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「二河白道の譬え」の「白道」について

色々とややこしいので、私の方でもまとめてみました。


・『観経疏』の廻向発願心釈に、雑行と組みあった諸行往生の願生心と、専修正行の願生心とが釈されていると法然聖人は見られた。

・二河譬のなかに白道を合法して「喩衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心也」(衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふなり)といわれているが、この白道たる願生心のなかに、貪瞋水火のために損ぜられるものと、損ぜられないものとがあると法然聖人は言われている。

・その二種類の願生心の内、諸行往生の願生心は破損するが、専修正行の願往生心は破損することなく金剛堅固であると法然聖人は教えられた。

法然聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解された。

・こうした法然聖人の解釈を踏まえ、願生心には雑行と組みあった諸行往生の願生心と専修正行の願生心の二種類があるため、親鸞聖人は善導大師の回向発願心釈を「信文類」と「化身土文類」とに引文されている。

・雑行と組みあった諸行往生の願生心、すなわち自力の願生心は本願の三心と組み合わないため、親鸞聖人は「二河白道の譬え」そのものを『教行証文類』の方便の信を顕す「化身土文類」では引文されておられない。

・専修正行の願生心、すなわち他力の願生心は火焔にも水波にも損われざる白道、煩悩に汚されざる清浄なる願往生心であるから彼願力之道と言われる。これは本願の三心と組み合う他力の信心を顕しているため、親鸞聖人は「二河白道の譬え」を『教行証文類』の真実の信を顕す「信文類」にのみ引文されている。

親鸞聖人は「二河白道の譬え」の「白道」は他力の意味でしか用いられていない。

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。「信文類」二河譬引文

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。
「信文類」白道四五寸を釈す

ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。『浄土文類聚鈔』

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。『愚禿鈔』下巻

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。(同)

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
『一念多念証文』「致使凡夫」等の文意


以上です。「白道」についてコメント頂いた名無し様等、加筆修正すべき点がございましたらご意見下さい。

なお大変参考となるため、まとめ様の以下の文章を載せておきます。

********************
1.善導大師の創られた二河白道の譬喩で白道に雑行・19願の意はない。
2.親鸞聖人の解釈では、白道は他力の意しかない。

以上を踏まえれば、偏依善導の法然上人が白道を雑行の道と仰ったのは、法然上人の独自の解釈ではなく、白道を雑行の道と考えるのは善導大師の譬喩から外れていると間違いを示されただけである。それを親鸞聖人も受け継がれた。

********************


また最後に、林遊さんは

********************
二河譬の白道を、まるで求道のプロセスであるかのように説く人がいるが、『教行証文類』で説かれる白道の譬喩は本願力回向を顕わしているのであって、求道のプロセスを顕わしているのではない
********************

と仰っていることから判るように間違った教義理解をしているのではありませんし、

********************
ネット上にお聖教や御法話を纏めて下さっている方でもある事を、
皆さん忘れないで下さい。

********************

という名無し様のコメント通りの方です。また、浄土真宗の理解において、淳心房なんぞを遥か凌駕されている方だという事実は一向に変わりございません。そのことを申し添えてこの記事を終わりたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

貪瞋水火のために損ぜられる

ここだけでも、善導大師の教えられた白道とは明確に違う訳で、法然上人がこれを白道と解釈されたと考えるのは無理があります。
普通に考えるなら、こんな偽の白道を信じてはいけないよとの誡めと見るべきではないですか。

No title

纏めていただきありがとうございます。
なかなか微妙な表現が多いのですね。
淳心房さんや飛雲さん、そして山も山さん達には感謝です。

しかし、M野さんはどうしてそこまで高森顕徹会にこだわるのか。
よほどの宿業なんでしょうか。
後生の解決より高森会長が大事なのかな?

