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「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)

諸善は絶対に不要だと言わないのに、念仏はその時々で必要だと言ったり、不要であるかのように説いたりするのが高森会長です。20願から18願の世界に転入するんでしょ? なら念仏は絶対に必要じゃないですか? その絶対に必要な念仏を絶対に必要だと言い切らない高森会長が「三願転入の教え」を説く目的は、会員を18願の世界に転入させるためではなく、単に諸善(という名の組織拡大活動)をさせるためでしょう。

さて、その親鸞会流「三願転入の教え」にて絶対に必要なのが19願の諸善の実践です。19願は要門であり、重要な教え、必要な教え、通らなければならないかなめの教えだと喚き散らしています。ところがその割には、それほど強調する19願の説明は随分といい加減なものです。特に序盤の「発菩提心」の解説、これは本当にいい加減です。私は、高森会長や講師部員らから「発菩提心」について

・「よーし、やるぞ!」とやる気を起こして
・奮発心を起こして
・ド真剣になって


というような説明しか聞いたことがありません。他の皆さん、会員の皆さんはどうでしょうか?

この「発菩提心」、菩提心を発すというのがどのような事か。これ一つ分かっただけでも、19願を実践するのは我々には不可能、それこそ捨家棄欲、出家して仏道一筋にでもならなければできないことだと判るでしょう。


古くはこの記事で林遊さんの解説を載せてありますが、今一度説明します。まず、菩提心とは

梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。

です。この心をおこすことを「発菩提心」といい、仏道の出発点とされるというのです。「絶対の幸福」などというこの世の楽しみを得ようとする心でもなければ、単純にやる気、奮発心を起こすということでもありません。

これについて、梯實圓著『本願のこころ』ではこのように書かれています。

********************
すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときに、まず自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う菩提心をおこしますが、その内容は、願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。
 『往生要集』作願門には、
  一には衆生無辺誓願度。(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
  二には煩悩無辺誓願断。(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
  三には法門無尽誓願知。(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
  四には無上菩提誓願証。(無上なる菩提を証せんと誓願す)
                             (『註釈版聖典』七祖篇、九〇三~九〇四頁)
という度、断、知、証の四弘誓願として表されています。なお文言は書物によって少し違うこともありますが、意味は同じです。
 別願というのは、特定の仏、菩薩が、それぞれ特色のある誓いを立てられることをいいます。釈尊には五百の大願があり、薬師如来に十二の大願があり、阿弥陀如来に四十八願がありますが、それを別願というのです。
(p.39~p.40)
********************

菩提心」の内容は、仏になろうと願う自利の心(願作仏心)と、衆生を済度しようと願う利他の心(度衆生心)であり、それをさらに詳しく言い表したものが四弘誓願であります。ですから、

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。我々に四弘誓願をおこせというのですから無茶ですね。「発菩提心」とはこういうことなんです。救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。高森会長と愉快な仲間達はこの「菩提心」ということをあまりに軽く考えすぎています。

19願を実践するというのなら、まずは「菩提心」をおこすところからです。でなければ、次の「修諸功徳」以降が意味をなしません。19願も究極的にはさとりを完成し、あらゆる衆生を救う自利利他円満を目指す仏道です。仏道の出発点であり阿弥陀仏がおこせと言われる「菩提心」の抜けた行は19願の行とは言えません。


会員の皆さんは、自身はそのような清らかで崇高な「菩提心」をおこせるものかどうか、よく考えてみましょう。そして、やるなら「菩提心」をおこしてから様々な善根功徳を修めて下さい。そうでないと「19願を実践する」ことになりません。親鸞会で言う「三願転入の道」とやらを進むことにはなりませんよ。

今回はここまでとし、続きは改めてまた書きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』菩提心
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No title

こんにちは

発菩提心を調べたら道元禅師の次の言葉を見つけました。
「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。」(道元禅師)
つまりは人を優先して度するという利他のかたまりのような精神だと思います。四誓願の第一の
「衆生無辺誓願度」
も自分のことは省みずに衆生を度するという誓いだと思います。

釈尊の前世の話でも動物だった時に自分の肉を食べさせて他の動物の命を守る話や鹿だった時に山火事で自分が橋となって他の動物を向こう岸に渡した後に力尽きて川に沈んでしまった話があります。いずれも自分の命よりも他の動物の命を優先させたという話で菩提心そのものだと思います。

