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先生への質問、質問の経緯及び考察、まとめ

今日は富山で高森顕徹会長の座談会の予定でしたが、来週に延期だそうです。延期の理由について、コメントは「無し」とのことです。今後ますます高森会長の話の機会が減ってゆくだろうという飛雲さんの見解通りです。

ところで、昨日の記事で扱った理想論者のコメントと、更に寄せられた彼のコメントにツッコミを入れていきたいところですが、それは次回以降にします。今回はちょっと話題を変えます。


今日は、あさ川さんのブログに紹介されているように埼玉県熊谷で阿部信幾先生による「埼玉恵日会」があります。去年の年末にこの記事にて、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているかいないか

について教義に関する解釈において意見の食い違いから論争のような感じになってしまったと書きましたが、その相手はコメント欄を見ればお判りのようにRCさんです(;´・ω・) その元は、阿部信幾先生の

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない。強いて「称えよと仰っている」と言うなら、お釈迦様が仰っている

というようなお話からです。それで何回かこのことについて質問をして取り上げて頂いたのですが、今一つ先生のお答えでは納得できないところがありましたので、新たに質問文と私なりの見解をRCさんに送付致しました。今日の「埼玉恵日会」でお答え頂けるかどうかは分かりませんが、とにかく今のところ伺う予定です。もし会場で子連れ狼を見かけたらそいつは淳心房だと思って下さい(笑)

なお、質問文と私なりの見解は以下の通りです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
【質問】
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と教えられた聖教の根拠を教えて下さい。また、今までの和上様方、先生の師匠である桐渓順忍和上、稲城選恵和上のお言葉でも結構です。そのように仰った根拠を示して下さい。

【質問の経緯及び考察】
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」

と先生が発言されたことについて、今までに

・念仏往生の立場からは「仰っている」だが、平生業成の立場からは「仰っていない」
・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

等とお答え頂きました。この説明で納得されている方もあるのでしょうが、私は納得していません。なぜなら、今までにそのように教えられた聖教の根拠が全く見当たらないからです。その逆に、本願の説明に念仏をハッキリと打ち出し、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と教えられた根拠なら沢山見つかります。

●願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。(曇鸞大師『浄土論註』)

●〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。(善導大師『往生礼讃』)

●いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。その文、はなはだ多し。
(中略)
三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(源信僧都『往生要集』)

●弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。
『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。(法然聖人『選択集』本願章)

●「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(親鸞聖人『尊号真像銘文』)

●尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは 詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。(親鸞聖人御消息『末灯鈔』12通)

このように、どなたも本願文の説明に念仏を抜かしておられません。それどころか、善導大師に至っては大事な信心を抜かして念仏のみで本願を語られています。

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」どころか、その真逆です。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」からこそ、その本願が成就してはたらいているからこそ、私達の上にお念仏が出ているのです。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なら、その本願が成就してはたらいていても、私達の上にお念仏は出ないでしょう。

こう言いますと、これらの御文は念仏往生の立場だからだと言われそうですが、親鸞聖人の領解は念仏往生です。それと信心往生の両面が見られるというだけです。

●浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり(一念多念証文)

親鸞聖人が明確に「如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふ」「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」と仰っているのに、それを否定するようなことを言うのは浄土真宗の先生としてどうなのかと私は思ってしまうわけです。

そもそも、念仏という行から証へと直接する法門が念仏往生というのに対して、念仏の信を別開して信から証へと直接する法門が平生業成なのであって、両者はまったく別物ではありません。この関係は、法の面から阿弥陀仏の救いを言われたのが念仏往生であるのに対し、機の面から阿弥陀仏の救いを言われたのが平生業成ということもできましょう。法の側からしたら、往相回向の大行、不回向の行である称名念仏によって往生し成仏する。これを機の側からしたら、大行たる念仏、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受した信心により往生し成仏する、という関係です。

他力の信心、真実の信心と言いますが、それは念仏の信心です。念仏と無関係な信心ではありません。だから、信心獲得を勧めるイコール念仏を勧めるです。信心だけ勧めて念仏は勧めないなんてことはあり得ないです。念仏の勧めは当然なんです。称えても称えなくてもいいとか、称えないよりは称えた方がいいとか、そんな曖昧なものじゃありません。「念仏を称えよ」は仏の本願なんですから。なので七高僧方、親鸞聖人は真実の信心と念仏の両方を勧めてこられました。

それで、その念仏のこころはというと、それが「我にまかせよ」です。称えよと言われるお念仏は、阿弥陀仏の願いのお念仏です。しかし、これをたいがいは私の願いと聞き誤るんです。私が南無阿弥陀仏と申しますからどうぞお浄土へ連れていって下さいという願いだと。念仏を救いの取引条件とし、称功を認めようと計らう。

そうではなくて、この念仏、今お前が称えている南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏がお前に向かって「我にまかせよ」と喚んでおられる声なんだというのです。念仏に称功を認めず、我が計らいをまじえず、ただ如来招喚の声として聞く。私の口を借りて「助けるぞ」と喚んでおられる声だと聞く。そう聞いたままが信心です。その信心の必然として称名が出てきます。その称名は御恩報謝でありまた如来招喚の声です。

