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「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

最近の教科書はどうか知りませんが、私の記憶によれば、中学校の歴史の教科書には法然聖人や親鸞聖人のところで「念仏を称えれば極楽浄土に往ける」というような事が書かれていました。一方で、諸善については全く書かれていませんでした。

もし親鸞聖人の教えに「善の勧め」があれば、「諸善を修め念仏を称えれば極楽浄土に往ける」と説いた人といった説明になるでしょう。しかしそんな事を書いている教科書があるでしょうか? それほど親鸞聖人の教えと言ったら念仏だけなんです。信心は目に見えませんから、第三者は信仰を言動で判断するしかありません。では聖人の書かれたものや、各地の伝承といった言動から教えを判断するとどうなるか。

親鸞聖人の教えに「善の勧め」は無く、「専修念仏の勧め」しかない。

そのように言わざるを得ないのです。歴史の教科書の担当者とて、デタラメに書いているわけではありません。日蓮上人といったら題目、道元禅師といったら禅というように、親鸞聖人の教えの特徴は念仏なのです。それは高森会長が注目し、映画まで作ろうとしている『歎異抄』に特に顕著です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
『歎異抄』第二条

念仏のほかに往生のみちがあるというなら、それは奈良や比叡山へ行って聞きなさいと仰せです。念仏のほかに諸善という往生のみちを教える親鸞会は、断じて親鸞聖人の教えではないことがここからも明らかです。


さて、前回の続きです。「菩提心」をおこすとは、すべての仏や菩薩に共通している「四弘誓願」をおこすということでした。その上で、

修諸功徳、至心発願、欲生我国・・・

と19願は続いていきます。「菩提心」がおこせなかったら、その後どのような善根功徳を積んでも19願の行とは言えません。行を起こす時の心を重んじる。仏教で心の行いを重視するとはこういうことです。「死んでくれ」と親に対して思っただけで五逆罪とか、そんな事とは違うのです。また、たとえ「菩提心」をおこせたとしてもその心が途中でくじけたり失われたりしてしまっては落第です。

この「菩提心」をおこすこと自体、末法の世に生きる煩悩具足の我々にはとてもできることではありませんが、勿論それだけでは自利と利他とを円かに具えた仏陀とはなれません。「菩提心」をおこした者は仏道の完成、すなわち仏のさとりを目指して修行していくのです。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを19願では次に「修諸功徳」、諸々の功徳(善)を修めよと説かれているのです。

それは本来、苦しみ悩みの人生を明るく楽しく幸せにわたす行いとか、幸せで豊かな人生を送れるとかいったそういう目的で行ずるものでもなければ、我々にもちょっと努力すればできるというような程度の低い行いでもありません。「諸功徳」とか「六度万行」、「六波羅蜜」とは自利利他円満した仏陀となるべき修行内容で、突き詰めれば法蔵菩薩のなされた行業であります。

国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。『大無量寿経』法蔵修行

それを19願では「発菩提心、修諸功徳」と言われているのです。我々にそんなことができるかどうか。確かに、やってみなければ分からないということもありましょう。が、法蔵菩薩の修行が我々にできるかどうかですから、そんなことはやる前からハッキリしています。


ところで、19願ではこの世でのさとりの完成を目指す聖道門と違って、「諸功徳」を阿弥陀仏の浄土に往生するために行じます。それが次の「至心発願欲生我国」です。行ずる内容は聖道門と変わりません。ただ心を浄土に振り向けてやるのです。浄土へは遊びに行くのでも、楽をしに行くのでもありません。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救ってゆくためです。往生してそこで終わり、良かったね、ではありません。

この世界は五濁悪世と言われるように、仏道修行を妨げる因縁があまりに多く、さとりを完成することは極めて困難です。そのような悪縁が全く無い世界が阿弥陀仏の浄土です。ですから、19願の行者はまず阿弥陀仏の浄土に往生して、そこで修行してさとりの完成を目指すわけです。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救うという自利利他が究極の目的であることは、聖道門も19願も、勿論18願も変わりません。

そうやって諸々の功徳を積み重ねた行者の臨終に、多くの聖衆を伴って迎えに行きましょうと誓われているのが19願です。そしてその19願意を明らかにされたのが『観経』顕説の定散二善です。ちなみに散善も三世諸仏の成仏の業因です。

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
『観無量寿経』散善顕行縁

ですから、19願の修行を仕事や子育ての片手間にやるとか、そういう訳にいかないんです。全てを捨てて出家して、一生涯身命を賭して仏道修行に打ち込まねばなりません。当然です。一体、何を目指していると思っているのか。三悪道はおろか、この迷いの世界から出離して、さとりの境界である阿弥陀仏の浄土へ往生しようというのですよ。しかも自分の成した善で。十九願というと捨家棄欲、そんなの当たり前でしょう。これは半身不随的理解じゃないですよ。何かの片手間にちょっと修行して往生できるほど甘い世界じゃないんです、19願は。