>・「よーし、やるぞ!」とやる気を起こして
>・奮発心を起こして
>・ド真剣になって
「菩提心をなめてるの?」と思わずにはおれません。

Re: 園児様

聖道門では利他が先のようですね。まずは一切衆生を救うと誓いを立て、そのためには自分に煩悩があっては救うてやれませんから煩悩を滅してさとりの智慧を体得する。菩薩道を歩む者は自分より他人を優先するんですね。それは紹介して頂いた話にも表れている通り、想像を超えた遥かに厳しい世界です。この前、

乞眼の因縁
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B9%9E%E7%9C%BC%E3%81%AE%E5%9B%A0%E7%B8%81

というのが目に止まりました。菩提心を発し、菩薩道を歩むとは、舎利弗尊者のような方でさえできないのです。こんなことが、自己中心的な想念で生きている煩悩具足の我々にできるかどうか。答えは判り切っているでしょう。

> 「菩提心をなめてるの?」と思わずにはおれません。

間違いないです。全くもって同感です。

菩提心をなめてるの?

ども、林遊@なんまんだぶです。

>菩提心をなめてるの?

法然聖人は、第十八願を「王本願」(選択集p.1228)とされます。
そして、第十九願、第二十願は、第十八願の王本願に随う隋臣のような願であると理解しておられました。浄土教の伝統の上では第十八願に立脚するのは当たり前なのでした。ですから、特に第十九願の「来迎」は第十八願の念仏者の「利益」をあらわす願だとみておられたのでした。

ところが、御開山は、第十八願、第十九願、第二十願は、別の法義をあらわしていると見られたのでした。いわゆる浄土門の中で「真と仮」を分判して真実とは何かを追求されたのでした。
そして、第十九願を『観経』中の三福の「三者発菩提心 深信因果(三つには菩提心を発し、深く因果を信じ)」(観経 p.92)に配当されたのでしょう。いわゆる御開山の「願海真仮論」です。浄土宗側からは、愚禿は阿弥陀仏の本願に仮の願があるというのか、と論難されるところです。愚禿とまで言わなければいいのに(笑
第十九願、第二十願は、第十八願に「包摂」されているという宗義の浄土宗側にすれば当たり前の反論なのでした。

ともあれ、御開山は「三願真仮論」を展開され「第十八願」に拠るべきとされたのですが、後に「三願転入」という理屈を使って衆生を「必堕無間」vs「絶対的幸福」という二律背反の求道の塗炭の苦しみに陥れる者があらわれるとは想像しておられなかったのでしょう。
そんなこんなで、「願海真仮論」は、第十九願、第二十願は、捨てるべきものとしての「理論」を説かれたのであり、求道の階梯として説かれたのではなかったのです。
その捨てるべき第十九願には、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

と、菩提心を発(おこ)すことが要件とされていますが、仏教で菩提心といえば、『華厳経』の善大童子の求道心でしょう。
御開山は、この菩提心を法蔵菩薩の「願心」であるとみておられ、この菩提心に包まれていることを信知することを「ご信心」といわれたのでした。
ベクトルの方向が180度違っている高森親鸞会の会員には、想像もできない世界であった(笑

http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%85%A5%E6%B3%95%E7%95%8C%E5%93%81

>菩提心をなめてるの?

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

聖道門の方々は19願を重んじると伺っていますが、宗派によって三願の捉え方が随分と異なりますね。勉強になります。

まさか御開山も、こうも教えを利用して私利私欲を満たす者が現れることは予想だにしなかったでしょう。三業惑乱の三業派など、確かに真宗内から異安心は多く現れましたが、ここまで教えを故意に捻じ曲げる者はいなかったんじゃないかと思います。そんな輩に未だに騙され続ける会員の目が一日も早く覚めることを願うばかりです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

法然門下での三願観

ども、林遊@なんまんだぶです。

法然門下では、第十八願のみが往生の因願であり、第十九願、第二十願は第十八願に属している願だと考えられていました。第十八願は、別願中(四十八願)の別願(第十八願)だと理解されていたからです。

御開山は、この第十八願、第十九願、第二十願の三願を、それぞれ別の行信をあらわしている願だと見られたのでした。

「正信念仏偈」の偈前の文で、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。p.202

と、真実の行信と方便の行信について述べておられるのが、その「文証」です。
つまり、浄土門の中に真実の願と方便の願があると見られたのでした。
これが背師自立(師に背いて自らの流義を立てる)したと、後の法然門下から批判されるところです。

