【考察】親鸞会における聞法の問題点

【考察】大学新入生の、入会後の流れ(1)では、親鸞会で勧められる聞法・教学について書きました。
今日は、親鸞会会員の聞法の理解の問題点について考察したいと思います。

親鸞会での聴聞・教学により、独自のドグマが新入生に徹底される過程についてはすでに述べました。
間違った教えを聞かされ続け、聴聞ということについても、浄土真宗における聞法とはほど遠いドグマが親鸞会会員の頭の中に形成されています。

「親鸞会会員の聞法の理解の問題点」及び「理解を誤らせる説き方」などを少し細かく見ていきたいと思います。


★問題点1★聞法、教学、おつとめにより宿善が厚くなる(信仰が進む)と思い込まされている

聞法、おつとめにより宿善が厚くなると教えられていることは、
親鸞会教義が徹底されました(7)で書きました。

親鸞会では、聞法を聞法善と呼び、最も宿善が厚くなる(信仰が進む)行為として位置づけています。教学は聞法におさめて勧められますし、おつとめは2番目に宿善が厚くなる行為として位置づけられています。

しかし、聞法とは、「そのまま助ける」の阿弥陀仏の救いの法をお聞かせ頂くことで、それが宿善になるとはいいませんし、それによって信仰が進むという説示もありません。おつとめも、救いの法を明らかにされた善知識方の教えを聴聞することであり、阿弥陀仏のお救いを聞かせて頂き、お念仏申すことです。

「私の聞法」という行為によって宿善が厚くなり、救われるのではありません。

聞法、おつとめにより宿善が厚くなるということを徹底すると、「私の聞法、おつとめという行為」にばかり目がいくようになります。そうした理解ですと、
「私→阿弥陀仏」
というベクトルになっていますから、救いの法を撥ね付けてしまいます。これでは自力の押しまかせです。引くドアを押しているようなもので、いつまでもドアの向こうへは行けません。

そうではなく、本願力回向のご法義ですから
「阿弥陀仏→私」
というベクトルです。全く逆なのです。

親鸞会でも「聞く一つ」ということをきくと思いますが、本当は弥陀が聞かす一つなのです。弥陀の方から聞こえて下さる、あらわれて下さるのです。


★問題点2★「教えを聞いて実行するという」説き方は間違い

親鸞会では、「聴聞の聴とは善知識の教えを聞いて実行すること」と説明します。実行することがあるというのは、救われる方法論があるということになります。聞くものが私の側に問題を持ってくることになり、それは本願力回向に反します。


★問題点3★機ばかりが説かれ、法がほとんど説かれない

私が最後に参加したのが昨年10月の教学講義でしたが、そのときあったのが、

お釈迦様は、私達に本当の自己の姿を教えるために
「こんなこと思ってるやないか。こんなこと思ってるやないか。それは善いことか悪いことか。」
と、一つ一つ教えている内に45年間かかった。
実はこれは阿弥陀仏の命令、阿弥陀仏の指示だった。
人間は自惚れ強いものだから、因果の道理から話して実機を説けと、阿弥陀仏の命令があってお釈迦様はその通りされた。


という話でした。機責めみたいな話です。法はどこにもありません。


★問題点4★『「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。』の理解が誤っている。

多くの会員は「仏願の生起を本から末まで聞く」と理解しています。昨年の『顕正新聞』にもそう説明されていましたが、これは間違いです。
「仏願の生起・仏願の本末を聞きて」と理解するのが正しいです。

仏願の生起…迷いの世界から離れる手がかりのなく、苦しみの世界をへめぐっている私
仏願の本…法蔵菩薩の五劫思惟と兆載永劫のご修行
仏願の末…その結果、成就された本願力のはたらき


仏願の生起本末が正しく説かれていない話をきいても、「衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」にはなりません。


★問題点5★親鸞聖人の教えには「三願転入の教えを聞け」という説示はない

聞法とは、上で挙げたお言葉にあるように、「仏願の生起本末」を聞くことであり、『教行証文類』の総序に
「誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」
とあるように18願を聞くことです。

