横超と横出
本日は二双四重の教判から、獲信の因縁として修善を勧める親鸞会は正しいのか、真偽検証します。二双四重の教判は、『親鸞会教義の誤り』でも取り上げられていますので、そちらも合わせてご覧下さい。
親鸞会は諸行往生8
親鸞会は諸行往生9
二双四重の教判は『教行信証』や『愚禿鈔』で教えられています。親鸞聖人は、仏教を大きく、竪超・竪出・横超・横出の四つに分けておられます。
「竪」とは、自力聖道門。
「横」とは、他力浄土門。
「超」とは、頓教ということで、さとりを得るのが速いこと。
「出」とは、漸教ということで、さとりを得るのが遅いこと。
『愚禿抄』などを参考に、具体的に当てはめると、
竪超ー禅宗・真言宗・天台宗・華厳宗
竪出ー法相宗
横超ー十八願
横出ー十九願・二十願
となります。
それぞれが独立した法門であり、さとりを得るまでの遅速で各法門が分類されていることがお分かりいただけると思います。そして、『教行信証』信巻の横超釈では、横超の証果を次のように讃えています。
横超断四流というは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には品位階次をいわず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆえに横超というなり。
【現代語訳】
「玄義分」に「横超断四流(横に四流を超断す)」といわれています。横超の横とは、竪超・竪出という竪(自力聖道門)に対する言葉であり、超とは(飛び越えるということで)遠回りするとか、回り道をすることに対する言葉です。
竪超とは、聖道門の中の大乗真実の教をいいます。竪出とは、聖道門のなかの大乗方便の教をいい、二乗・三乗を画然と区別していく教法であり、成仏するには長い時間をかけて遠回りをしなければならないと説く教えをいいます。
横超とは、阿弥陀仏の第十八願成就の法門であって、一切衆生に平等にさとりを開かせる唯一無二の真実円満の教えです。すなわち、浄土真宗の教えがそれです。
また浄土門の中に横出があります。すなわち『無量寿経』の三輩段や、『観無量寿経』の九品段に説かれている定善、散善の行によって、方便化土である懈慢界に往生するという遠回りの善行を説く教えです。
第十八願によって成就された清浄な大涅槃界である報土には、三輩とか九品といった階位はなく、往生すると同時に、速やかにこの上ない真実のさとりを開きますから、横超というのです。
(訳は『聖典セミナー「教行信証 信の巻」』(梯 實圓著)379ページより)
上のお言葉から「横超」と「横出」の証果を比較してみます。
「横超」は、報土に往生すると同時に、速やかに成仏という証果を得る法門です。
一方、「横出」は定善散善という行によって化土に往生する法門です。そして、化土で自力のはからいが廃り本願に帰するならば、報土に往生します。このように、回り道をしなければ報土に往生できませんので、「迂回の善」と言われています。親鸞聖人が、成仏に遠回りの「横出」を勧められていないことは分かると思います。
また『教行信証』化土巻でも、「横超」と「横出」が次のように教えられています。
「『正』とは五種の正行なり。『助』とは名号を除きて已外の四種是れなり。『雑行』とは正助を除きて已外を悉く雑行と名く。此れ乃ち横出・漸教・定散・三福・三輩・九品・自力仮門なり。
『横超』とは、本願を憶念して自力の心を離る、専修とは唯仏名を称念して自力の心を離る、是を『横超他力』と名くるなり。斯れ即ち専中の専、頓中の頓、真中の真、乗中の一乗なり。斯れ乃ち真宗なり」
【現代語訳】
正とは、五正行である。助とは、五正行の内、称名以外の四種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行という。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。
(訳は『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編)参照)
信巻の横超釈で見ました横超の証果を得ることができるのは、本願を憶念して自力の心を離れた人だけですから、親鸞聖人のお勧めは、信心(横超の金剛心)ただ一つです。
「横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。」(教行信証信巻)
以上のように、「横超」と「横出」を対比して親鸞聖人が教えられているのは、私たちに「横超」を勧めるためでありましょう。聖道門(竪超・竪出)を親鸞聖人が勧められていないことはいうまでもありませんが、念のため根拠を示します。『一念多念証文』には、
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。」
と教えられており、八万四千の法門は、本願一乗(十八願)に導く権仮方便の教説であると教えられています。二双四重の教判でいうと、「竪超・竪出・横出」は、「横超」に導く権仮方便の教えということです。権仮方便ということは、『21世紀の浄土真宗を考える会』のブログで何度か説明されています。詳しくは善巧方便と権仮方便等をご覧下さい。
