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根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者

現役カルト信者ほど頻繁ではありませんが、理想論者の名無しさんからも未だ時折コメントが届きます。先日もこの記事にこんなコメントが寄せられました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。

⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。

勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。

善知識への無条件服従ということにしてもそうです。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。



➝あなたは分かっていないかもしれませんが、額が決まっているものに関しても免除制度はあります。入会にしても、会費にしてもそうです。あなたが言うお布施にしても事情があれば減額もしくは免除されると思いますよ。


組織に関しては、世間の組織のように規則はあるでしょう。しかし、それが不満なら、幹部にならなければ良いだけです。幹部で無ければ救われない本願ではありません。2019-01-21(22:15) : 


> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?

⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。

言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。


⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。

また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

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> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。

⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。


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➝信心そのものは、言葉ではあらわせません。

だから、あなたが書かれた「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありません。

信心そのものはあらわせないのですが、信心を説くことはできます。それが経典であり御聖教です。

つまり、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありませんが、それと同様に、大慶喜心や広大難思の慶心も信心そのものではありません。

また、信心を「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」と説けるように、信心を、大慶喜心や広大難思の慶心と説くこともできます。

あなたは「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。」と言われますが、それでは、なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。


また、なぜ時剋の一念と信相の一念を説かれたのでしょうか。

信心そのものを私たちに分別できません、また、時剋の一念そのもの、信相の一念そのものも分別できませんが、信心を頂くことによって、時剋の一念があること、信相の一念があることはわかります。


こういうことを考えた上で、あなたが言われることが、合点安心ではないかと危惧して、助言させて頂きました。再度考えられた方が宜しいかと存じます。

最後に根拠ですが、安心論題の中に「歓喜初後」というものがあります。
それをご覧いただければ少なくても歓喜については分かられると存じます。

もし、「歓喜初後」の内容が見当たらなければ、ネットでも検索すれば出てくる思いますので、お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。
2019-01-21(23:12) :


は淳心房の主張、茶色は名無しさんの言葉です。また「歓喜前後」⇒「歓喜初後」と修正しています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

グダグダと言葉を書き連ねずに、サッサと淳心房の求めている

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠

を挙げればよいものを、それをせずに回りくどい言い方で判るような判らんような言い方で煙に巻こうとしている姿勢がよく伺えます。根拠を挙げるとそれは根拠にならないことを総攻撃されるのは目に見えていますから出さないというより出せないのです。私の、教義とは関係ない日常思ったことに関してはズバズバと物申せても、教義となると途端に尻すぼみして曖昧な返答しかできないのが親鸞会クオリティです。

ところで、根拠として

安心論題/歓喜初後

を紹介していますが、あれだけ馬鹿にしている/いた本願寺の灘本愛慈先生が書いたものが根拠ですか? 「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助けと説いて大衆を地獄に突き落としている」とか何とか、話の度に高森会長は説いてませんでしたか? 結局、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺サンの出版物を根拠としているところがお笑いです。

それと、安心論題/歓喜初後の中の、具体的にどの言葉が根拠なのか明かされていません。それをハッキリ示してくれないと、根拠を挙げたことにはなりません。尤も、その中の根拠はいずれも

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

ということを言われたものであって、私が求めているところの

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という根拠にはなりませんが。


信の一念があるということと、信の一念の瞬間が、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるということは当然ですが違います。親鸞会では信心決定すると火に触ったよりもハッキリするとか、それを盲者の開眼の一刹那、驚天動地の一刹那等と呼んで、信心決定とは驚天動地の神秘的体験であるかのように語っています。

(1)『マインドコントロールと親鸞会の真実』一念の信心
(2)『親鸞会批判の真実』親鸞会を攻撃する人工信心集団(3/4)
(3)『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験
(4)『飛雲』「千歳の闇室のたとえ」は「一念」ではない
(5)『当ブログ』覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす

この辺りを読んで頂けば、それは明らかでしょう。同時に、高森会長の華光会時代の獲信体験と、大沼法竜師の著書をパクって著した『顕正』の内容との違いも判って面白いと思います。

親鸞会が挙げて来そうな根拠はリンク先(2)に集約されていますが、いずれも信の一念の瞬間における、我々の上の自覚がどうだということを論じているのではないと判ると思います。あれらのお言葉をもって、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


とは言えないのです。


根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。
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非公開コメント

私、法ドロボーですが・・・なにか?