19願・因果の道理に偏り、獲信の因縁として善を修せよという話を聞くのは、親鸞聖人のお勧めに反します。


★問題点6★ド真剣に聞いた先に救いがあると思い込まされている

ド真剣に聴聞して、真剣になれない自分であったと知らされたときが救われたときと思っている人がありますが、これはド真剣に善に励んで微塵の善もできない自分であったと知らされたとき救われるというのと同じ思考です。
自分のド真剣な聴聞が救いと関係あるいう考え方なので、やはり本願力回向に反します。
また、諸行往生につながる考え方です。


★問題点7★真剣に聞く、熱心に聞く、苦労して聞くなどと聞法の形ばかりが問題にされている

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり (浄土和讃)


のお言葉の「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」(大宇宙が火の海になったとしてもそこを突破して)に重点が置かれ、「真剣に聞く、熱心に聞く、苦労して聞く」ことが勧められていますが、大事なのは『何を聞くか』です。

因果の道理を聞くのではありません。19願の善を実行せよという勧めを聞くのでもありません。「仏の御名をきく」ですから、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて下さい。


★問題点8★教えを聞いて私の側からそれに合わせるのではない

親鸞会では、『高僧和讃の「願に相応するゆえに」を、阿弥陀仏が見抜かれた私と、自分が思っている私が一致しないから願に相応しない、救われない』と説明することがあります。そして、ド真剣に善に励んで、善のできない自分と知らされるところまで進めといわれます。

こうすると、やはり私の側から如来に向かう
「私→阿弥陀仏」
という方向になり、本願力回向に反します。

私が教えに合わせようとしていくのではありません。阿弥陀仏が私に合わせた救いをお恵み下さるのです。教えに合わせられない私であることは、如来はとっくにご存知です。

私が発注したのではありませんが、私一人のための、まさにオーダーメイドのご本願です。


★まとめ★

親鸞会の説き方は
「私→阿弥陀仏」
で、自分の側に何か実行するものがある、救いに方法論があるという説き方です。それを聞いた会員は、聞法を宿善としてとらえたり、真剣になれない自分を知らされるための聞法だと思い込んだり、因果の道理をよくきいて善をせずにおれなくなるための聞法と思ってしまったりしています。

それは、
「阿弥陀仏→私」
という本願力回向ということが全く説かれていないからこのような理解になってしまっているのです。

阿弥陀仏に救われるのに、方法論などありません。
ところが、私達は行に迷い信に惑いやすいため、どうしても方法論を探してしまいがちなのです。
そんな私達が、
「獲信の因縁として(信仰が進むものとして)聴聞・おつとめ・六度万行があります」
と、私が実行するものを教える親鸞会教義を聞くと、「私の行為だけを問題にする」ところに嵌まってしまい、容易に抜け出すことができなくなってしまうのです。そして、そこには阿弥陀仏はありません。これでは、いつまでたっても同じところをぐるぐる回っているようなもので、永遠に流転の身となってしまいます。


繰り返しますが、阿弥陀仏に救われるのに、方法論などありません。
「ただ南無阿弥陀仏や」と聞かせて頂く、弥陀の名号の他に何もありません。

しかも弥陀の名号法は、今ここにいる私を除いては存在しません。
どうか只今、この如来のお救いに救われて頂きたいと思います。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

(つづく)
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願に相応するゆゑに

TS会って面白いなあ。
相応という言葉があったからすぐ持ってきてヘンテコ解釈するんですね(笑

利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし

このご和讃は、『往生礼讃』の、お念仏を称えたら「十即十生 百即百生」を讃嘆したご和讃ですよね。
念仏を往生の行として信じるのが信心なんですよねえ。

もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。
外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり。
http://wikidharma.org/4bd12e75f2d60

たしか、ここは「行文類」で御開山が引文されておられる筈ですが、TS会では『教行証文類』を読んでないから知らないいのかな。

>林遊@なんまんだぶ様

御解説有難うございます。
珍解釈が多すぎますので、会長は『教行証文類』はまともに拝読したことがないか、或いは知っていて利用しているかのどちらかだと思います。


利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし

の御和讃も、「教」を19願のことだと説明し、この御和讃の中に三願転入が教えられていると珍説を述べています。
とにかく献金と人集めを励行するために19願に固執し、往生極楽の道を閉ざしているのが親鸞会です。
まさか自分のいる団体が、往生極楽の道を破壊しているとは、会員は夢にも思っていないでしょう。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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