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仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺はこの世に仕事するために生まれたんじゃない。食うて糞して寝て起きて死ぬばかり、そんなことのために生きてるんでもない。この人生、ひとえにお念仏申すための人生です。

何のために生まれてきたのか。本願を信じ念仏を申して二度と迷わない身となる。これが第一の目的で、自分がそういう身となったならば今度はその喜びと共に有縁の方々に本願をお伝えする。これが第二の目的です。そして浄土に参った暁にはこの上ない悟りを開いて一切衆生を思うが如く利益する。これが第三の目的です。

迷いを離れ、往生成仏する万人共通の道。本願を伝え、御恩に報いる道。一切衆生を救うてゆく道。それが「念仏」であり、先の三つの目的は往相回向の「念仏」によって達せられますから、この人生はお念仏申すための人生だというのが淳心房の領解です。ですから、当然お念仏申すことが人生の中心になければならない・・・はずです。


ところが、現実としては生活が中心になっています。仕事の合間にお念仏、移動の間にお念仏、家事や育児の間にお念仏、ブログを書いている間にお念仏・・・。お念仏が出てくるのは有難いことだけれども、これでは仕事や生活が主人で、お念仏は客人、脇役となっている感が否めません。迷いの深い自分は、気が付くとお念仏と生活の立ち位置が逆転しています。

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
『御一代記聞書』(157)

「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰せられたとあります。主人が誰なのか、客人が誰なのかすら分からなくなってしまう。そんなことは普通はあり得ない話ですが、そのあり得ないことが自分にあり得ている。何と恥ずかしいと思うと共に、やはり法を聞き続け、お念仏を相続してゆく重要性を痛感します。それでいくと、

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。
『御一代記聞書』(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。


のお言葉も、当面は厳しく聞法姿勢、聞法精神を正しているお言葉ですが、上に示した主人と客人を間違えぬようにとの御指南であるとも私には受け取れます。


本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。

六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん


真宗宗歌でも「六字のみ名をとなえつつ」世の生業にいそしまんと、六字の御名を称えることが先です。宗歌に触れる度、主客が逆転している浅ましい自分だと気付かされ懺悔すると共に、仏法が主人であることを再確認し、この宗歌の通りに生きていきたいと思います。

まぁ現在の自分の仕事は宅配関連で、はたを楽にするというよりはどうも欲望の増長をしている感が否めなく、また理不尽なことも多くて「おかげさまで生活させてもらえるのだ」という心を保ち続けるのは自分には極めて困難ですがね(;^ω^) 世の生業も御恩報謝と達観できるようになるには先は長そうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
仏法を主とし(真宗の味わい)
真宗宗歌
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「念仏を信じる(行う)御計らい」と「念仏を広めたいという御計らい」

こんばんわ、Abcです。
 わたしは「なにかの合間にお念仏が出てくる」それでもいいとは思いますが、蓮如上人が言われた「まことの仏法者としてあるべき姿」としては上のようなのかもしれませんね。

さて、
>本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。(淳心房さん)

確かに「往相の回向」としましては、「本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい」でありますが、この「弥陀他力の回向」は「往相の回向」ともう一つあることは、既にご存知かとおもいます。

そのことを『正信念仏偈』には、
 「往還回向由他力 正定之因唯信心」と説かれていますように、

「還相の回向」というおはからいもあるのです。
(願では「第二十二の願」がそれにあたります。)
 ですから、そのあとに淳心房さんもいわれているように、
 「信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。」と「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と「真宗ひろめたい」と心にもたれて広める方こそ「仏法者(念仏者)」とされるのではないでしょうか。まことにありがたいことであります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。

私はまずはとにかく生活の中で少しでもお念仏を申そうと勤めてきました。それで知らされてきたのが、この記事で書いた仏法と世間の主客逆転です。相変わらず如来に背き続ける浅ましい心しか持っていない、情けない自分です。そこを反省し、我が身を法に浸さなければならないと再認識させられて書きました。

さて、後はAbcさんも仰せられているように、往相だけではなく還相の回向ですね。伝え方に悩むことはしばしばですが、人に伝えたいと思わない信仰は如何なものか、それは本物なのか、と思います。往生の志願と共に、本願を弘めたいという志願をも満たして下さるのが御回向のお念仏という桜井和上のお説教が特に味わわれます。

そこで本願を弘めるということで言いますと、ブログはとてもいい手段だと思っています。会員、元会員を主客として書いてはいますが、どんなご縁で当ブログをご覧下さるか分かりません。当ブログを縁として浄土真宗を知り、本願を信じ念仏して頂くご縁となればこれに勝る御恩報謝はないと思います。Abcさんも御恩報謝にお忙しいかと存じますが、どうぞお体に気をつけて有縁の方々をご勧化下さい。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

淳心房先生

9月30日のコメント欄で、私に対し「仏法をたふとくおもう心の厚い方」等と過分な評価をしていただき恐縮の限りです。

しかしあれからよくよく考えてみたところ、私にはそのような殊勝な心など微塵もないと気付かされました。

浄土真宗を信仰するのも、浄土で楽をしたいからであり、いや、楽できるなら別に阿弥陀仏の浄土でなくてもよいとも思っていますし、また名号・形像の保存・切り抜きも“大切なものだから”という思いからではなく、“これをしないと何か悪いことが起こるのでは”と、まるでタタリでもあるかのような思いでやっておりました。

つまり、仏法を尊いとも思わず、浄土に行きたいとも思わず、阿弥陀仏に向かう気もないのです。

こんな私を正しく本願に向かわせるにはどうすればよいのか、そこで教行信証信巻に
「この無上菩提心はすなわちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなわちこれ度衆生心なり。」とあります。

もちろんこれは真実の信心のことを表されたものと思いますが、信前の求道心と置き換えてみて、(「菩提心をなめるな」と怒られそうですが)
稚拙低劣であっても“仏になろうと願う心(願作仏心)”と“すべての衆生の苦しみを除こうと思う心(度衆生心)”を起こして求道すべきなのでしょうか?
それとも起こさずに求道すべきなのでしょうか?

