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【考察】選択本願の行信について(1)

【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について

のカテゴリーでは、信心正因、平生業成ということが念仏往生の法義と別々の教えなのではなく、念仏往生の法義の内容を正しく言い表した言葉であることを考察しました。

これについて考察しようと思ったきっかけは、とある先生から

阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない。よく「阿弥陀さまは念仏を称えよと仰っている」と説く僧侶がいるが、私は「どこに阿弥陀仏は念仏称えよと仰っているんだ」と尋ねることがある。強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

というような話を聞いたことです。そのことについて何回か質問しましたが、その回答がかいつまんで言えば

・法然聖人までと、親鸞聖人とでは立場が違う
・法然聖人までは「念仏往生」、『観無量寿経』の立場。親鸞聖人は「平生業成」、『大無量寿経』の立場
・『観無量寿経』は方便のお経、『大無量寿経』は真実のお経
・親鸞聖人は関東の同行に法然聖人の教えを伝えられた。『御消息』に書かれているのは法然聖人の教え
・「念仏往生」の立場から言えば「仰っている」だが、「平生業成」の立場から言えば「仰っていない」
・「阿弥陀仏が念仏を称えよとは仰っていない」根拠は「行文類」親鸞聖人の六字釈
・阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない


というものでした。また、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」として私が提示したお言葉

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。『尊号真像銘文』

も、これは法然聖人の教えだと説明を受けました。

この説明で納得されている方もあるかも知れませんが、私は納得いきません。それどころか、それはおかしいだろうと思ったのです。


今は、19願や20願といった相手の能力に合わせて説かれた随他意の方便願についてではなく、阿弥陀仏がその本心を誓われた随自意の第18願を論じているはずです。説く者や聞く者の立場によって、阿弥陀仏の本心、阿弥陀仏の仰せが「仰っている」「仰っていない」とコロコロ変わるものなのでしょうか。

また、阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているはその通りだとして、なぜ「念仏称えよ」ではないのかとも思いました。なぜなら、今までに「阿弥陀仏は念仏称えよとは仰っていない」に該当する言葉に会ったことがない、そういう話を聞いたことがないからです。例えば、

阿弥陀仏の仰せられけるやうは、我が名を称せよといふにあらず、ただ我をたのめとこそ仰せられたり

みたいな言葉が聖教上に一箇所でもあれば私も納得せざるを得ませんが、皆さんご存知のようにそのような言葉はただの一箇所もないのです。もしあったら論拠を提示頂きたいです。


何度か書いていることですが、『教行証文類』は『選択本願念仏集』の教えの真実性を証明された御聖教です。その内「行文類」は選択本願の念仏が浄土真実の行、正しく浄土往生が決定する行業であり、速やかに往生成仏を遂げる最高の仏道であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師のお言葉までも集められ証明された文類であるはずです。その中、「行文類」親鸞聖人の六字釈は善導大師の六字釈の後に出てきますが、人師の上で語られている我々の称名は、実は我々の口を借りて阿弥陀仏が「助けるぞ」と喚んでおられる声なんだと、念仏のこころを説き開かれたものです。それがどうして「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」ことになるのか、私にはどうも領解できません。


『尊号真像銘文』は親鸞聖人最晩年の著作の一つですし、『御消息』にしても親鸞聖人がお書きになられたものですから、そこには法然聖人の影響は多分にありましょうが、間違いなく親鸞聖人の教えであるはずです。

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」んだが、関東の同行の手前、法然聖人の教えを書いておこう

なんて思われて、本心と違うことを書く親鸞聖人であると皆さん思われるでしょうか? 僭越ながら私に置き換えてみると、「往生のみち」という極めて重大なこと、永劫の浮沈に関わるような一大事について、自分が信じてもいないようなことを手紙にしたためたり、記事で書いたりするようなものです。ちょっと考えられないです。


親鸞聖人は法然聖人の教えを聞いて救われた。ならば、皆さんにも法然聖人の教えをそのままお伝えすれば皆さん助かるわけです。ただ、法然聖人は多くの誤解を受けていた。法然聖人の教えは、『歎異抄』で言えば

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

たったこれだけです。非常に簡潔であり、また非常に易しい教えです。しかし易しい教えというのは、別の言い方をすればどうとでも取れる教えであって、法然聖人在世当時からその教えは種々に誤解されていたのです。その典型的な例が一念義と多念義という両極端な異義でした。