とにかく、あまり無理せずに頑張ってください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

二河白道

林遊@なんまんだぶです。

お騒がせしております(笑

重層的なお聖教の読み方という方法がありますが、善導大師の三心釈からは直ちに御開山の解釈には成り辛いです。そのために祖師方は善導大師の三心釈を解釈するのに苦労されたのでした。
法然聖人は、三心釈には諸行と組み合った三心と専修正行の三心があると見られたのでした。もちろん専修正行の三心が本意です。

御開山は、これを承けられて、引文の仕方や訓点の付け替えによって『観経』の三心を『大経』の三心からみられて領解されたのでした。御開山は『大経』によって宗義を建て『観経』には隠顕を見られるからです。

例すれば、二河白道の譬喩を説く回向発願心釈の第一釈、

 回向発願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づくるなり」と。
http://wikidharma.org/5c0333bac9c08

は、「信巻」では引文されず、「化巻」で引文されておられます。

このような引文の仕方や訓点の付け替えによって判るのは、当面の善導大師の三心釈には、諸行往生の願生心と、専修正行の願生心が述べられていると領解したのが法然聖人であり御開山でした。
それが、前述のように、回向発願心釈の第一釈は「化巻」で引文された所以です。

もちろん、引文を全て御開山の著述であるとして、七祖聖教を顧みないという学び方もありますが、林遊はゴールの御開山までの祖師方の解釈の過程に興味があったりします。これが誤解を生むのかもですね。

なお、参考までに『法然教学の研究』から法然聖人の二河白道の解釈と、『教行信証講義』赤沼智善 山辺習学共著から、論義となっている白道についての該当部分の抜粋とリンクをしておきます。 『教行信証講義』は校正をしていません 為念。

「廻向発願心の意義」の脚注。
 親鸞が『愚禿鈔』下(真聖全二・四七六頁)に「白道者、白言対黒、道言対路、白者則是六度万行定散也、斯則自力小善路也、黒者則是六趣四生二十五有十二類生黒悪道也〔白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。 〕」といって、他力白道に対して、定散自力の白路を釈出されたのは、法然が白道を諸行往生と専修正行とに分判されたのを継承展回されたものであろう。
http://wikidharma.org/5c033b0dac61f


『教行信証講義』
『禿鈔』には、六度万行等の自力の小善路としてある。これはこの下に白道に対して、白路の釈がないから、『禿鈔』に補われたのである。今両書の白道釈を総合して考えるに、三つの場合がある。
 一、白道。白は選択摂取の白業、道は本願一実の大道(当巻)
 二、黒道。黒は無明煩悩の黒業これは因に就いて云う(当巻)。道は六趣四生等の黒悪道をいふ。これは果に就いていう。(禿鈔)
 三、白路。白は、六度万行等の自力の小善珞(禿鈔)、路は、二乗三乗万善諸行の小路(当巻)。只白と路を別々に釈したので、そのものがらは自力諸善である。
http://wikidharma.org/5c033ba5af0d3

そもそも、「二双四重」の教判や「願海真仮論」などをきちんと領解した上で、七祖の御解釈を見ているのだが、これが判りにくいのかな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

高森会長は近々宣言するでしょう。

「ワシは法然上人の教えられ方で教えてきたのだ」

はあ〜

No title

10年前に『一念多念証文』の「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。…」について、ある元講師が三願転入を勧められた親鸞聖人の御文と言ったので、それを否定するために違う元講師がブログでこの御文を出して説明したことがありました。
その結果どうなったか。皆さん御存知の通り、親鸞会はこの御文を突然使いだして、大大的に三願転入の教えを会員非会員問わずに宣伝して、それに騙された人がたくさんいて今でもいます。

正しい事を言っているから正しいのだという理屈が、ここで通用しますか?

利用する者が悪いのは当たり前、利用されることが分かっていながら言うのが「正しいのだ」で親鸞会に対峙できるなら、してみましょう。

例の『一念多念証文』の二の前になって、騒いでも後の祭りです。

尻拭いが自分でできないならしないこと。

善導大師の三心釈

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山が、善導大師の三心釈の末尾で、

 またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし、と。
http://wikidharma.org/5c038dd09413e

とされておられるのは、善導大師の三心釈には定善と散善が説かれていたと理解されていたのだと思ふ。
それを法然聖人の指南によって「挙通摂別(通を挙げて別を摂す)」とされたのが御開山でした。御開山は、ここで隠顕による「廃立」をみておられるのですが、高森顕徹氏の毒牙に罹った方は、『選択本願念仏集』の、

 一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

という、仮(諸行)を表して、その真意は弘願(第十八願)に入ることを示されるのですが、高森顕徹氏によって脳味噌を洗濯(洗脳)されてしまったから、高森親鸞会の教義によって、阿弥陀様のご法義を領解しようとしてるのかな?

