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宅配の仕事の現実と、苦悩の私達の現実

今回は、この記事に頂いた名無しさんのコメントにお返事したいと思います。繁忙期の宅配の仕事の現実を知って頂くいい機会にもなるかと思います。



> 手段は、いろいろあると思いますよ。宅急便には受取人の電話番号が書かれていると思います。だから、そこに片っ端からかければ良いのです。

⇒言ってくると思いました。確かに一つの手段です。しかし運転しながら電話をかけるわけにはいきませんから、車を停めて電話をかけてゆくしかありません。そんなことをやっている間に午前中は終わってしまいます。それでは、結果的に午前中回れずに迷惑をかけてしまうお客さんが増えてしまうのではないですか? また、午前中の荷物だけ持っているのではなくて、別の時間帯の荷物もあれば、当日指定の荷物、指定なしの荷物も大量に抱えているのです。電話がけで時間が押して、それらが捌き切れず翌日持ち越しになれば、またそれだけ多くのお客さんに迷惑をかけてしまうのではありませんか?

それに、こちらの事情を理解して素直に変更してくれる優しいお客さんばかりではありません。どうしても今日の午前中だとごねるケースが少なくなく、運が悪いと何分、何十分とその一人の人につかまってしまうのです。その間に5人、6人に配りに行けたものを、その時間を無駄に潰してしまう結果になります。

ちなみに私はボランティアではないので、早出してサービス残業する気は更々ありません。また、人員が十分に揃っていれば解決できる課題は多いです。大分見直され、社会のメスが入れ始められた物流業界ですが、まだまだ戦力は十分ではないし、せっかく入ってきても途中でバックレたり、辞めたりしていく人も多くて、私が最悪だと思った2016年の年末よりはマシになったかなという印象しかないです。限られた人数、限られた時間の中で大量の荷物を扱わなければならないところに、繁忙期の難しさがあるのです。


> それを怠っているのは、受け身であり、他者依存だと思います。

⇒本気でそう思うなら、試しに繁忙期の宅配やってみますか? こちらは一人でも戦力がほしいので大歓迎ですよ、まぁ役に立てばね(笑) 途中でバックレたり辞めたりする人は要りません。


> また、決められた通りに届けられなく、かつ、自分で良い方法を見つけられなければ、それは組織的な問題なので、どのように対応すべきかを相談すべきです。

⇒私がヤバいという場合は、周囲はそれ以上にヤバいという状況がほとんどです。手が空いている人なんていませんし、上司に相談したところで上司は上司の仕事があり、結論は「ガンバレ」です。上司を探して、あるいは電話して相談している時間がもったいないです。時間は待ってくれませんから、一分でも配達にかけた方が結果的に迷惑をかけるお客さんが少なくて済みます。現場は、名無しさんの想像以上に混乱しているのです。

名無しさんが思いつく程度の事は既に自分や周囲が試して、現実にそぐわないということがよく分かっているのです。理想ばかり高くても現実に果たせない、それが繁忙期の我々宅配の仕事です。それで、私は仕方ないがこれが迷惑をかけるお客さんを最小限にとどめる方法だと割り切ってやっているのです。だから愚痴の一つも言いたくなりますよ。悪しき考え方とやらにも陥ってしまいます。逆に愚痴の一つも出ない、悪しき考え方とやらにも陥らずに常に正しい考え方で生きられる人がどれほどいるのかと考えてしまいますよ。



さて、この話を広げていけば聖道門での成仏得道の話になります。廃悪修善をして仏と成るべき因徳を積めば成仏することは間違いないですが、じゃあ現実問題として私達にできますか? 修行を完遂できるというなら、どうぞおやりになって下さい。私には不可能です。宅配の仕事なんか比較にならないほどの不可能さです。