そこで、法然聖人に対する誤解をことごとく破って正しい法然聖人の教えを開顕しようと、弟子としての使命に燃えておられたのが親鸞聖人と拝します。ですから、『教行証文類』を始めとする数多くの親鸞聖人のご著書は、親鸞聖人がご自身の「いのち」として信じていたことを書かれたものであって、法然聖人の教えであると共に親鸞聖人の教えでもあるというのが私のスタンスです。


その先生は、信心正因称名報恩説に立脚し、本願力回向、今の救いを説かれる方です。法話の中で、有難いなと思える話も度々聴聞させて頂きました。ただ一方で、十分な考察、検証、調査、他の文献との比較、整合性の判断を経てのこととは言い難い、独自の説を展開する先生でもあるということが伺えてきました。

この度は、阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っていることを強調するあまりこういう表現になってしまったのか。称名を勧めると、自力修善の一つとしての、往生の取引条件としての念仏と勘違いする人が多いからなのか。先生も、念仏は本願のはたらきがそのまま出てきたものだと説かれるので、その辺は当然分かっておられるのでしょうが、私はどうもスッキリとしません。

今までは、「間違ったことは説いていない」と信じたかったので色々と忖度していましたが、釈尊や歴代の高僧知識方以外の人物の心をあれこれ忖度することは、私には高森教でもう懲り懲りです(苦笑) 私は、聖教上に顕わに説かれている善知識方の言教、教えの言葉を第一とし、それに従いたいと思います。また、他の知識方や和上様方の様々な説は、聖教の内容に則していると判断される説を採用していきたいと思います。


なお、上に示したような先生の説を信じるか信じないかは、各人の判断にまかせます。信じられる、まことだと受け容れられる方はそのまま信じ続けたらよろしいでしょう。私は聖教の上にない説なので信じませんが・・・。また、これは淳心房の考察なので、信じて頂かなくても結構です。内容について別意見、異議があれば仰って下さい。ただ、できたらで構いませんがその際は論拠を提示頂きたいです。

聞く人の中に親鸞会の元会員が多くいるというだけで親鸞会とは無関係な先生なので、皆さんとの衝突を回避してこの問題に触れない選択肢も考えましたが、信心を強調して本願の行としての念仏を説かない点や、根拠にならない根拠で頑なに自説を曲げない姿勢、また自説に都合の悪い親鸞聖人のお言葉を理由をつけてはねる姿勢は高森顕徹会長に通ずるところがあるので、当ブログでは問題視して取り上げます。

これを縁として、私としては、念仏は阿弥陀仏ご自身が選ばれ、「称えてくれよ」と大悲を込めて与えられている本願の行であること、その本願に込められた仏心を計らいをまじえずに聞き受け、仰せの通りに称名することが親鸞聖人の教えであり、また選択の願心にかなった本願の行信であることを訴えたいと思います。
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No title

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり
 
  称我名字・・・ 「わが名を称へよと願じたまへり」(左訓)

No title

・法然聖人までは「念仏往生」、『観無量寿経』の立場。親鸞聖人は「平生業成」、『大無量寿経』の立場
という説について以前コメントした者です。

「念仏往生」=「平生業成」であり、
「念仏往生」に対する言葉は「諸行往生」、
「平生業成」に対する言葉は「臨終業成」です。

これらの言葉(内容)が説かれているのが、口伝抄の体失・不体失の往生の事です。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉(法事讃・下)なれども、〈正為衆生機不同〉(同・下)なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8F%A3%E4%BC%9D%E9%88%94#.E4.BD.93.E5.A4.B1.E5.BE.80.E7.94.9F.E3.81.A8.E4.B8.8D.E4.BD.93.E5.A4.B1.E5.BE.80.E7.94.9F

コメント返信

橋本様

根拠を提示頂きありがとうございます。
このように、「念仏を称えよ」という本願であることは疑う余地がないことです。


横から様

> 「念仏往生」=「平生業成」であり、
> 「念仏往生」に対する言葉は「諸行往生」、
> 「平生業成」に対する言葉は「臨終業成」です。

仰る通りです。私も彼の先生に「平生業成」は「臨終業成」に対する語と申し上げたのですが、一部肯定しつつ、「平生というのは今ということなんだ」と説明されていました。

「念仏往生」=「平生業成」という領解の横からさんや私と、そういう領解ではない先生方とでは理解の溝は埋まらないかも知れません。往生の信心は恐らく同じであると思いますが、領解は一人一人違うので、何とも難しいものがあります。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」んだが、関東の同行の手前、法然聖人の教えを書いておこう