これはひどい

元会員さんと名無しさんが同一人物なら笑えますね。

灘本師の本を根拠にいうのも、おたくの団体があんなに灘本師批判してたの知らないの?と思います。「歓喜前後」と堂々と間違えるのも、ああ、しっかりわかって読んでないのが分かるよ〜、その後1時間後に訂正したのも、上司から言われたのか〜と微笑ましく思えます。どこをどう読んだら自説の根拠になるのか?そもそもが、名無しさん他親鸞会は、退会者が信心決定したというが、そんなわけないと言ってくる根拠が、歓喜のあるなしそしてその喜び具合いの多寡で信心を判定しているというのが、わかってない。意業安心なのですよ。意業で判定してない!といいながら判定してます。してるなら、もっともっと喜んでいて良いはず、何か人が様変わっていて良いはず、と思っているからです。なぜそう思うかは、高森爺さんがそのような話をしているからですね。前にもかきましたけど会員の友人に言われるのが、信心決定したというならお前布教活動に入るだろ!したならもっと人が変わるだろ、何一つむかしのままじゃないか〜!寧ろお前は負け組、俺は因果の道理を信じているからお前より商売繁盛しているし、家族仲良いし勝ち組!などと言われました(因みにあとでよくよく周りに聞いたら儲かってないじゃん話盛ってましたよ彼)そういうところでしか自慢出来ないのが人間の悲しい性ですよね。因果の道理を深信しているのなら、なぜ腹が立つのかよくよく考えて欲しいです。自分の思い描く理想の絶対の幸福なんてなれないですよ。欲楽しかないのですから。信心決定するというのはそんな妄想の世界でなく、念仏するものを極楽浄土へ迎えるという阿弥陀様の本願に疑いがない無疑信順することです。なむあみだぶつなむあみだぶつ。

園児様に同じ

親鸞会のサイトの《法泥棒》のトコ、私も読みましたが…
《お金で信心を買え》…みたいな…やっぱヒドイです!
…で、
高森さんの著書《歎異抄をひらく》…ですか…
今度は、ソレをアニメ映画化とかですか。
アノ本には、絶対《(歎異抄の)第十八章》については
触れられてないと思います。
お布施について書かれてるので、ソレを解説したら
会長の高森さん以下《上のヒト達》にとって不利になるから…
と、私にも大体読めます。

スーパーマン信心

チュウビ様
「信心決定したというならお前布教活動に入るだろ!したならもっと人が変わるだろ、何一つむかしのままじゃないか〜!」
安心問答様の所でも書かれていましたが、「信心決定したらスーパーマンのようになるのだ」というのが親鸞会会員の頭の中にあるのだと思います。女性で言えばシンデレラストーリーですか。「信心決定したら、こういう人間になるのだ(なるはずだ)。胸の中には金剛心がでんと現れるのだ(現れるはずだ)。」と勝手に思い描くのは阿弥陀仏の救いの上に自分で「救いの設計図」を書き加えているのですから、自力心の塊だと思います。

まあち様
「アノ本には、絶対《(歎異抄の)第十八章》については
触れられてないと思います。」
多分、ですよね。もともとお聖教を断章してしか教えていませんから、都合の悪いところは絶対に出しません。戦時中の学校で墨塗りの教科書を使って、都合の悪いところを隠して教えていたようなものです。かたや「教学が浅いと間違いやすいから」が理由で、かたや「御国のため」が理由です。どちらも理由にならない理由ですね。
(いつもブログ拝見しておりますよ!)

他力の信心は三業にあらわれるけど、

三業で他力の信心は測れない

うむ!

御法礼は目安だよ~
何とんちんかんな事言っとんが?