例えば天台宗の行で定行三昧という90日間の所定の行がありますが、話を聞く限り私にはとてもやれる自信がありません。その他名無しさんも知っているであろう千日回峰行などもありますが、私のような者が取り組んだら間違いなく自決しなければならないでしょう。行を積めばさとりが開けるというのは仏説ですからこれは明らかなのですが、如実に実践できないからさとれなくて困っているのです。

それに対してまともに修行して成仏の因徳を積むことができない、そればかりか三毒を始めとする108の煩悩をどうすることもできない、空しく流転を免れない私達を哀れに見そなわして、何としても浄土に迎えて仏にすると誓われ、その願成就して我々を救いつつあるというのが浄土門の阿弥陀仏の救済です。これを甘えの宗教と言われるならそれまでですが、そのような救いでなければ淳心房のような者は救われません。

私は敢えて仕事や日々の生活での苦悩や愚痴を書くことで自分の思いが伝わるだけではなく、自分のような者はとても救われるなんて無理なのではなかろうかとあきらめかけている方が、絶望することなく阿弥陀仏の救いの普遍性と平等性を知ってもらえるのではないか、あきらめることなく本願の尊さを仰ぎお念仏してもらえるのではないか、と考えています。淳心房のような者でも助かったと言っているのだから、阿弥陀仏の救いというのは絵空事でもおとぎ話でもなく現実にあるんだなと思ってもらえるのではないか、と思うのです。

勿論、努力は続けていきます。一人でも迷惑をかけるお客さんが減るように。けれど、0にすることは現実的に不可能です。飲酒運転や交通事故が0にならないのと一緒です。飲酒運転や交通事故を本気で0にしようと思ったら、車を無くせばいいのです。酒を無くせばいいのです。でも現実にそんなことが可能ですか? また、自分が気をつけていても運悪く煽り運転するような車に出くわしてしまったらどうですか?

ご意見はご意見として受け止めますが、理想論ばかりで現実にそぐわないことを色々と並べられても当方としては困ってしまうわけです。悪しき考え方を言うなと言われるのも尤もですが、思いは思いとして述べて、そんな考え方に支配されている私を決して見捨てたまわぬ本願の尊さを仰ぎ、お念仏して、改めるべき点は今後少しずつでも改めていこうという気持ちであれば良いのではないかと私は考えてやっています。


それにしても、あの記事であのようなことをツッコんでくることは当時は想定外でした。私は完璧な人間ではないし、完璧どころか間違いだらけの、煩悩に支配されてそれをどうすることもできない愚かな人間です。後悔や反省の毎日で、今日は100点なんて日は一生送れそうもありません。そんな私のような者に相応した阿弥陀仏の救済法であることが皆さんに知ってもらえたらという気持ちで書いています。

だから、書き方は気をつけますが、その時思った気持ちは書ける範囲内で正直に書いていくつもりです。それを偽ってきれいごとばかり書く方がウソというものです。世の中には実に多くのブログがあるので、きれいごと、理想論がお望みならそういうブログやサイトを探して見れば良いと思います。選ぶのは読者の皆さんです。当ブログでは、理想論でいきたいと思いつつもそれをどうすることもできない現実に直面している私達を、決して見捨てたまわぬ本願念仏の法を私なりの書き方で書いていきます。気に入らない人は見なければいいだけの話です。読者の皆様もどうぞそのつもりでよろしくお願いいたします。

この記事は以上です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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No title

⇒言ってくると思いました。確かに一つの手段です。しかし運転しながら電話をかけるわけにはいきませんから、車を停めて電話をかけてゆくしかありません。そんなことをやっている間に午前中は終わってしまいます。それでは、結果的に午前中回れずに迷惑をかけてしまうお客さんが増えてしまうのではないですか? また、午前中の荷物だけ持っているのではなくて、別の時間帯の荷物もあれば、当日指定の荷物、指定なしの荷物も大量に抱えているのです。電話がけで時間が押して、それらが捌き切れず翌日持ち越しになれば、またそれだけ多くのお客さんに迷惑をかけてしまうのではありませんか?

