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「聞く一つ」と言ったり、19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧めたり、矛盾だらけの高森顕徹会長

昨日は富山で高森顕徹会長の話がありました。内容はいつもの

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフ
『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。」


という質問に答える形式の、飽き飽きしてしまう高森教でした。話の一部は既に

『飛雲』創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

に書かれています。当ブログでも、話を一部紹介しつつツッコミを入れていきたいと思います。


まず、今回も相変わらず高森会長は、阿弥陀仏の本願は

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」

というお約束であると創価学会の信心を説明していました。しかもその「絶対の幸福」とやらの解説に

南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ
『浄土和讃』現世利益和讃

を用いて、「仏教で利益(りやく)は幸福のこと。幸福がきわもない、無限」だと説いていたのがお笑いでした。あのね高森会長、これは冒頭に「南無阿弥陀仏をとなふれば」とあるように、真実の行である念仏一行を称えることによる利益を教えられたものですよ? この少し前には

絶対の幸福に「聞く一つ」と言われても、それがわからない。何か修行がいるのではと思う。学問、座禅、祈ること、信ずること、願じなさい、念仏称えなさい・・・多くの宗教はこのような修行を勧めている。

などと話して、念仏行さえ「多くの宗教」の勧めの一つに数え、真宗では「聞く一つ」などと否定しておったのに一体どの口がそんなことを言っているのでしょうか。仏教、浄土真宗に無知な高森会長は、真実行と真実信、そして聞との関係は当然ながらご存知ないようです。


真宗では如来選択回向の念仏一行を真実の行と定め、

仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。「行文類」行信利益

と本願の名号、南無阿弥陀仏を仰いで往生をおまかせし、専ら行ぜよ、称えよとお勧めです。その念仏一行を称える際の信心に注目し、これは自分で起こす信心ではなく、如来より与えられる本願力回向の信心であることを明らかにされたのが親鸞聖人です。そしてその信心は、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のこころをそのまま聞くこと、この他に信心は無いというのです。それを教えられたのが「信文類」

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

であり、また『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

のお言葉でした。お前が修めるべき往生の行はこの阿弥陀が名号として仕上げたから、どうか南無阿弥陀仏と称えて浄土に生まれてきてくれよとの大悲招喚の勅命を、己の計らいを雑じえず、仰せのままに聞き受けているのが、取りも直さず真実の信心であることをこのように仰せられているのです。何かの一つ覚えのように「聞く一つ」、「聞く一つ」とうるさいですが、何を「聞く一つ」なのか全く教えられていない、間違って教えられていることを会員の皆さんは早く気付くべきです。

高森会長の、都合によってコロコロ変わる与太話をいくら「聞く一つ」と真剣に聞いていたってダメです。会員の皆さんは約1ヶ月前、どのような話を聞いていたか覚えていますか?

18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

こんな話を聞いていたんですよ? 18願のお約束通りになるために必要であり大切だからやりなさいと、19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧められていたじゃないですか。なのに「聞く一つ」だなんて全く理解不能ですよ。これを善知識の深いミココロなんかと騙されているようではもはや「病膏肓に入る」です。


さて次に、『飛雲』でも触れられている、高森会長が必死の求道を勧めるために話した創作「二河白道の譬え」についても書いておきましょう。高森会長は、こちらも何かの一つ覚えのように

白道は、私達の求道心、聞法心

と話していましたが、全く根拠のない珍しい教えです。善導大師は譬え話を解説して

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

と教えられています。これを親鸞聖人は

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられ、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。「信文類」

と解釈されて、他力回向の義、「白道」は信前の、私達の自力の信心ではなく信後の、本願力回向による真実の信心、他力の信心であることを明らかにされました。またその直前には「白道四五寸」を釈して

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

と仰せられています。これによりますと、「白道」とは

白 - 選択摂取の白業、往相回向の浄業
道 - 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道


ということで、本願において選択摂取され、往相回向の浄業として回施される念仏一行を称えてゆく第十八願の唯一信心の道であり、その信心は「金剛の真心」「本願力の回向の大信心」です。どこにも

白道は、私達の求道心、聞法心

なんていう珍釈もありませんし、

18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」

と説いて19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧めることもありません。高森会長は、親鸞聖人の仰せの通りに法を説いていないことが「まことに知んぬ」です。なぜこうまで教えを捻じ曲げるのでしょうか。一つ言えるのは、高森会長は会員の獲信だとか往生だとかは兎の毛で突いた程も眼中に無いということです。


月最低5,000円以上の会費を払い、人によっては高い交通費や宿泊費を払って富山へ通い、その都度その都度更にお布施を払い、勧誘活動もやって目標財施額、目標入会(入学)人数を達成し、会長や上司の指示に無条件に従ってゆく。こんなことが普通の人間にとって苦しくないはずがありません。それを正当化し、会員を体よく利用しているだけだということに、会員の皆さんは早く気付きましょう。