No title

>言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

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➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。

また、上のコメント全体に対して下の引用(歓喜初後の論題)で答えます。
(前回根拠をあげていたのですが、文言そのものを上げる手間を省いてしまい申し訳ありませんでした。)

また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

また、これ以外のリンクや書物でも内容はそう大きく変わらないと思います。
これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。

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http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#3kanngi

【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。

【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念

【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。

【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。

 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。

 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。

 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。

【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。

No title

>歓喜は信心の異名

答えが出ていますね。

>ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ

帰命のことです。「たのむ」も同じこと。凡夫の意業ではない。
他力は、自力の延長ではないですよ。

Re: 名無し様

> ➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。
>
> あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
> 本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。

⇒元カルトさんの言われる通り、『ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ』とは帰命のことです。

「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。(『尊号真像銘文』世尊我一心の文)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%B0%8A%E5%8F%B7%E7%9C%9F%E5%83%8F%E9%8A%98%E6%96%87#.E4.B8.96.E5.B0.8A.E6.88.91.E4.B8.80.E5.BF.83.E3.81.AE.E6.96.87

如来の勅命とは「南無阿弥陀仏」、それは如来の方からの「助けるぞ」「我にまかせよ」の仰せですから、この勅命を我が計らいを差し挟まずにそのまま聞き、仰せのままに後生おまかせすることをあのように表現しています。

ご心配恐れ入りますが、淳心房を救うも救わないも阿弥陀さまのお計らいです。私はそのお計らいにただまかせてお念仏申しているだけですので、考え直す必要も無いことです。


> また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

⇒滑稽ですね。江戸時代のものはいいが、現在の本願寺はいかんと仰るのですか? ならば、どこがどういけないのか具体的に示して頂けますか? ちなみに私は高森会長が話していたような、「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏」なんて話は聞いたことがありません。どこかにそう説いている布教使もあるのかも知れませんが・・・

それよりも、高森会長の珍しき教えの方がよっぽどいかんでしょう。あれで浄土真宗のつもりですか? 『飛雲』との公開法論に応じないままもうすぐ7年です。親鸞会教義が正しいならば、早く『飛雲』との公開法論に応じるように貴方からも高森会長に打診して下さい。

親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張の相違点(『飛雲』より)

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる


11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ


12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない


13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない


14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


それと、残念ながら私の求めている

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

という聖教の根拠はまたも出してもらえませんでしたね。そういう根拠は無い、親鸞会の主張は大沼師の味わいをパクった珍しい教えだということがよく分かりました。

Re: 元会員様

> 御法礼は目安だよ~
> 何とんちんかんな事言っとんが?

一部減額措置はあるんでしょうけど、たいていは高森会長の話毎に一般会員は5000円、学生会員は3000円を納めなければなりません。しかも納めたらカラーの用紙を貰って名札に入れ、他者が見て納めたか納めてないかハッキリ判るという徹底ぶりです。都合の悪い時は「仏法を聞かせて頂いたお礼の気持ち」とか言い、裏では「法泥棒」などの話をして暗にお布施を促す親鸞会のやり方に、私は

門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。(『御文章』1帖目11通)

のお言葉を想起してしまいます。

ところで、募財の際は、必ずと言っていいほど後生の一大事と、高森会長のご恩ということが話されます。聞いた者は助かりたいの思いからお布施をするでしょうが、これが雑行であり、自力心の行そのものだと気づきません。そんな高森教を未だ引きずっている貴方は、残念ながら「信心のひと」とは言えません。

馬鹿カルト!
ハッキリしない根拠は?

お聖教の読み誤りども

真仮の水際♪

Re: 元会員様

親鸞会が信一念の瞬間がハッキリと自覚できるというから根拠を聞いてるのが判らんかね? ちなみに真宗の立場は

年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす(鮮妙師『意業非意業之論』)

なんだな。大沼法竜師の味わいを教義と勘違いしたお聖教の読み誤りが高森顕徹会長と愉快な仲間達というわけだ。自覚したまえ。

No title

「摂取心光常照護」といふは、信心をえたる人をば、無碍光仏の心光つねに照らし護りたまふゆゑに、無明の闇はれ、生死のながき夜すでに暁になりぬとしるべしとなり。「已能雖破無明闇」といふは、このこころなり、信心をうれば暁になるがごとしとしるべし。
(尊号真像銘文)

信心を獲ても、日本晴れの昼間どころか、夜明けの曙でもなく、夜明け前の東雲でもなく、真夜中を過ぎて漆黒でなくなった暁だよ。

ハッキリするの?