しかし、三願ともに「設我得仏 十方衆生」となっていますから、御開山の解釈の方が正確かも知れません。ともあれ、この三願真仮の解釈によって、より正確に法然聖人の意図を把握するとともに、浄土門内での真仮を分判し、真実の信心による称名(なんまんだぶ)の意を明らかにされたのでした。
これが、御開山の六三法門(願海真仮論)です。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%85%AD%E4%B8%89%E6%B3%95%E9%96%80

それを教判としてまとめられたのが「二双四重」の教判です。この「二双四重」の教判を正確に領解すれば、求道の階梯としての三願転入ということはありえないことが解ります。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%8C%E5%8F%8C%E5%9B%9B%E9%87%8D

そもそも論ですが、いわゆる「三願転入論」を考察するには、浄土教は本来、第十八願によって立脚していた法義であるということを抜きにして考察すると、議論の為の議論として、おかしなものが出て来るかもです。

と、いうわけで三願の意を考察する為に、鎮西浄土宗の派祖である、聖光房弁長上人の『浄土宗要集』の抜粋をリンクしておきます。法然門下での三願観が判るかもです。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E8%A6%81%E9%9B%86

なお園児さんが示しておられた、

>「菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願し、いとなむなり。」(道元禅師)

の文は『涅槃経』迦葉菩薩品にある、

自未得度先度他 是故我禮初發心
 自ら未だ度すことを得ずして先に他を度す。是の故に我初発心を礼す。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C/5

の偈からですね。
これについては『論註』に、有名な火テン←漢字がない(木の火ばし)の譬があります。

 もし一衆生として成仏せざることあらば、われ作仏せじと。しかるに、かの衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏す。たとへば火(テン)をして一切の草木を摘みて焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火(テン)すでに尽くるがごとし。論註p.145 「証巻」p.326で引文

キャンプなどで焚火をしますが、その時に木の枝を火箸(火テン)として使うと、薪がまだ燃え尽きていないのに、木の枝(火テン)が先に燃え尽きてしまうように、法蔵菩薩は「自未得度先度他」を心がけていたのですが、衆生済度に励む間に、自分が先に成仏してしまったという譬喩です。

お聖教を読むことは、たしかに難しいことですが、その思想の基底を考察すると解ることもありそうですね。
ある意味では、御開山は膨大な経典を読みとられて、それを自家薬籠中のものとして『教行証文類』を撰述されたのですが、林遊はアホですから、何でこうなるんじゃと、御開山の引文を考察していたりします。御開山のおっしゃるとおりと、なんまんだぶを称えていた越前の門徒に比すれば、アホですけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

私は親鸞聖人の三願の捉え方しか知りませんでしたので、三願が三願とも別々の行信を表していると解釈するのが当然と思っていました。しかも真実の願と方便の願があると言ったことが法然門下の同輩から背師自立と非難を受けたとは知りませんでした。

19願・20願を王本願に随順する願と見るのもけっこうな学説ですが、やはり私も親鸞聖人の見方を支持しそれに従いたいと存じます。18願、誓願一仏乗を直ちに受け容れない衆生を暫く仮に導く方便の教説が19願・20願であり、『観経』『小経』顕説の義となって説かれたということを。

ただそれを利用して、方便の19願・20願を通らねば18願の世界に転入できないとする高森顕徹会長は本当に悪質です。如実の行の実践ならまだしも(それでもダメですが)、やっていることが献金や勧誘、上司への無条件服従ですからね・・・この邪義を破って、ひとえに選択本願の念仏を疑いなく信楽して称える18願のみに依ることをひたすら訴えていくよりありません。これからもよろしく御教示ください。


> 法蔵菩薩は「自未得度先度他」を心がけていたのですが、衆生済度に励む間に、自分が先に成仏してしまった

如来の大悲に涙流れます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

背師自立

ども、林遊@なんまんだぶです。

『浄土伝灯総系譜』では、幸西、行空、御開山の三師を背師自立としています。
直接に「三願真仮論」を非難しているのではないのすが、

 其所立旨大違正傳謂於三經分別眞實方便二門
  その所立の旨、大いに正伝に違(たが)へり。いいて三経に於いて真実と方便の二門に分別し、云々
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%83%8C%E5%B8%AB%E8%87%AA%E7%AB%8B