【参照】
『飛雲』再開した三願転入の妄想話
「仮」「方便」が「方便化身・化土」のことだと分からない、本当に真宗に無知な高森顕徹会長

【後書】
林遊@なんまんだぶ様よりツッコミを頂き、一部記事を修正致しました。ありがとうございます。なお、親鸞聖人は読み替えによって善導大師の真意を明らかにされたのであって、善導大師が「白道」を自力だとは教えられていません。そもそも譬え話自体が信後の「信心守護」の譬えであって、信前の自力求道の譬えではないのです。高森会長が「白道」を信前の私達の求道心、聞法心だと主張するなら、その根拠を提示すべきでしょう。
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白道:白とは弥陀回向 道とは無上道 則ち念仏道なり

こんばんわ、Abcです。
先ほどは、重ね重ねのご返答ありがとうございます。

>これによりますと、「白道」とは
白 - 選択摂取の白業、往相回向の浄業
道 - 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
ということで、(淳心房さん)

さようであります。この内、「道 - 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道」について『教行証 行巻』には、

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。

 無上といふこころは、この道、理を窮め、性を尽すこと、さらに過ぎたるひとなけん。なにをもつてかこれをいはば、正をもつてのゆゑに。正は聖智なり。法相のごとくして知るがゆゑに、称して正智とす。法性は相なきゆゑに聖智無知なり。

 遍に二種あり。一つには聖心、あまねく一切の法を知ろしめす。二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。

 道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無碍の相なり。(『教行証』行巻 他力釈より)

であります。ですから別の箇所(『歎異抄』)には、

 念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

とございます。この文章では「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」とございますが、先述した「速得無上正遍道」は阿弥陀様の御計らい(名号法の計らい 法爾)にて差し向けられますので、自力を要とする諸善はおよぶことがない、と釈されております。

 ですから、このコメントの「むすび」とはなりますが、以上の文を踏まえたならば、「白道は、私達の求道心、聞法心」という言葉は出てきようがないと思います。これは、

白道 は、 私達の求道心、聞法心
 18願(大信 自然法爾願 念仏成仏願)は、 19願(双樹林下往生願)

ひいては
 報土(18願の果 安養国往生) は 化身土(19(20)願の果 疑城胎宮辺地往生)  とも読めます。
 
なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

ありがとうございます。

白道を信前の求道心、聞法心とし、親鸞会教義に合わせて譬え話を改変し、会員を都合よく活動させようとする高森会長には強い悪意を感じます。『観経疏』は

一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。

と善導大師が書かれるほどの聖教ですから、己の都合で勝手に加減している時点でもうアウトですね。会員の皆さんは、深いミココロだなんて詭弁に騙されずに、邪偽の教えを見抜いて脱出して頂きたいです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

読み替え

ども、林遊@なんまんだぶです。
ちょっとツッコミ。

言中間白道四五寸者 即喩衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心也。

「善導大師の読み」
「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

「御開山の読み」
〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。
http://wikidharma.org/5bfcdac9162f6

御開山は「生ぜしむる」と使役で読まれ「清浄願往生の心」とは本願力によって生じる「如来回向の信心」の意であるとされたのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B8%85%E6%B5%84%E9%A1%98%E5%BE%80%E7%94%9F%E3%81%AE%E5%BF%83

善導大師は『観経疏』p.504で、
>一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。

と言われてますが、ご自身は『往生礼讃』で、第十八願文を、

 若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
  「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BE%80%E7%94%9F%E7%A4%BC%E8%AE%83_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#P--711

と読まれて、「もつぱら経法のごとくすべし」と言いながら「至心信楽欲生我国」や「唯除五逆誹謗正法」までも略してしまうのですから大胆不敵な人です。祖師方は経典を読み切って、こういうことが出来る凄い方達なのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

知識をひけらかして喜んでいるバカがいますね。
自分はこんなに知っているのだぞと自慢することでしか自己の存在感を出せない哀れな人なのでしょう。
白道は念仏往生の一本道だと善導大師が喩えで教えられたのを法然聖人親鸞聖人も承け継がれた訳でそこは微動だにもしないんだよね。
では諸行往生はどうなるんだというより疑問に対して法然聖人が偽の白道として仰ったことがあるのであって、あくまで諸行と念仏の対比を説明する目的だったわけですわ。
親鸞会が喜ぶような表現をして誤解するのがおかしいと蔑んでいるけど、誤解させている自分が悪いとは全く思わないんだよね。高森会長と同類。
蔑んでいる親鸞会の退会者しか相手にしてもらえないんだから少しは気を遣ったら如何かな。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

該当箇所を修正しました。ありがとうございます。読んで頂いて、まだおかしければツッコんで下さい(笑)

善導大師や親鸞聖人はとてつもない御方ですね。それに対して高森会長。彼は善知識方の真似をしているつもりなのでしょうか? 『教行証文類』すらまともに読んだことがない人物ですから、あくまで真似で善知識方の真意を明らかにするどころか、会員を仮の教え、邪偽の教えに押し留める結果となっていることはご承知の通りです。まぁ高森会長の篤信者は騙されてしまうかも知れませんが・・・

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

M野さんが、林遊さんの説明を利用して白道は自力だと言っていました。それについてM野さんが林遊さんに質問したけど答えてもらえなかったとも言っていました。他でも同じことがありました。
林遊さんは親鸞会に利用されていることを知った方が良いですよ。

