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寄り添う慈悲のましますことを俺は訴えたい

理想論者の方とのやり取りを通して、思い出したことがあります。あれはようやく最悪の繁忙期を脱した2017年1月のことでした。その日は日曜日だったのですが、前日の土曜日に私のエリアを回ったドライバーがしこたま未配こきまして(人員不足で仕方なかったのです)、私は前日分の荷物を謝りながら配達していました。その内、一人の女性客が怒って「そんな荷物は要らない」と言ってきたのです。私は「すみませんでした」と言って下がりましたが、内心思いましたね。1日遅れた位で要らなくなってしまうような荷物を注文するんじゃないよと。

女性客側からすると、本来土曜に届くはずだった荷物が日曜に届いたのですから怒るのも尤もです。人それぞれ自分の都合というものがあり、その女性客にとっては土曜に使うべき荷物だったのかも知れません。こちらも、きちんと人材が確保され、適正量の荷物であれば土曜の内に回れたのです。これが理想の形です。

しかし、現場は必ずしも理想通りにはいかないのです。人員を割くに割けず、前日のドライバーは本来2人で回るはずのところを1人で回らされたのです。後日聞いてみたら彼は「絶望しかなかった」と言っていました。私は現場に携わっていますからその意味が痛いほどよく分かります。現場経験のない方には理解不能でしょう。が、こういう過酷な現場で、いや、もっとつらい現場で働いている人もいるのです。

それを知ってか知らずか、あるいは職業を変えればいいんじゃないか、それができないなら自分が原因だと宣っているのは、ただの口先だけでその苦悩を共感し、自身の痛みとして寄り添うつもりが無いからでしょう。仏教は自利利他の教えと言いながら、この発言はとても利他の精神から出ているとは思えません。

確かにこれは正論です。ただ、正しいことと、現実に合っているかどうかということは違うのです。何も私だけではなく、今の職場で仕方なく働いているという方もあるでしょう。特に高齢になれば再就職のあてがなく、動くに動けない方だってあるはずです。私はまだ30代で辛うじて動けますが、子供もいる、家のローンもある、他にも何かとお金がかかります。以前に転職を試みましたが、事務職は書類選考で落とされ、面接にさえ辿り着きません。かといってバイト暮らしでは厳しいものがあります。皆それぞれ問題を抱えて生きています。自分で選んだ道とは言え、あるいは金のため、あるいは家族のため、あるいは夢のためと割り切って生活していることと思います。たとえ正しいことを言っていたとしても、それが現実に合っていなければ救いはないのです。


法然聖人がぶち当たった壁もそうでした。仏教は様々な教えがあるけれども、要は戒定慧の三学におさまる。ところが自身は戒定慧の器ものにあらず、とても愛憎の心を浄化し、生死へのとらわれを完全に脱却してさとるということはできない者だというのです。修行をすればさとれる。これは正論です。さとれないのはきちんと修行ができていないから。これも正論です。ただ、正しいことと、現実に合っているかどうかということは違うのです。現実に合った法でなければ救われません。法然聖人は、戒定慧の器でない自己に絶望されながら、それでも仏教の中に自身が救われる道を探し求めてゆかれました。そして、辿り着いたのがあの善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏 散善義』

の一文でした。称名念仏一行が往生の正定業だというのは、阿弥陀仏がそのように選び定めて下さったからだというのです。阿弥陀仏が戒定慧の器ものでないこの法然を見そなわして何としても救うてみせると称名念仏の一行を往生の行として決めて下さったのだから、そのおこころをその通り受け止めて念仏すれば必ず浄土に往生できるという道理を、この「順彼仏願故」の文にハッキリと読み取られたのでしょう。

「順彼仏願故」の文ふかくたましゐにそみ、心にととめたる也。『諸人伝説の詞』

このお言葉が、それを深く物語っています。法然聖人は、御年75歳にして流刑の苦難に遭われながらも、この衆生往生の道理を人々のために説いていかれました。


この法然聖人の教えを受け継がれた親鸞聖人は、公然と肉食妻帯されています。当時、というか本来は今もですが、肉食妻帯は仏教で言えば殺生、女犯、破戒という悪です。当時はまだ戒律を守り、修行に取り組む僧侶が少なからずおられた時代です。例えば法然聖人を攻撃した解脱貞慶上人は、どこぞのアニメではすごい悪役に描かれていますが、実は持戒堅固、真剣に菩提心を発して修行せんとする聖僧でした。『摧邪輪』を書いて『選択本願念仏集』を徹底的に批判した明恵高弁上人も持戒堅固のお方です。そんな折に、肉食妻帯を公然とされたというのですから大問題でした。それは、僧侶が公然と戒律を破る、また殺生、女犯をするという諸善の否定、言わばそれまでの仏教の否定を意味していました。

