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【考察】選択本願の行信について(3)

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

とは、仏意に反する発言と言わざるを得ません。本当に阿弥陀仏はそのようなことを仰っているのでしょうか。


阿弥陀仏がどのように仰っているかを知るには、その本願文を伺ってみるよりありません。正確には法蔵菩薩の誓願ですが、因位の法蔵であり果位の阿弥陀でありますから同じことです。阿弥陀仏の本願は阿弥陀仏のお言葉であってお釈迦様の言葉ではありません。高森会長もここは珍しく正しいことを言っています。

本願は全部で四十八ありますが、今問題にしているのは第十八願です。念仏が計らいのまじった自力念仏、第二十願の念仏でないことは、浄土真宗では当然だからです。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。『大無量寿経』

【現代語訳】
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗そしるものだけは除かれます。

【意訳】(林遊さんより)
たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとし生ける全てのものが、ほんとうに(至心)疑いなく(信楽)私の国に生まれる事が出来るとおもうて(欲生我国)、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら(乃至十念)生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら(若不生者)、私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がない(不取正覚)のだ。

この「乃至十念」の「」とは「念仏」のことですが、これには心に仏のおすがたを念う観念の念仏(観相念仏)と、口に仏の名をとなえる口称の念仏(称名念仏)と、二通りの解釈が見られます。七高僧方では、この両方に通じて示されている方もあれば、「口称念仏」に限定して示されている方もあります。特に善導大師や法然聖人は、「口称念仏」に限定して教えられた方々でした。ただ、他の高僧方も悪人凡夫の修する念仏ということになれば、やはり口称の念仏とされているようです。

もはやこれによってお判りの通り、本願文には「乃至十念」、すなわち十念に至るまでせよと誓われています。阿弥陀仏が少なくとも十声称えよと、「念仏を称えよと仰っている」ことは明々白々です。


これを釈して親鸞聖人は、

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。『尊号真像銘文』

と仰せられています。これは本願文の解説ですから、「如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふ」の主語は当然阿弥陀仏です。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と親鸞聖人も仰せです。

その他、親鸞聖人は阿弥陀仏の本願はどのような本願かということについて

如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。[文]
『三経往生文類』

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり
『高僧和讃』
称我名字と願じつつ・・・【左訓】「わが名を称へよと願じたまへり」)

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。『唯信鈔文意』

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。『同』

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。『同』

弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。『同』

本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。『一念多念証文』

「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。『同』

誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。『歎異抄』第11条

等と仰っています。やはり「念仏を称えよと仰っている」本願であることは明々白々です。


とある先生には何か別に意図があるのかも知れませんが、あれこれ忖度して「この先生の仰ることは正しい」と考えるのは、私には親鸞会でもうお腹いっぱいです。本当はこれで決着ですが、それでも

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

という主張が正しいと思う方は、そのように仰った聖教上の根拠を提示して頂きたいと思います。

余談ですが、このような説を擁護して譲らない人を相手にしていると、まるで

「若不生者」の「生」は、「信楽」に生まれされるということだ

と主張して譲らなかった誰かさんと愉快な仲間達を相手にしているような感覚に陥ります。祖師聖人のお言葉を「あれは法然聖人の教えだ」と言って受け容れないようならそれまでです。



【参照】
安心論題/十念誓意
『WikiArc』十念
『21世紀の浄土真宗を考える会』十念誓意の意
法然教学の研究 第二篇 法然教学の諸問題
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分別が 分別をして 出離なし

ども、林遊@なんまんだぶです。

知るということは、あれはあれ、これはこれと分別することをいうのでした。林遊はゴミの分別が上手に出来ないので、家内に叱られてばかりです。家内いわく、そもそのもゴミを分けて出すということの意味が判ってないでしょ、と言われてます。←ゴミの焼却炉が古いから高温焼却が出来ないので行政は分別しろと煩いのだといっても議論になるので沈黙です(笑

ともあれ、大乗仏教では分別ということを、

 凡夫の起こす分別は迷妄の所産で真如の理に契(かな)わないから、このような分別によっては如実に真如の理をさとることはできないと説き、その意味で凡夫の分別は虚妄分別(略して妄分別)であるとする。 真如に至るには、そのような凡夫の分別智をはなれた無分別智によらなければならないという。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%88%86%E5%88%A5

