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「御正忌」の御文章に出てくる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」が、親鸞会流「三願転入の教え」を完全否定していることに全く気付いていない高森顕徹会長

本日はまたいつもの演題

映画『なぜ生きる』のセリフ
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


で高森顕徹会長の話がありました。内容の一部は

『飛雲』曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

で紹介されている通りです。前回の鳥取会館落慶の時には

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

などと、救われるには念仏称えることが必要であるかのように説いておきながら、今回は

・親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ
・今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた


と、前々回の報恩講の時のような念仏否定の教えを話していました。相変わらずの迷走ぶりです。


ところで、今回は話の中で『御文章』5帖目11通が取り上げられました。この「御正忌」の御文章では、親鸞会の大好きな「信心決定」とはどんなことかについて、その正確な意味が教えられています。それが、

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。


というお言葉です。ここから、

信心決定す
=「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる
=「南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたる

ということが分かります。「信心決定す」とは、高森会長の言葉で言えば「18願のお約束通りになる」ということですから、蓮如上人は高森式に言うなら

・18願のお約束通りになるために必要なのが、南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしること

と教えられています。では「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」とはどんなこころかと言えば、

「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。


だというのです。諸善は「必要な方便」どころか「もろもろの雑行をすてて」と教えられています。

蓮如上人 もろもろの雑行(諸善)をすてて
――――――――――――――――――
高森会長 必要な方便が「諸善」


蓮如上人の仰せと高森会長の主張は正反対です。他の『御文章』もそうですが、「必要な方便」だと言って諸善を勧めている箇所は1箇所もありません。どこを読んでも諸善(雑行)は「すてて」としか教えられていません。つまり、知りなさいと言われる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」の中に

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」

などという内容は無いことが分かります。親鸞会流「三願転入の教え」の完全否定です。高森会長はそのことに全く気付いていない様子です。


人間の力では如何ともしがたいこの生死出離の問題、後生の一大事を、ひとえに阿弥陀仏におまかせする。そのような者を造作もなく助けて下さる。これが「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」です。阿弥陀仏は名号を称える者を極楽に迎えるとお誓いですから、ひとえに阿弥陀仏におまかせするとは

念仏一行で助かると深く信じて称える

ということです。それを、浅く信じて、念仏を自分の功徳のように思っていたり、あるいは何の分別もなく、信心もなくただ発音念仏していたりしたら往生は極めて不確定だから、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知って称えなさいよと教えられたのが蓮如上人です。

信心は大事ですが、念仏を離れた信心はありません。しかし、親鸞会では信心の内容に念仏はまったく関りが見えません。これでは会員が信心も安心も無いのは当たり前です。会員の皆さんは、蓮如上人とは正反対の教えを授ける高森会長から離れ、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知ってお念仏申して下さい。
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初めて投稿します。
「雑行をすてよ」とは、雑行をしている者に対して、すてよと言われているのだ。
していない者に「すてよ」とは言われない。
たばこを飲んでいない人に「たばこをのむな」とは言われない。

かつては、これを聞いて納得していました。
しかし、これは屁理屈です。

私は、たばこを吸ったことがありませんが「たばこをのむな」とたばこの弊害を説明されたことがあります。
「イジメ絶対ダメ」「痴漢あかん」「薬物絶対ダメ」…
どれも、まだやっていない人に対して言われていると思います。

なぜ「雑行をすてよ」だけ、言葉通りの意味で解釈せずに、曲解するのか。
屁理屈以外の教学的根拠がないので、私は高森説を信じることをやめました。

Re: 名無し様

仰る通り、高森教の論は屁理屈です。言葉通りの意味で解釈せずに、曲解して「これが蓮如上人の真意だ」などと説いているのは、文底秘沈を説く他宗の信者と変わりません。

カルトは言葉を奪う

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会の会員は、どれだけお聖教の根拠を示しても、高森顕徹氏の言葉を金科玉条のように反復しますね。まるでロボットです。
財貨を奪われ、時間を奪われ、思考を奪われ、判断力を奪われ、あげく言葉まで奪われてしまったのが高森親鸞会の会員なのでしょう。