称えるままが聞く、聞くままが信ずる、信ずるままが称する、これが念仏、南無阿弥陀仏です。この念仏、南無阿弥陀仏が回向され、私にはたらいている。だから私は南無阿弥陀仏を称え聞き、「我にまかせよ」と仰せのままに弥陀をたのむ。私達がお念仏申しているその元には「念仏を称えよ」と仰っている本願があり、その本願の通りに成就した南無阿弥陀仏があるのです。

【まとめ】
「念仏を称えよと仰っている」本願が成就してはたらいているから、私達はその通りにお念仏申している。
「念仏を称えよと仰っていない」本願なら、成就してはたらいていても私達の上にお念仏は出ない。
「念仏を称えよ」は仏の本願。念仏のこころは、「我にまかせよ」。

このようなことで、私は「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と主張します。もし先生が聖教の根拠も、和上様方のお言葉も示さずにあくまで「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と主張されるなら、それは先生独自の説として理解します。以上、よろしくお願いいたします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

もし先生が、我々の自力疑心を誡め、本願力回向の信心を勧めようとして

自力念仏、計らいの雑じった念仏を称えよとは仰っていない
往生の取引条件としての念仏を称えよとは仰っていない

と言われたのだとしたら私はすぐに納得しますが、そうでない限りはたとえ本願寺派の輔教という、司教に次ぐお立場の方の話であっても私は納得いかんです。私が異端なのかも知れませんが、浄土真宗で念仏と言えば往相回向の行、不回向の行なんだから他力念仏に決まっています。阿弥陀仏が他力念仏を称えよと仰っていないなら、浄土真宗はお念仏の教えでも何でもないじゃないかと思ってしまうわけです。

本願の念仏は、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった最高の仏道です。浄土真実の行、選択本願の行です。確かに本願のはたらきを「行」と言いますが、その本願のはたらきにより称えられる念仏もまた「行」です。

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(「総序」)
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(「行文類」)


親鸞聖人がこう仰るからには、その根底に阿弥陀仏の勧めがあるからでしょう。

私としては、本願力回向と今の救いを説かれる先生であり、博識で話が大変上手であり、御恩報謝ということを教えて下さったという点で御恩のある先生の御一人なのですが、この発言だけは頂けないです。先生がどのような意図であのような発言をされたのかも含めて、伺いたいところです。
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阿弥陀様が「我が名を称えよ」といわれていることについて

淳心房さん、RCさん 各位

前略、阿部信幾和上における、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」に関しまして、わたくしは「否:阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と説きます。

まず、根本となる「第十七願」について、顕させていただきます。

 十七願
 「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。」

 「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行(17願)あり、大信(18願)あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。 
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり
すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。」親鸞 『教行証』大行釈

また、本文中にございます、「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」とございますように「名号をとなへる」すなわち「念仏称名」こそが、宗となります。先に論拠として示しました源空聖人の『選択集』

『選択集』三選の文
 「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」といわれている箇所をご覧になられても結構かと存じます。

「いやいや、ここにある『仏』とは、「釈迦仏の召し(すすめ)」である、」といわれるのでしたら親鸞が「釈迦・弥陀 二尊の召しにあひかなひたる」とは申されないでしょうし、同書 王本願の箇所にて

『選択集』王本願
 「ゆゑに知りぬ、四十八願のなかに、すでに念仏往生の願(第十八願)をもつて本願中の王となすといふことを。ここをもつて釈迦の慈悲、特にこの経をもつて止住すること百歳するなり。例するに、かの『観無量寿経』のなかに、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属したまふがごとし。これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。」

の箇所においても明かかと思います。
 よって、「阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない」に関しましてrはRCさんの言われているように、
 「念仏を称えよ」は仏の本願。念仏のこころは、「我にまかせよ」。 であります。

ここで、根本的なことを記しておきますが、
 帰命尽十方無碍光如来 (十字名号)は、

 帰命 尽十方無碍光 如来 であり、
意は「尽十方無碍光如来 に 帰命 したてまつらん」となります。

この「帰命(南無)」は「稽首したてまつる」とも釈されることがあり、今で言う「おじぎをする」ということであります。

 これら名号を「帰せよの命」と懇ろに申され、また師である源空聖人の「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。」とあることからも明らかでありますが、「真宗」において「称名念仏」とは今申し上げた限りであります。

 しかし、「信」のみである、ということに固着しすぎますと、
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
「念仏ないから、信心ひとつ」 となってしまいます。
  誠に悲しい限りであります。

なもあみだ、なもあみだ -弥陀の召しが、全ての念仏者に届くことを願ってー
Abc

No title

推測です。間違っていたら申し訳ありません。
阿部先生の主張される称名報恩は
蓮如上人が、ただ念仏を称えれば救われると思っていた当時の人びとに
強調される教えだったのだと思います。
今も多く存在するそういう人に対して強調されるべき教えなのでしょう。

