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善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのに、間違った本願を説き、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かない高森顕徹会長

近年は圏央道などの高速道路ができたり、外環道が延長開通し高速道路同士がつながったりして益々便利になりました。昨日は子供2人を連れて実家へ行っていましたが、その帰り道にできて間もない高速道路を通り、ふと「これが10年前に開通していたら富山への往復が随分と楽だったのにな・・・」などと思った次第です(笑)


さて、時を同じくして昨日は高森顕徹会長の話があったようです。内容は

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

に一部紹介されています。今回は「無明の闇」についての質問に答えるというものでした。高森会長はお尋ねの「無明の闇」を

1.苦しみの元凶(根元)
2.疑情
3.阿弥陀仏の本願を疑っている心
4.死んだらどうなるか分からない心


等、様々に言い換え、

「死んだらどうなるか分からない心」がある
=「往生一定」の身になっていない
=阿弥陀仏の本願を疑っている心がある


と説明し、「無明の闇」が破れると「死んだらどうなるか分からない心」が無くなる、つまり「死んだらどうなるかハッキリ分かる心」になると。こうなったのが「往生一定」「往生治定」ということだという話でした。

こうした高森会長の説も、先ほどの「無明の闇」の言い換えが全て適切で、聖教に根拠のあることなら尤もなのですが、言い換えの適切性を検証しますと、

1.半分正解
2.正解
3.正解
4.大不正解(w

となって間違いです。

1は、「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき(※)」等と言われるように、流転輪廻の因は輪廻を断ち切って往生させると本願に誓われていてもそれを受け容れない疑情であるとも言えます。ただ、流転の因はあくまで我々の煩悩なので半分正解としました。

また、親鸞会の会員の場合「絶対の幸福」「光明輝く生活」という言葉が連想させるように「無明の闇」が破れたなら生きて行く上での苦悩が全て無くなって(苦悩が転じ変わって)幸せになれると考えている節があります。苦しみの元凶(根元)とは何か、それが無くなるとどうなると理解しているのか甚だ疑問です。この人生の不幸の元で、生死出離まで考えが至らないことにつながるので、この点からしてもこの言い換えは半分正解です。

2と3は特に問題ありません。

問題は4です。「無明の闇」が「死んだらどうなるか分からない心」である、という聖教上の根拠はありません。そもそも「死んだらどうなるか分からない心」というものを善知識方は問題にしていません。問題にしているのは高森会長と愉快な仲間達が主で、それと「無明の闇」「疑情」を結び付けて考えるという発想自体が善知識方にはありません。というのも、善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているからです。

法然聖人は本願を信じるか疑うかで、涅槃の城へ入るか、生死にとどまるかが決すると教えられていますし、親鸞聖人は本願を深く信じて念仏する者は報土往生し、本願を浅く信じている者は一向に名号を称えていても化土往生すると教えられています。第一、こういう心でこういう行いをした者はこうなると「死んだらどうなるか」を細かく分類して教えられているのが仏教です。親鸞会で有名な「八大地獄」なんかも、それぞれどういう因でどういう地獄へ堕ちるのか、その因果関係を教えられています。普段は因果の道理、因果の道理とうるさいのに、その辺は一括りに「一切衆生必堕無間」とする、非常に大雑把なのが親鸞会です。

仏教を信じる、因果を信じるというのは、こういう因がこういう果を生むという釈尊の教えを信じるということです。例えば、こういう因を造ると死後こういう世界に堕ちるとか、こういう因を積めばこういうさとりが開けるということを信じるわけです。それを信じないということは、仏教を信じている、因果を信じているとは言えません。

ここで阿弥陀仏の本願を信じるというのは、念仏を称える者を極楽へ迎えるという誓いを信じるということです。誓いを信じたらどうなるか。その信心が自力だろうと他力だろうと、念仏を称えますわね。信じない人は念仏を称えません。逆に言うと、念仏を称えない人は、浅くも深くも信じていないということです。それで、念仏を称える身になった上で、念仏を称える際の心、信心に特に重きを置いたのが親鸞聖人です。

ここからして親鸞会では本願の説明が「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」ですからもうダメなんですよ。本願の行、信、証の代わりに、訳の分からない「絶対の幸福」だとかいう文言が盛り込まれている。だから本願を信じるも何も無いんです。会員が念仏軽視、念仏誹謗に陥っているのは、どんな者をどうする本願かということを間違って教えられているからです。

それで、せっかく念仏を称えていても、自分の功徳のように思い、それを積み重ねて往生しようというのは自力のはからいであって、それでは化土にとどまり報土往生できない。念仏は自分が称えて功徳とするのではなく、善根薄少にして生死火宅を出ることのかなわない我々を必ず往生させると誓われ、これを成就した阿弥陀仏がお与えになった大善大功徳なんだから、その誓いの名号のいわれを聞いてそのまま受け容れて称えなさいよと聖人、蓮師は懇ろに示して下さったのです。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。『末灯鈔』2通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。『末灯鈔』12通

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。『御文章』2帖目9通

このように、本願を疑いなく信じて念仏する者は報土往生と「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのが善知識方です。一方で、我々の側の「死んだらどうなるか分からない心」がどうだとかは一切触れられていません。つまり、我々の側で「死んだらどうなるか」が分かるようになるわけでもなければ、分かる必要もないわけです。必要なのは、本願を疑いなく信じて念仏するということ、ただこれだけです。それを教えずに、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かないのが高森会長です。


