根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者
現役カルト信者ほど頻繁ではありませんが、理想論者の名無しさんからも未だ時折コメントが届きます。先日もこの記事にこんなコメントが寄せられました。
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> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。
⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。
勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。
善知識への無条件服従ということにしてもそうです。
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】
こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。
➝あなたは分かっていないかもしれませんが、額が決まっているものに関しても免除制度はあります。入会にしても、会費にしてもそうです。あなたが言うお布施にしても事情があれば減額もしくは免除されると思いますよ。
組織に関しては、世間の組織のように規則はあるでしょう。しかし、それが不満なら、幹部にならなければ良いだけです。幹部で無ければ救われない本願ではありません。2019-01-21(22:15) :
> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?
⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。
言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。
⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。
また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。
また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。
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> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。
⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。
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➝信心そのものは、言葉ではあらわせません。
だから、あなたが書かれた「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありません。
信心そのものはあらわせないのですが、信心を説くことはできます。それが経典であり御聖教です。
つまり、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありませんが、それと同様に、大慶喜心や広大難思の慶心も信心そのものではありません。
また、信心を「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」と説けるように、信心を、大慶喜心や広大難思の慶心と説くこともできます。
あなたは「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。」と言われますが、それでは、なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。
また、なぜ時剋の一念と信相の一念を説かれたのでしょうか。
信心そのものを私たちに分別できません、また、時剋の一念そのもの、信相の一念そのものも分別できませんが、信心を頂くことによって、時剋の一念があること、信相の一念があることはわかります。
こういうことを考えた上で、あなたが言われることが、合点安心ではないかと危惧して、助言させて頂きました。再度考えられた方が宜しいかと存じます。
最後に根拠ですが、安心論題の中に「歓喜初後」というものがあります。
それをご覧いただければ少なくても歓喜については分かられると存じます。
もし、「歓喜初後」の内容が見当たらなければ、ネットでも検索すれば出てくる思いますので、お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。
2019-01-21(23:12) :
※緑は淳心房の主張、茶色は名無しさんの言葉です。また「歓喜前後」⇒「歓喜初後」と修正しています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
グダグダと言葉を書き連ねずに、サッサと淳心房の求めている
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠
を挙げればよいものを、それをせずに回りくどい言い方で判るような判らんような言い方で煙に巻こうとしている姿勢がよく伺えます。根拠を挙げるとそれは根拠にならないことを総攻撃されるのは目に見えていますから出さないというより出せないのです。私の、教義とは関係ない日常思ったことに関してはズバズバと物申せても、教義となると途端に尻すぼみして曖昧な返答しかできないのが親鸞会クオリティです。
ところで、根拠として
安心論題/歓喜初後
を紹介していますが、あれだけ馬鹿にしている/いた本願寺の灘本愛慈先生が書いたものが根拠ですか? 「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助けと説いて大衆を地獄に突き落としている」とか何とか、話の度に高森会長は説いてませんでしたか? 結局、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺サンの出版物を根拠としているところがお笑いです。
それと、安心論題/歓喜初後の中の、具体的にどの言葉が根拠なのか明かされていません。それをハッキリ示してくれないと、根拠を挙げたことにはなりません。尤も、その中の根拠はいずれも
真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある
ということを言われたものであって、私が求めているところの
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という根拠にはなりませんが。
信の一念があるということと、信の一念の瞬間が、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるということは当然ですが違います。親鸞会では信心決定すると火に触ったよりもハッキリするとか、それを盲者の開眼の一刹那、驚天動地の一刹那等と呼んで、信心決定とは驚天動地の神秘的体験であるかのように語っています。
(1)『マインドコントロールと親鸞会の真実』一念の信心
(2)『親鸞会批判の真実』親鸞会を攻撃する人工信心集団(3/4)
(3)『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験
(4)『飛雲』「千歳の闇室のたとえ」は「一念」ではない
(5)『当ブログ』覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす
この辺りを読んで頂けば、それは明らかでしょう。同時に、高森会長の華光会時代の獲信体験と、大沼法竜師の著書をパクって著した『顕正』の内容との違いも判って面白いと思います。
親鸞会が挙げて来そうな根拠はリンク先(2)に集約されていますが、いずれも信の一念の瞬間における、我々の上の自覚がどうだということを論じているのではないと判ると思います。あれらのお言葉をもって、
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
とは言えないのです。
根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。
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> また、考えてみれば分かると思いますが、現在残っている会員は全員が100をしてきてはいません。つまり、会員にはいろいろな立場があり、強制的になにかをさせるということはないです。強制されているというのは、あなたの印象であり、他因自果であります。辞めるということも一つの手段ですが、辞めなくても良い手段もあるということです。
⇒またまた御冗談を。今まで在籍何十年という方なら貴方の言葉はウソだとすぐ判りますよ。見え透いたウソをつきなさんな。一つ例を挙げれば、富山での高森会長へのお布施は一律5000円(学生は3000円)でしょう。仏法を聞かせて頂くお礼だとか言いながら具体的に金額を定めて納めることを強制しています。また、納めたかどうか判るようにお布施を納めた後に色付きの紙を渡すという徹底ぶりです。
勧誘にしてもそうです。入会目標人数が届かなかった支部長は降格です。学友部は幹部会員が集まる会合では指摘の嵐でした。明らかに、目標人数を立ててそれを達成することを強制しています。
善知識への無条件服従ということにしてもそうです。
会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】
こんなことを言わせ、高森会長と上司の指示には無条件に服従するように強制しているではありませんか。
➝あなたは分かっていないかもしれませんが、額が決まっているものに関しても免除制度はあります。入会にしても、会費にしてもそうです。あなたが言うお布施にしても事情があれば減額もしくは免除されると思いますよ。
組織に関しては、世間の組織のように規則はあるでしょう。しかし、それが不満なら、幹部にならなければ良いだけです。幹部で無ければ救われない本願ではありません。2019-01-21(22:15) :
> その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?