と、否定するのでした。いわゆる虚妄分別です。
二十代の頃に、ばあちゃん(母親)のお節介で、初めてお会いした加賀の藤原正遠師には、

 分別が 分別をして 出離なし
  無分別智の 弥陀のよび声 (藤原正遠)

という句がありますが、分別してなんぼという林遊にはよく解りませんでした。
浄土真宗の本願寺派では「行信論」というものがあって、行と信を論ずるのですが、この行信を二つに分けて「信」を強調されたのが覚如上人であり蓮如さんでした。そこで当時隆盛であった、西山派から分離した時衆の一遍上人の〔南無阿弥陀仏〕と唱えれば往生は決定するという宗義に対して、一念発起の信心が大事だという教化をされたのが蓮如さんでした。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%B8%96%E5%A4%96%E3%81%94%E6%96%87%E7%AB%A0

蓮如さんは、信を強調する為に覚如上人の提唱した「信心正因 称名報恩」ということを力説されたのでした。このような時代背景を無視して、キリスト教風の「信」を強調し「念仏」という動的に私に上に顕現している「なんまんだぶ」を呪文として忌避してきたのが、近代教学なのでした。
ある意味では、大谷派では愚昧な門徒が称える〔なんまんだぶ〕を白眼視するのだが、左派の大谷派は、同じく左派である歴史学者の家永三郎の「念仏と呪術」という論文に騙された莫迦である。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%A8%E5%91%AA%E8%A1%93

左派の理念は、愚昧なる民衆とそれを指導すべき我らという立場であり、それは指導する自からを真とするから、

 「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」

と、なんまんだぶと称える林遊のような愚鈍な門徒を馬鹿にする、そして浄土教の綱格を破壊する言葉を吐けるのであろう。A氏は、いわゆる社会派坊主でした。そして関東ではこのような視座が元生やされるので迎合したのかな。知らんけど。
とりあえず、御開山の示して下さった「行信不離」ということの意味を窺がってみた。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

ともあれ、阿弥陀如来が自らの本願に拠る衆生救済はハッキリしているのであって、自らの妄想煩悩を掻き立ててハッキリしようという高森顕徹氏の妄想とは違うのであった。わたくしのハッキリには意味がないよという仰せが「我が名を称えよ」というご法義であった。智愚の毒に侵されている人には、これがワカランのでした。どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

私の地域では燃えるゴミ、資源ごみ、燃えないゴミのおよそ三種類に分類するだけなので簡単です。それに対して行政によってはより細かく分類するようで、地域によっては煩わしそうですね。

大雑把に言えば、覚如上人は鎮西派の多念義に対して、蓮如上人は時宗の無信単称及び自力念仏の者に対して信心正因称名報恩説を説かれ、正しい信を明らかにすると共に他宗との差別化を図られたわけですね。これは、寸くなくとも念仏は往生の業だと心得ている人に対してその信心を明らかにしたわけですから、ふさわしい御教化と拝します。

そのような時代背景や対機を無視して、そのまま信心正因称名報恩説を説くのが必ずしもいいわけではないと思います。よく坊さんは「はたらき」という言葉で本願を語っていますが、そのはたらきは具体的に教・行・信・証の四法となって私達に与えられているわけですから、往生の因である行信をしっかりと説いて勧めていくことが真宗の繫昌になるのではと最近よく考えます。

はたらきだとか、お慈悲について話すことはあっても、また信心を話すことはあっても、「念仏は往生の行として与えられた真実行だから称えなさい」とハッキリ言う坊さんにまだ出遇ったことはありません。選択本願念仏集と行文類をしっかり読んで、念仏は往生のみちだということを我が事と受け容れているのかと、疑問がつきません。いくらお経や聖教の文を覚えて意味を知っていても、個人的には選択本願の行信これ一つしっかり押さえて勧めるようでなければいかんと思います。要が今一つハッキリしない話に私でも不満を覚えるのですから、林遊さんなら尚更でしょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>念仏は往生の行として与えられた真実行だから称えなさい について

私のところ、「念仏高田」とも称される「真宗高田派」の主軸はこのことの布教にあります。 大谷の寺院(坊舎)の留守職たる、「住職」はこの「帰せよの勅命」を専らに勧めていただきたいのだが、