Re:名無しさん

こんにちは、Abcです。

>正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。

浄興寺(真宗11派 元・本願寺派)の山号にも「歓喜」の文字が見えますが、その「歓喜」も今言われていることであります。

>私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。

私が名号を信受すること
 = 往生成仏の因(タネ)である
 = 身口意(三業)にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。  ∴歓喜正因ということはできない。

「身口意(三業)にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。」に関しましては、『歎異抄』9 に「慶びの心が起きないのは、煩悩の所為である」と記されております。
 (これは高森さんが問題視されている『歎異抄』前十章 に含まれていますから、この文言に対して反論文が提起されないならば、「高森教は異安心」という結びとなります。)

であります、今示された「長明寺さんの主張」に関しましては私は「同じ考えであります」が、あなたはなぜこの文言を出されて「淳心房の言われていることは間違いである」といわれているのか、がいまいち要領を得ません。

よろしくおねがいします。

Abc

Abcさん

>今示された「長明寺さんの主張」に関しましては私は「同じ考えであります」が、あなたはなぜこの文言を出されて「淳心房の言われていることは間違いである」といわれているのか、がいまいち要領を得ません。

お答えしますと、「歓喜初後」では、

初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。

とあります。すなわち、二つの歓喜が説かれています。

しかし、淳心房氏は、つぎのようにコメントされています。


『言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう』


つまり、「初一念の歓喜がない」がないと言う主張です。

従って、本願寺から見ても、異安心と言えますね。

だから、この根拠に反論ができなく、論点すり替え(引用することを自体を非難)しています。

しかし、祖師は儒学者を非難しながら、「論語」を引用されています。聖人を「みっともない」と仰っているのでしょう。悲しいことです。

Re: 名無し様

貴方は本当に都合の良い部分しか読んでいませんね。断章取義とはこのことです。

> 初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない
> 初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。

と書いてあるでしょう。対して淳心房のコメント。

> 大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう

どこか違いますか? 行者の三業にあらわれたものではない初起一念の歓喜がどうして自覚できますか? 私は「初一念の歓喜」が無いなんてどこにも言ってないです。勝手に捏造しないで下さい。


さて、親鸞会の主張は「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」というものですから

> 初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない
> 初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。

の否定です。自分で出した根拠が自分達の説の誤りを指摘していることに気が付かないとしたら間抜けもいいところです。

知恵を絞って久々にコメントしてきたのがこれではガッカリです。しかも私が求めている根拠は何一つありません。根拠のない珍説にすがりついている姿は実にみっともないですよ。

No title

>私は「初一念の歓喜」が無いなんてどこにも言ってないです。勝手に捏造しないで下さい。

話の中で「初一念の歓喜」に触れられていないようでしたので、また、根拠を出して、「これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。」と書きましたが反応がなかったので、てっきり否定されていると考えていました。


>さて、親鸞会の主張は「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」というものですから


私の過去のコメントをよくよく見て頂いてもわかるかとおもいますが、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」とは主張していません。

過去に「その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?」

と書きましたが、これは「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

「いつとはなしに救われる」の否定が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

それは、前に何度も言ったように0か100で物事を考えていらっしゃるように思います。

あなたは、それを親鸞会の主張ともいわれますが、それほどまでに、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことに、こだわる理由を教えて頂けないでしょうか。

Re: 名無し様

「その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?」

これが貴方の主張ですね。確認しておきます。

私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。

No title

>私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。

➝第二念後以降のことです。

ではなぜ、「救われた時の自覚」を問題にしていると、あなたは、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのでしょうか。
教えて頂ければと思います。

Re: 名無し様

http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-1239.html#comment4212

に回答したのでよろしくお願いします。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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