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「一向専念無量寿仏」や「雑行」の意味くらい押さえてから物を言いましょう

相変わらず自称「元会員」やその他のコメントが続いています。相手をして下さっている元カルトさん、お忙しいところありがとうございます。非常に的確なコメントで、負け惜しみしか言えない相手の反応は実に滑稽です。私がネットを閲覧できる時間が限られているので、大変助かります。この場を借りてお礼申し上げます。


さて、愚かなコメント群の中で彼の無知、誤解ぶりとその正しい意味について紹介していきます。まずは、

――――――――――――――――――――
よき人のおうせ

釈迦 一向専念無量寿仏

親鸞聖人 一向専念無量寿仏

高森会長 一向専念無量寿仏
2019-01-12(14:08) : 元会員

――――――――――――――――――――

というコメントに関してです。「一向専念無量寿仏」の意味すら知らないようなので再度取り上げます。なお、詳しくは以下の記事に書きましたので、そちらも参照して下さい。

「一心一向に弥陀をたのむ」=「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」


一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。(中略)

すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択本願念仏集』三輩章 廃立

親鸞会では「一向専念無量寿仏」と煩いわりに

阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を捨てて、阿弥陀仏一仏に向かうこと

だと思っている会員ばかりです、それは誤りも甚だしいです。

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向」ですから、

阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神に加えて、諸行諸善を捨てる。弥陀一仏の悲願(18願)に帰し、往生行にはただ念仏一行を専修する

ことを「一向専念無量寿仏」というのです。

一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる

ということです。高森会長のように、宿善が厚くなる方法として「五正行の実践」「六度万行の実践」とか言って助正間雑雑行をやらせていたら、「一向専念無量寿仏」どころかその真逆です。そしてその実態は聞邪義、弘宣邪義、献金、服従といった「高森の行」ですから、そんな高森教の邪義を盲信している会員がいつまでも「一向専念無量寿仏」できないのはごく自然のことです。


このことを知らないばかりか、雑行に関しても相当に無知なようで、次のような愚かなコメントをしています。

――――――――――――――――――――
雑行に二種有るの知らないみたいね!現役カルトさん
2019-01-12(17:25) : 元会員

――――――――――――――――――――

元カルトさんのご説明通りですが、こちらも聖教のお言葉を挙げておきます。

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。

第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。
第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。
第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。

このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。
『選択本願念仏集』二行章

雑行」=「正助二行を除きてのほかの自余の諸善

です。「雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず」、雑行は無量にあり、ことごとく説き尽くすことができないというのです。それで、例として五種の正行に対して五種の雑行が説かれているのです。雑行の中に五雑行と諸善万行とがあるとか、五雑行は心も行為も間違いだが、諸善万行はやらねばならないというものではなく、無量にある「雑行(諸善万行)」のほんの一例が「五雑行」で、往生行としては共に捨てるべき行ということです。

そして、挙げた最後の文に着目です。

布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

高森会長が「六度万行の実践」だとか言って勧めている「布施」や「持戒」も「雑行」だというのです。ですから、高森会長の教えはよくて雑行の勧め、実態は雑行にもならない悪業悪行の勧めということが明らかです。こんなもの、浄土真宗でも何でもありません。浄土真宗と名乗らず、高森教とでも改名すべきです。


「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


雑行について

親鸞聖人 五正行以外の全ての諸善万行。五雑行と共に往生行としては捨てるべき行
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 五雑行と諸善万行とがある。五雑行は心も行為も間違いだが、諸善万行はやらねばならない




一向専念無量寿仏」や「雑行」の意味くらい押さえてから物を言いましょう。なおも恥の上塗りをしたいのならどうぞご勝手に。これによって親鸞会教義の誤りに気付いてくれる会員がいれば、喜ばしいことです。彼のコメントは他にもツッコミどころ満載なので、時間があれば他のコメントに関してもツッコんでいきたいと思います。
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Re:淳心房さん 元カルトさん