当面読み

ども、林遊@なんまんだぶです。

註釈版聖典七祖篇発行に際して浄土真宗聖典編纂委員会の「註釈版聖典七祖篇を読む」という小文があります。
この中の、七祖聖教の「当面読み」について」で、当時教学研究所の所長であった梯實圓和上が、

>>引用開始
 七高僧のお聖教になぜ「当面読み」が必要であったかといいますと、親鸞聖人が、『教行証文類』などに七高僧のお聖教(漢文)をご引用になるときに、しばしば文章の当分とは違った読み方をされていたからです。もちろんそれは決して聖人の恣意に依るものではなく、深遠な信心の智慧をもって、阿弥陀如来の本願の文脈に遵い、祖師方のご本意をお見通しになったうえでの読み替えでした。しかし少なくとも漢文の常識を超え、また原文の文脈をこえた読み方(訓点)が随所になされているわけです。実はそこにこそ、他の追随を許さない「浄土真宗の宗祖」としての親鸞聖人の面目があるわけです。

 しかしもし、親鸞聖人がおつけになったままの訓点をもって七祖のお聖教を拝読しますと、いくつかの問題が出てきます。第一には、親鸞聖人が言われることは、すでに七高僧がすべていわれていたことであって、聖人の独自性は何もないことになり、聖人のみ教えの特徴も、聖人のご苦労もかえって見えなくなるということです。聖人はつねに「愚禿すすむるところさらに私なし」と仰せられていたと言われています。たしかに、聖人は、仏祖のみ教えに素直に信順するという姿勢に終始されていました。しかしまた、そのようにして仏祖のみ教えによって育てられた智慧の眼(択法眼)によって、私どもには読みとれない仏祖の真実義を見抜き、開示するという偉業を達成されたのでした。七高僧がいわれていることを、ただ鸚鵡返しのようにいわれたと見るならば、かえって親鸞聖人の独自性(ご己証)がかくれてしまい、浄土真宗の宗祖としての面目が薄れてしまいます。
http://wikidharma.org/5145a58a7a342
>>引用終了

とあるように、御開山の読み替えによって、我々にも判りやすく仏祖の真実義を覗うことができます。ある意味では、御開山の読み替えや{乃至}や{略抄}とされて引文されておられないところまで読むことによって、より御開山の本願力回向というご法義が楽しめます。祖師方の解釈を受容し、それを展開した御開山の思想を読むことで、御開山の「行信論」を把握することも出来るのでしょう。

もちろん法然聖人が『西方指南鈔』下本所収の「浄土宗大意」で「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」ですが、折角御開山が『教行証文類』を著されたのですから、その意を少しだけでも覗うことも「他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや」という他力の聖教を読むことはアリだと思っていたりします。

なお、御開山が白道について自釈されておられるのは「欲生釈」、

 まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
http://wikidharma.org/5bfe8c8aa8ea0

であり、これは善導大師が『観経』の回向発願心を釈して、

 また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。

と述べておられるように「信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」為ですから『大経』の「至心・信楽・欲生」の三心一心の「信楽」とは論理の建て方が違うのでした。ある意味では「信巻」で『観経疏』の「至誠心・深心・廻向発願心」を引文されるのは『大経』の「至心・信楽・欲生」の三信をあらわす為の引文ですが、引文のみにひっぱられて、「三心一心問答」の御自釈の意を見失っては本末転倒ですね。

なお、法然聖人の『選択本願念仏集』三輩章の釈では、『大経』の三輩段を、廃立、助正、傍正を立てられ、

 ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

とありますが、これを承けた御開山は徹底した廃立の義によって三輩は仮であるとして浄土真宗をあらわされたのでした。
この『大経』三輩段の「一向専念無量寿仏」の専念を、浄土真宗の信心であると喧伝してきたのが高森顕徹氏でした。
http://wikidharma.org/5bfe9b73001c9

なお、白道に自力・他力があるということで、たぶん法然聖人の語録『三心料簡および御法語』にある「白道の事」の解釈をあげている方がいますが、林遊は親鸞会の方とは数十年前は知らず、リアルな場以外に二河白道について話したことはありません。
http://wikidharma.org/5bfe974410149

十悪の中の口の四悪として、妄語(うそいつわり)。両舌(人を仲たがいさせる言葉)。悪口。綺語(まことのないかざった言葉)と、ありますが牧野氏の両舌でしょう。林遊は口と根性は悪いので悪口という口業はあり得ますが、牧野某氏の妄想でしょうや(笑

高森親鸞会には、ネット工作員という存在があるそうですが、そいいう工作をするよりも、真面目にお聖教を読みなさいと思っていたりする。法然聖人は三生果遂ということを言われておられたが、阿弥陀仏のご心配することであるからどうでもいいか。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


No title

林遊さんも親鸞会の輩と同類ですね。
詭弁でごまかそうとしてみっともない。
M野さんは林遊さんのブログを引用しているわけで、質問もブログにしたということです。コメント受け付けていないということでしょうが、質問したかどうかより、利用されていることを考えておいた方が良いです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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