彼からしますと、私のところは親鸞から、「法然聖人の教えを書いておこう(説いておこう)」となってたと言われていようですね。 ここまで曲解されては修正のしようがございません。

すこし、脱線気味になるやもしれませんが『お聖教』から「称える(称えよと勧めたまえる)」を挙げていきたいと思います。(彼からしたらそれが「法然上人の教え」らしいのですが)

『大経』智慧談
 「仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ起ちてさらに衣服を整へ、合掌し恭敬して無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともにかの仏の無着・無碍なるを称揚し讃歎したまへばなり」と。ここにおいて阿難起ちて、衣服を整へ、身を正しくし、面を西にして、恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつりてまうさく、「世尊、願はくはかの仏・安楽国土、およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を見たてまつらん」と。」

→これは「称揚し讃歎したまへばなり」とあるように17願について言われている。17願は「大行願」ともいわれるように「無碍光仏のみ名を称せよと誓われている願」であります。ここには何度も「恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつりて」とあるが、この「礼して」は「信心」「念仏」どちらも含まれています。

→なお「恭敬し」とは「ふたごころなく」(疑情なきに)と言われるものであるため、この「恭敬し」を以って「信心」と言われてもよい。

 【例】 『高僧和讃』 龍樹讃
 「不退のくらゐすみやかに えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし」

『教行証 行文類』
 「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

  諸仏称名の願『大経』(上 十八)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。{以上}

  しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

  『易行品』にいはく、〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。
   問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とやせんと。
   答へていはく、〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし

  光明寺の和尚(善導)のいはく(礼讃 六五七)、「また『文殊般若』にいふがごとし。〈一行三昧を明かさんと欲ふ。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨てて、心を一仏に係けて相貌を観ぜず、もつぱら名字を称すれば、すなはち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏および一切の仏等を見ることを得〉といへり。
   問うていはく、なんがゆゑぞ観をなさしめずして、ただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるやと。
   答へていはく、いまし衆生障重くして、境は細なり心は粗なり。識颺り、神飛びて、観成就しがたきによりてなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちに勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名易きに由(由の字、行なり、経なり、従なり、用なり)るがゆゑに、相続してすなはち生ずと。

  またいはく(礼讃 七〇九)、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と。{以上}

  また『無量寿経』にいふがごとし。〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。  」

【再投】 『正信偈』 及び 『正信偈大意』
 「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
 
 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。 」

『高僧和讃』
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

以上、少しではございますが抄出しました。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Abcです

連投もうしわけございません。Abcです。

>『高僧和讃』
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

と記しましたが、正しくは
 『浄土和讃』
  「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
  摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」

です。因みにですがこの和讃は、「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」について言われたものであります。

連投失礼しました。
 Abc

Re: Abc様

・平生業成の立場からすると「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
・親鸞聖人は関東の同行に法然聖人の教えを伝えられた

とすると、そのように類推せざるを得ないですね。

信心正因称名報恩説は、少なくとも後生・菩提を願い、往生には念仏一行となっている人でないと随分と誤解が多かろうと思われます。念仏が信後のお礼では、なぜ「念仏のみぞまこと」なのか、なぜ「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」なのか、訳が分かりません。信心が大事で念仏を称えていても救われないのだからと念仏を称えず、念仏と無関係な信心を追い求めることにもなりかねません。

蓮如上人の時代はそれでよかったのかも知れませんが、現代においては私は往生の行としての念仏を、信心と共にお伝えしていくのがいいのではないかと考えています。そういえばこの前調べ物をしていたら

『真宗大谷派 東本願寺 念仏寺』「念佛はなぜ消えていったか」 真宗行信論
http://nenbutsuji.info/monmyou/nanbutuwa-naze.htm

という記事を発見しました。なるほどと共感させられました。もし未読でしたら、お時間あればどうぞ。

なので子供達には念仏と、念仏は「助けるぞ、まかせろよ」という阿弥陀さまの仰せということと、仰せをそのまま聞いてなんまんだぶすることを教えています。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>そういえばこの前調べ物をしていたら
『真宗大谷派 東本願寺 念仏寺』「念佛はなぜ消えていったか」 真宗行信論
という記事を発見しました。