それに、こちらの事情を理解して素直に変更してくれる優しいお客さんばかりではありません。どうしても今日の午前中だとごねるケースが少なくなく、運が悪いと何分、何十分とその一人の人につかまってしまうのです。その間に5人、6人に配りに行けたものを、その時間を無駄に潰してしまう結果になります。

ちなみに私はボランティアではないので、早出してサービス残業する気は更々ありません。また、人員が十分に揃っていれば解決できる課題は多いです。大分見直され、社会のメスが入れ始められた物流業界ですが、まだまだ戦力は十分ではないし、せっかく入ってきても途中でバックレたり、辞めたりしていく人も多くて、私が最悪だと思った2016年の年末よりはマシになったかなという印象しかないです。限られた人数、限られた時間の中で大量の荷物を扱わなければならないところに、繁忙期の難しさがあるのです。

私なら、30分で終わらせます。方法は、ながくなりそうでしたら、他の配達があるので、ということで強引に切ります。そして、その人にはその後配達があってもかけません。どうしてもクレーマーはいるのでそんなひとに電話をかけても仕方がありません。はじめの内は、30分超えてしまうと思いますが、そこで電話をかけるのをやめます。そのようにして、30分で終わるように目指します。

それが難しいならば別の方法を考えます。

No title

> それを怠っているのは、受け身であり、他者依存だと思います。

⇒本気でそう思うなら、試しに繁忙期の宅配やってみますか? こちらは一人でも戦力がほしいので大歓迎ですよ、まぁ役に立てばね(笑) 途中でバックレたり辞めたりする人は要りません。


やはり、コメントの書き方がなおっていませんね。

No title

> また、決められた通りに届けられなく、かつ、自分で良い方法を見つけられなければ、それは組織的な問題なので、どのように対応すべきかを相談すべきです。

⇒私がヤバいという場合は、周囲はそれ以上にヤバいという状況がほとんどです。手が空いている人なんていませんし、上司に相談したところで上司は上司の仕事があり、結論は「ガンバレ」です。上司を探して、あるいは電話して相談している時間がもったいないです。時間は待ってくれませんから、一分でも配達にかけた方が結果的に迷惑をかけるお客さんが少なくて済みます。現場は、名無しさんの想像以上に混乱しているのです。


相談して駄目なら、あきらめるしかないですよね。また、別の人に相談してもいいかもしれません。それでも解決できなければ、自分ができる範囲でなんとかするしかありません。また、職をかえても、勤務先を変えてもいいと思います。
それができないならば、自分が原因です。



⇒名無しさんが思いつく程度の事は既に自分や周囲が試して、現実にそぐわないということがよく分かっているのです。理想ばかり高くても現実に果たせない、それが繁忙期の我々宅配の仕事です。それで、私は仕方ないがこれが迷惑をかけるお客さんを最小限にとどめる方法だと割り切ってやっているのです。だから愚痴の一つも言いたくなりますよ。悪しき考え方とやらにも陥ってしまいます。逆に愚痴の一つも出ない、悪しき考え方とやらにも陥らずに常に正しい考え方で生きられる人がどれほどいるのかと考えてしまいますよ。


悪しき考え方がいけないのは、伝播しやすいからです。
人に愚痴をいうこととネット上に上げることは意味が異なると思います。
どうでしょうか?