今まで積み重ねた功徳に往生できるほどの価値があるか分かりませんし、この後の人生において、どんな罪を犯して功績が消えてしまうかも分かりません。阿弥陀仏は行者の功績を評価して迎えに来て下さるわけですから、19願の行者は死ぬまで仏道一筋、修行一筋で廃悪修善に励み、臨終も心乱れることなく祈願を凝らし、来迎を待ち望まねばならないのです。もし来迎が無ければ、今までの成果も空しく往生はかないません。


このように19願は大変厳しいことを言われているとお判り頂ければけっこうだと思います。そのようなことに全くもって無知なのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。だから軽々しく19願の実践だとか、定散二善の実践だなどと言っているのでしょう。「菩提心」をおこして行を修めなければ19願の実践にならんのですよ。園児さんのコメントの通り、親鸞会は「菩提心」をなめていると言わざるを得ません。ですから、「19願を実践しました」とか「三願転入して救われました」とうそぶいている親鸞会のなんちゃって獲信者などみなもつてそらごとたはごとと考えて間違いありません。

菩提心」「至心発願欲生我国」どころか、「絶対の幸福」だとかいう楽を獲たいがためじゃね・・・。ましてやっていることが「諸功徳」ではなく親鸞会への献金や勧誘、会長及び上司への無条件服従でしょう? 行も、行ずる心もみな間違い。だから、一生懸命やっていたって19願とは無関係ですし、18願の救いにも遇えません。

18願によって救われようというなら、19願を聞いていても無意味です。19願は菩提心を発し、至心発願して諸の功徳を修めて往生しようとする行者を臨終に迎えに行く、つまり救うという願ですから、平生、至心信楽帰命の一念に往生が定まるという18願とは全く異なる救いです。平生業成の教えを聞いて今救われようというのに、臨終に救うと誓われた願を聞いて実践しようとしてどうなりますか? ただちに18願を聞いて、南無阿弥陀仏のこころ、すなわち「助けるぞ」のお心を領受すべきなのは当たり前の当たり前のことです。

三願転入の教え」なる邪義を授けられ、18願の救いとは無縁な話ばかり聞き、18願の救いとは無縁な行いばかりやらされている会員の皆さんは実に哀れです。早く教義の誤りに気付いて邪義を授ける人の手から離れ、浄土真宗の正意に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


ちなみに、我々には絶対に起こせない菩提心ですが、親鸞聖人は願力回向の他力の信心が横超の大菩提心だというのですから驚きです。こんなことは聖人でなければ言えたことではありません。全く、とんでもない御方の教えを学んでいるのだなとつくづく知らされます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』六波羅蜜
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Abcです

こんばんわ、Abcです。
今回も読ませていただきました。

それに対するコメントを記させていただきたく思います。
気になる点がありましたら、つっこんで下さい。

>親鸞聖人の教えに「善の勧め」は無く、「専修念仏の勧め」しかない。
左様であります。同じ『歎異抄』には、

第八章
念仏は行者のために非行・非善なりわがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

ともございます。この章からも親鸞(もしくはこの作者)が「念仏は行者のために非行・非善なり」といいたいことがわかるかと思います。それで「親鸞聖人は善をすすめられている」といういのは、第八章を読まれていないといっているようなものだと私は感じます。

>三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。
>親鸞聖人は願力回向の他力の信心が横超の大菩提心だというのですから驚きです。(淳心房さん)

さようでありますね。「真宗」におきて「全ての行い」は「他力回向」でありますから、この「菩提心」も「願力回向の他力の信心」であります。

願以此功徳 平等施一切
同発菩提心 往生安楽国

という回向文の一句目「願以此功徳(願を以ってこの功徳を)」の「願」とは「弥陀弘誓願」であり「無上殊勝願」である「弥陀18願」であります。

『末灯鈔(2)真蹟』には、
 「弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。」ともございます。
 林遊さんや淳心房さんのアドバイスを経て、「七宝の獄」は「弥陀報土の一部」ということもおしえていただきました。ただ、「阿弥陀様自身が「招くぞ!」と言われている場所」は「安養国(弥陀報土)」でありますから、「信心の行者」をみな「招くぞ!」の場所に生ませさせたいという思いですし、「菩提心を発させるぞ」と仰せであります。

最後に、「諸行」と言う事柄でございますが、
『末灯鈔(1)』
 「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。(乃至)真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。(乃至)

 聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。仏心宗といふは、この世にひろまる禅宗これなり。また法相宗・成実宗・倶舎宗等の権教、小乗等の教なり。これみな聖道門なり。権教といふは、すなはちすでに仏に成りたまへる仏・菩薩の、かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。

 浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(云云)」

とございます。ですからこの文言どおりとするならば「臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし」とあるように、「諸行」は「聖道門のかりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふ方々」に問われるべき事柄であります。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

追記

連投申し訳ございません、Abcです。

例として七高僧のひとり 道綽禅師を挙げますと、

『正信偈』には、
 道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
 道綽は「聖道難証であると決し、唯浄土を通入す可き」と明らかにされ

とあり、この箇所を『和讃』にされた『高僧和讃』には、
本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて
 唯有浄土一門を 通入すべきみちととく

本師道綽大師は 涅槃の広業さしおきて
 本願他力をたのみつつ 五濁の群生すすめしむ

とも記されております。

また、同じ箇所にある
縦令一生造悪の 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ 若不生者とちかひたり

の「称我名字」は(代表的な例として)
南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ よろづの悪鬼をちかづけず (浄土和讃)

とありますし、「若不生者とちかひ」は高森さん自身も用いられている
若不生者のちかひゆゑ 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは 往生かならずさだまりぬ (浄土和讃)

であります。「往生かならずさだまりぬ」に関しましては、
『唯信鈔文意』
 「「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃 六五四)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。」

に記されております。
 連投申し訳ございません。

Abc

Re: Abc様

挙げて頂いた『末灯鈔(2)真蹟』のお言葉をも利用するのが親鸞会です。ここは、阿弥陀仏の大慈悲を仰せられた箇所ですね。18願だけでは救われる人が少ないから、不本意ながら救いの範囲を広げて下さったということです。お慈悲の深いことをこのように仰せなのですね。それを、方便を誤解し、「第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふこと」の部分のみ切り取って我々に19願・20願が必要であるかのように教えているわけです。


 この信心をうることは、釈迦・弥陀・十方諸仏の御方便よりたまはりたるとしるべし。しかれば、「諸仏の御をしへをそしることなし、余の善根を行ずる人をそしることなし。この念仏する人をにくみそしる人をも、にくみそしることあるべからず。あはれみをなし、かなしむこころをもつべし」とこそ、聖人(法然)は仰せごとありしか。あなかしこ、あなかしこ。

 仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。いかにいはんや、真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと、仏恩よくよく御案ども候ふべし。これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF#.E6.9C.AB.E7.81.AF.E9.88.94.282.29.E7.9C.9F.E8.B9.9F

前後を見ればお分かりのように、

第十九・第二十の願
⇒懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生する

選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願
⇒真実の報土へ往生して大涅槃のさとりをひらかんこと

ですから、19願・20願は18願との比較対象でこそあれ、19願・20願を勧められているわけではないことは一目瞭然です。不本意の者にも応じて導いて下さっていること、「仏恩のふかきこと、そのきはもなし」であることを仰っているにもかかわらず、己の邪義の正当性を訴えるのに利用するのは実に情けなく、悲しいことです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

非行非善

ども、林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。
仰るように、非行・非善ということは自力の否定ですね。

浄土真宗で「善」といえば〔なんまんだぶ〕以外にはあり得ないのですが、この善は阿弥陀如来が回向された「行」であるあから非行・非善とされたのでしょう。
ともあれ、wikiarcの「非行非善」の項をリンクしておきます。
梯實圓和上の『歎異抄』からの抜粋も転記してあります。

「非行非善」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%9D%9E%E8%A1%8C%E9%9D%9E%E5%96%84

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

WikiArc読ませていただきました。まことにありがとうございます。
>浄土真宗で「善」といえば〔なんまんだぶ〕以外にはあり得ないのですが、この善は阿弥陀如来が回向された「行」であるあから非行・非善とされたのでしょう。

さようであります。「行者のために」とは「行者から観て」と言う意味でありますから、この「なんまんだぶ」は「不回向の行願」ともいわれます。ですから林遊さんの仰られているとおりでありますし、WikiArc中の「非行非善は自力の否定」であります。

親鸞は各場所にいる門弟に「お手紙」と言う形で御法義を説かれたことは、ご承知のことかと思います。ただこのようにして「お手紙」を門弟に託されますと「善信御房(親鸞)が差し向けられたこと」のように思われていた方もいらっしゃいます。ですから、巻末には「これさらに性信坊・親鸞がはからひまうすにはあらず候ふ。ゆめゆめ。 」と記し、「私(親鸞)の計らいではない」と念を押されております。

 また、「なんまんだぶの御法義」は、「自然法爾の御法義」ともいわれ、この「自然法爾」自体の出処である、「自然法爾のこと」には、

『自然法爾の事』
 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひあらず如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。(乃至)
 弥陀仏自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。」とも記されていることはご承知のことだとおもいます。

 この度は、ご返信ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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