とあるところから、必然的に〔観経』『小経』を方便経であるとした「三願真仮論」を非難しているのでしょうね。

法然聖人の『法然聖人臨終行儀』には

 また御弟子とも、臨終のれうの仏の御手に、五色のいとをかけて、このよしを申侍りけれは、聖人これはおほやうのことのいはれそ、かならすしもさるへからすとそ、のたまひける。(西方指南抄/中本)

と、臨終の行儀を否定したありますが、現生に於いて摂取不捨の光益に預かっているから来迎の義則は無用とされたのでしょう。
浄土宗=法然聖人という先入観念で法然聖人を理解すると嵌ります。現在の浄土宗の主流は鎮西浄土宗であって(西山浄土宗もあります)、必ずしも法然聖人の正意を伝統しているのではないということに留意する必要があります。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 『観経』『小経』を方便経であるとした「三願真仮論」を非難しているのでしょうね。

法然聖人は三経一論をもって浄土宗を立宗したというのに、その三経を真実と方便に分けるとは何事かということでしょうかね? 聖道門と浄土門でも経や釈の見方が異なる上に、浄土門内でもそうであるというのはややこしいですねぇ。まぁ浄土真宗内でも解釈に違いがあるのですから仕方ないと言えば仕方ないですが・・・

法然聖人の正意を伝統しているのは親鸞聖人だとうちらは言いますが、鎮西派も西山派もそれぞれ自分達が正当な伝承者だと主張するでしょう。やはり『選択集』を中心とする聖教から法然聖人の正意を伺うことになると思いますが、ともあれ自力諸行往生を認める鎮西浄土宗は正意を伝統しているとは言えませんね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

願海真仮論

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山の「願海真仮論」(三願真仮論)の根拠の一が『大経』の胎化段だといわれます。
https://goo.gl/DrdNBW

そして、

 これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。p.396

と、されておられるのでした。
いわゆる真実報土を考察した結果から導出されるのが「願海真仮論」なのでした。その意を強調されるため、

 つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
https://goo.gl/MSHZpc

と、最初に「化身土」を出して、これに迷うなというのが「方便化身土文類」撰述の理由でしょう。
この「願海真仮論」を、求道の階梯(プロセス)だと誤解し/誤解させ、金儲けの手段としているのが高森親鸞会です。

なお、法然門下の教学の違いについて、参考になるかも知れませんが「法然聖人の他力思想」をリンクしておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E7%84%B6%E8%81%96%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%BB%96%E5%8A%9B%E6%80%9D%E6%83%B3

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Re: 林遊@なんまんだぶ様

「法然聖人の他力思想」読ませて頂きました。聖光房弁長上人の鎮西派は全分他力を否定すること、善恵房証空上人は全分他力の領解ではあるが、諸行と念仏を開会の関係でみられていたことなど、色々と知らせて頂きました。弁長上人より証空上人の領解の方が御開山に近いものがありますね。

しかし、法然聖人でさえ要門の定散諸行には堪えられぬ身だとしてひとえに本願の念仏一行に帰依されたのですから、浄土真実の行は選択本願の行たる無碍光如来の名を称する念仏一行だと選定し、本願のはたらきを計らい無く受け容れた信心を報土往生の因だと明らかにして下された御開山が法然聖人の正しき後継者だとますます明らかになりました。

それにひきかえ高森会長はひどいです。両聖人が廃された定散諸行や自力念仏を引っ張り出してきてやれと言うのですから。しかもそれはあくまで建前であって、実際にやらせようとしているのは組織拡大活動。浄土真宗でも何でもない、ただの高森教です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

安心は廃立にあり

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗では「安心は廃立にあり」として「安心=信心」について徹底的に廃立を論じます。本願寺派では、その為に「安心論題」という論題が設けられていることは御承知だと思ひます。←少しく煩瑣ですが(笑

ともあれ、本願力により回向される他力のご信心を顕かにする為に、徹底して自力による往生浄土を廃し、本願力(利他力)による往生浄土の意を明らかにするのが「廃立」という教義概念でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%83%E7%AB%8B

驚くべきことに、かっての高森親鸞会では「三重廃立」という名目で廃立を論じていたのでした。もっとも高森顕徹氏はよく解らないまま言葉だけを力説しているだけでしたですけど、アホみたいな高森親鸞会の歴史のひとこまでした(笑