No title

⇒さて、この話を広げていけば聖道門での成仏得道の話になります。廃悪修善をして仏と成るべき因徳を積めば成仏することは間違いないですが、じゃあ現実問題として私達にできますか? 修行を完遂できるというなら、どうぞおやりになって下さい。私には不可能です。宅配の仕事なんか比較にならないほどの不可能さです。

例えば天台宗の行で定行三昧という90日間の所定の行がありますが、話を聞く限り私にはとてもやれる自信がありません。その他名無しさんも知っているであろう千日回峰行などもありますが、私のような者が取り組んだら間違いなく自決しなければならないでしょう。行を積めばさとりが開けるというのは仏説ですからこれは明らかなのですが、如実に実践できないからさとれなくて困っているのです。

それに対してまともに修行して成仏の因徳を積むことができない、そればかりか三毒を始めとする108の煩悩をどうすることもできない、空しく流転を免れない私達を哀れに見そなわして、何としても浄土に迎えて仏にすると誓われ、その願成就して我々を救いつつあるというのが浄土門の阿弥陀仏の救済です。これを甘えの宗教と言われるならそれまでですが、そのような救いでなければ淳心房のような者は救われません。

私は敢えて仕事や日々の生活での苦悩や愚痴を書くことで自分の思いが伝わるだけではなく、自分のような者はとても救われるなんて無理なのではなかろうかとあきらめかけている方が、絶望することなく阿弥陀仏の救いの普遍性と平等性を知ってもらえるのではないか、あきらめることなく本願の尊さを仰ぎお念仏してもらえるのではないか、と考えています。淳心房のような者でも助かったと言っているのだから、阿弥陀仏の救いというのは絵空事でもおとぎ話でもなく現実にあるんだなと思ってもらえるのではないか、と思うのです。



愚痴をかくことで、自分のような人でも…。ということならば書き方を気をつけた方がよいと思います。
親鸞聖人がそのようにされたでしょうか?

No title

⇒勿論、努力は続けていきます。一人でも迷惑をかけるお客さんが減るように。けれど、0にすることは現実的に不可能です。飲酒運転や交通事故が0にならないのと一緒です。飲酒運転や交通事故を本気で0にしようと思ったら、車を無くせばいいのです。酒を無くせばいいのです。でも現実にそんなことが可能ですか? また、自分が気をつけていても運悪く煽り運転するような車に出くわしてしまったらどうですか?


よく100か0かという極端なことを言う人がいますが、そういうことではありません。完璧にできるとは思っていません。完璧にすることは事実上無理だと思います。
努力を続けられているとのことなので、安心しました。コメントを読むうえでそのようなことが感じられないので、今後は気をつけた方が良いと思います。

No title

⇒ご意見はご意見として受け止めますが、理想論ばかりで現実にそぐわないことを色々と並べられても当方としては困ってしまうわけです。悪しき考え方を言うなと言われるのも尤もですが、思いは思いとして述べて、そんな考え方に支配されている私を決して見捨てたまわぬ本願の尊さを仰ぎ、お念仏して、改めるべき点は今後少しずつでも改めていこうという気持ちであれば良いのではないかと私は考えてやっています。


⇒それにしても、あの記事であのようなことをツッコんでくることは当時は想定外でした。私は完璧な人間ではないし、完璧どころか間違いだらけの、煩悩に支配されてそれをどうすることもできない愚かな人間です。後悔や反省の毎日で、今日は100点なんて日は一生送れそうもありません。そんな私のような者に相応した阿弥陀仏の救済法であることが皆さんに知ってもらえたらという気持ちで書いています。

⇒だから、書き方は気をつけますが、その時思った気持ちは書ける範囲内で正直に書いていくつもりです。それを偽ってきれいごとばかり書く方がウソというものです。世の中には実に多くのブログがあるので、きれいごと、理想論がお望みならそういうブログやサイトを探して見れば良いと思います。選ぶのは読者の皆さんです。当ブログでは、理想論でいきたいと思いつつもそれをどうすることもできない現実に直面している私達を、決して見捨てたまわぬ本願念仏の法を私なりの書き方で書いていきます。気に入らない人は見なければいいだけの話です。読者の皆様もどうぞそのつもりでよろしくお願いいたします。

