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コメント返信(現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員)

しばらく間を空けていた間に多くのコメントを頂いておりました。皆さまのそれぞれの主張、言いたい気持ちはよく分かりますが、もうここらでお納めください。会員や講師部員との諍いならまだしも、親鸞会退会者と観察者で諍っていてもいい方向へは向かわないと考えます。

さて、二河白道の譬えは18願意を表したものであることは言うまでもありません。ところが、その18願で誓われる信心は自分で起こすのか、本願力回向の信心として如来より賜るのか。ここが善導大師のお言葉を当面読みしますと、私達には判断しかねるのです。

例えば至誠心ですが、『観経疏 散善義』の当面読みはこうです。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。(中略)

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
『散善義』至誠心釈

浄土へ往生しようという者が起こさねばならない三心の一つが至誠心ですが、その至とは真、誠とは実で、至誠心とはすなわち真実心のことだと教えられています。それで、私達は親鸞聖人から教えを受けていますから「真実心」とは我々凡夫の心ではなく如来の真実心だと分かりますが、善導大師がお書きなされたままを私達が読みますと、真実心を我々の方で起こさなければならないように読めるのです。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

如何ですか? これを私達が浄土真宗の知識なく読んで、これは如来の真実心をもちいることが真実心であると分かるでしょうか? 私には、至誠心とは自分で起こさなければならない信心であるように受け取れます。

それを、法然聖人、親鸞聖人が血みどろの求道、研究をなされて、私達には如来のお心にかなうような、浄土へ往生できるような真実心は持ち合わせていないし、到底起こすことができない。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される真実心である他にないと明らかにして下さったのです。親鸞聖人は善導大師の真意を明らかにするために次のように読み替えて下さいました。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。


こう読み替えられることによって、真実心は我々凡夫の起こす信心ではなく、如来の真実心であることを明らかにされたのです。18願意といったら他力回向に決まっている、というのは我々が親鸞聖人から教えを受けているから分かるのです。至心信楽欲生の三心は、これを普通に読めば我々が「至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて」という信心を起こして、と読むより他にないでしょう。


読み替えによって他力回向の義を明らかにされたお言葉として今問題になっている、回向発願心釈の例のお言葉もそうです。清浄願往生の心を自分で起こすのか、それとも如来より賜るのか。当面読みでは判断しかねるところを、親鸞聖人が読み替えられることによって如来より回向される清浄願往生の心だと明らかにされたのです。

親鸞会では19願を持ち出してきてごちゃごちゃと言っておりますが、林遊さんは19願のことを問題にしているのではないのです。自力といったら19願と、短絡的に結び付けてはいけません。18願を信ずる人の中にも自力あり、他力ありです。

また林遊さんが悪いのではなく、それを利用して善導大師の真意を捻じ曲げ、浄土真宗の他力回向のご法義を捻じ曲げている講師部員が悪いのです。林遊さんは自分の主張をズバッと仰る方ですから、それは退会者の皆さんの癇に障ることもあるでしょうが、あの林遊さんの説明まで悪くはないのです。

私達は経典やお聖教を読めば内容が分かると思っています。しかし、実際はそうではないのです。菩薩の論、高僧方の釈、そして親鸞聖人のお言葉を通すことによって初めて如来のお心がどういうものか、我々のような凡夫が浄土に往生するにはどのようにしたらよいのか、どうすることが如来のお心にかなうことになるのかといったことが明らかになるのです。親鸞聖人に至って、本願力回向、全分他力、現生正定聚、往生即成仏、その他様々な善知識方の真意が明らかになりました。私達はそこを知らなければならないと思います。


それにしても許せないのが高森顕徹会長であり講師部員です。退会者の挙げた根拠を逆手に取って自説の根拠としたり、今回の清浄願往生の心のことといい、利用できるものは何でも利用して会員を騙し続けています。私達はこうした親鸞会の言動に憤りを感じ、その誤りを糾弾していかねばならないと思います。

親鸞聖人は「白道」を他力の意味でしか教えられていません。それを、善導大師の当面読みを利用して聖人の御釈をひっくり返すような、悪びれることなく今までの創作話に合うような説明をして、なおも会員を獲信・往生と無関係の組織拡大活動に利用・搾取している親鸞会は本当に許せません。

私達は東の岸にいる時、「白道」に踏み出す前に弥陀の招喚のお言葉を聞きます。そのお言葉を聞くまでに、親鸞会で説かれるような自力の命がけの求道は不要です。そんなものは捨てて、阿弥陀さまが我々を助けるために命がけの修行をされ、今も現に、常に助けようと願われはたらき続けられている、その阿弥陀仏のお心を受けなければなりません。今、ここで、この私一人を救うという南無阿弥陀仏の六字の心を聞き受けお念仏申す。この他に我々が為すべきは無いことを訴えて、この記事を終わりたいと思います。


【後書】
そういえば、高森会長は上の至誠心釈の当面読み

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

を利用し、19願の「発菩提心 修諸功徳」の説明の際に

「ド真剣に善をしなさい」とはどれくらい「ド真剣」なのか

を教える根拠として利用していました。実に許し難い行為です。こんなデタラメな教えを受けて信心獲得を妨げられていることに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいです。
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No title

