【検証】一向専念無量寿仏とは

本日は『浄土真要鈔』より親鸞聖人の教えを学び、親鸞会の教えと比較し、検証したいと思います。


【一、浄土真宗の一向専修は善導元祖の正意なる事】(真宗聖典 法蔵館 758~760ページ)

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。是れ即ち『大経』の中に弥陀如来の四十八願を説く中に、第十八の願に念仏の信心を勧めて諸行を説かず、「乃至十念の行者必ず往生を得べし」と説ける故なり。しかのみならず、同じき経の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもっぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふは「ひとつにむかふ」といふ、「ただ念仏の一行」にむかへとなり。「専念」といふは、「もっぱら念ぜよ」といふ、「ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに、二をならぶることなかれ」となり。

親鸞会では、一向専念無量寿仏とは阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えず、阿弥陀仏一仏を信じることだと教えます。
しかし、それだけではありません。ただ念仏の一行に向かえという教令が「一向」だというのです。
つまり十九願を根拠に定散二善という念仏以外の自余の行を勧めるというのは、一向専念無量寿仏に反する教えだということです。


これによりて、唐土の高祖善導和尚は、正行と雑行とを立てて、雑行をすてて正行に帰すべき理をあかし、正業と助業とをわかちて助業をさしおきて正業を専にすべき義を判ぜり。

釈尊の教えを善導大師がこのように明らかにされました。雑行やりまくり、自力の押しまかせで阿弥陀仏に救われようとしても、残念ながら心も行為も間違いです。阿弥陀仏に只今救われようというなら、雑行はすてて、助業はさしおきて正業を専らにせよと教えられています。


この善導大師の教えを無我に相承された法然聖人は、如来の使として末代片州の衆生を教化されました。その仰せは釈尊の誠説であり、弘められた教えは専ら高祖の解釈そのままです。
では法然聖人は、どのように教えられたのでしょうか? 『選択集』に「三選の文」と言われる有名な御文を書かれています。
親鸞聖人はこれを『教行信証行巻』に引用され、『尊号真像銘文』には詳しい解説をなされました。
『浄土真要鈔』でも漢文を引用し、解説されていますので聞いてみましょう。

この文の意は、「すみやかに生死を離れんとおもはば、二種の勝法のなかに、且らく聖道門をさしおきて選んで浄土門にいれ。浄土門にいらんとおもはば、正雑二行のなかに、且らくもろもろの雑行をなげすてて選んで正行に帰すべし。正行を修せんとおもはば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして選んで正定をもっぱらにすべし。正定の業は、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば必ず生るることを得、仏の本願によるが故に」となり。すでに南無阿弥陀仏をもって「正定の業」と名く。「正定の業」といふは、「まさしくさだまれるたね」といふ意なり。是れ即ち「往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なり」となり。「自余の一切の行は、往生のために定まれるたねにあらず」と聞こえたり。然れば決定往生の志あらん人は、念仏の一行を専らにして専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈甚だ明なるものをや。

「往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なり」
すみやかに生死をはなれようと思うなら、本願を信じ念仏する他にありませんから、このように教えられています。対して、
「自余の一切の行は、往生のために定まれるたねにあらず」
ですから、たとえ正しい意味での財施も破邪顕正も、それらは「自余の一切の行」であり、「往生のために定まれるたねにあらず」です。獲信とよい関係にあると勧められている行なのかどうか、「祖師の解釈甚だ明なるものをや」ですね。


ところが、そうした浄土の一宗においても、もろもろの雑行を許し諸行による往生を説く者がいるのが世の常です。行に迷い信に惑いやすい衆生は、方法論ばかりにこだわって、本願力回向の行信を知りません。
親鸞会も十九願や『観経』の顕説に立って定散二善を勧めていますが、
「定散の善は諸行往生の言葉に摂まるなり」(末灯鈔)
と親鸞聖人が仰せですから教義上は諸行往生です。
ただ、実際は謗法罪と妄語を重ねる、聖道仏教まがいの外道ですから、諸行往生の行人に失礼ですけど。

さて、諸行の往生を談ずることは、遠くは善導和尚の解釈に背き、近くは源空聖人の本意にかなわぬものであります。
では、親鸞聖人はどのように教えられたのか、続きを聞いてみましょう。


然るに我が親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死を離るべき教、衆生の速に往生を遂ぐべき勧なり。其の故は、ひとへにもろもろの雑行をなげすてて、専ら一向専修の一行をつとむる故なり。是れ即ち自余の一切の行は皆とりどりにめでたけれども、弥陀の本願の行にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行は是れ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。

定散二善などの自余の一切の行は、皆それぞれ如実に修行すれば因に応じた結果が得られるので「とりどりにめでたい」と言われています。しかし、自余の一切の行は、

弥陀の本願の行にあらず
釈尊付属の教にあらず
諸仏証誠の法にあらず


とあるように、「凡夫のまめやかに生死を離るべき教、衆生の速に往生を遂ぐべき勧」ではありません。
対して念仏の一行は、

弥陀選択の本願なり
釈尊付属の行なり
諸仏証誠の法なり


と言われ、これこそ「凡夫のまめやかに生死を離るべき教、衆生の速に往生を遂ぐべき勧」であります。


釈迦・弥陀及び十方の諸仏の御意に随ひて念仏を信ぜん人、必ず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。斯の如く一向に行じ一心に修すること、我が流の如くなるはなし。されば此の流に帰して修行せん人、ことごとく決定往生の行者なるべし。

こうした善導大師・法然聖人・親鸞聖人が明らかにしてこられた釈迦・弥陀及び十方の諸仏の御意に随い、本願を信じ念仏する人は、必ず真実報土の往生を遂げることが分かります。
なればこそ、かたじけなくも念仏の行者に育て上げて頂いたならば、如来大悲の恩徳、次第相承の善知識の御勧化の御恩を喜び尊びなさい。そして仏恩、師徳を報謝するために、この教えを一切衆生に弘めて阿弥陀仏の本願に勧め入れなさいと教えられるのです。


阿弥陀仏は、「末代の凡夫・罪業の我等たらん者、罪はいかほど深くとも、我を一心にたのまん衆生をば、必ず救うべし」と仰せです。ですから、善知識は「阿弥陀仏に帰命せよ」と教える使であり、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教え勧めるばかりの人のことです。

阿弥陀仏に向かえと言いながら、その実救いと関係ない行を勧める知識は、仏法を利用して己の名利を満たそうとする悪知識です。
そんな悪知識にいくら無条件に従っても救いには遇えません。それどころか、このままでは罪の山積を抱えて、泣き泣き後生を迎えねばなりません。
早くそのような人の手を離れて、真実信心に基づいて頂きたいばかりです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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