簡単にいいますと、権仮方便とは、真実(十八願)を受け入れることのできない人に対し、その人の意に従って一時的に用いられる随他意の暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法のことです。例えば、聖道門の人には要門(十九願)を説いて浄土門に導きます。しかし、要門を求めるようになった人には、聖道門はもはや不要なので廃されます。同じように、すでに「横超」である十八願での救いを求めている人には、聖道門や「横出」にあたる十九願・二十願は、不要なものであり、廃捨すべきものです。
『本願寺なぜ答えぬ』139ページには、
「修善が獲信の障害ならば、獲信が唯一の目的である仏教に、なぜかくも、修善のすすめが説かれるものか。」
と書かれていますが、仏教の目的がすり替わっていることに気がつきます。仏教の唯一の目的は「成仏」「さとりの完成」であり、獲信は「目的」「手段」という言葉を使えば「手段」に当たります。そして、八万四千の法門で修善を勧められるのは、未熟な機を見捨てることなく導くためです。
さとりを得るまでの遅速と聖道門・浄土門の違いから、親鸞聖人は二双四重の教判で仏教を分類され、すべての人が最も速く成仏できる唯一無二の道である横超(十八願)をひたすら勧めていかれました。
「横超」である十八願の救いを求める人に、「横出」にあたる十九願の修諸功徳の善や観無量寿経の定散二善を根拠にして、「獲信の因縁として善をせよ」と勧めるのはおかしなことです。しかも、親鸞会で勧められている善自体が、十九願や観無量寿経の教えにかなっているとは言い難いのですから、もはや無茶苦茶です。
親鸞聖人のお勧めは、『教行信証』総序に
「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。」
と教えられているように、十八願を聞き開くことです。
親鸞会でも聞法を勧めますが、十八願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞くことが大事です。
早く騙されている事実を知り、本願の名号を阿弥陀如来より賜って頂きたいと念じて止みません。
親鸞会は諸行往生8
親鸞会は諸行往生9
二双四重の教判は『教行信証』や『愚禿鈔』で教えられています。親鸞聖人は、仏教を大きく、竪超・竪出・横超・横出の四つに分けておられます。
「竪」とは、自力聖道門。
「横」とは、他力浄土門。
「超」とは、頓教ということで、さとりを得るのが速いこと。
「出」とは、漸教ということで、さとりを得るのが遅いこと。
『愚禿抄』などを参考に、具体的に当てはめると、
竪超ー禅宗・真言宗・天台宗・華厳宗
竪出ー法相宗
横超ー十八願
横出ー十九願・二十願
となります。
それぞれが独立した法門であり、さとりを得るまでの遅速で各法門が分類されていることがお分かりいただけると思います。そして、『教行信証』信巻の横超釈では、横超の証果を次のように讃えています。
横超断四流というは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。
竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。
横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には品位階次をいわず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆえに横超というなり。
【現代語訳】
「玄義分」に「横超断四流(横に四流を超断す)」といわれています。横超の横とは、竪超・竪出という竪(自力聖道門)に対する言葉であり、超とは(飛び越えるということで)遠回りするとか、回り道をすることに対する言葉です。
竪超とは、聖道門の中の大乗真実の教をいいます。竪出とは、聖道門のなかの大乗方便の教をいい、二乗・三乗を画然と区別していく教法であり、成仏するには長い時間をかけて遠回りをしなければならないと説く教えをいいます。
横超とは、阿弥陀仏の第十八願成就の法門であって、一切衆生に平等にさとりを開かせる唯一無二の真実円満の教えです。すなわち、浄土真宗の教えがそれです。
また浄土門の中に横出があります。すなわち『無量寿経』の三輩段や、『観無量寿経』の九品段に説かれている定善、散善の行によって、方便化土である懈慢界に往生するという遠回りの善行を説く教えです。
第十八願によって成就された清浄な大涅槃界である報土には、三輩とか九品といった階位はなく、往生すると同時に、速やかにこの上ない真実のさとりを開きますから、横超というのです。
(訳は『聖典セミナー「教行信証 信の巻」』(梯 實圓著)379ページより)
上のお言葉から「横超」と「横出」の証果を比較してみます。