「本廟の意向をうかがってからでないと」 や
「本廟から説教使を呼ばなければ、話をしてはならない」 などと

いわれており、殊に「高田派」においては「金沢御堂」の影響(顕如上人の影響)から矮小化しております。

何度か1月15日に福井別院に赴かせていただいておりますが、本派および大谷派の寺門はどちらも固く閉ざされておりました。 「真宗においては時機の善し悪しを選ばない」と言われておりながらこれです。

 最後になりますが、私 高田派は矮小化している中でも「念仏は往生の行として与えられた真実行だから称えなさい」と伝えてまいりたいと考えております。

「衆生称念 必得往生 しるべし 本誓おもければ 称念するもの みなむまる」

「 夫堂舎仏閣を造立することは、三宝紹隆の基なり。(乃至)
 ここに今、寺を建立すること仏法繁昌の基なり。そのゆえは、如来聖人の真影を安置し、無上殊勝の法門を聴聞すること、まことにこれ依処の徳なり。かるがゆえに、未来永々に至までこの所にあつまり、たがいにあらそうこころなく、信心をみがき、称名念仏をはげますべきものなり、穴賢々々
      前大僧正 尭秀   」

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

>  最後になりますが、私 高田派は矮小化している中でも「念仏は往生の行として与えられた真実行だから称えなさい」と伝えてまいりたいと考えております。

頼もしいお言葉、ありがとうございます。
勿論、東西本願寺でもそのように教える先生があることは他の同行から聞いてはおります。
また、はたらきやお慈悲について話すことが悪いと申しているのではありません。実際にそのような話を伺いますと有難さのあまり目頭が熱くなることがあります。
けれども、あたかも聞きに来ている全ての人が浄土に参れるように説いたりする方や、件の先生のような方もあります。それでいて、正雑二行の沙汰や、信心の浅深が厳しく説かれていないように思われるのです。

ともあれ、親鸞聖人を祖師と仰ぐのなら、往相回向のはたらきを具体化して顕された真実の教行信証をしっかり伝えて、選択本願の行信に帰するように教えて頂きたいものです。私も微力ながら、このことを訴えていきたいと思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

Abcです

おはようございます、Abcです。
御一読ありがとうございます。

>あたかも聞きに来ている全ての人が浄土に参れるように説いたりする方や、件の先生のような方もあります。それでいて、正雑二行の沙汰や、信心の浅深が厳しく説かれていないように思われるのです。

「聞きに来ている全ての人が浄土に参れる」というのは私たち布教使の目標の一つでもあります。別の布教使さんで、高森さんもいわれていますが、
「説教使のなかには、「十人は十人ながら、百人は百人ながら」の箇所だけをことさら強く朗読するものがいる」  という方もいらっしゃいます。

「布教使さまは、「みづからの計らいを交えてはならない」と懇ろにいわれておりますし、先ほど渡していただいた『笠間の念仏者のうかがいとはれたる事』のお手紙にもそのように示されておりました。
 これを踏まえてではございますが、「十人は十人ながら、みな往生する」には他の箇所にはどのようにございますのでしょう?」 と尋ねられたことがありまして

 その返しとして、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」の文献を示して、
 「お釈迦様は (説明のため、私が仏間に安置されている阿弥陀様をご覧になるように手で促してから)この阿弥陀様の本願を伝えられるために私たちのところにこられました。いまは私やあなたの側が、「煩悩に眼をおさえられ見ることができなく」なってしまっておりますが、ここに『大経』、『観経』および『小経』としてございます。 これら『浄土三部経』は、前にあなたも示していただきました

『選択集』
 「釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。」

 とございます通りであります。

 次に、「五濁悪時群生海」とありますのは私たちのことであります。「布教使さんは私と違ってよくお読みになられておりますから私と同じとはとてもとても」といわれておりましたが、「この衆生とは私でありあなた」なのであります。

 この引用文の最後「応信如来如実言」は、「釈迦・弥陀二尊の召しを信ずべし」ということであります。この文通り訳しますと「如来、如実にのたまえるおん言を信ずべし」となります。親鸞さんは、
この「如来如実言」を

『教巻』には
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」といわれ、

『行巻』では、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。」といわれています。

また、「法によりて、人によらざれ」ともいわれています。あなたはよく私のところ訪ねていらっしゃいますが、この言葉を如実に受け取ったならば「書物からあなたに対して教えが渡される」となりますから、一番最初に戻りますが、「みづからの計らいを交えてはならない」といわれておいでなのです。

 ですが、それとは別に「あなたが私の場所に又聞きに来てくれるだろう」という浅はかな思いもありますので、どうぞまたお聞きになられてください。

なもあみだ、なもあみだ」

と伝えた経緯もございます。

「正雑二行の沙汰や、信心の浅深が厳しく説かれていない」は先の文では、「如来如実言」に従ってはいないとなり、悲しい限りであります。

今回は長々と門徒さんとの会話を記し、誠にもうしわけございません。
ただ、「Abcはそのように伝えられているのだな」と思われてください。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

称名報恩?