この記事は以上です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


再度かきますが、コメントの書き方がなおっていないと思います。

再度いいますが、聖人はあなたのような伝え方はされていません。

例えば、キリスト教は、弱者の宗教であるとニーチェはいっていますが、
あなたのコメントの書き方を見るとそういう印象を受けます。

あなたが愚痴を言うのも良いと思いますが、仏教とは無関係なところでして頂きたいです。

仏教は愚痴を発散させるためにあるものではないので、返って仏教が広まりにくくなると思います。

No title

私のコメントは無視ですか。
親鸞会らしい逃げですね。
要するに、親鸞会なんてそんな程度の弱小カルトってことですわ。

なお、親鸞聖人だとか仏教だとか偉そうに出さない方が良いですよ、あなたの信じているのは親鸞聖人の名を騙るカルト。

悔しいと思うなら、親鸞聖人の教えをここに書きたまえ。

No title

戯論は無視でよいかと思いますが居ても立ってもおれずにわざわざ戯論を仕掛けざるを得ない人の苦しみは少しでも受けとめたいと思います。
気づいているかどうかは別にして本人ではどうにもできないほどの苦しみがそのように追い立てているのでしょう。戯論そのものではなくそのことをよく見つめたいと思います。

コメント返信

名無し様

> ながくなりそうでしたら、他の配達があるので、ということで強引に切ります。そして、その人にはその後配達があってもかけません。

これだと、場合によっては本社に電話されて、ヘビークレームになってしまいます。責任者出せ、所長を出せとすごむ人もいるのでこれはまずいんじゃないでしょうか?


> やはり、コメントの書き方がなおっていませんね。

そんなにすぐに改まるわけではありません。そこは子供を育てる親のようなつもりでいて下さい。


ちなみに親鸞聖人は公然と肉食妻帯されました。それは仏教界では戒律を破る、また殺生をするという諸善の否定も同然です。そうして下さったから、私達のような戒律も保てない、肉や魚を殺して食べるような者でも阿弥陀仏の救済にあずかれるということが分かったのです。仏教では殺生、破戒は悪です。それを敢えてすることで真実の仏教を明らかにして下さったと私は思います。それと私の行為を一緒にするなと言われてしまうかも知れませんが、愚痴を書くことがいいか悪いかは読者の皆さんのご判断です。よほどのひねくれ者でもない限り、正常な思考の方なら、読まれても造悪無碍の邪義に陥る人はいないと思いますが・・・。

仏教は自利利他と仰いましたがそれはその通りです。それでは、ぜひその自利利他の教えを世界に発信なさって下さい。すでに発信されているというなら、ここにURLを記して頂ければリンク先に登録してその紹介に微力ながら協力させてもらいますよ。


クレーマー様

私の言いたいことを代弁して下さったかのようで、ありがとうございます。確かに教え以外の点でツッコんでくるというのは如何なものかと思っていました。今後は少しずつですが書き方にも注意してやっていきたいと思います。


愚愚流様

色々な視点で読む方がいて、書き方に注意を払う必要があることをよく学びました。同じ過ちを繰り返す可能性は少なくないですが、言いたいことは沢山あるのでね。失敗したらまた学びます。そうやって少しずつ成長していきたいと思います。

お疲れ様です

お疲れ様です。私の知人にも配送業の方がいますが、かなり大変みたいですね。わかりますよ〜。という私もついつい便利なのでネットで注文してしまいます。でも繁忙期は外してると思います。スミマセン。
 それにしても最近の親鸞会の中の人は、つまらない揚げ足とりに終始してますね。法論にすらならないのですね。名無しさんには、「親鸞聖人はそのように教えてない」と言うからには具体的にどう教えているか書いてもらいたいですね。自分の考えと親鸞聖人の教えを混ぜてるようで、随分と薄いことしか書けていないのです。自分の理想像を親鸞聖人に投影しているようですね。是非とも法論にまでなったら面白いですね。無理っぽいですけど…