親鸞会では因果の道理、七仏通戒偈、十九願、定散二善等を根拠に「善の勧め」をしきりと宣伝していますが、親鸞聖人は言わばそれと正反対のことを、しかも公然とされたのです。親鸞聖人の教えに「善の勧め」があれば、こんなことは絶対にしないはずです。

別に肉食妻帯されなくても、またされるにしても公然とされなくてもよかったはずです。今までにも裏で肉食妻帯をしていた僧侶はいたのですから、自身だけでなく法然聖人や一門の方々への非難を考えれば、秘密裏に済ませる方がよかったでしょう。親鸞聖人は35歳で流刑に遭っておられますが、法然門下にはまだまだ60、70の先輩が多くおられたのです。そんな先輩方を差し置いて、たかだか入門して5、6年の青二才の聖人がどうして流刑に遭われたのか。法然門下での影響力もそうですが、やはり肉食妻帯を公然とされたことが聖道諸宗の逆鱗に触れ、こいつは勘弁ならんということだったのだと思われます。

法然聖人は持戒堅固、一生不犯の聖僧ですが、親鸞聖人は破戒堕落の僧として相当非難されています。仏教は廃悪修善の教えです、それを率先して悪を犯すなど、貴方は仏法者ではない。きっとこんな風に相当言われたことでしょう。そうなることは十分分かっておられただろうに、どうして敢えて公然と肉食妻帯されたのか。

理由は様々に考えられますが、一般の人と同じこと、肉や魚を食べ、伴侶を得て共に暮らし、子供を産み育ててゆくということを自身がされることで、阿弥陀仏の救いは出家も在家も、持戒の者も破戒の者も、殺生や女犯をして生きている者も関係ないんだということを示されたのだと私は思います。きっと理想論者、正論主義者であれば、悪を公然と犯して仏教が広まるとでも思っているのか、それは仏教の破壊行為だと、こう言うでしょう。しかし私は、親鸞聖人がご自分の生き様を通して、戒律も守れない、殺生せずして生きていけない淳心房のような者に寄り添って、必ず浄土に迎えて仏にして下さるのが阿弥陀仏であり、本願成就の南無阿弥陀仏だぞと教えて下さっているように思います。これが真実の仏教だと明らかにして下さったように思います。


私は別に親鸞聖人の真似をしているわけではないですが、愚痴の一つも言わずに生きていけない、常に仏に背き続ける悲しい存在である私に寄り添い、自身の痛みとして共感し、これを救いたもう如来の大悲を何とか知ってもらえないだろうかと思ってブログを書いています。それに当たり、自分の感情を偽ってもしょうがない、書ける部分だけではあるけれど、本音を出していこうと思って、敢えてそれを出しています。

別に文字数が増えるだけで、文章を考えるのも手間ですからはしょってもいいんです。またきれいごとばかり並べてもいいんです。お客様にご注文頂けて、そのおかげで生活させて頂けることに感謝して生きていますとか、そんなものいくらでも書けますよ。でも、確かに感謝している面はありますが、そればかりではありません。多すぎる荷物にうんざりしたり、度重なる再配達のすっぽかしにマジでブチ切れ5秒前とか、どうにもならない現実に四苦八苦、もがき苦しんでいることだってあるのです。

俺の人生はきれいじゃない、汗と脂にまみれたきったねぇ人生です。それをきれいに見せかけるのはウソです。そんなことをしても何より自分自身気持ちが悪い。なら、いっそオープンにして出せるところまでですが出していった方が反って潔いのではないかと思うわけです。そして、そんな風にしか生きられない俺みたいな者にも阿弥陀さまは格別のお慈悲をかけて下さっているんだと言う方が、きれいごとばかり並べるよりもより現実味を帯びた話として、また自分のこととして聞いてもらえるのではないかと思うのです。

正論ばかりで、寄り添う慈悲がないのでは救われません。正論では生きていけない世の中に、寄り添う慈悲のましますことを俺は訴えたい。書き方に注意しなければならないのは今回のことで学びましたが、日々の生活の中で思ったこと、感じたことは出していきます。それは慶びであったり愚痴であったり様々ですが、自分を飾って立派に見せかけるようなことはしません。

それによって一人でも阿弥陀仏の救いをほんまもんだと、実際に救われるということがあるんだと知って頂けたなら、書いた甲斐があったというものです。何が良い悪いかなんて、俺には正確に計れません。なんたって、俺は親鸞会が縁で親鸞聖人の教えに遇ったのですからね。

ただ、親鸞会は邪偽の教えを説いて会員の獲信・往生を妨げていますから糺さねばならない急先鋒であることは間違いありません。親鸞会教義の誤りを糾弾しつつ、他力の信心を通して知らされた世界を綴る。これが私のやるべきことの一つです。結果はどうなるか分かりませんが、まぁボチボチとやっていきたいなと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


そう言えば親鸞会は、言っていることは立派だけどやっていることがね・・・。名無しさんも、俺なんかよりまず先に、自分のした約束の一つも守れない高森顕徹会長にツッコミを入れるべきだと思いますが如何でしょう?