「横超」は、報土に往生すると同時に、速やかに成仏という証果を得る法門です。
一方、「横出」は定善散善という行によって化土に往生する法門です。そして、化土で自力のはからいが廃り本願に帰するならば、報土に往生します。このように、回り道をしなければ報土に往生できませんので、「迂回の善」と言われています。親鸞聖人が、成仏に遠回りの「横出」を勧められていないことは分かると思います。
また『教行信証』化土巻でも、「横超」と「横出」が次のように教えられています。
「『正』とは五種の正行なり。『助』とは名号を除きて已外の四種是れなり。『雑行』とは正助を除きて已外を悉く雑行と名く。此れ乃ち横出・漸教・定散・三福・三輩・九品・自力仮門なり。
『横超』とは、本願を憶念して自力の心を離る、専修とは唯仏名を称念して自力の心を離る、是を『横超他力』と名くるなり。斯れ即ち専中の専、頓中の頓、真中の真、乗中の一乗なり。斯れ乃ち真宗なり」
【現代語訳】
正とは、五正行である。助とは、五正行の内、称名以外の四種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行という。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
横超とは、阿弥陀仏の本願を信じて自力の心を離れることであり、これを横超他力という。これは、専修の中の専修であり、頓教の中の頓教であり、真実の中の真実であり、一乗の中の真の一乗である。これが真宗である。
(訳は『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 編)参照)
信巻の横超釈で見ました横超の証果を得ることができるのは、本願を憶念して自力の心を離れた人だけですから、親鸞聖人のお勧めは、信心(横超の金剛心)ただ一つです。
「横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。」(教行信証信巻)
以上のように、「横超」と「横出」を対比して親鸞聖人が教えられているのは、私たちに「横超」を勧めるためでありましょう。聖道門(竪超・竪出)を親鸞聖人が勧められていないことはいうまでもありませんが、念のため根拠を示します。『一念多念証文』には、
「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。」
と教えられており、八万四千の法門は、本願一乗(十八願)に導く権仮方便の教説であると教えられています。二双四重の教判でいうと、「竪超・竪出・横出」は、「横超」に導く権仮方便の教えということです。権仮方便ということは、『21世紀の浄土真宗を考える会』のブログで何度か説明されています。詳しくは善巧方便と権仮方便等をご覧下さい。
簡単にいいますと、権仮方便とは、真実(十八願)を受け入れることのできない人に対し、その人の意に従って一時的に用いられる随他意の暫用還廃(暫く用いて還りて廃す)の法のことです。例えば、聖道門の人には要門(十九願)を説いて浄土門に導きます。しかし、要門を求めるようになった人には、聖道門はもはや不要なので廃されます。同じように、すでに「横超」である十八願での救いを求めている人には、聖道門や「横出」にあたる十九願・二十願は、不要なものであり、廃捨すべきものです。
『本願寺なぜ答えぬ』139ページには、
「修善が獲信の障害ならば、獲信が唯一の目的である仏教に、なぜかくも、修善のすすめが説かれるものか。」
と書かれていますが、仏教の目的がすり替わっていることに気がつきます。仏教の唯一の目的は「成仏」「さとりの完成」であり、獲信は「目的」「手段」という言葉を使えば「手段」に当たります。そして、八万四千の法門で修善を勧められるのは、未熟な機を見捨てることなく導くためです。
さとりを得るまでの遅速と聖道門・浄土門の違いから、親鸞聖人は二双四重の教判で仏教を分類され、すべての人が最も速く成仏できる唯一無二の道である横超(十八願)をひたすら勧めていかれました。
「横超」である十八願の救いを求める人に、「横出」にあたる十九願の修諸功徳の善や観無量寿経の定散二善を根拠にして、「獲信の因縁として善をせよ」と勧めるのはおかしなことです。しかも、親鸞会で勧められている善自体が、十九願や観無量寿経の教えにかなっているとは言い難いのですから、もはや無茶苦茶です。
親鸞聖人のお勧めは、『教行信証』総序に
「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。」
と教えられているように、十八願を聞き開くことです。
親鸞会でも聞法を勧めますが、十八願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞くことが大事です。
早く騙されている事実を知り、本願の名号を阿弥陀如来より賜って頂きたいと念じて止みません。
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