この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

とあるから聖人は「死んだら浄土に往くとハッキリしていたのだ」とか高森教徒は強弁するかも知れませんが、ではどうして親鸞聖人と同じ信心であるはずの覚如上人は

・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
・さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』【2】

と仰ったのか。本願で阿弥陀仏が誓われているからそれを信じて受け容れている、だから死ねば浄土で待っていると仰ったのであって、自己の自覚の上で死後がハッキリしているわけではないことがお判りでしょう。

故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(同)

ですから、我々は法然聖人、また親鸞聖人のおられるところへ参るのだと心得るのであって、我々の側で後生どのような世界へ往くかはハッキリしないのです。飛雲さんの言葉で言えば、

「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」

です。我々の側の自覚ばかり強調して如来の御誓いにまかせよと教えないばかりか、三願転入は弥陀のお計らいなどと珍しい教えを説く知識に従う結果は・・・。とにかく会員の皆さんは哀れ哀れです。
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無明

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森顕徹氏は、自分の存在を理解する枠組みとして、真宗にそれを求めようとしたのでした。敗戦によって、あらゆる価値観が崩壊した時代に、軍国少年として特攻隊を志願した高森顕徹少年にとっての真摯な希求でした。
その価値観の再生を、若者を中心とした当時の仏教運動に求め「華光会」の主張に傾倒したのでしょう。寺に生まれながら仏法について何も知らない自分を省察したのかもです。また、ある意味では青年期特有の仲間探し運動でもあり、それを布教の実践と勘違いしたのが高森顕徹青年でしょう。要するに高森顕徹青年の、自分だけの、仲間探し仲間増大の欲望の「煩悩の所為」が高森親鸞会の原点なのでした。
穿った見方をするならば、仏教の求道という「煩悩」を煽り、仲間探しが高森顕徹青年が自分を育ててくれた「華光会」を離れ 高森顕徹氏を会長とし、68名の会員を集めて「徹信会」を発足したのでした。──高森親鸞会の前身です──

ともあれ、高森顕徹氏の人生は、仲間探し運動の延長でしたから、沈思黙考して浄土真宗のご法義を考察することの経験は無く、『教行証文類』を読むことも無かったのでした。
ただ、高森顕徹氏は、浄土真宗の「信」を、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、バクティの内の、バクティとしての最高神への絶対的帰依、ある意味での「狂信」と思い込んだのでした。それを大学生の新歓として引き入れる手段として用いたのが中根氏でした。『歎異抄研究会』に騙されて、人生を棒に振った(棒に振るとは、これまでの努力や苦労、得たものを無駄にすることの譬え)

要するに貴重な二度とない貴重な青春を、高森顕徹という異端の仏教に捧げた死屍累々というのが「高森親鸞会」の歴史であった。

そもそも高森顕徹氏は、「無明」という概念は理解していないし、何で会員が、この俗物を崇拝しているのが解らん(笑

https://goo.gl/1ydGT2

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ



Abcです

こんばんわ、Abcです。

今回も読ませていただきました、ありがとうございます。
高森さんの目指しているものはやはり「絶対の幸福」であり、「如来の大信心」ではないのでしょう。

さて、記事の中にて示されております
『化身土文類』真門決釈
 「おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。」
 と記されておりますように、「本願の嘉号をもつておのれが善根とする」ことはやはり「行者のはからい」でありますから、「了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり」であります。また、別の「お手紙」には以下のようにございます。

親鸞『末灯鈔(6)』
 「 なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。
 まづ善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。如来の御はからひにて往生するよし、ひとびとに申され候ひける、すこしもたがはず候ふなり。
 としごろおのおのに申し候ひしこと、たがはずこそ候へ、かまへて学生沙汰せさせたまひ候はで、往生をとげさせたまひ候ふべし。」

※「臨終の善悪をば申さず信心決定のひとは、疑なければ正定聚に住することにて候ふなり。さればこそ愚痴無智の人も、をはりもめでたく候へ。」:別の箇所にて「臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし」、「(真宗におきては)臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」(共に『末灯鈔(1)』より引用)とありますから、
 「真宗」にて問題としていることは「臨終(死んだあとどうなるか分かる)」ではなく「疑なければ正定聚に住する 、 信心の定まるとき往生また定まる」という「疑情(帰命)」なのであります。ですから、淳心房さんは(真宗では) 1を△ 2、3を○ 及び 4を× とされたことと思います。

蓮如上人『御文』それ弥陀如来の章(5帖目15通)
 「それ、弥陀如来の本願と申すは、なにたる機の衆生をたすけたまふぞ。またいかやうに弥陀をたのみ、いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。さればその信心といふは、いかやうにこころをもちて、弥陀をばなにとやうにたのむべきやらん。それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なき真実信心とは申すなり。」

※こちらの「お手紙」にも「他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり」、「一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり」と言われております。
上記(親鸞のお手紙)が「疑なければ正定聚に住する、信心の定まるとき往生また定まる」であり、
いま(蓮如上人のお手紙)では「疑なきを真実信心とは申すなり、他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり」

 でありますから、どちらの「お手紙」とも「他力について」説明されておりますし、このようにして客観的に考察することもできるかと思います。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

>何で会員が、この俗物を崇拝しているのが解らん(笑
またかい林遊さんよ。
解らんのなら黙っておけや。
結局あなたは被害者を嘲笑するのが楽しみなだけ。
高森には弁護士から医者から揃っていて守ってくれるし豪邸もあるよ。
アンタに何がある?悔しいんだろ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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