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「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」という聖教の根拠を挙げられない親鸞会の理想論者

根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。

と書いて、「名無し」さんに

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠を求めましたが、案の定挙げられず、「名無し」さんの返答はこのようなものでした。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。

あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。

また、上のコメント全体に対して下の引用(歓喜初後の論題)で答えます。
(前回根拠をあげていたのですが、文言そのものを上げる手間を省いてしまい申し訳ありませんでした。)

また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

また、これ以外のリンクや書物でも内容はそう大きく変わらないと思います。
これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。

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http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#3kanngi

【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。

【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念

【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。

【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。

 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。

 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。

 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。

【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。

2019-01-26(13:16) :

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

本願寺の灘本愛慈先生の安心論題/歓喜初後では都合が悪かったのか、長明寺HPの

安心論題(殿試勉強用のようなもの) 【歓喜初後】

を出してきています。灘本愛慈先生と言えば、桐渓順忍和上や山本仏骨先生などと並んで、高森顕徹会長がその著『本願寺なぜ答えぬ』で批判した相手方の一人です。『本願寺なぜ答えぬ』では、「宿善について」という灘本愛慈先生の書かれたものを掲載しています。なお、同著では、紅楳英顕先生の

『派外からの異説について』

を全文掲載すると言いながら、実際は掲載しておりません。また、紅楳英顕先生は

現代における異義の研究-高森親鸞会の主張とその問題点-

でも親鸞会教義の問題点を指摘されていますのでご参照下さい。


さて、コメントの中で「名無し」さんは

(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。

と仰っていますが、これもおかしな話です。『今の本願寺』はダメだが、『江戸時代の本願寺』ならよいのでしょうか? しかしリンク先の文章は見る限り明らかに現代文であり、誰かはよく分かりませんが前置きにあるように長明寺の方が「自分なりに纏めたもの」です。この方が江戸時代からの伝統を継承しているならば、少なくとも長明寺の中には善知識がいるということです。これは「蓮如上人以来の善知識高森先生」の否定です。会員の皆さんは、長明寺へ行って安心論題を書かれた方から聴聞された方がいいんじゃないでしょうか?

「名無し」さんはあれだけ退会者の信心を攻撃しておきながら、結局聖教の根拠が出せないのです。本願寺に助けを求めていることが見え透いていて面白いです。そして、本願寺の主張と違うならあんたらの信心は

本願寺が説く信心でもありません

まぁつまり間違いだと言いたいんでしょう。

本願寺が説く信心でもありません

というのがミソで、『今の本願寺』を肯定しているわけでもないが、その『今の本願寺』が書いているものを根拠としているという、彼の何とも言えないアンバランスな立ち位置が伺えます。


それで本文を読んでみましたが、皆さんも読んでお分かりのように私が求めている聖教の根拠はありません。それどころか【結び】の箇所では、

初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。

と書かれています。対して親鸞会の主張は、淳心房の言葉で言えば

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


というものですから、信一念の瞬間が行者の意業、つまり三業に明瞭に現れるという主張です。これは

初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。

とあるように間違いです。要は

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

とは仰っているが、親鸞会が主張するような

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


といったことは聖教のどこを読んでも見当たらないのです。当たり前です。高森会長が大沼法竜師の味わいを教義と勘違いしてそのままパクっただけなんですから。

信一念の自覚の有無については、既にこの記事で書いています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
では真宗の信心とはいかなるものかというと、それについては

年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす(鮮妙師『意業非意業之論』)

とあります。信一念の自覚があってもよい、なくてもよい。信一念の自覚がある人も、ない人も、共に仏智に信順したのが真宗の信心だというのです。自身は罪悪生死の凡夫、煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして火宅を出ることのできない、出離の縁有ること無い凡夫であり、そのような私が私のままで「必ず往生させる」という阿弥陀仏の本願の仰せを受け容れ、その御言葉に疑いなく慮りなく往生をおまかせする。それが真宗の信心、他力の信心です。親鸞会ではこのおまかせした瞬間、すなわち信一念の自覚が必ずなければならないというのですが、それは真宗の聖教上に根拠のない妄情であります。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

この中の「仏智に信順」した帰命の信心を淳心房は

私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。

と書いたのですが、彼にはこれが意業安心に見えるようです。それは彼が、安心論題にあるように

歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む

教えを信じているからでしょう。自身が意業安心の最中でそれが真実信心と勘違いしているから、退会者の主張が異安心だとしか思えないのだと伺えます。考え直すも何も、救うも救わないも阿弥陀さまのお計らいなんだから、他の方は分かりませんが淳心房は阿弥陀さまのお計らいにまかせてただお念仏申すのみです。自余の行では仏に成れない、それどころか自力では永遠に流転の苦難を免れない淳心房です。この度の往生は