Re: チュウビ様

誰も約束を破りたくて破っている人はいないと思います。しかし、見落とし等も含めてどうにもならない現実があることを知ってもらいたいと思い、たまにああやって書いています。Abcさんやチュウビさんはそれを汲み取って頂けて有難いですが、理想論者のように要らぬツッコミをしてくる人もいると思うと注意が必要ですね・・・

法論ができないから教え以外の私の生活に関してツッコミを入れるしかないのでしょう。私も、ネット上ですからいくらでも自分をきれいに立派に見せかけることはできます。しかしウソを書き連ねてもね。愚痴極まりないやつだけど、少なくとも淳心房はウソはついてないなと思って頂けたら幸いです。

No title

> ながくなりそうでしたら、他の配達があるので、ということで強引に切ります。そして、その人にはその後配達があってもかけません。

これだと、場合によっては本社に電話されて、ヘビークレームになってしまいます。責任者出せ、所長を出せとすごむ人もいるのでこれはまずいんじゃないでしょうか?

⇒それならば、話を聞いて次回から電話しなければ良いと思います。
クレーマーは確実にいるとは思いますが、例えば、5%だったりとか、
かなり少ないと思いますよ。
ブラックリスト化すればいいんじゃないですかね。
それが企業努力だと思います。会社に言っても無理ならば、自分の周りだけでも良いと思います。


あなたの意見を聞くと、やはり、0か100かという二者択一で物事を考えているように感じます
。それは、楽なのですが、世間は理想的にはならないので、次々と壁にぶつかってしまいます。
本会を辞められたそうですが、0か100かという思考をしていると会員を続けにくいのかなと感じます。例えば、本部に毎月何度も参詣できなくなったから、居づらくなり辞めるとか。


ちなみに親鸞聖人は公然と肉食妻帯されました。それは仏教界では戒律を破る、また殺生をするという諸善の否定も同然です。そうして下さったから、私達のような戒律も保てない、肉や魚を殺して食べるような者でも阿弥陀仏の救済にあずかれるということが分かったのです。仏教では殺生、破戒は悪です。それを敢えてすることで真実の仏教を明らかにして下さったと私は思います。それと私の行為を一緒にするなと言われてしまうかも知れませんが、愚痴を書くことがいいか悪いかは読者の皆さんのご判断です。よほどのひねくれ者でもない限り、正常な思考の方なら、読まれても造悪無碍の邪義に陥る人はいないと思いますが・・・。


⇒殺生や破戒をするといってもやり方があると思いますよ。
殺生と言っても人に対してということはありませんし、
破戒といっても堕落した生活はしていませんし。


造悪無碍だと思う人はいると思いますよ。特に仏教を知らない人は。

また、蓮如上人が、例えば、

「しかれば、世の中に人のあまねく心得おきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称ふれば、極楽に往生すべきやうに思ひはんべり。それは大に覚束なきことなり。」

「ただ声に出して念仏ばかりを、称ふる人は、おほやうなり。それは極楽には往生せず」

のように「繰り返し」教えられています。これは仏教を聞いている人の中にも、ただ念仏さえ称えていれば、他は何をやっていても往生できると考えている人が多かったのではないでしょうか。