おはようございます。Abcです。

>○「一向専念無量寿仏」について

>親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
>- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
>高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

>○雑行について

>親鸞聖人 五正行以外の全ての諸善万行。五雑行と共に往生行としては捨てるべき行
>- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
>高森会長 五雑行と諸善万行とがある。五雑行は心も行為も間違いだが、諸善万行はやらねばならない

端的なまとめ、ありがとうございます。 こちらにて少々手を加えさせていただくことご了承ください。

○「一向専念無量寿仏」について

 「一向」といふは「ふたごころなく」と釈したまへる意なり。「専念」といふは、「もっぱらかの仏を念ず」といへる意なり。これ、「雑念」、「雑修」に対することばなり。「無量寿仏」といふは、われらが後生の一大事安く摂め取らんとする、阿弥陀仏のおん名なりけるは、『正信念仏偈』においては、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と釈したまへり。これすなはち、「南無阿弥陀仏」のおん名のこころ、ひとつも違へざるべきものなり。

 「一向」といわれるのは「ふたごころなく」といわれていることである。
 「専念」といわれるのは「専ら阿弥陀様をおもうこと」といわれることである。
このことは、「雑念(ほかの事を思い浮かべること)」や「雑修(ほかの行いをされること)」に対する言葉である。
 「無量寿仏」といわれるのは、わたしたちの後生の一大事を安く(易く)たすけていただける阿弥陀様のお名前でありますから、『正信念仏偈』では、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と記されている。このことは「南無阿弥陀仏」のいわれと一つも違うところはないのである。

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

「諸善を廃して念仏1つになること」は私も言っている「18願のこころ」であり、聖道の方たちから非難されている箇所でもあります。このことは親鸞の話を聞かれたとされるものが、

「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」『歎異抄』(『真宗聖典』P.640)

と記されております。「ただ念仏のみぞまこと」、くどいようですが、「念仏一つで摂め取られる」ということが、源空聖人(法然上人)や親鸞の生涯一貫した教えであります。この「念仏」は、「世を超えた御誓い」ともいわれますから、「横超の機」、「超世の悲願」、「超日月光」ともいわれます。

 一方、高森さんの言われている「阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む」ということは「横出の機」つまり「疑城胎宮往生の因(たね)」でありますから、果たすべき場所は「化身土往生」であります。前にもあげましたが、このことを源空聖人は、

源空聖人『選択集』
「しかるをいま『観経』の流通分に至りて、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属流通せしむるちなみに、観仏の法を嫌ひてなほ阿難に付属せず、念仏の法を選びてすなはちもつて阿難に付属したまふ。 観仏三昧の法、なほもつて付属したまはず。いかにいはんや日想・水想等の観においてをや。

 しかればすなはち十三定観は、みなもつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ひて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願を乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者よろしく商量すべし。」

と言われております。

 末筆とはなりますが、お時間が許すのでありましたらご一読のほど、よろしくおねがいします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

御文章2帖目第9通との関係は?

御文章拝読すれど・・・ちょっこし

信心あってのお念仏やぜ~

念仏一行???
君ら知った上で言っとんが?

念仏(他力の信心獲得した)一行
ということを

No title

断章取義の親鸞会

2帖9通の外典の後には

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。

諸行諸善に心を留めるな

とあるんだよね。
これが一心一向

キミの頭では無理か?

当然じゃん!一心一向になったなら

君らも当然でしょ?なんちゃって他力の信心獲てるから・・・違った(笑、なんちゃって念仏でしたね♪

No title

>当然じゃん!一心一向になったなら

ここが愚かなところ。

一心一向になったら諸善を捨てることができると考えているなんて、高森教だけの超珍しき教え。

高森教の矛盾を突く簡単な話をしようか?