脱会者の方に、これからは0からの出発ですねと言ったところ、いや、僕はマイナスからの出発なんですよ、と言われたことがありますが、高森親鸞会脳からの脱却は大変だと思っていたりします。
越前の浄土真宗の先輩は「仏智深きが故に我が領解を浅しとす」ということを教えてくれましたが、私の想いを大事にするよりも、阿弥陀様の必ず摂取するといふ、阿弥陀仏の「ご信心」を大切にしてきたのが、越前の浄土真宗の門徒でした。(現在では絶滅危惧種であるが (笑 )

ともあれ『教行証文類』は、頭が痛くなるような著述ですが、親鸞会脳を脱却した時に、淳心房さんのように真実のご法義が味わえるのかもです、知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


八万四千の法門

ども、林遊@なんまんだぶです。

何が悲しくて、教義理解を異にする高森親鸞会の解釈を、伝統教団が論ずる必要があるのですか?
最近の会員は知らないと思いますが、愚直になんまんだぶを称えてご法義を慶んでいる法座に、「お前は、何月何日に信心を獲たか」と喚いて和やかな法座を破壊してきたのが高森親鸞会ですよ。あんたらやあんたの先輩が何をしてきたのかを少しく考えてみましょう。

ともあれ、高森親鸞会は御開山の示された浄土真宗とはかけ離れた存在ですから論議は成立しません。サッカーをしている人に、ラグビーのルールを持ち込んでもアホにされるだけでした。何が悲しくて組織も教義も違う高森親鸞会に、本願寺派が手を差し伸べる必要があるのですか? これって「甘えの構造」ですか?

林遊は加齢の爺いですが、まだ自分のケツは自分で拭けるので心配無用です(笑
投稿者の意図が意味不明なのだが、「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」の文に脊髄反射して、リンクを提示。どうでもいいけど。
http://wikidharma.org/5c039f3af4114

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


No title

実にそっくりですよね、論理の展開が親鸞会と。
悪口までそっくり。

林遊様、ありがとうございます

林遊様

いつも、ご教説ありがとうございます。
私も親鸞会退会者ですが、いつも過去の教義を正すのに林遊様のご意見を有り難く拝見させて頂いております。今回のように「名無し様」が多く発言されますと林遊様より打ち出の小槌のように多くの勉強の種が出で参ります。本当に有り難い事です。「名無し様」も怯まずドンドンと発言ください。やり取りを拝見している私はその間に多くの貴重な勉強をさせていただきます。

No title

どうもエムノです(笑)

いろいろ理屈を述べられてますが、要するに高森先生が白道のことを自力だと仰ったことは正しかったってことですよね。法然上人の教えを聞いて親鸞聖人は救われた、そして教えを継承された。

そういうことでアンチの負けですわ。

屁理屈は要らないので、これで終わりです。

コメントを受け付けない卑怯な第三者に感謝(笑)

No title

アンチ沈黙www

>重層的なお聖教の読み方という方法がありますが、善導大師の三心釈からは直ちに御開山の解釈には成り辛いです。そのために祖師方は善導大師の三心釈を解釈するのに苦労されたのでした。

高森先生が苦労されて現代の我々にわかるようにたとえ話を変えられた理由を言ってくれているじゃありませんか。
法然上人が変えられて問題ないのに、高森先生が変えたら避難するわけ?

これだからアンチはバカだっていうのよ。

No title

重層構造を隠顕で教えられたのが祖師なんだな。
法然上人の教えられ方は廃立。諸善を捨てて念仏を立てる、自力を捨てて他力を立てる
祖師は隠顕。方便と真実を分けられ方便から真実に入る道を教えられたのが三願転入。
方便の白道から真実の白道へ祖師は入られた告白が三願転入だから、それに沿って高森先生が教えられた。何が問題なの?