ども、林遊@なんまんだぶです。

>そのような時代背景や対機を無視して、そのまま信心正因称名報恩説を説くのが必ずしもいいわけではないと思います。

鈴木大拙師は『浄土系思想論』の中で、

 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。p.332-333

と、言われていました。
そのような意味では「信心正因 称名報恩」という言葉の上だけで、御開山が示して下さったご法義を領解することは、御開山の本意と違うものが出てくるのかもです。
御開山は、善導・法然両師の「念仏思想」を、曇鸞大師の『論註』の五念門の讃嘆門によって意義づけされたのでした。
そして、

 しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。

と、口称の称名(なんまんだぶ)に、「破闇満願」の徳があるとされてました。ちなみに『論註』の当面では、

 「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。
  {中略}
 かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。

と、如来の「名号」に「破闇満願」の徳があるとされていました。
深川倫雄和上は、御開山は名号と記述されておられるが、あれは口に称えられる〔なんまんだぶ〕のことで、名号という別の何かがあるんじゃないのです、とお示しでした。いわゆる宗学でいう「法体名号」という観念論に騙されるんじゃないよとのお示しでした。
そして灘本和上が「深川君、あんたが称える前の名号というものは無いんだよ。あんたが称える前に名号があるという領解は間違いです。あなたの口に〔なんまんだぶ〕と称えられることこそが名号なんだですよ」というエピソードをお示しでした。──このエピソードを節談説教の真似をしながら語って頂けたのはよい思ひでです──

我々は、モノ/コトの直截する現実を離れて言葉によって観念化するのですが、「信心正因 称名報恩」という言葉を観念化することによって、返ってその言葉の意味が判らなくなっているのかもです。
ちなみに覚如上人にはすまんのだけど、御開山の意(こころ)では称名は讃嘆行なのでした。もちろん口に称えられる〔なんまんだぶ〕によって、私の往生成仏の道が開かれたという意味では報恩という意味もあるのですが、現代では「恩」という概念が判らなくなっていることもあり、「称名報恩」という術語(テクニカルターム)は、言葉として制度疲労(語の示すべき目的と実情がずれてしまっていること)しているのかもです。
念仏は、お礼だからしなくてもいいと公言する高森親鸞会が悪しき例です。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%81%A9

ともあれ「信心正因 称名報恩」という言葉の生まれてきた歴史的経緯や背景を考察することなく鵜呑みにすることは、御開山の示されたご法義と違うものが出てくるかもです。

近頃の真宗の坊さんは、「はたらき」という語を多用するのですが、哲学者でもあった大峯顕師(1929-2018)は、

 たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不ニと言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不二ということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。

と云われてましたです。
そのような意味では「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」というような発想は、信心正因という語に固執して、

 我至成仏道 名声超十方
 究竟靡所聞 誓不成正覚

という、

 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
 五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方

重誓名声聞十方という五劫をかけて仕上げた〔なんまんだぶ〕の意味が判ってないのかもです。知らんけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

お世話さまです。リンク先読ませていただきました。恩という言葉は、正直自分の中では、いやーな言葉お捉えてますね。
親鸞会の主従関係など、高森会長に絶対服従ですからね。また辞めた今でも親鸞会の友人と話をすると高森先生によって仏教に出会えただろ、恩を感じないのか!と、だいたい言われますね。また職場の上下関係もブラックですからね。独立する向きは恩知らずと言われますね。人を縛ろうとする、従属させようとする言葉ですね。林遊さんが本当の意味は違うと言われたけど、世間一般でよく使う「上から目線でものを言う」ですね。まずはお礼を言え!有難うございますだろ!ってな感じです。しかし浄土真宗の世界を知ると全くの強制のない世界ですね。