三願転入するということは19願から20願に入るわけだが、20願とは「ただ声にいだして」の念仏一行なんだな。
諸善が混じらないのが20願。
高森教祖も書いているだろ、20願は「一心不乱」。念仏に一心不乱なのよね。

だから、少なくとも20願に入った段階では、すでに諸善に心をかけず、になるの。

体験至上主義の高森教にとっては矛盾しようがお聖教になかろうが関係なく、空想の体験を語るだけ(笑)

No title

〉信心あってのお念仏やぜ~

「自分」は信心決定してから称えれば「いいのだ」と思って
南無阿弥陀仏を遠くに夢見ている人は無帰命安心です。 
善だ、善だと、
南無阿弥陀仏を遠くにも夢見ていない人はもっと悲惨です。

諸善をすてるなんて・・・誰も言って無いがやけど・・・

親鸞会のSの字も知らん輩だこと(笑

親鸞会で三願転入おききしても、そんな話聴いたことないww

勝手に創るなww元元もともとオカルト

Abcです

なかなかに面白くなってきましたね。

>諸善をすてるなんて・・・誰も言って無いがやけど・・・
>親鸞会のSの字も知らん輩だこと(笑

それを言われたのが源空聖人であり親鸞であります。
もっといいますと、「第四の称名正因」と言われている本願寺覚如、
「ふたごころなく」といわれている本願寺蓮如も「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。」つまり「捨自帰他」といわれています。
 あなたは「おつとめ」にてその箇所を何度も何度も読んでいるのでしょう?これこそ高森さんがいわれるところ「論語読み、論語知らず」であります。

まぁ、その「本願寺の教え(善のすすめはない)」というものが「間違った教え」と説かれている「高森の教え」の教義が「諸善万行をせよ」なのでありましょう。そこまで「六度万行」を修めるのでしたら、「六波羅」について学んで観てはいかがでしょうか。 もっとも、その「六波羅蜜」は「真宗の教え」ではありませんが。

Abc

No title

断章取義の親鸞会

2帖9通の外典の後には

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。

諸行諸善に心を留めるな

とあるんだよね。
これが一心一向

キミの頭では無理か?
2019-01-13(11:11) : 元カルト URL : 編集

No title

 ↑ ↑ ↑

ということで、上記のコメント通り。
信前に念仏一行となるってことで、信前に善を勧めること自体無意味。

以上最終結論でした。

Re:元カルトさん

こんにちは、Abcです。

>さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。

南無阿弥陀仏といへる行体:「一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も全て入っている 名号法」 または 仏のはからいにてあらせられる「自然法爾」ともいわれる。

>ということで、上記のコメント通り。
信前に念仏一行となるってことで、信前に善を勧めること自体無意味。

いえ、こちらも少し違いますね。「信前に念仏一行となる」はあっていますが、
「信前に善を勧めること」だけでなく「信後に善を勧めること」ひいては「浄土教のかたに善を勧めること」自体が無意味であります。なぜならば、「真宗」とは「南無阿弥陀仏」であり「弥陀のおん計らい(自然法爾)」であり、「行者の計らざる御計らい(不回向の行)」であるからであります。

裏づけとしまして『正信念仏偈』より、
「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

 綽和尚は聖道の証がたきをあらわされ、 ただ浄土のみを通入すべしと明かされた
 よろずの善が自力の行いにて修めるものであると貶され(貶勤修) 弥陀の名号(円満徳号)を専ら称えることを勧められた」

また『和讃』より
「助正ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし (浄土高僧和讃(高僧和讃))

助業(称名以外の四種)と正業(称名)を並べて行うことは 即ち雑修となづけられる
 「ふたごころなく」のこころに叶わない行人であるから、 阿弥陀様に報いようとするこころもないのである」

「こころはひとつにあらねども 雑行・雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり(浄土高僧和讃(高僧和讃))

意味こそ一つではないが、雑行・雑修は共によく似ている
 浄土の行(念仏 正定業)ではないから、 まとめて「雑行」と名づけるのである」

ですね、どれも「捨自帰他」であります。

これらの文にギモンをもたれましたら、その旨お伝えください。
よろしくお願いします。

Abc

Re: 元会員様

> 諸善をすてるなんて・・・誰も言って無いがやけど・・・

・いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。
・すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。
・第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふ
・諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。
・浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。