なお、証空上人の「開会」(開廃会)ですが、証空上人は法然聖人亡き後に天台学を学ばれたので、天台の「開廃会」の論理によって『観経』を理解されようとされたのでした。このような点は、比叡山で20年間天台学を学ばれて聖道門と決別された御開山と論理の組み立てが違うのですね。

御開山の「廃立」は、教体、行体そのものも廃立します。これを蓮如さんは、

 雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。 5-15 p.1202

といわれたのでした。雑行とは体であり、雑修とは雑行を修している修相であり意業です。高森親鸞会では「雑行に執する心が悪い」のであり、行そのものは善であると教えているそうですが、お前らは西山派の「開廃会」の論理かよとツッコミたくなりますね。浄土宗証空会と名前変えろよ、かもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

絶対的幸福

ども、林遊@なんまんだぶです。

最新の高森親鸞会の会員は知らないのだと思ふので、高森顕徹氏が著した『会報』から「三重廃立」の解説を引用しておきます。脱会者の方から入手。
もっとも、この『会報』は高森親鸞会では、昭和の教行信証とまで呼ばれ出版予告までされたのですが、盗作であるとの指摘で幻になった『会報』でした(笑
このような非難に対し、高森親鸞会の講師は、高森先生の『会報』が盗作というならば、御開山の引文も盗作であると強弁したものです(嘲笑
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%87%E9%A1%9E

>>>引用開始

善知識(37)

真宗の教義は、親鸞聖人によって大成され、三代目、覚如上人によって要約され、八代目蓮如上人が普及なされた極善最勝の妙法であるが、これら三善知識に一貫する法脈は、徹底した廃立法門である。
「当流は廃立肝要なり」とは親鸞聖人の御持言であり、教名という弟子への聖人の『御遺言鈔』に出ている。覚如上人は、聖人の意を『改邪鈔』に「真宗の門に於ては幾度も廃立を先とせり」と申され、蓮如上人は「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて後生助け給えと弥陀たのめ」と御教示になったのである。

廃というは捨てもの立とは、立てるもの、拾いものということである。その廃立すべきものに三種あるから三重廃立といい、これをしなければ絶対に助かることがないから親鸞聖人の『教行信証』にはきびしくそれが説かれている。一に内外廃立、二に聖浄廃立、三に真仮廃立である。その内前号までに、内外、聖浄二廃立の説明を終り、善知識はかく教化なさるものであることをあきらかにしてきた。三重廃立の中でも、特に親鸞聖人の心血を注がれたものは最後の真仮廃立である。実にこの真仮廃立は弥陀の本願を源とし浄土三部経の上に流れ、七祖から聖人まで一貫している法流であり、一切の廃立の根幹になっているものである。では、真仮廃立とは如何なることなのであろうか。

親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻に「然るに願海に就きて真あり、仮あり」と仰有って阿弥陀仏の四十八願に、すでに真仮あることを指摘なされている。即ち、四十八願の中、衆生往生の願としての、十九、二十の両願は、仮であり、十八願のみを真実となされている。それでは聖人の廃捨せよと教誡なされた十九、二十の願とは如何なる誓願なのであろうか。

「設我得仏 十方衆生発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」「たとひ、われ仏を得んに、十方の衆生、菩提心を発し諸々の功徳を修し、至心に発願して、我国に生れんと欲はん。寿終るの時に臨みて仮令大衆と囲繞して、その人の前に現ぜずば正覚を取らじ」これが十九の願文である。菩提心を発し、諸々の功徳をつみ仏の位まで自分は修行してゆきたいと願う人が、種々の功徳善根を積んで至心に発願して阿弥陀仏の御国へ生れようと思う、そういう人があれば、この人の臨終に阿弥陀仏は、その人の前に現われて導くようにしたい、という願いであるから「至心発願の願」とも「修諸功徳の願」「臨終現前の願」「来迎引接の願」とも言われている。この願意を開説されたのが『観無量寿経』の説法である。
即ち『観無量寿経』は息慮凝心の定善、散善を修め、至誠心、深心、廻向発願心の三心を具して極楽を願求すれば九品の浄土(化土)に往生出来るというのであるから、正しく十九願の修諸功徳に相当するものであり法も機も自力の法門である。自惚れ強い我々は必ずこの境地を通らねば他力の世界に出れないので一度はくぐらねばならぬ要の門という意味で善導大師はこれを要門と名づけられた。親鸞聖人は『教行信証』化土巻に「然るに濁世の群萌穢悪の含識乃し九十五種の邪道を井でて半満権実の法門に入ると雖も真なるものは甚だもって希なり。偽なるものは甚だもって多く、虚なるものは甚だ以って滋し。是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵(観経)を顕説して、群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。既にして悲願有す。『修諸功徳の願』と名づく。また『現前導生の願』と名づく。また『来迎引接の願』と名づく。また『至心発願の願』と名づく可きなり」と御教導なされている。
これらによっても明らかなようにこれは未だ自力の我慢を捨て切れないで諸善万行を修め、その功徳によって往生しようと思っているものを助けんが為に誓われた方便の願であるから、これを廃捨しなければ真実十八願へ入ることは出来ない。