私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。

のみです。この他に淳心房の信心はありません。


ともあれ、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠は「無い」、親鸞会の主張は「間違い」ということで決着です。文句があるのならば、私が再三再四求めている聖教の根拠を挙げて下さい。根拠のみで結構です。根拠を挙げずに何を書こうとも負け犬の遠吠えとしか私を含めて皆さん思われないでしょうから、その点よろしくお願いします。
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真仮を知らざるによりて・・・

読み誤りwwだらぶつ

真仮の水際を知らざる者

元オカルト
淳心房
などなど

如来広大の恩徳を迷失す


追記
念仏頂いてもハッキリするものでないのいう者達ww

ごごうしゆい、ちょうさいよごうのご恩しらんがけ?

真宗宗歌しらんみたいね!(#`皿´)

Re: 元会員様

今は、信一念の瞬間が我々の上でハッキリ自覚できるかどうかを論じているの。論点をずらさないでね。

他力の信心を獲たかどうかは、疑いが無くなってしまうんだから判りますよ。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(『御文章』2帖目13通)

ただしこれも、信一念の瞬間が我々の上でハッキリ自覚できるかどうかを論じたものではなく、他力の信心は行者のおこすところの信心ではなく如来回向の信心であることを明らかにされたお言葉だけどね。あと、行者とは専修念仏の行者であって雑行兼行の行者でないことは当然のこと。雑行や雑行もどきに執心してこれを修めている者には窺い知れない世界なんだね。

Re:元会員さん

おはようございます、Abcです。

>ごごうしゆい、ちょうさいよごうのご恩しらんがけ?(元会員さん)

淳心房さんは「論点ずらし」とはいわれていますが、
>「五劫思惟(五劫のあいだ考え抜かれて)」 
>「兆載永劫(兆・載は非常に大きな数のこと。法蔵菩薩が本願を成就するために修行された、非常に長い時間のこと。(WikiArcより))」

の「五劫思惟(五劫のあいだ考え抜かれて)」は「阿弥陀様が行っていただいたもの」でありますから、私たちの側では何もいらないのです。
 (何もいらないの「何も」とは「定散二善」 「雑修」 「自力の専心」などです。

 このことより、「五劫思惟、兆載永劫のご恩しらんがけ?」と言う問いには、
「五劫思惟、兆載永劫のご恩にまかせとるさけ、わいらは、何もしようとはおもわんがいや。
 なんかしようとおもったがんたら、「自力」といっとることだから、すてまっしま!と阿弥陀さまがいっとるげんて。

 「捨自帰他」は、「「自力」をほって(放って)、阿弥陀様(他力)につんだってく」のことや。親鸞聖人は、「阿弥陀様(他力)につんだっていきまっし」を「阿弥陀様につんだっていきまっしま!」っていっとるげんて。何回も読みまっしま!」 と伝えます。

※「~しまっし」は「~しましょう (英語のLet usに相当)」ですが、
 「~しまっしま」は「~しなさい (英語のYou mustに相当)」です。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

淳心房様
大経の梵語原典においては「一念」に該当する箇所には「一つの心」という意味の文言となっているそうです。一つの心なら「信相の一念」にはなりそうですが、「時刻の一念」の意味は出てきませんね。

個人的には、時刻の一念は、経典漢訳時に「念」の文字の多義性により意図せず付け加わった概念かと想像しております(飽くまで個人の感想ですが)。

私自身の場合、おおよそいつ頃切り替わったかはわかっていますが、何億分の一秒よりも短い時刻の極促の認識はありませんでした。

信の一念で疑いはれるんと違うんかい(笑

Re:元会員さん

こんにちは、Abcです。

>信の一念で疑いはれるんと違うんかい(笑

えー、前にあなたが「自分でわかるのは意業安心の異安心だ!」っていってたじゃないですかー

これね↓
ーーー
他力の信心は三業にあらわれるけど、

三業で他力の信心は測れない

うむ!
ーーー

もし、あなたが「信の一念で疑いはれる」と思われてるんだったら、今挙げた文言は間違いということだね。 自分の言ったことくらいは責任を持とうね。

あ、「だらぶつ」だから無理か。うん、

Abc

No title

元会員って、本当に何も分かってないんだね。
演技しているのかと思っていたけど、驚きました。
根拠のない空想的味わい(思惑)を言っているだけで
ただの酔っぱらいと同じ。言い出したらきかないので
このあとのコメントが楽しみです。