『選択本願念仏集』にはこれでもかというほど「諸善を捨てよ」と書かれているが、読んだことないの? まぁ『教行証文類』もまともに読んだことの無い会長の教えを受けているんだから当然か。

ちなみに親鸞聖人はこの『選択本願念仏集』を絶賛されているんだな。

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。

【現代語訳】
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

もう少し教えを学んでから物を言いたまえ。

Re: 元会員様

> 親鸞会で三願転入おききしても、そんな話聴いたことないww

『なぜ生きる2』でも熟読してみたら?
高森会長の意図は19願の勧めで、諸善、とくに布施行を捨てられちゃ困るから言わないだけ。いつまでも万行諸善の仮門、じゃなかった、外道邪偽の異執に押し留められて哀れ哀れ。

No title

Abcさんへ

>「浄土教のかたに善を勧めること」自体が無意味であります。

真宗の立場では、これで良いですが、浄土宗では諸行往生を目指している人もありますし、善導大師も観念法門を顕わされていますし、やや言い過ぎかと。

Re:元カルトさん

こんばんわ、Abcです。

>真宗の立場では、これで良いですが、浄土宗では諸行往生を目指している人もありますし、善導大師も観念法門を顕わされていますし、やや言い過ぎかと。

ふむ・・・「言い過ぎ」でしたでしょうか。
それでは、「浄土宗では諸行往生を目指している人」と「善導大師も観念法門を顕わされています」について、少し論じましょう。

まず、
・浄土宗では諸行往生を目指している人 について、『新纂浄土宗大辞典』には、

「しょぎょうおうじょう/諸行往生
口称念仏以外の行法で往生を遂げること。余行往生・万行往生ともいう。念仏往生の対となることば。『無量寿経』に説かれる第十九来迎引接願・第二十係念定生願での諸行(諸功徳・諸徳本)や三輩段での念仏以外の行業による往生や、『観経』に念仏と諸行が並説されていることなどに基づいて、浄土各門流の議論の対象となっている。法然は『選択集』二において道綽と懐感の説をあげ、極楽往生を念仏往生と諸行往生の二通りに分類し、念仏往生を「百即百生」の行として採用し、諸行往生を「千中無一」として退けている。
(中略)
隆寛は諸行往生を認めるが報土ではなく辺地に生ずるとしている。証空の西山義では諸行往生を認めない念仏一類往生・諸行不生義を唱えており、真宗では諸行は回向をもちいることで第十九願に乗じて往生は可能とするが、それはあくまで方便化土への往生となるとしている。良忠は、『決疑鈔』二において、摂機の願に乗ずることで諸行も往生行とはなるが、「諸余の行は本願に乗ずと雖も本願の行に非ず」(浄全七・二三四下~五上)と述べ、あくまで諸行は非本願であると解している。」
リンク:http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E5%BE%80%E7%94%9F

とあります。この文献によれば「法然門下の長西は、念仏・諸行の両者に優劣は無いと主張する諸行本願義を説き」と確かに「念仏・諸行の両者に優劣は無い」といわれておりますが、先に淳心房さんがあげられた、『三選の文』のなかにて、

源空聖人『選択集』ー『三選文』
 「はかりみれば、
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

この太字下線の箇所にて「しばらくもろもろの雑行を抛てて」とございますから、私は「浄土教のかたに善を勧めること」自体が無意味であります。と致しました。

・善導大師も観念法門を顕わされています につきましては、
善導大師『観念法門』
「道場の なかにおいて、昼夜に心を束ね、相続して専心に阿弥陀仏を念ぜよ。心と声と相続して、ただ坐し、ただ立し、七日のあひだ睡眠することを得ざれ。また時によりて仏を礼し、経を誦すべからず。数珠もまた捉るべからず。ただ合掌して仏を念ずと知り、念々に見仏の想をなせ。」(入道場法 より)