シリヌグイしてみたら(笑)

No title

自分で尻拭いできるそうなので、高みの見物させてもらいます。

No title

林遊氏に倣って同じ参考文献

『教行信証講義』には要門を通ることを教えたのが二河喩だと言っているぞ。「あの自力の決心から、直ちに純他力に入らず、要門自力の天地を迂回している」

以下全文引用
*******************************
先輩の多くは、此の喩を、大体上、自力の心を捨てて他力の信心に入ることを教えたものであるというておられる。云わば入信の径路を示したものと見るのである。この見解に立って見ると、文章の各所に、際立ちて此の消息を示してあることが知られる。先ず喩えの方で云えば、その主人公が水火二河に当面した時、決死の覚悟をなし、「我寧ろ此の道を尋ねて、前に向こうて去かん」と云うまでは、自力の決心である。この自力の決心をなす時に、東西岸の勧むる声を聞き、初めて他力の本願を信ずるという具合に、自力から直〈すぐ〉他力に入っているが、之を合法の下に見る時は、あの自力の決心から、直ちに純他力に入らず、要門自力の天地を迂回している。即ち、「能生清浄願往生心」の次下「乃由貪瞋強故、即喩如火水。善心微故、喩如白道(いまし貪瞋こわきによるが故に、即ち水火のごとくに喩う。善心微なるが故に、白道のごとしと喩う)」以下は、定散自力の機を明かしたもの、「諸の行業を回して、直ちに西に向かう」という「回する」とは、自分の善根を回向して、往生の行業とすることである。かような自力の根性をもっているから、其の下に示すように群賊等の為に惑乱せらるるのである。喩えの時は、釈迦弥陀二尊は一致してあるが、此処では東岸の釈尊の教えは、弥陀の招喚と離れて、唯自力の善根を以て浄土を願えと云うようになっている。其の次に「西岸の上に人ありて喚ぶと云うは、弥陀の願意に喩うるなり」以下は、正しく二尊一致の趣きがある。この移り行きを繹〈たず〉ぬれば、明かに入信の歴程〈みちゆき〉を知ることが出来る。喩えの方では、自力の無功を自覚した人が、直ちに二尊の発遣招喚を聞いて、群賊の喚び声を顧みず、念々に本願の一道をゆくことを示してあるが、合法の下には、行くこと一分二分にして、群賊悪獣に惑乱せられ、自ら罪を造って退失することを述べてある。この点をよくよく考えねばならぬ。一見煩鎖のようであるがここに信仰の径路の上に、深い味わいがあるのである。即ち自力無功を自覚した人の多くは、直ちに純他力に帰入することが出来ずに、所謂浄土の要門の機類となり、定散の小善根に執着するのである。聖人は此の点を『愚禿鈔』下二十丁に
  白道四五寸と言うは
 白道とは、白の言は黒に対し、道の言は路に対す。白とは是れ六度万行、定散なり。斯則ち自力小善の路なり。
と釈して、此の白道の文字の裏になっている万行諸善の小路を指摘し、更に同鈔に、群賊を解釈して
  群賊とは、別解、別行、異見、異執、悪見、邪心、定散自力の心也。
と仰せられて、本願の一道に進むことを妨げる群賊は、吾等の自力の心であるとせられた。我聖人の此の解釈によりて、吾等は非常に複雑なそして執拗な心性を自覚し、同時に他力本願の広大なることに驚かざるを得ないのである。
 吾等の心は、どこ迄も自力我慢の心である。一度は痛切に人生の最後に衝き当りて、自力無功を感じ、本願に、帰入したというても稍もすれば夫が定散自力に陥っていることが往往あるのである。諸善万行の機とか、横出自力の機ということは、他人を規定する範疇ではなくして、夫は吾等自身の自性であることに驚かねばならぬ。人生の欲楽や、栄華を夢みているのも自力を恃〈たの〉んでいるのであるが、宗教の天地へ入っても、容易に此の自力は捨てられぬ。それが即ち定散自力の心である。そして此の自力の心が真実の本願を聞くのである。ここに横超他力の信仰が生れるのである。
*******************************
引用終わり
*******************************

林遊氏の説明で高森先生の教えが正しいことを立証したんだが、一方で林遊氏は高森先生の教えを否定するとは、莫迦である(笑)

No title

梯氏も三願転入は必然だと言っているのを知らんのかwww
必然の道を高森先生は独自の二河喩で教えられた。
善知識とは、独自の解釈があるものなんだから、喩えを独自に変更したことは高森先生は善知識の証しになるんだよね。

梯実円著『顕浄土方便化身土文類講讃』より引用
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大きく分けると三願転入を義説と見る説と、行者の普遍的な事実と見る説とに分かれる。そして行者の普遍的な事実と見る中で、親鸞聖人が実際に体験されたと見る説と、実際の体験ではないが宿善としてあったという説に分かれるようである。私は三願転入は親鸞聖人の事実であったということ、同時に単なる聖人個人の宗教経験に止まらず、自力を捨てて他力に帰するという廃立の信心の性格として、自ずから三願転入が為されると考える。同時に、権仮方便の教法を設定して、未熟の機を誘引される如来の摂機の次第からいっても三願転入は法の必然であると考えている。
*******************************