↓↓↓

『飛雲』退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会
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正月早々風邪を引いてしまいました。
しんどい、南無阿弥陀仏の南も出てこん。
愚痴だらけのとくよしみねです。
淳心房さん、がんばれー👊😆🎵

淳心房様へ

…いかに、《娑婆の問題と仏法の問題とを切り離して考えてしまう》
人の方が多いという事ですね…だから正論ばかりになって、
そこに《寄り添う慈悲》の入り込む余地とかあるかどうかですね。
池田勇諦先生(真宗大谷派)曰く、
「娑婆の問題の他に、仏法の問題なんてものがありますか?」
《私を取り巻く状況の真っ只中で、私自身の信心の在り方が問われている》
と気付く感覚が必要なんですね。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

コメント返信

とくよしみね様

それはお気の毒です。私も今は健康を取り戻しましたが、年末に胃腸炎にかかって苦しかったです。
出ないものは無理に出さなくてもいいですが、仏の本願ましますこと、如来の御恩を念うて心でなんまんだぶして頂くことをお勧めするです(^ω^)


まあち様

クレーマーさんの指摘通りだと思います。教義ではツッコめないからそれ以外の私の言動をツッコんでくるのでしょう。何回か会話を重ねて、彼がおおよそどのような人物か理解できてきました。
まぁ元来浄土教は大人の宗教なので、子供じみた理解の方々にはその真意が判らなくて当然です。特に高森顕徹会長は一生涯理解不能でしょう。

Abcです

みなさま

あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 さて、仰られるように親鸞は、「肉食妻帯」をされており、聖道各宗、ことに律宗、天台宗からは、「あのものは、仏法を全くわきまえていない不届き者である」といわれておりました。それであって親鸞は、「あの者たちを憎んではならない。哀れみの心、慈しみの心を持って接しなさい」を言われております。それは「源空聖人が伝えられたこと」でもありますが、なによりも「わたしたちはみな父母兄弟である」と言う心からでありましょう。みな「大悲の子」なのであります。

 「浄土教」をかいつまみますと、以下となります。
(⇔ は対義、↓は細分 です。)

浄土教 ⇔ 聖道教

 南無阿弥陀仏

信心、念仏

信心:大信(18願) 金剛信 摂取不捨の功徳利益 などともいわれる。
親鸞は、「つのるこころ」を顕されたとされ、蓮如上人は「信心をもって本とせられ候」と記されています。

また、浄土教では「弥陀より賜りたる信心」とされます。

念仏:大行(17願(18願)) 称名行 念仏行 希有の正行 ともいわれる。
源空は、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」ということを伝えるとともに、「義なきをもって義とす」つまり「私たちが今このようにして阿弥陀様について聞かれているのは、すべて阿弥陀様の縁であるのですよ」と伝えられました。ですから『選択集』には、

「南無阿弥陀仏 往生之業、念仏為本」 とされ「南無阿弥陀仏は往生の因(たね)であり、この御名を称えることを浄土教の基(もとい / 基本、もととなる考え)と為す」としるされております。

また、『正信念仏偈』には、「建立無上殊勝願」とされ、法蔵菩薩の時に、五劫のあいだ考え抜かれ「わが名を称えよ、われ汝を守らん」と「南無阿弥陀仏」という嘉号、無上殊勝願を建立されました。源空や親鸞はこの「南無阿弥陀仏」を「弥陀・釈迦二尊の召し」、「弥陀の回向(他力回向)」、「弥陀のおん計らい(弥陀の誓い)」とされております。

 おわりに
今年、最初の挨拶とはなりますが、私なりに記してみました。
まだ、拙い部分があり、私の思わぬところ、至らぬところがこの文章を読まれる方に突き刺さるやも知れませんが、今後ともよろしくおねがいします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

あけましておめでとうございます。こちらこそよろしくお願い致します。

>みな「大悲の子」

有難いお言葉ですね。淳心房のような者を我が子と仰って下さるとは、如来の底知れぬ大悲に涙こぼれます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

愚者

淳心房さんやAbcさんの書き込みは、突き刺さりますよ〜。有り難いですね。愚者になりて往生す。ですね。なむあみだぶつ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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