リンクありがとうございます。読ませていただきました。
 そして、その本文にも、

念仏が〈行〉であるということは、実行されるべきもの、実践されるべきものであるにもかかわらず、なぜ称えるべきものが称えられなくなったのか。
> それは称名念仏の有り難さが説かれなくなったからであろう。念仏の有り難さは念仏往生の願を聞かなくては分かるはずがない。にもかかわらず今日、念仏往生の願は軽視されてあまり説かれなくなった。
> しかも、真宗に入った当初から「本願を疑っての念仏はだめだ」「自力の念仏ではいけない」「信心の念仏でなければ助からぬ」などと説かれる。しかし現実には直ぐに信心具足の念仏にはならないから、〈信心のない念仏は称えても意味がない〉ということになって結局念仏は申さなくなる。

と、「念仏は意味がない」と頭ごなしに言われている現状がある と記されておりました。これをみて、いよいよ「真宗」といわれるものは、「ただ看板だけになってしまったのだな」と物悲しくなりました。


>なので子供達には念仏と、念仏は「助けるぞ、まかせろよ」という阿弥陀さまの仰せということと、仰せをそのまま聞いてなんまんだぶすることを教えています。

 子供たちに伝えていただきありがとうございます。淳心房さんの娘さんとはすこし話してみたく思います。 機会があったら、どうぞよろしくお願いします。

※先ほどの文献の最初が、『大経』で始まり、「また『無量寿経』にいふがごとし。」で締めているのは、『仏説大無量寿経』にはそのように記されているため、

>・『大無量寿経』は真実のお経

ならば、
「恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつる」
「〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得

らの御言葉はすべて真実のお言葉 であると伝えたいがためであります。

※前のコメントは、「大谷が持たれている書物」での解説でありますので、大分寄せた内容になっています。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

リンクしておきました

ども、林遊@なんまんだぶです。

阿部 信幾 (Nobuki Abe)さんのFBにこの記事のURIをリンクしておきました。布教使さんは言いっぱなしなので、法話の内容がどのように聴かれているかは関心のあるがところでしょう。
ともあれ阿部さんの、

>阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない。よく「阿弥陀さまは念仏を称えよと仰っている」と説く僧侶がいるが、私は「どこに阿弥陀仏は念仏称えよと仰っているんだ」と尋ねることがある。強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

は暴論です。
まさに『歎異抄』十一条の「唯円の歎異」p.838にある、

> 一文不通のともがらの念仏申すにあうて、「なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるか」と、いひおどろかして、ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、ひとのこころをまどはすこと、この条、かへすがへすもこころをとどめて、おもひわくべきことなり。

と同じです。
多分、御開山が念仏往生の願(第十八願)の「乃至十念」が称名であることの証明を第十七願に拠られたことから、名号(なんまんだぶ)を第十七願の教法として形而上の法体名号という概念に幻惑されての暴論でしょう。

>強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

というような発言は、釈尊を第十七願の十方無量諸仏の一仏として略讃としての称名を勧めたと領解しているのでしょう。
『観経』には、
「心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ(至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏)」
と、称名を示唆する語はあるのですが『無量寿経』には、直接には第十八願の「乃至十念」が衆生の称名であるという論拠がないのでした。
法然聖人は「念声是一」論で、十念の念は声であるとされたのですが、これにツッコミを入れたのが、明恵高弁であり『摧邪輪莊嚴記』で

 この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。

という論難でした。この論難に対して、御開山は第十八願の「乃至十念」は称名であることの論拠を、第十七願の諸仏の「教位」として、

 「ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは(不悉咨嗟 称我名者)」

の文によって、第十八願の「乃至十念」は、なんまんだぶという称名であることを論証されたのでした。
我々は浄土教の歴史の上で、念仏といえば、可聞可称のなんまんだぶだと領解していますが、明恵高弁は「念」とは意業であって色法としての語業ではないとツッコミをいれたのでした。この明恵高弁の論難に対する論破が、第十七願の諸仏の称名(略讃)を、衆生の称名として「大行」とされたのでした。

このような発想は、法然聖人の『三部経大意』や聖覚法印の『唯信鈔』に、その萌芽があるのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E5%A3%B0%E6%98%AF%E4%B8%80

阿部さんの、

>強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

という発言は、第十七願の諸仏の一仏としての釈尊を指すのでしょうが、そもそも論として「乃至十念」は、十声のなんまんだぶであるという第十八願を証明された御開山に違背する考察だと思ふ。
少しでも仏教学を学んだのなら、そもそも論では、釈尊は浄土思想を説いていないということが判る筈だが、