No title

林遊氏の尊敬する赤沼•山辺•梯氏らは揃って十九願定散自力から十八願他力への道程を説明していて、高森先生と一致しているではないか。

これで高森先生の二河喩を非難するとはいかに。

コメントを受け付けない理由がわかったよね。

No title

お手並み拝見ですが、ここでのポイントは

※善導大師と法然聖人と親鸞聖人がそれぞれ違うことを仰っているかどうか。
白道についてお三方に違いがあるなら、高森会長が違っていても不思議ではないし非難できない。

※赤沼山辺師と梯師の説明を引用すると19願を通ることが必然となり、高森会長の改変は正当化される。

仲裁に入ったつもりでしたが・・・

どうも拡大してしまいましたね(^-^; 私のやり方がまずかったかも知れません。

収まる気配がないし、林遊さんと名無しさん等退会者の皆様のお考えは平行線を辿るばかりなので、もう私に直接質問等がない限り私は議論の行方を見守ろうかと思います。

親鸞会に限らず、仮の教え、邪偽の教えにとどまっている方々は多いので、騙され続ける人がいるのもある意味仕方ありません。そのような人々にも阿弥陀さまは応じてそれぞれ導いて下さっているでしょうから、まぁ私の出る幕はないかも知れません。親鸞会の活動も19願の実践も、やりたきゃやれ、親鸞会にとどまるかどうかも、悔いの残らない方を自分で選べ、というのが淳心房のぶっちゃけた意見です。

で、当ブログでは「白道」についてはひとまず終了とし、次回からは別の話題を書いていくつもりなので皆様ご承知おき下さい。本当に高森会長が「ワシは法然上人の教えられ方で教えているのだ」みたいなことを言い出したらまた書こうかな・・・

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

林遊さんを論破しても楽しくもうれしくもないよね。ただ退会者の邪魔をしないでほしいそれだけだ。

No title

どんな教えだろうとそれを聞いた人が幸せになるのが宗教。
会長の善のすすめによる被害者は少なくない。
例えばT商事の N会長は善のすすめを聞いて、なぜ多くの人を騙し、また騙された人の中には自殺者が出て、最後はN会長自身が惨殺されなければならなかったのですか。会長の教えを忠実に聞いたからではないですか。
いくら二河白道の教えを独自の解釈で説いたところで阿弥陀様に泥をふっかけるようなことをしてそれでいいのでしょうか。
それでいいと思っているから会は反省もせず平気なのでしょうが。
笑わせるなと思います。

園児様へ

前の記事のコメント《恐ろしい話です…》を投稿した《名無し》です。
私は、退会どころか入会すらしていなかった者ですが、
親鸞会になびいていた事は紛れもない事実で、
今回のこの事態には胸を痛めんばかりです。
ひとつ言える事は…完璧な人間など、誰もいません。
なので、億劫この方より生死の世界…六道輪廻なる苦しみの境涯を、
我々はずっと巡ってきたのでは?
利用するされる、搾取するされる、等々、等々…を問わず、
弥陀の本願は全ての者に向けられているはずなのに…

No title

教義に詳しいだけで親鸞会に法論で勝てるなら、本願寺は親鸞会を叩き潰していたでしょう。エムノさん程度の反論に窮しているようでは、親鸞会本体にはとてもではないが言い負かせないでしょう。

自惚れが自滅を招くってことです。

無碍光

名無し様
>弥陀の本願は全ての者に向けられているはずなのに…
まことにその通りですね。阿弥陀仏の無碍光とは「なにものにもさえぎられることのない光」ですが、物理的な障害物を指すだけでなく、凡夫の煩悩心にもさえぎられることのない光と聞いております。どんな宗教心を持った人にも、主義主張が異なる人にも等しく光明が届いているということですよね。

仏教の話をする人々はこの阿弥陀仏の無碍光の智慧と慈悲を思って、話をする必要がありますね。

南無阿弥陀仏

No title

教えに非常に詳しいのに本願寺の僧侶達から総スカンを喰らっている理由が今回でもよくわかります。
文字通りの自業自得。

No title

法然上人の教えられ方の特徴は廃立です。念仏と諸善との比較が最も顕著ですが、往生について念仏往生と諸行往生との比較で教えられています。捨てるべきものと対比することで立てるべきもの素晴らしさを顕わされているのです。

