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【考察】念仏の勧めについて(27)

本日は源信僧都の教えを伺います。

源信僧都は、「念仏をもつて往生の業となせ」る文の第三に、第十八願を挙げておられます。

いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。 その文、はなはだ多し。 略して十の文を出さん。(中略)
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
『往生要集』下巻 第八 念仏証拠

念仏をもつて往生の業となせ」る根拠として「乃至十念」の文を挙げ、すなわち十念に至るまでせよと念仏を誓われているというのです。親鸞聖人はこのお言葉を「行文類」に引いて真実行を証明されています。つまり

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と源信僧都は解釈し、それを親鸞聖人も引き継がれているということです。逆に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない


というなら、『往生要集』の上の文を引かれる理由が判りません。

また、続いて第四に、『観経』を釈して「極めて罪の重い悪人は、ただ念仏して極楽に生まれる以外に助かる手立てが無い」と言い切っておられます。根本である本願に念仏は往生の業であると誓われており、極重の悪人には念仏より他に助かる手立てがないから

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

と説かれています。その心を親鸞聖人は『正信偈』に

極重悪人唯称仏

と仰り、また『高僧和讃』には

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ


と讃えられています。


『往生要集』には往生之業念仏為本往生の業は念仏を本となす)とあります。法然聖人が『選択集』標宗の文として掲げられた

南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本

の法語は、この源信僧都のお言葉を依用されたものです。それを釈して親鸞聖人は

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。『尊号真像銘文』

と教えられています。本願の念仏は「安養浄土の往生の正因」「浄土に生れて仏にかならず成るたね」であるというのです。

このように阿弥陀仏が「我が名を称せよ」とお勧めになっている本願があるから、釈尊も、七高僧方も、その他多くの有名無名の僧侶も数多の同行も念仏を勧め、親鸞聖人も蓮如上人も「念仏の一行」を勧められた高僧方の説を信じなさいと教えられているのです。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

は七高僧の立場でも、親鸞聖人、蓮如上人の立場でも変わりません。



【参照】
『WikiArc』往生之業 念仏為本
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念仏業因

ども、林遊@なんまんだぶです。

支援リンクです。

「念仏証拠門のなかに…」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E8%A8%BC%E6%8B%A0%E9%96%80%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E2%80%A6

Aさんの主張の、

>阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
>念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない

は、「信心正因」を強調する為に、「信心」と「念仏」を排他関係で捉えた為でしょう。
そもそもAさんは、浄土教における「信」をキリスト教的「救済」の為の信として把握したから、なんまんだぶという行に思いが至らなかったのでしょう。
ですから、キリスト教の「恩寵」と仏教の「慈悲」を混同させてしまっているのだと思ふ。
Aさんの信者は、

>正しい教学が救うのではありません。
>阿弥陀さまの慈悲が 救うのです。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/53787949.html#comments

と慈悲をいいますが、これはまさにキリスト教の「恩寵」論でした。
御開山は『教行証文類』と、仏法は教、行、証であると示されましたが、行の無い仏法というのはあり得ないのでした。
近代の浄土真宗の「信心」を示す「信心正因」をキリスト教の、「信のみ・恩寵のみ・聖書のみ」という「信」と混淆するのでした。
「宗教改革」
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9

そもそも論ですが、仏教では「行じて証す」のであり、行の無い仏法は無いのでした。その、なんまんだぶを称える「行」が、往生の「業因」なのでした。
「信心正因」といふ正因とは、何を信ずるのかといえば、『安心論題』の「信心正因」にあるように、


 「正因」というのは、個々の人の上に往生成仏の果を得べき因が決定することをあらわします。衆生を往生成仏せしめる業因たる名号はすでに成就されているけれども、これを信受しなければわたくしの往生は決定しません。名号を信受することによって、わたくしどもの上に往生成仏の果を得べき因が決定するのです。これが信心正因であります。
 船に乗ることによって向う岸に渡り、薬をのむことによって病が治ります。この場合、船と薬とは名号業因にたとえられ、「乗る」と「のむ」とは信心正因にたとえられます。もっとも、このたとえでは「乗る」「のむ」はわたくしの行いであって、船や薬のはたらきとは別でありますが、ご法義の上では、衆生に信受させることは名号願力のはたらきであります。
「安心論題/信心正因」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BF%A1%E5%BF%83%E6%AD%A3%E5%9B%A0

といわれているように、口称の なんまんだぶが、わたくしの往生の「業因」であることを「信知」する時剋の一念を「信心正因」といふのでした。
もっとも、御開山の上で「信心正因」という語を究極的に洞察すれば、仏道の正因である「菩提心正因」という意であろう。菩提心はわたくしが発すのではなく、なんまんだぶを称えることは、阿弥陀如来の菩提心に包まれていることを「横超の菩提心」と仰ったのであった。願作仏心 度衆生心である。
「一念転釈」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E8%BB%A2%E9%87%88#.E4.BF.A1.E5.BF.83.E3.81.8C.E4.BB.8F.E5.9B.A0.E3.81.A7.E3.81.82.E3.82.8B.E3.81.93.E3.81.A8.E3.82.92.E9.A1.95.E3.81.99

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re: 林遊@なんまんだぶ様

支援リンクありがとうございます。


> 「信心正因」を強調する為に、「信心」と「念仏」を排他関係で捉えた

おそらくそうだと思います。信心と念仏を排他関係、対立関係で捉える方は少なからずいるようですね。高森顕徹会長もそうです。真宗の僧侶の場合は雑行(もどき)を勧めないだけで、念仏を信心の必然、信後必ずついてくるオマケ程度に捉えているのではないかと危惧されます。


親鸞聖人が信心正因を強調されたのは、一つには信心の本体は仏の大悲心であって仏の方より与えられる信心であり、凡夫が自力で起こすものではないということ。二つには、仰せのようにそのような他力の信心は仏道の正因であるような横超の大菩提心であること。こういったことを言おうとされてのことだと思います。

ただ、それが後の信因称報説の影響も加わって、信心が正因だから念仏称えることは要らないとか、そもそも阿弥陀さまは念仏せよと言ってないとか、称名念仏は往因にならないとか、そのように念仏無視、念仏軽視の方向へ行ってしまったと知ったら親鸞聖人は悲しまれるでしょうね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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