⇒ならば救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠を挙げて下さい。
言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。
⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。
また、これでは、自分が助かっているのか助かっていないのか、分からないですよね。助かった気分になっているだけかもしれません。
また、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。
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> ⇒はじめにハッキリする根拠を上げるように書かれていますが、私がハッキリするという根拠ををあげれば、信心が崩壊するのでしょうか。
⇒だから挙げてみなさいよ。そうすれば分かりますから。全ては貴方が根拠を挙げてからです。
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➝信心そのものは、言葉ではあらわせません。
だから、あなたが書かれた「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありません。
信心そのものはあらわせないのですが、信心を説くことはできます。それが経典であり御聖教です。
つまり、「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」も、信心そのものではありませんが、それと同様に、大慶喜心や広大難思の慶心も信心そのものではありません。
また、信心を「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」と説けるように、信心を、大慶喜心や広大難思の慶心と説くこともできます。
あなたは「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。」と言われますが、それでは、なぜ別名として大慶喜心や広大難思の慶心が説かれているのでしょうか。
また、なぜ時剋の一念と信相の一念を説かれたのでしょうか。
信心そのものを私たちに分別できません、また、時剋の一念そのもの、信相の一念そのものも分別できませんが、信心を頂くことによって、時剋の一念があること、信相の一念があることはわかります。
こういうことを考えた上で、あなたが言われることが、合点安心ではないかと危惧して、助言させて頂きました。再度考えられた方が宜しいかと存じます。
最後に根拠ですが、安心論題の中に「歓喜初後」というものがあります。
それをご覧いただければ少なくても歓喜については分かられると存じます。
もし、「歓喜初後」の内容が見当たらなければ、ネットでも検索すれば出てくる思いますので、お手数をおかけしますが宜しくお願い致します。
2019-01-21(23:12) :
※緑は淳心房の主張、茶色は名無しさんの言葉です。また「歓喜前後」⇒「歓喜初後」と修正しています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
グダグダと言葉を書き連ねずに、サッサと淳心房の求めている
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだという聖教上の根拠
を挙げればよいものを、それをせずに回りくどい言い方で判るような判らんような言い方で煙に巻こうとしている姿勢がよく伺えます。根拠を挙げるとそれは根拠にならないことを総攻撃されるのは目に見えていますから出さないというより出せないのです。私の、教義とは関係ない日常思ったことに関してはズバズバと物申せても、教義となると途端に尻すぼみして曖昧な返答しかできないのが親鸞会クオリティです。
ところで、根拠として
安心論題/歓喜初後
を紹介していますが、あれだけ馬鹿にしている/いた本願寺の灘本愛慈先生が書いたものが根拠ですか? 「本願寺は死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助けと説いて大衆を地獄に突き落としている」とか何とか、話の度に高森会長は説いてませんでしたか? 結局、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺サンの出版物を根拠としているところがお笑いです。
それと、安心論題/歓喜初後の中の、具体的にどの言葉が根拠なのか明かされていません。それをハッキリ示してくれないと、根拠を挙げたことにはなりません。尤も、その中の根拠はいずれも
真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある
ということを言われたものであって、私が求めているところの
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という根拠にはなりませんが。
信の一念があるということと、信の一念の瞬間が、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるということは当然ですが違います。親鸞会では信心決定すると火に触ったよりもハッキリするとか、それを盲者の開眼の一刹那、驚天動地の一刹那等と呼んで、信心決定とは驚天動地の神秘的体験であるかのように語っています。
(1)『マインドコントロールと親鸞会の真実』一念の信心
(2)『親鸞会批判の真実』親鸞会を攻撃する人工信心集団(3/4)
(3)『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏の獲信体験
(4)『飛雲』「千歳の闇室のたとえ」は「一念」ではない
(5)『当ブログ』覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす
この辺りを読んで頂けば、それは明らかでしょう。同時に、高森会長の華光会時代の獲信体験と、大沼法竜師の著書をパクって著した『顕正』の内容との違いも判って面白いと思います。
親鸞会が挙げて来そうな根拠はリンク先(2)に集約されていますが、いずれも信の一念の瞬間における、我々の上の自覚がどうだということを論じているのではないと判ると思います。あれらのお言葉をもって、
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
とは言えないのです。
根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。
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