ここで白道について考えると、善導大師の二河白道の譬喩での白道は念仏往生の道です。善導大師は念仏往生の道だけを教えられたのが二河白道の譬喩です。

この譬喩を法然上人流に廃立で説明されるために、念仏往生の道である白道とは別の諸行往生の道を出されたのです。親鸞聖人のように言葉を替えて白路と仰れば誤解もなかったのでしょうが、法然上人は諸行往生の道も白道と同じ言葉を使われたのです。善導大師が譬喩で言及されなかった諸行往生の道を同じ白道という言葉でです。

ということは、法然上人の諸行往生の方の白道は、善導大師の譬喩にない別のことなので、善導大師と同じことを教えられているのです。
善導大師は念仏往生の道だけで念仏往生の道を教えられたが、法然上人は廃立の説明で諸行往生の道との対比で教えられた。

よって、法然上人は善導大師の譬喩をより詳しく説明されただけなので、善導大師の白道と法然上人の白道とは全く同じ意味で、それとは別の道も白道という言葉を使ったという以上の話はないのですね。

分かりにくければ、

念仏往生の道と諸行往生の道、同じ道です。これが念仏往生の白道と諸行往生の白道、同じ白道。浄土への道という言葉だけで、ただの(白)道。

林遊さんの好きな言葉、「なんじなんぞ指を看て、しこうして月を視ざるや」状態で、なんじなんぞ言葉(字)を見て、しこうして意味(意図)を見ざるや。

No title

自分のケツも拭けないアンチ
親鸞会脳以下のアンチで決着
じゃあね

No title

退会者を代表して尻ぬぐいをいたします。

『三心料簡および御法語』で、法然上人が『観経疏』二河白道の譬えから引用されている部分を見ると、
「雑行の中の願往生の心」では「もろもろの行業を回して直ちに西方へ向かう」のみとなっていて、他は「専修正行の願生心」となっている。よって『三心料簡および御法語』の中でも二河白道の譬えの主は「専修正行の願生心」となっている。

問題は「もろもろの行業を回して直ちに西方へ向かう」が如何なる意味なのかであるが、二河白道の譬えは元来「専修正行の願生心」について仰ったものであり、そこに「雑行の中の願往生の心」が1箇所だけ混じっては「専修正行の願生心」にならないのである。それは法然上人なら当然のこととして弁えられていたことであり、三選の文や「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」を見れば他はあり得ない。したがって「もろもろの行業を回して直ちに西方へ向かう」の本来の意味も「専修正行の願生心」でなければならないし、法然上人もそのように解釈されていたことは言うまでもない。もちろん、白道は「専修正行の願生心」の一択である。

それを踏まえた上で、法然上人が敢えて「もろもろの行業を回して直ちに西方へ向かう」を「雑行の中の願往生の心」を示す根拠として挙げられた意図は、「専修正行の願生心」と対比する「雑行の中の願往生の心」を出したかったからであろう。「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」の説明と同じことである。つまり、「雑行の中の願往生の心」を廃して「専修正行の願生心」を用いよの論理展開として使われたにすぎないのである。

法然上人は『選択集』の中で「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。」と仰っている通り、白道の「専修正行の願生心」を顕かになされる目的で「雑行の中の願往生の心」を二河白道の譬えの中に入れ込まれたのである。白道に二義あることを仰ったのではない。

結論は、善導大師も法然上人も親鸞聖人も白道は、「専修正行の願生心」であることを一貫して教えられそのまま継承されてきたのであり、高森顕徹会長の解釈とは、決して交わることもなく相容れないのである。

No title

尻ぬぐいさん、ありがとうございます。とっても分かりやすくまとめられていて尻拭いとなっています。
親鸞会は、ああ言えばこう言うの能力はピカイチですので、親鸞会を簡単に言い負かせられると思ったら大間違いです。M野さんの詭弁もある意味大したものでしたが、それも10年前から詭弁が通用しなくなりました。
優秀な退会者の出現が、親鸞会を徹底的に追い詰めたのです。
本願寺や僧侶や門徒が長年かかってもできなかったことを退会者が着々と進めています。
そんな退会者の足を引っ張ることだけはやめてほしいものです。