No title

別の記事にコメントしていたので、こちらにも入れておきます。


また、あなたは救われているそうですが、私から見ると疑問です。

私の知人にも、山も山などのブログを見て、救われたと言っていた人がいます。

しかし、話をよくよく聞いてみると、「合点安心」だと思います。

「合点安心」とは、阿弥陀仏の救い(の教え)を頭で理解したときに、救われたと勘違いすることを指します。

その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

その人が、ハッキリする救いにあっていない、大きな喜びがある救いにあっていないからです。

それは、当たり前のことで、逆に、ハッキルする救いにあった人は、ハッキリすると言い、大きな喜びがある救いにあった人は、大きな喜びがあると言います。

私は、何度もその人に反論していくうちに、救われたとは言わなくなりました。

それは、本当に良かったと思います。

頭の中で理解したことで救われたという人は、ハッキリしない、大きな喜びがないというのは、当然だと思います。

今一つ、思い返して頂ければと思います。

Re: 名無し様

> ⇒それならば、話を聞いて次回から電話しなければ良いと思います。
> クレーマーは確実にいるとは思いますが、例えば、5%だったりとか、
> かなり少ないと思いますよ。
> ブラックリスト化すればいいんじゃないですかね。
> それが企業努力だと思います。会社に言っても無理ならば、自分の周りだけでも良いと思います。

これは良い考えだと思います。


> あなたの意見を聞くと、やはり、0か100かという二者択一で物事を考えているように感じます
> 。それは、楽なのですが、世間は理想的にはならないので、次々と壁にぶつかってしまいます。
> 本会を辞められたそうですが、0か100かという思考をしていると会員を続けにくいのかなと感じます。例えば、本部に毎月> 何度も参詣できなくなったから、居づらくなり辞めるとか。

0か100かで物事を考えているのはそちらでしょう。「片っ端からかければ良い」とか。
私は仕事では基本100を目指しますが、できないときは90までやろう、80までやろうという考えです。

親鸞会を辞めたのは教義が間違っているからです。誤った教義をいくら信じていても救われないので、時間とお金と労力の無駄ですから辞めたまでです。名無しさんは間違いだらけの教義を正しいと信じ込んでいるようで、何とも哀れですね。


なお、人を殺さなければ殺生ではないとか、堕落した生活をしなければ破戒ではないというものではありませんよ。お分かりですか?


> ただ念仏さえ称えていれば、他は何をやっていても往生できる

これで合っていますが何か? 念仏(の信心)の他に往生に何か必要ですか? 親鸞会のように因果の道理や何かを持ち出したりして廃悪修善(雑行)を勧めていたら会員はいつまでも獲信できません。
蓮如上人は無信単称や自力の計らいを誡め、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得なさいと仰っています。計らい無くただ念仏すれば往生する、これは正しいです。
念仏者の生活態度としては決して放逸無慚であってはなりませんが、我々の生活態度がどうかということと往生の信心は無関係です。

Re: 名無し様

> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。

言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

No title

> ⇒それならば、話を聞いて次回から電話しなければ良いと思います。
> クレーマーは確実にいるとは思いますが、例えば、5%だったりとか、
> かなり少ないと思いますよ。
> ブラックリスト化すればいいんじゃないですかね。
> それが企業努力だと思います。会社に言っても無理ならば、自分の周りだけでも良いと思います。

これは良い考えだと思います。

⇒クレーマーに対して泣き寝入りしないように、社会として改善していく必要があると思います。私の会社にもクレーマーとまでいかないかもしれませんが、わがままな顧客はいますので、なんとか出来ればとは思っています。

No title

> あなたの意見を聞くと、やはり、0か100かという二者択一で物事を考えているように感じます
> 。それは、楽なのですが、世間は理想的にはならないので、次々と壁にぶつかってしまいます。
> 本会を辞められたそうですが、0か100かという思考をしていると会員を続けにくいのかなと感じます。例えば、本部に毎月> 何度も参詣できなくなったから、居づらくなり辞めるとか。

0か100かで物事を考えているのはそちらでしょう。「片っ端からかければ良い」とか。
私は仕事では基本100を目指しますが、できないときは90までやろう、80までやろうという考えです。

⇒そう思ってしまうのも仕方がないと思います。

ただ、あなたの周りに、よく本会のことを理解していて、違う道もあることを示せる人がいなかったのだと思います。

また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。

No title

> ただ念仏さえ称えていれば、他は何をやっていても往生できる

これで合っていますが何か? 念仏(の信心)の他に往生に何か必要ですか? 親鸞会のように因果の道理や何かを持ち出したりして廃悪修善(雑行)を勧めていたら会員はいつまでも獲信できません。
蓮如上人は無信単称や自力の計らいを誡め、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得なさいと仰っています。計らい無くただ念仏すれば往生する、これは正しいです。
念仏者の生活態度としては決して放逸無慚であってはなりませんが、我々の生活態度がどうかということと往生の信心は無関係です。