コメント返信

> 「聞きに来ている全ての人が浄土に参れる」というのは私たち布教使の目標の一つでもあります。

これは全ての念仏者の願いですね。聞きに来ている人に限らず、私は自分と同い年くらいの保育園児や小学生が遊んでいるのを見ていると、よく「みんなに何とか南無阿弥陀仏の法が届かないかな」と思ったりします。

一方で、

> 別の布教使さんで、高森さんもいわれていますが、
> 「説教使のなかには、「十人は十人ながら、百人は百人ながら」の箇所だけをことさら強く朗読するものがいる」  という方もいらっしゃいます。

こういう方は事実としていらっしゃるのですね。残念なことです。

私の思い計らい、また文章ではどうにも救えませんので歯がゆい、悔しいことこの上ありませんが、どうか一人一人が我が身の後生の一大事をこころにかけて、一心に念仏して、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせして頂きたいばかりです。


林遊@なんまんだぶ様

> 「深川君、あんたが称える前の名号というものは無いんだよ。あんたが称える前に名号があるという領解は間違いです。あなたの口に〔なんまんだぶ〕と称えられることこそが名号なんだですよ」

有難いお示しです。ともすると、称える前の名号があって、それを頂いて称名となるようなイメージを抱いてしまいます。称名大行を説かないお坊さんの話を聞いていると、名号と称名は全く違うように聞こえてしまいます。この辺のお取次ぎが、大変難しそうですね。


チュウビ様

親鸞会の場合は恩の押し売りですから論外です。間違った本願を説き与えておいて、それに報謝といっても無理です。

恩について

淳心房さん。確かに親鸞会は、間違った本願説いていて、決死報恩!とか言ってるので論外ですが、
林遊さんの、言われるように現代人の恩という理解は、仏教から離れて儒教的なので(私も仏教の恩というのを、知りませんでした)ものすごく反発します。実際世間一般多くないですか。「恩着せがましい」のが、だいたい仕事金銭が絡んできます。お礼(お金)を包む。どのくらい?みたいな。恩=ギブアンドテイク的なのてすけども、そこに上下関係が強く作用するので非対象ですよね。上からの圧力で下は弱い立場を甘んじて受けるのです。これが恩かよということは世間でよくあります。と世間苦に、まみれながら念仏の教えを聞かせていただき念仏申して生きておりますが、無分別智の世界がしめされるのは有難いことですね。なので信心正因称名報恩という言葉でなくて「五念門の讃嘆門によって意義つけ」こちらがなるほど念仏申すべしなのだなと有り難く思いました。

Re: チュウビ様

「恩」という言葉自体が、今の日本では死語同然な気がします。教えてくれる人がいないのに加えて、儒教的な恩、ギブアンドテイク的な恩が蔓延しているので困ったものです。

仏の一方的なおはたらきを聞き受けさせて頂き、阿弥陀仏の発願、修行、名号の成就、光明・名号の摂化、釈尊の御化導、七高僧や親鸞聖人等の有名な方々から無数の無名の教法伝持の念仏者に至るまでの、私に本願念仏の教えを伝えて下されたこと、その他幾重にも重なる深い仏様の御恩ということを知れば、今信心を獲た上の称名は御恩嬉しやありがたやの報恩の称名と聞いても全くその通りなのです。ですから、信心正因称名報恩説が悪いなどとは思いません。

ところが、誰にも彼にも信心正因称名報恩説で教えを説けばよいとも思いません。百歩譲って最初から真宗の人はいいかも知れませんが、私がそうだったように真宗以外から入る人もいますし、真宗の中でも自分は取り立てて深く教えを聞くということもなかったという人も少なくないでしょう。そのような人が称名は信後のお礼だと言われても、なぜ念仏が有難いか分かりませんからあまり積極的に称えたりしないと思います。加えて、自力念仏ではいけない、他力念仏でなければならないと教えられますから、未信の私の念仏はいけないと思って増々称えなくなってしまうのではないでしょうか。念仏を我が物と捉え、如来さえ利用しようとする自力の心が悪いのに、念仏まで悪く思えてしまうのです。