Re:尻ぬぐいさん

こんばんわ、お初にお目にかかります。Abcです。

なかなかな纏め方ですね。仰るとおり、七高僧をはじめ、親鸞や下代の上人(蓮如上人、真慧上人、了源上人 など)は今言われた「専修正行」について説かれております。(場所によって「専修正行」とはいわずに親鸞の言われたように「専修念仏」と説かれることもございます。)

ですから、今いわれた中、
>白道の「専修正行の願生心」を顕かになされる目的で「雑行の中の願往生の心」を二河白道の譬えの中に入れ込まれたのである。白道に二義あることを仰ったのではない。(尻拭いさん)

とあるとおりであります。
 ここで「一般論」と「浄土教での白道」とを織り交ぜますが、

・釈迦・弥陀の二尊は「西へ向かいなさい」といわれました。これを「白道」とします。

・しかしこのニ尊に背いて「東へ向かい」ました。(法然はこれを「偽の白道」とされましたが、水火ニ河から出ている白道を群賊悪衆を貫いてさらに東へ伸びているとしましたら「西方浄土」「東方穢土」とされる「穢土」があることとなります)

・ですが、弥陀の慈悲は「さわりなきお働き(無碍光)」でありますから、このような欲にまみれ東へ歩を進めてしまうようなものでも「私に任せなさい」と呼びかけておいでであります。

・一方、親鸞は「南無=帰命(お任せする)」の箇所を「読み替え」によって「帰せよの命」とされました。また『浄土和讃』には、「~に帰命せよ」の箇所がいくつも出てきます。

 このことから、「浄土教」というものは、主として「自利利他の教え」とされますが、
「捨自帰他の教え:法然や親鸞の代表的な教え方、18願が秀でていることを著すために方便願(19・20願)を用いて、「捨てよ!差し向けよ!」と言われた」

「無義以義の教え:「義なきをもつて義とす、義というは計らう心なり」といわれる由縁でありこのことに関連して自らの計らいではないとする「自然法爾の教え」「不回向の教え」等が出てきます」

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさんの言われた通りです。少し加えます。

「もろもろの行業を回して直ちに西方へ向かう」については、すでに『飛雲』に書かれてありますからそちらを参照してもらうとして、補足すると善導大師が悪知識とされた唐代の聖道門諸師は、『観経』をそれぞれ解釈して諸行往生を肯定していたので、諸善を回向していたら悪知識から戻れとは言われないのである。

法然上人がそんなことも分からなかったのかと言うことである。
そんなことはあり得ないので、強引に「雑行の中の願往生の心」に当てはめたという結論にしかならない。理由は先に述べた通りである。

指を見て月を見ないと大きな勘違いをすることになるのである。

No title

これではエムノさんも沈黙ですね。
本物の学者も学者気取りも、指しか見ていないことをわからせてもらいました。

Re:尻ぬぐいさん

こんばんわ、Abcです。
ご返信ありがとうございます。補足を付け加えられたとのことでしたので、ご返信させていただきます。

>補足すると善導大師が悪知識とされた唐代の聖道門諸師は、『観経』をそれぞれ解釈して諸行往生を肯定していたので、諸善を回向していたら悪知識から戻れとは言われないのである。 法然上人がそんなことも分からなかったのかと言うことである。

このことと同様なことが源空(法然)聖人の周りでも起こっております。
それはご存知のとおり、「専修念仏停止の状」ともいわれる『興福寺奏状』であります。

仰られるように、仮に源空聖人が「『観経』をそれぞれ解釈して諸行往生を肯定していており、諸善を回向していた」としたならば、『興福寺奏状』は出されてはいなかったかと思います。現実としては、下記のとおり、

源空聖人『選択集』三選の文(略選択)
 「はかりみれば、
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

と記されております。ご返信ありがとうございます。
Abc

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Re: 秘密コメント様

ありがとうございます。ご尤もなご意見です。それぞれの立場や考えというものがあって難しいなぁと感じます。加えて私が青二才なものでして・・・(;^ω^)

一番悪いのは己の教義や組織に都合の良いように利用できるものは利用するという親鸞会だというのはハッキリしています。とにかく親鸞会の邪義は正していかねばならない、こういう方向で書いていくことは変わりませんので、今後ともよろしくお願いいたします。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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