⇒繰り返します。蓮如上人が、例えば、

「しかれば、世の中に人のあまねく心得おきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称ふれば、極楽に往生すべきやうに思ひはんべり。それは大に覚束なきことなり。」

「ただ声に出して念仏ばかりを、称ふる人は、おほやうなり。それは極楽には往生せず」

のように「繰り返し」教えられています。

No title

> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。

言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。

また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

No title

>「しかれば、世の中に人のあまねく心得おきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称ふれば、極楽に往生すべきやうに思ひはんべり。それは大に覚束なきことなり。」

「覚束なき」とは不確かということで、不可ではない。

>「ただ声に出して念仏ばかりを、称ふる人は、おほやうなり。それは極楽には往生せず」

「おほやう」とは、大雑把ということで定まっていないことを言っているのであって、定まっていない状態では「往生せず」

のように「繰り返し」教えられています。

蓮如上人が仰っていることは、

「ただ念仏」と心が定まったことが真実の信心であり、定まっていないで雑行に心をかけたりする信心では「往生せず」

なんですが。

キミは文字を正しく読まずに「おほやう」に読んでいるから間違うのよ。

以下の蓮如上人のお言葉を読みたまえ。

「また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。」

No title

>はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

キミがハッキリするという根拠をあげたまえ。

キミの信心が崩壊するからさ。

Re: 名無し様

> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。

⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。

勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。

善知識への無条件服従ということにしてもそうです。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。


> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。

No title

> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。

⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。

勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。

善知識への無条件服従ということにしてもそうです。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。


➝あなたは分かっていないかもしれませんが、額が決まっているものに関しても免除制度はあります。入会にしても、会費にしてもそうです。あなたが言うお布施にしても事情があれば減額もしくは免除されると思いますよ。


組織に関しては、世間の組織のように規則はあるでしょう。しかし、それが不満なら、幹部にならなければ良いだけです。幹部で無ければ救われない本願ではありません。

No title

> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。

言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。

また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

➝信心そのものは、言葉ではあらわせません。

だから、あなたが書かれた「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありません。

信心そのものはあらわせないのですが、信心を説くことはできます。それが経典であり御聖教です。

つまり、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありませんが、それと同様に、大慶喜心や広大難思の慶心も信心そのものではありません。

また、信心を「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」と説けるように、信心を、大慶喜心や広大難思の慶心と説くこともできます。

あなたは「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。」と言われますが、それでは、なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。


また、なぜ時剋の一念と信相の一念を説かれたのでしょうか。

信心そのものを私たちに分別できません、また、時剋の一念そのもの、信相の一念そのものも分別できませんが、信心を頂くことによって、時剋の一念があること、信相の一念があることはわかります。


こういうことを考えた上で、あなたが言われることが、合点安心ではないかと危惧して、助言させて頂きました。再度考えられた方が宜しいかと存じます。

最後に根拠ですが、安心論題の中に「歓喜前後」というものがあります。
それをご覧いただければ少なくても歓喜については分かられると存じます。

もし、「歓喜前後」の内容が見当たらなければ、ネットでも検索すれば出てくる思いますので、お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。


すみません。「歓喜前後」ではなく、「歓喜初後」でした。

Re: 名無し様

> 幹部で無ければ救われない本願ではありません。

⇒面白いことを言いますね。幹部でも講師部員でも救われていないどころか、居眠り聴聞している人まで見受けられましたが。


結局根拠は出せないのですね。貴方が根拠もなく退会者を「合点安心」だとか非難していることがよく分かりました。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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