次の二十願には「設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚」「設い、我仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞き念を我国に係けて諸の徳本を植え、至心に廻向して我が国に生れんと欲はんに果遂せずば正覚を取らじ」と誓われている。弥陀の名号のいわれを聞いて弥陀の極楽国へ念を係け諸々の徳本である念仏を称え一心にその功徳を廻向して、弥陀の極楽浄土へ生れようと欲う人があるならば、その人を必ず真実報土の往生を遂げさするであろう。という願であるから「植諸徳本の願」とか、また「不果遂者の願」「至心廻向の願」といわれている。『阿弥陀経』は、この願意を開説された釈尊の説法である。故に『阿弥陀経』には執持名号の行(称名念仏)を一日乃至七日、一心不乱に行ずればその人の臨終に阿弥陀仏が諸々の聖衆と共にその前に現われると来迎の利益が説かれている。
諸の徳本の名号を顕揚する二十願は確に第十九願よりは真実のようではあるが、法は植諸徳本の他力でも、機は至心廻向の自力の執着が離れ切らないから第十八願真実と比較して真実の実をとって真門というのである。これも阿弥陀仏の願力を認めながら尚自力を捨て切れないものを救う為に誓われたものであるから方便仮門の教えに間違いない。速に廃捨されねば真実十八願へ入ることは出来ないのである。

されば我々は真仮廃立をきびしく御教誡になった聖人の深意を感佩しなければならない。

>>>引用終了

組織防衛のためとはいえ、廃立から三願転入という教義を説き、名聞利養をはかってきたのが高森親鸞会の高森顕徹氏の歴史でした。
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2011/08/24/%e5%b8%b8%e3%81%ab%e8%99%8e%e3%81%ae%e8%aa%ac%e6%b3%95/

それに大きな影響を与えたのが、創価学会会長(第2代)の「絶対的幸福」でしたから高森顕徹氏は「絶対の幸福」という概念で幾多の会員を宗教の名で塗炭の苦しみに陥れたのでした。
https://www.youtube.com/watch?v=PB1GkEwPB7w&t=10s

正本堂、正御本尊という「正」の語に固執するのはその影響でしょうね(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 高森親鸞会では「雑行に執する心が悪い」のであり、行そのものは善であると教えているそうですが、お前らは西山派の「開廃会」の論理かよとツッコミたくなりますね。浄土宗証空会と名前変えろよ、かもです。

全くその通り。間違いないです! 高森会長の詭弁が

雑行を捨てよとは、その心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよであって、善をするなではない
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-5671.html

で、これに会員だった頃はすっかり騙されていました。また、

されば、信後は間違っても雑行をするということはないのです。信後、これらの行為はすべて仏恩報謝の行となるのです。
http://lonli.blog60.fc2.com/blog-entry-17.html

と説明しており、林遊さんのツッコミの通り、西山派の「開廃会」の論理のようなものを用いております。そうまでして善の勧めをする高森会長の目的が、会員の獲信・往生とは別にあることは明らかです。


大沼師のパクリそのままならまだ良かったですが、目的が目的の高森会長は、宿善から三願転入と浄土真宗を利用して己の欲望の実現を図ってきました。今からすれば真仮廃立と「三願転入の教え」は相反する矛盾した教義だと判りますが、当時は高森信心が篤かったので判りませんでしたね。

引用頂きありがとうございます。親鸞聖人をも盗作の大家と言ってしまう高森顕徹会長の邪偽の教えを暴き、一人でも教義の誤りに気付く人が現れるようこれからも書いていきたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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