>強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

という論拠を示して欲しいと越前の愚鈍な門徒は思ふ。

なおAbcさんが『大経』の霊山現土の、

 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ起ちてさらに衣服を整へ、合掌し恭敬して無量寿仏を礼したてまつれ。十方国土の諸仏如来は、つねにともにかの仏の無着・無碍なるを称揚し讃歎したまへばなり」と。ここにおいて阿難起ちて、衣服を整へ、身を正しくし、面を西にして、恭敬し合掌して、五体を地に投げて、無量寿仏を礼したてまつりてまうさく、「世尊、願はくはかの仏・安楽国土、およびもろもろの菩薩・声聞の大衆を見たてまつらん」と。
の文を引用されていますが、異訳の『大阿弥陀経』や『平等覚経』には、より具体的に、阿難が〔なんまんだぶ〕と称えて、浄土と阿弥陀仏を拝見したとあります。
「大阿弥陀経」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E7%B5%8C(%E6%BC%A2%E6%96%87)#.E9.98.BF.E9.9B.A3.E3.81.8C.E5.8D.97.E7.84.A1.E9.98.BF.E5.BC.A5.E9.99.80.E4.BB.8F.E3.82.92.E7.A7.B0.E3.81.88.E3.82.8B

『平等覚経』
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E9%87%8F%E6%B7%B8%E6%B7%A8%E5%B9%B3%E7%AD%89%E8%A6%BA%E7%B6%93#.E9.98.BF.E9.9B.A3_.E4.BB.8F.E5.90.8D.E3.82.92.E7.A7.B0.E3.81.99

で、Abcさんへのツッコミなのですが、

十方微塵世界の
 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば
 阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

の和讃を、

>因みにですがこの和讃は、「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」について言われたものであります。

と「因」とされていますが、御開山は阿弥陀仏の名義として「摂取不捨」とされておられるのでしたね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%91%82%E5%8F%96%E4%B8%8D%E6%8D%A8

もちろん、Abcさんのような解釈も可能ですが、出来れば原典から解釈する方法もありかもです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: Abc様

念仏がいけないのではなく、自力心がいけないので、「念仏を称える者を極楽へ迎える」という本願を聞いて一声、十声とさせて頂くのがよろしいでしょう。そして、なんまんだぶ(なもあみだ)と称え聞こえるこの仏名のこころをしっかり聞いて領受する信の一念が肝要です。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。

高田の覚信房に宛てたこのお手紙からは、行と信の関係が分かり易く書かれています。これに順って、本願を疑い無く聞き受けてお念仏するのがよく本願のおこころにかなった念仏の行者であると思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Re: 林遊@なんまんだぶ様

・強いて称えよと仰っているというなら、お釈迦様が「念仏を称えよ」と仰っている。

これは、『観無量寿経』の下三品に説かれている教説を承けて言われていることだと思われます。それで、『観無量寿経』は方便のお経で、法然聖人は『観無量寿経』の立場から教えを説かれた、諸行に対して念仏という行によって往生すると、行行相対の教えを説かれたというのです。

それに対して、『大無量寿経』は真実のお経、親鸞聖人は『大無量寿経』の立場、本願成就の立場。本願が成就しましたよ、あなたを仏にする仏がはたらいているから安心しなさい、南無阿弥陀仏が往生の証拠ですよ、こう仰っている。『大無量寿経』の立場では、名号のいわれを聞いて信心歓喜乃至一念という教え。名号、南無阿弥陀仏とは、本願招喚の勅命。阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって、「念仏を称えよ」ではない、とこう言うのです。

そして、法然聖人の教えを念仏往生、親鸞聖人の教えを平生業成と呼んでこの二つを区別するのです。覚如上人、蓮如上人の信因称報説から法然聖人の教えを伺うとこのような理解になるのでしょうか。


とにかく、覚如上人、蓮如上人の上にも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教説はありません。これは撤回すべきであろうというのが私の考えですが、3回に及ぶ質疑中も頑なに自説を固持するばかりでした。なので、問題視して取り上げているというわけです。


最後にお願いですが、当ブログには彼の先生の個人名を出してコメントすることは今後控えて頂ければと思います。また名誉棄損だとか営業妨害だとか言われ、突っ掛かって来られるのも困りますのでね・・・よろしくお願いいたします。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

