前には称えなくてもよい/称えてはいけないと云うと仄聞しますが、こういう発想こそ言葉のドグマ化でしょう。

梯和上は、『法然教学の研究』で、

「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」

とされておられました。御開山の晩年の御消息を拝見しても法然聖人を語られることが多く、『歎異抄』では、関東から訪ねてきた門弟の問いに答えて「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と断言されておられましたです。
たしかに、浄土真宗の先輩方は御開山の仏教思想を把握する為に各種の名目(教義上の術語)で、御開山の思想に補助線を引いて我々に理解できるようにして下さいました。「信因称報説」も、そのような補助線であって、これをドグマ化すると返って御開山の思想を誤解することもあるのでしょう。

御開山を理解する為には、法然聖人を通して理解するのが最も正しい学び方であると言われてますが、江戸時代と違って「宗我」に囚われることなく、

(99)
智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ(源空讃p.595)

と、法然・親鸞両聖人の示して下さった浄土を真実とするご法義を学んでいきたいものですね。

宗学というものは「ドグマ化」しやすいのですが、鈴木大拙師は『浄土系思想論』で面白い視点を提供していました。

『浄土系思想論』
https://goo.gl/XpGsrn

ともあれ、「信因称報説」について考察されておられた梯實圓和上の論考をリンクしておきます。一般の講義ではもっと過激なので面白いのすが、一応本願寺の名による出版の著書ですから筆を抑えているのかもです(笑

「信因称報説の確立」
https://goo.gl/w3jky2

もっとも林遊の場合は、愚直になんまんだぶを称えて西方浄土へ往生していかれた両親や越前の先輩同行を真似て、なんまんだぶを称え慶んでいるのであって、教学を学ぶことは暇つぶしです。と、いうか愚直になんまんだぶ称え安心して慶んでいる門徒に、自覚としての「信心」を説いて驚かす輩に対抗する為に「念仏成仏」のご法義を学んでいるという面もありますです(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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