そして、あえて言えばお釈迦さまがそうおっしゃっている、とおっしゃった時点で淳心房さんの主張をそのまま受け入れられているのだと思いました。
思い出すのは、西方指南抄の親鸞聖人のお立場です。
これが親鸞聖人の教えなのかと思うことも、法然聖人の教えとして受け入れておられます。何となくですがそのように感じました。曖昧なものの言い方で申し訳ありません。

淳心房様

いつも真偽検証を拝見し、阿部先生のお話を聴聞させていただいてる人間としては今回のお話はハラハラとして見ております。

私の聞いている限りでは阿部先生が
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
と仰っている印象はありません。念仏の話をされるときは「法然聖人と親鸞聖人の本願の教え方の違い」「蓮如上人の時代の念仏往生のとらえ方」という話をされます。特に蓮如上人は時宗の一遍上人のように「念仏を称えされすれば…」という人たちに対抗して「信心正因 称名報恩」を前面に出されたという言い方をされます。これは愚愚流様もご指摘されている通りです。

今日、阿部先生より直接お話が聞けたら誤解のような物がわかるのかと思います。また、こちらでご教示いただければ幸いです。(それまでハラハラが続きそうですが)

Re:愚愚流さん

こんにちは、abcです。

>『西方指南抄』の親鸞聖人のお立場です。
これが親鸞聖人の教えなのかと思うことも、法然聖人の教えとして受け入れておられます。何となくですがそのように感じました。曖昧なものの言い方で申し訳ありません。

『西方指南抄』におかれましては、『教行証』とともに世に広めなければならなかったのでありますが、「叡山のこと」「善鸞のこと」などがあり、長らく専修寺宝物殿の中に収められておりました。この文献があることが広められたのは江戸時代のことでありますか、それまでは『選択集』がその座を担っておりました。(その流れから、いまでも『選択集』を論拠となされる和上もおられます。)

本願寺はことに「親鸞聖人の教え」と「七高僧の教え」の区別化を計ろうと行いますが、親鸞の教え も 源空の教えも 「念仏称名」でありますから、「これこそ親鸞聖人の教え」と本願寺がされることが、私としまして少し気がかりであります。

Abc

No title

念仏を勧めない念仏往生の願とは如何に

念仏を勧めない念仏成仏是真宗とは如何に

No title

Abc 様

有難うございます。
二年ほど前に、新井俊一さんの西方指南抄(現代訳)を読み驚きました。
浄土宗からは法然聖人の教えであっても親鸞聖人が編纂されたために重要視されることはなく、真宗からは親鸞聖人が編纂されたにもかかわらず法然聖人の教えであったため、重要視されていないことを知りました。
ここには親鸞聖人が救われた法然聖人の教えがあります。
教行信証を親鸞聖人に書かせたその源泉があります。
念仏の声が聞かれなくなっていく時代に念仏を強調して勧められた法然聖人の教えに今一度立ち返ることが何かを与えてくれるのではと思います。
昨年たまたま高田派の方のお話を聞いて、高田派は西方指南抄を重要視していると聞きました。そのように広まれることを望んでおります。

とある法話にて

お世話様です。阿部先生の話をよくよく聞いてみたいですね。私は西の方の県なので聞くご縁がなくて残念です。昨年地元の法話会にて本願寺派の、とある先生の話です。御文章を読まれ念仏されたあと、第一声が「今日のお話ですが、今皆さんとお念仏申しましたね。これです。終わります。」と帰ろうとされて皆爆笑。「これで終わりなのですが、90分ありますし、皆さん納得されてないようなので、私のつまらぬ領解が入りますがお話しますね」私は法話をたくさん聞いているわけではないですが、先生の語り口が親鸞会とは全く違い面食らい、ハートは鷲掴みされました。
 かなしきかな、かなしきかな、いかがせん、いかがせん………順彼仏願故の文、魂に染みて生涯忘れない。なまんだーぶなまんだーぶ

南無阿弥陀仏

「浄土真宗(真実の仏教)は「南無阿弥陀仏」におさまる。「南無阿弥陀仏」を開いた教えが「大無量寿経」。「大無量寿経」を三部に開いた教えが「浄土三部経」。さらに「浄土三部経」を開いたのが大乗仏典であり、一切経である。」

阿部先生からお聞きした教えです。阿部先生も「南無阿弥陀仏」一つとお話になっております。この話を聞いて「南無阿弥陀仏から仏教をみていけばいいのか」と目からウロコでした。全ての経典には南無阿弥陀仏が説かれているのだと思い拝読するようにしております。

No title

阿部先生の回答について個人的感想

典型的な空華の考え方ですね。
法を仰げばよい、一切の行は必要ない。
極端な話、寝ていれば良いという考え方。

今の本願寺の主流は空華です。

この考え方を突き詰めると浄土真宗は仏教かというところに行き着きます。

石泉と空華、どっちでも良いけどお念仏を信前信後を問わす称えるべきですね。
私はそう思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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