聖典解釈権を高森顕徹氏に奪われ、自らの疑問や問いまでも封殺されてしまったのが会員で「思考停止状態」になってしまうのでしょうや。
学ぶという事を学問といいますが、学びて後に疑いあり、疑いありて後に問ありということが学ぶということですが、最初の問いを「絶対の幸福」と「必堕無間」という言葉に封殺され呪縛されてしまっているのが高森親鸞会の会員なのでしょう。
ここからの脱却は教義や組織に対する「疑問」を持つしかないのですが、教祖が絶対化されているのでこれも困難なのでした。いわゆる善知識絶対化です。

というわけで、高森親鸞会に居ると、

「3行どころか単語すら読めなくなる」というブログへリンク。
https://pontawa.hatenablog.com/entry/2018/10/23/161446

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

間違いありません。ですから、こちらもどれだけでもお聖教の根拠を示して、少しでも「疑問」を持った方に問いかけてゆくより道は無いと思っております。相当の辛抱が必要で、時折相手の主張に呆れ果ててしまいますが、法蔵菩薩のご身労を思えば自分ももう少し辛抱強くあらねばと思います。こんな会の会員と数十年もの間やり合ってきた林遊さんは真に忍耐強いお方ですね。

リンク先のブログ、拝見しました。書かれている内容は、まことに的を射た指摘です。会員の皆さんは、書かれているような状況に陥ってしまっていることに気づいて頂きたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Abcです

こんばんわ、Abcです。
今回も、淳心房さんのブログおよびコメントを読ませていただいて思ったことを書かせていただきます。どうぞ、お付き合いくださいませ。

>親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ(高森会長)

ふむふむ、「「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ」と。
では、あなたが朝晩『おつとめ』としてよむようにいわれている
『正信偈』にある、

帰命無量寿如来 南無不可思議光 (乃至)

本願名号正定業 (乃至) ※「第四の称名正因」といわれるように「名号」は正定業であり、その正定業を信知された集まりのことを、「正定聚」といわれます。(正定聚と言う言葉には他にも様々な言われがありますが、「正定業」と「正定聚」を端的に言った場合、このようにも説かれます)※

聞信如来弘誓願 (乃至) ※ここに「如来弘誓願を聞信し」とあるように「南無阿弥陀仏をやうもなく聞き候へ」といわれている由縁であります※

報土因果顕誓願 (乃至) ※報土の因果は誓願と顕され とあるように「他因他果」である。 もしくはその因果が私に届いてると観た場合は「他因自果」である。(「ひとえに親鸞一人がためなりけり」『歎異抄 後序』より)と著されている箇所などである。※

正定之因唯信心 (乃至) ※先ほどの「本願名号正定業」の「正定」、「報土因果顕誓願」の「之因」、「聞信如来弘誓願」の「信心」を組み合わせられた箇所であります。「唯信心」は「ただ信心」と読むことも出来、「ただ念仏のみぞまことにておはします」(『歎異抄 後序』より)の「ただ念仏」と同じです。※

円満徳号勧専称 ※円満徳号(弥陀名号)を専ら称えよと勧めしむ といわれるように「ただ念仏」 「ただ信心」 「ただ南無阿弥陀仏(南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる)」であります。※

等などが「すべて間違いである」といいたいのでしょうか。
ならば、あなたはなぜ、「それを読まれている」のでしょうか。疑問が尽きません。

>私は、たばこを吸ったことがありませんが「たばこをのむな」とたばこの弊害を説明されたことがあります。
「イジメ絶対ダメ」「痴漢あかん」「薬物絶対ダメ」…
どれも、まだやっていない人に対して言われていると思います。(名無しさん)