自分で願作仏心・度衆生心を起こそうとしても、所詮それは虚仮不実雑毒自力の心でしかありませんし、起こさないでいると“浄土で楽をしたい”という漫然怠惰な求道になってしまいます。

正しい求道の心構えというものを教えていただければと思います。

さて前回質問した「新聞雑誌に記載されている名号形像の対処方法」ですが、西本願寺相談センターにお伺いしたところ…

○西本願寺でも特に定まった方法はなく、燃やすなどということもしない。
○名号形像を大切にする心は尊いが、記載媒体一つ一つに対処していればキリがないので、適度な対象基準を決める。(例えば御聖教は保存し、それ以外は廃棄するなど。)それは個人の判断でよい。
○名号形像を自分が何と思っているかが大事であり、廃棄したからといって、何か悪いことが起こるというようなことは決してない。

…と、お答えいただきました。

Re: 猿松様

よくご自分の心というものを観察されていると存じます。

> 浄土真宗を信仰するのも、浄土で楽をしたいからであり、いや、楽できるなら別に阿弥陀仏の浄土でなくてもよいとも思っていますし、また名号・形像の保存・切り抜きも“大切なものだから”という思いからではなく、“これをしないと何か悪いことが起こるのでは”と、まるでタタリでもあるかのような思いでやっておりました。
>
> つまり、仏法を尊いとも思わず、浄土に行きたいとも思わず、阿弥陀仏に向かう気もないのです。

私も似たような心しか持ち合わせておりません。そのような私達がどうして(信心浅くとも)仏法を尊いと思い、浄土に往きたいと思うようになったのか。これは思ったんじゃない、思わされたんです。何が思わせたのかというと、阿弥陀仏の大慈悲心、摂取不捨の親心です。

親鸞聖人は

十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる

のご和讃の「摂取」について

「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」

と左訓しておられます。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%91%82%E5%8F%96%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%99%E3%81%A6%E3%81%96%E3%82%8C%E3%81%B0

常に真実に目を背け、真実から逃げ続けているのが私達の姿です。そんな者をどこまでも追いかけて必ずおさめ取り、浄土へ迎え取ろうというのです。猿松さん一人を浄土へ迎えてこの上ないさとりを開かせんがために、真如の世界からじっと座しておれずに娑婆まで立ってやって来られたのです。そして

「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」「我が名を称えて必ず浄土へ生まれると思ってくれ」

と真実の御言葉で喚び続けられているのです。この「南無阿弥陀仏」の六字のこころを受けてみれば、この生死出離の問題に関して己はあまりに無力であり、ひとえに本願他力にまかせてお念仏申すよりないと知らされます。


> こんな私を正しく本願に向かわせるにはどうすればよいのか

これは「教えられれば正しく本願に向かえる」という心から起きるものでしょうが、残念ながら私達の本来ある姿としては「正しく本願に向かえる」者ではありません。私達には真実心も、真実の信楽も、真実の回向心も何も持ち合わせておりません。だから阿弥陀仏は本願において三心を誓われ、それを回向するぞとお誓いになっているのです。その親心をただ真受けにその通りと聞かせて頂くほかにはありません。


> 正しい求道の心構えというものを教えていただければと思います。

法然聖人は『選択集』三選の文においてまず

それすみやかに生死を離れんと欲はば

と教えられています。速やかに迷いの世界を離れようと思ったら、ということですね。仏教の目的は転迷開悟、成仏であることはご存知かと思いますが、浄土教は阿弥陀仏の浄土に往生して仏果を得ようという教えです。「浄土宗」「浄土真宗」という名前自体、往生浄土宗ということで浄土に往生することを宗とする教えですから、

流転輪廻の迷いの世界から離れよう
阿弥陀仏の浄土に往生しよう

というお気持ちで、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けようと聴聞、お念仏されたら良いと思います。

聖道門は利他が先で、それから自利という誓願の立て方ですが、浄土門では自利(願作仏心)が先で、利他(度衆生心)は後になっています。自分が迷っていて他人の面倒を見るどころの騒ぎではないからでしょう。ですから、人々を済度しようとすることはひとまず置いておいて、猿松さん自身の信心を決定しお念仏申す身となることが大切です。

仰る通り、自力の菩提心を起こそうとしても起こせる者ではないので、親鸞聖人は願力回向の信心、他力の大菩提心を用いよと仰せになっています。親鸞聖人のお勧め通り、「ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇め」るべきでありましょう。


> さて前回質問した「新聞雑誌に記載されている名号形像の対処方法」ですが、西本願寺相談センターにお伺いしたところ…
>
> ○西本願寺でも特に定まった方法はなく、燃やすなどということもしない。
> ○名号形像を大切にする心は尊いが、記載媒体一つ一つに対処していればキリがないので、適度な対象基準を決める。(例えば御聖教は保存し、それ以外は廃棄するなど。)それは個人の判断でよい。
> ○名号形像を自分が何と思っているかが大事であり、廃棄したからといって、何か悪いことが起こるというようなことは決してない。
>
> …と、お答えいただきました。

教えて下さり、ありがとうございました。やはり自分の心、名号形像をどう思っているかが大事なのですね。真実の欠片もない私に真実を知らせ、真実に導く大慈大悲の顕現であると受け取らせて頂き、その上で新聞の切り抜き等は保存するか廃棄するかを自分で決めるのがよろしいかと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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