ですから、称名は本願において阿弥陀仏が選び択られた本願の行であること、それはこちらから救いに近づいていく自力の行でなく本願力回向の行であること、本願を疑い無く聞き受けて称えるのが阿弥陀仏のおこころにかなった念仏の行者であること、こういったことをよくご理解頂くことがまず必要かなと思うのです。究極のところは対機説法ということになりますが、ただ話を聞いて終わりというスタイルはよくないでしょう。座談、信心の沙汰もあって、また教えも学ぶことができて、というのが理想かと思います。

恩について続き

全くの同意です。念仏軽視になりがちです。また行き過ぎて極端な、神秘体験を重視して念仏排斥するような者となるでしょう。如来先手の本願とわかれば私が回向するのでなく回向せしめられていた念仏。それは全く報謝の意味しかないのです。それをどう今の人に伝えて行くのかは、淳心房さんや林遊さんAbcさんに深く同意します。今後とも宜しくお願いします。なまんだぶ、なまんだぶ。

Abcです

みなさまへ

こんばんわ、Abcです。

私の伝え方としましては、「現場に近い」という言い方というか、「質問にこられた方とじかに話す」というのがおおいので、日夜『お聖教』を披いてますし、上に記したような説明となっております。

 林遊さんや淳心房さんはしっかりと『お聖教』に基づいて議論されているので私的には読みごたえがありますが、試しに門徒さんに尋ねてみましたらやはり「読み砕いたもの」がよろしいようです。まぁ、これに至っては人それぞれですので一概には言えませんが。

 ただ、わたしは「称名報恩説」は、「そのような考え方はありますが、それがすべてではない」という立場であります。

蓮如上人は、『正信念仏偈』を伝えておりますし、また私も使わせていただいておりますが、『念仏正信偈(文類偈)』も親鸞が残された偈文であります。
 また、『文類偈』は私の名前の基となった書物ですので、伝えさせていただいております。(思いっきり個人的な理由ですね)

私の記したコメントに対するツッコミおよび疑問点がございましたら、どうぞご返信ください。よろしくお願いします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re:恩について続き

ども、林遊@なんまんだぶです。

チュウビさん。

昔、何かの本で読んだのですが、「恩」には施恩と受恩ということがいわれるそうです。そして受恩(恩を受けたこと)は心に刻み、施恩(恩を施したこと)は、決して主張してはならないというのでした。施恩を主張した途端に、それは恩という概念から外れて取引関係になるのでした。
そういえば、親が子育てをしている時に子供に恩を感謝しろ、などとは決して言いませんね。娑婆のことでも施恩を主張するような者は、阿呆にされます。で、このような者は恩という言葉の概念を知らないから別の意味で「恩知らず」かもです(笑

「刻石流水」という熟語があるそうですが、「懸情流水 受恩刻石(かけた情けは水に流し、受けた恩は石に刻め)」という意味だそうですが、受恩は論じても施恩は語るべきではないのでした。施恩を主張した途端にそれは恩ではなくなるのでした。
高森親鸞会から恩知らずと言われても言い返す必要は無いのですが、「刻石流水」とつぶやいて、にやにや笑っている手もありそうですよ。

同じように、高森親鸞会では盛んに善を奨めるのですが、その善には根が生えているという陥穽に気が付かないのでした。

「よく御覧よ、根が生えてる」
http://wikidharma.org/5cd958dcc1f96

『論註』の真実功徳相には、

 「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。
 一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。
いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。

 二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるがゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。(行巻p.158で引文)
http://wikidharma.org/5cd95dd4caabb

と、ありますが、高森親鸞会では、「有漏善」と「無漏善」の区別がついていないから、まるで有漏善によって無漏の真実信心を獲られるように妄想しているのでした。ともあれ、この『論註』の文から御開山は自らには真実は無いということを真実とされたのでした。

「有漏」と「無漏」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%9C%89%E6%BC%8F

あと、仏教に於ける「十善」とは否定形であらわされているのですが、必堕無間の地獄秘事に陥っている高森親鸞会の会員の皆さんには理解不能なのかもですね。

「十善」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8D%81%E5%96%84

ともあれ、高森親鸞会では全ての語(言葉)の意味が顛倒(さかさま)しているので、ご法義を論じあえることは無いのかもでした。どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ←声に出ている称名

No title

林遊さん有難うございました。根が生えてる。耳が痛いですね。十悪を否定した形で十善を示すというのも、なるほどと思いました。独善にならないようにということですね。ということは親鸞会のように「破邪顕正の闘士であらねばならない!」というのも全く違うということですね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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