No title

高森会長の言っていることは根本的に間違っているので、批判はしやすいです。
だからなのか、便乗もあってか、気軽に高森邪義を批判する親鸞会に属したことのない布教使や教学自慢の在家の人がいますが、勘違いしています。
高森邪義は、お聖教にないそしてお聖教と反することを言っているから邪義だと批判できるのであって、高森邪義批判者がお聖教と異なることを上から目線で偉そうに言えば、親鸞会から突っ込まれたり利用されるわけです。三願転入が必然の道といってみたり、念仏称えよといっていないと言ってみたり、宿善は往生の因縁にはならないが獲信の因縁になると言ってみたり、重層構造で自力の白道があると言ってみたり、…

だから高森邪義批判者も同じことをするなと言いたいです。

退会者はその点に気をつけている人が多いですが、今後も突っ込まれないようにお聖教に忠実であってもらいたいです。

Re:林遊さん

おはようございます、Abcです。

>なおAbcさんが『大経』の霊山現土の文を引用されていますが、
 異訳の『大阿弥陀経』や『平等覚経』には、より具体的に、阿難が〔なんまんだぶ〕と称えて、浄土と阿弥陀仏を拝見したとあります。

→ご指摘ありがとうございます。確かに『平等覚経』などにはさらに細かく記されておりますが、命題は「大経のどの箇所にしるされているか」でしたので、その文となりました。 『平等覚経』はその文を「さらに細かく見られている文」としての併用などができるかと思います。

>十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

の和讃を、「因」とされていますが、御開山は阿弥陀仏の名義として「摂取不捨」とされておられるのでしたね。

→リンクありがとうございます。
 リンク先にございました
 「問ひていはく、なんがゆゑぞ阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、「かの仏の光明は無量にして十方国を照らすに障礙するところなし」
ただ念仏の衆生を観(み)そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。」(往生礼讃 P.662)

 を改めて目を通させていただきました。親鸞は『正信偈』にて、
 「唯能常称如来号 ただよく、常に如来名号を称せよ
 正定之因唯信心 正定の因は唯、信心なり」

 といわれております、そのことより(林遊さんがごツッコミされておりますが)少々飛躍したかいしゃくとなってしまいました。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

阿部師は親鸞会の教義を批判しながら、お聖教にない独自の解釈を言っている
と批判している林遊氏も、お聖教にない独自の解釈をして批判されているということですね。

淳心房さんは、基本的にお聖教に忠実で独自の解釈らしきことはないように見えるので、良いのではないでしょうか。

梯師にも独自の解釈と言えるところがありますので、それを無理に擁護する林遊氏にはその点でも批判されているということですね。

見事なブーメラン。

本派からも相手にされていばい林遊氏にとっては、ここしか相手にしてくれるところがないので、無視してコメントし続けるでしょうがね。
知らんけど

コメント返信

高森教批判様

> 退会者はその点に気をつけている人が多いですが、今後も突っ込まれないようにお聖教に忠実であってもらいたいです。

当ブログの特性上、味わいとして記事を書くこともありますが、教義批判の際はこのことを念頭に置き、味わいと教義は別にして書いていきたいと思います。


元々会員様

教義の様々な解釈については一様ではないので、様々な説を学びながら聖教と照らして最も適した説を採用していくか、あるいは説と説の折衷案を考えるか、あるいは自説を立てていくか、ということになっていきます。ただ、自説を唱える場合、様々な方面から物事を捉え、教義との整合性、歴史的背景など、色々な考察、検証を経て聞く皆さんの納得が得られるようなものでなければならないと思います。あまり無茶苦茶なことを言っては批判の的となるだけですね。

どんな優れた布教使の方、あるいは和上様と呼ばれる方も、人間ですから、完璧ではありません。そのように理解した上で、良いと思える点は学んでいけばいいのではないかと思います。

なお、基本的に聖教に忠実でありたいと思いますが、教義だけが全てではないとも思います。教えを我が事としてしっかり受け取り、信心を獲て念仏するようになったからには、遇うべきものに遇わせて頂いた慶びであったりそれまでは考えられなかった新たな物の見方や、思わぬ発見があるはずです。私は、念仏者としての人生を生きる上でこのように思った、このように感じたという「生きた声」というのも大事であると考えているので、当ブログでは「他力の信心を通して知らされた世界」のカテゴリでは、日々の生活で思った事、感じた事も書いていくつもりです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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