今まで目を瞑ってましたが、どこかで言わないと際限もなくいい続けるでしょうから、言ったまでです。

雑行の中の願往生の心は、白道なれども貪瞋水火のために損ぜらる。

この法然聖人のお言葉を、これ見よがしに出し続けて退会者を見下してきた歴史があるわけです。それをM野さんに見つけられて利用されてきたのも事実です。

法然聖人がどんな意図で仰ったかも考えることなく、白道には雑行の道の意味があると繰り返す愚行に注意を喚起した。それだけのこと。的を射た指摘なら口が悪かろうが納得しますが、的を外したことを言い続けられて親鸞会に利用されてもなお言い続けることにいい加減に気付けって話です。

Re: 名無し様

コメントありがとうございます。名無しさんのお考え、仰りたい内容、承知いたしました。コメントは自由ですので、して頂いて全くかまわないです。このままでは親鸞会批判が林遊さん批判になりかわり、親鸞会の邪偽を糾弾するという本来の目的とはずれてしまうことにつながる懸念がありましたので記事として申し上げました。

No title

ワシは法然上人の教えられ方で教えているのだ

と会長が言い始めたら責任を取って会長を諌めてくれるのか?

利用する方が悪いが利用されるような迂闊なことを言い続けるのも悪い。

至誠心釈

ども、林遊@なんまんだぶです。

だいぶ昔ですが、BBSで御開山の訓点による至上心釈を論じていた時に、一般の方から「このような読み替えをするとは、親鸞は漢文が読めないのではないか」というツッコミをうけたことがあります。
http://wikidharma.org/5c0203ae5c353

とっさに、これは読み替えではなく、御開山は信心の智慧によって、このように読めるのであり、これが御開山の素晴らしいところです、と答えたことがありました。
法然聖人は、

 善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。第三反度に、乱想の凡夫、称名の行に依って、往生すべしの道理を得たり。
http://wikidharma.org/5c0205219b725

といわれたとありますが、それは善導大師の疏文のままでは「阿弥陀仏が因中に菩薩の時に発したと同じ至誠心を発せ」という至誠心釈の当面の釈からでした。

法然聖人は『三心料簡および御法語』「三心料簡」で三心について考察されていますが、御開山は、このような示唆によって本願力回向の立場から至上心釈を読み替えられた面もあるのでした。
http://wikidharma.org/5c02022c780ca

御開山は、
(99)
智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ

(100)
善導・源信すすむとも
 本師源空ひろめずは
 片州濁世のともがらは
 いかでか真宗をさとらまし

と、浄土真宗を開かれたのは法然聖人であるといわれてますから、法然聖人の釈を窺がうのには何の問題もないのだと思っていたりします。
ところで、以下の「白道のこと」という
http://wikidharma.org/5c020ac53190e
ブログの記事が何故批判対象になるのか意味が解らん。
御開山は「仏願の生起本末」ということを示して下さったが、七祖聖教を窺がうことも「本末」ということを学ぶことであろうと思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

親鸞会の会員と同じレベルの思考ではわからないのも当然です。
これまでの貴殿の態度を見ればわかろうという気もないでしょうし、わかってもらえると期待もしていません。

Re: 林遊@なんまんだぶ様

おそらく

> 親鸞聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解されたからであろう。

等の文章でしょうかね。ここから、白道には自力の意味があると書いてある、こいつは都合がいいとM野講師が利用したのかも知れません。

親鸞聖人の「白道」の領解に他力の意味しか無いことは『教行証文類』『愚禿鈔』等、記事で挙げた御文から明らかでしょう。名無し様等退会者の方々はここを批判されているのだと思います。コメントされた方、もし違っていたら重ねてご意見下さい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

淳心房様

そういうことです。
並の思考ができるなら、簡単にわかるでしょう。
どれだけ言っても、理解する気のない理解する能力のない人には言うだけ無駄ですから、この話はこれで終わりとしましょう。

恐ろしい話です…

宗教が争いの種になってしまうのは、国家も家庭も同じ…あまつさえ、
浄土真宗そのものまでもが争いの種となってしまうのですから。
しかしながら…
林遊さんは、確かに…な部分もあるのですが…
ネット上にお聖教や御法話を纏めて下さっている方でもある事を、
皆さん忘れないで下さい。

No title

親鸞会に利用されないようにまとめておきます。

1.善導大師の創られた二河白道の譬喩で白道に雑行・19願の意はない。
2.親鸞聖人の解釈では、白道は他力の意しかない。

以上を踏まえれば、偏依善導の法然上人が白道を雑行の道と仰ったのは、法然上人の独自の解釈ではなく、白道を雑行の道と考えるのは善導大師の譬喩から外れていると間違いを示されただけである。それを親鸞聖人も受け継がれた。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

先エントリーでは数々の狼藉、誠に申し訳ございません。
ただ、淳心房さん自身もいわれている、

>親鸞聖人の「白道」の領解に他力の意味しか無いことは『教行証文類』『愚禿鈔』等、記事で挙げた御文から明らかでしょう。

ということを伝えたかったのであります。そして下記には件の書物を載せておきます。 あわせてお読み頂きますことよろしくおねがいします。

光明寺和尚 善導大師『観経四帖疏 散善義』 至誠心釈
 「一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく

この雑毒の行回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり」

---

円光大師 法然房源空 『選択本願念仏集』 二行章
 「善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。

 『観経疏』の第四(散善義)にいはく、「行につきて信を立つといふは、しかも行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生の経によりて行を行ずるもの、これを正行と名づく。いづれのものかこれや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す。これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきて、また二種あり。

 一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに
もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。」

---

見真大師 善信房綽空 親鸞 『顕浄土真実教行証文類 信巻』
 「光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)といひ、また「専心専念」(同・意)といへり。(乃至)
 宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
 しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。
この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。
願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。」

以上、Abc是を抄出す。また、太字・下線加工す。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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