「また行者等もしは病み、病まざるも、命終せんと欲する時、 もつぱら上の念仏三昧の法によりて、身心を正当にして、面を回らして西に向かへて、心もまた専注して阿弥陀仏を観想し、心口相応して声々絶ゆることなく、決定して往生の想華台の聖衆来りて迎接する想をなせ。」

と記されていますが、師である源空聖人(法然上人)の宗とするもの(浄土宗)の書物である『選択集』には、

源空聖人『選択集』
「善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。

 『観経疏』の第四(散善義)にいはく、「行につきて信を立つといふは、しかも行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり正行といふは、もつぱら往生の経によりて行を行ずるもの、これを正行と名づく。いづれのものかこれや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す。これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきて、また二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。(乃至)次に合を二種となすといふは、一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。
すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といふこれなり。
次に助業は、第四の口称を除きてのほかの読誦等の四種をもつてしかも助業となす。すなはち文(同)に、「もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす」といふこれなり。
 問ひていはく、なんがゆゑぞ五種のなかに独り称名念仏をもつて正定の業となすや。
答へていはく、かの仏の願に順ずるがゆゑに。意はいはく、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。ゆゑにこれを修すれば、かの仏の願に乗じてかならず往生を得。その仏の本願の義、下(本願章)に至りて知るべし。」

以上示されているが、そのなかでも「初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といふこれなり。」

と示されております。ですから師 源空聖人(法然上人)の教義では、「「浄土教のかたに善を勧めること」自体が無意味であります。」となります。

各々文献を示しましたゆえ、少し長くなりましたが、以上のように私は心得ております。 ご指摘ありがとうございます

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

Abcさんがそのように味われているなら、それでよろしいのではないでしょうか。

御文章よくよく拝読してから物を言いましょう

No title

>御文章よくよく拝読してから物を言いましょう

よーく拝読しましたが、何か?
キミ程度の脳では、反論は無理なんですよね。

Re: 元会員様

それはこっちのセリフ。自分が正しいと思うなら、御文を挙げて正しい解釈を披露してみなさい。

諸善をあてちからにしている時は一向専念無量寿仏になっていない

Re: 元会員様

諸善を信心決定するのに関係あると思ってやっているあなた方は一向専念無量寿仏になっていない。実際は高森教の組織拡大活動ばかりだから、ほとんどは諸善でもないけどね。

「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」

貴殿方の信仰では

一向専念無量寿仏に五正行ははいるが?

Re:元会員さん

おはようございます、Abcです。

>貴殿方の信仰では

>一向専念無量寿仏に五正行ははいるが?

さようですね、私たちの信仰には「五正行」ははいりますが、それは同時に「善のすすめではない」ということにもつながります。
 以下、簡単にですが記しておきます。

自余の善根:雑行 雑修 19願の機(横出の機) ←あなたが言われている「善のすすめ」とはこちらになります。

五正行:正しい5つの行い 正定業と助業に分かれる 「称名念仏」のみを正定業とし、外の四種を助業とする これらに自力を交えた場合、20願となり、他力に任せた場合18願となるが、下記のように「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といわれており、助業とあわせて行う人を「雑修のもの」といわれ嫌われている。

以下に【参考文献】を示したので、ご一読いただきたい。
Abc

【参考文献】
源空聖人『選択集』 (再投) 「正行」を青色、「雑行」を赤色とした。なお緑色は「五正行」ではあるが、正定業ではないもの、つまり助業とする。
 助業については、『選択集』の下の文献をご覧いただきたい。