いい喩えをありがとうございます。それに合わせますと、
「たばこをのむな」とたばこの弊害を説明されたことがあります。 →たばこについて

「南無阿弥陀仏」という名号のいわれ(教)、行い(念仏行 正定業 行)、(阿弥陀さまに)おまかせする(真実信心 信心をうる 信)、名号を強く持たれて他人に勧めしむこと(証) の説明を行うものが「真宗門徒である」と自負しております。 →南無阿弥陀仏(真宗)について

 ですから「念仏ないから」と念仏を破壊(はえ)する方は一刻も早く「浄土真宗」の看板を下げていただきたくおもいます。

蓮如上人:もろもろの雑行(諸善)をすてて とございますが、
それとともに、「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」ともございます。
こちらも『おつとめ』に含まれているようですので、ご一読いただけると幸いです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

高森会長は念仏と信心の関係を正しく知りませんので、ある時は

> 18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」

つまり極楽浄土に往くために信前の念仏が必要であると言ったり、

> 「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違い

すなわち極楽浄土に往くために信前の念仏は不要であると言ったりしています。

そのくせ、信前の諸善が不要だとは絶対に言わないのが高森会長です。如何に浄土真宗に非ざる教えかということがお判りでしょう。ですからAbcさんのように疑問は尽きませんし、私も団体名から「浄土真宗」「親鸞」の名を外してもらいたいと再三再四書いている通りです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

廃立

ども、林遊@なんまんだぶです。

ABCさん。
ものすごくお節介だけど、味わいと教義を混淆しすぎじゃないかな。
だから、言葉の定義を越えて言葉の意味を拡散しすぎると返って本質を見失うのではないかと思ふ。
かって、高森顕徹氏が「宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求められねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求むるものである。」
と、宿善の語の語義の意味を拡大した過ちに陥るかもです。そもそも御開山には「宿善」という用例はないのでしたが(笑

参照:「現代における異義の研究 伝道院紀要24号」
https://goo.gl/hx18DX

ABCさんは、漢文と古文には自信があると述べていましたが、その「言葉」を生みだした背景の「理論」を考察することも意義があると思ひますです。
法然聖人は、何故、往生浄土の行として、なんまんだぶを称える一「行」なのかという意を、『選択本願念仏集』「本願章」で「勝劣義」(選択集 P.1207) と「難易義」(選択集 P.1208) として示されてました。
こういう、何故口称の〔なんまんだぶ〕でなければならないか、という浄土思想の「悉皆成仏」という大乗仏教の思想的背景を考慮すると面白いかもです。
これを仏法の解釈法として「廃立」という論理で、展開されたのが、法然聖人の「選択本願念仏論」でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BB%83%E7%AB%8B

何故、念仏(なんまんだぶ)でなければならないのかという根本から出発すると、また新しい視野が広がるかもですね。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。
ご指摘、読ませていただきました。ありがとうございます。

>何故口称の〔なんまんだぶ〕でなければならないか、という浄土思想の「悉皆成仏」という大乗仏教の思想的背景を考慮すると面白いかもです。
>何故、念仏(なんまんだぶ)でなければならないのかという根本から出発すると、また新しい視野が広がるかもですね。

「何故口称の〔なんまんだぶ〕でなければならないか」、確かにこの命題は真宗ひいては浄土宗の根幹ですね。今一度探してみたくおもいます。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様、林遊@なんまんだぶ様

Abcさんは高森会長のように教えを捻じ曲げて私利私欲を満たすつもりは更々ないでしょうし、味わいは生きた念仏者の声ですから、それを述べて頂くのは私としては有難いことだと思っています。

一方で、林遊さんの仰るように言葉の定義をしっかり捉えるというのも大事だと思います。

教えが大事であり、それと共に、教え通りの体験をした人の生きた言葉というのもまた大事だというのが淳心房の領解です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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