「善導和尚、二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。

 『観経疏』の第四(散善義)にいはく、「行につきて信を立つといふは、しかも行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生の経によりて行を行ずるもの、これを正行と名づく。いづれのものかこれや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称しもし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す。これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきて、また二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。(乃至)次に合を二種となすといふは、一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。
すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といふこれなり。
次に助業は、第四の口称除きてのほかの読誦等の四種をもつてしかも助業となす。すなはち文(同)に、「もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす」といふこれなり。
 問ひていはく、なんがゆゑぞ五種のなかに独り称名念仏をもつて正定の業となすや。
答へていはく、かの仏の願に順ずるがゆゑに。意はいはく、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。ゆゑにこれを修すれば、かの仏の願に乗じてかならず往生を得。その仏の本願の義、下(本願章)に至りて知るべし。」

親鸞『浄土高僧和讃』(『高僧和讃』) (再投)
ならべて修するをば すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば 仏恩報ずるこころなし

助業(称名以外の四種)正業(称名)を並べて行うことは 即ち雑修となづけられる
 「ふたごころなく」のこころに叶わない行人であるから、 阿弥陀様に報いようとするこころもないのである」

「こころはひとつにあらねども 雑行雑修これにたり
 浄土の行にあらぬをば ひとへに雑行となづけたり(浄土高僧和讃(高僧和讃))

意味こそ一つではないが、雑行雑修は共によく似ている
 浄土の行(念仏 正定業)ではないから、 まとめて「雑行」と名づけるのである」

No title

いきなり五正行とは。

ということは少なくとも雑行に関しては一向専念無量寿仏にははいらないとみとめたわけだ。

高森会長 一向専念無量寿仏に雑行は入る

これを完全否定したんだな否定したんだなp

No title

さすがカルト高森教の現役信者だ(笑)

まず
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「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」
2019-01-14(07:08) : 淳心房 URL : 編集
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という意見に対して

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貴殿方の信仰では

一向専念無量寿仏に五正行ははいるが?
2019-01-14(07:27) : 元会員 URL : 編集
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と返したのだが、この時点でアウト。

真宗において「諸行」「諸善」「万行」とは、雑行を意味しているので、

「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」
             =「雑行を廃してただ念仏を用いる」

ということで、正行は入っていない。
にも関らず正行を無理やり入れた理由は、

○「一向専念無量寿仏」について

高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

これを完全な間違いと認め、最終的かつ不可逆的な結論となったんだよ。


因みに助業は、正業と近しい関係にあるから、助ける業、と言われ、念仏に付随するということで、念仏に含めて言われることもあるが、助業に心が掛かっているとそれは雑修となるので、捨てよになる。

あくまで念仏一行で、そこに念仏に付随した助業は認めるが、付随しないで、念仏と同列だったり単独では認めないのが真実の信心。

カルトの信者には関係ない話だね。

元会員さんと合意に至った最終かつ不可逆的な結論

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○「一向専念無量寿仏」について

高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

は完璧な間違いである。
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Re:元カルトさん

こんにちわ、Abcです。

>元会員さんと合意に至った最終かつ不可逆的な結論

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
○「一向専念無量寿仏」について

高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

は完璧な間違いである。
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(元カルトさん)

この結論になっただけでも、仰られているとおりでありますから、元会員さんとの論は締結したと観るべきでしょう。

以前は
・「五正行」の実践
・「六度万行(諸善)」の実践
・「念仏」だけでは助からない
 という3つが、

 ↓「五正行」と肯定したことにより

○・「五正行」の実践 ※今回の命題
・「六度万行(諸善)」の実践 ※雑行と認めたため
△・「念仏」だけでは助からない ※今回の命題では「○」とはしがたいが、「第四の口称」にて含まれているため 「△」とした

となります。これにて「善のすすめ」が否定されたこととなります。

Abc

補足

連投申し訳ございません Abcです

>△・「念仏」だけでは助からない ※今回の命題では「○」とはしがたいが、「第四の口称」にて含まれているため 「△」とした ←これは「高森の説では」であり

真宗では
△・「念仏」だけでは助からない ※今回の命題では「×」とはしがたいが、「第四の口称」にて含まれているため 「△」とした

です。私が観ても「疑問に思われるだろうな」とおもい補足を入れさせていただきます。ご了承ください。
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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