体験して掴んでしまった

火星人さんもそうでした。元会員さんは、多分何かしら体験していると思いますが、苦しんだ挙げ句の果に、そのままだぞ!と声が実際に聞こえた。だから信心決定した。高森先生の言うとおりにしたおかげだ。だから高森先生は正しい。と信一念をその時だけの瞬間の救いと思って、その不思議体験を、それがそうなんだと掴んでしまったわけですね。掴んでしまったものを手放せない。自分にあるのは過去のその時の体験のみで相続心がない。念仏一行になってない。(念仏をいただくではなくて、念仏のこころがわかること)と言ってるあたりが自分のこころが変わったことを(彼が阿頼耶識と言ってるやつ)信心決定と言ってますね。何なら親鸞会で表明したら良いと思います。親鸞会からも袋叩きでしょうね。火星人は親鸞会では表明してませんでしたけど、元会員も同じ口でしょう。

Re:チュウビさん

こんにちは、Abcです。

私の「ひどい解説」はご一読しましたでしょうか。

私も日ごろから文章の言葉遣いに気をつけておりますので、今記しました「方言交じりの解説」には少々時間を使いました。

「これじゃあ、何かいてあるかわからない」と笑い飛ばしていただいても構いません。(「何回」の箇所を「何べん」にしようか「何かい」にしようかで、10分使いました。 全く、拙さの極みであります。)

Abc

No title

以前、勇気を持って、お聞きしている先生に一通り自分の体験をお話した上で、
「先生。私は体験を掴んでいるのでしょうか。」とお尋ねしたことがあります。
先生は少し沈黙されて答えて下さいました。
「それは(あなたが)掴んだのではなく、阿弥陀様が(あなたを)掴んだのだ。」という短い言葉でした。
今思うと、親鸞聖人が唯円に諭されるような一言でした。体験したとか、掴んだとか、それは人間が言うことであって、体験が有っても無くてもそんなことに関係なく、無条件に救って下さるのが阿弥陀様だと言う仏様のお言葉でした。
日頃は「信心決定したからと言って喜んでいるヒマはない」とハッキリ教えて下さる素晴らしい先生です。本当に有難いで出来事で、懐かしく思い出しました。
南無阿弥陀仏

コメント返信

maelstrom様

いつも参考になるご意見ありがとうございます。
本来は信心の模様を表す信相の一念に該当するんでしょうが、他力の信心は行者のおこすものではなく、本願の名号が至り来ておこさしめるものですから、信心がおこった最初の時、自力から他力に切り替わった最初の時ということがあるということで聖人は時剋の一念を仰られたのではないかと伺っております。
私も同じで、おおよそいつ頃切り替わったかは覚えがありますが、もう気付いた時には時剋の一念は過ぎてしまっていたでしょう。まぁ切り替わった、今切り替わっているのが大事で、それがいつだったかなど大した問題ではありませんがね。


元会員様

理想論者の名無しさんが根拠とした安心論題【信一念義】
http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#6sinnitinenn

を伺うと次のようにあります。

・信一念(時剋の極促)とは、信心のはじまりの時、本願に対して疑いの晴れた最初の時
・一念とは信心が開けおこる最初の時をいう。成就文では、信一念の即時に往生すべき身に定まることを即得往生住不退転というのであり、これは受法得益同時をあらわす。受法と得益が一念同時であれば、その間に衆生の三業の造作は介入せず、唯信正因にきわまるというべきである。
 信一念においては一念覚知の主張があるが、救いは信心を頂いているかいなかであり、決してその時を覚えているかいないかによるものではない。何故なら、覚知を条件にするのであれば、それは意業が往生成仏の決定に関与することになり、信心正因の法義にそむく見解となるからである。

ですから「信の一念で疑いはれる」は珍しく正解です。
ただ、その疑い晴れた信の一念の瞬間が意業の上で自覚できるかとなると話は別です。有名な高森会長の獲信の記録では

次第にその迷雲も晴れ

ですから、この体験談が本物の獲信体験とすると高森会長は疑い晴れた信の一念の瞬間が意業の上でハッキリと自覚できていないことになります。
信心決定とは、親鸞会で聞いているような、地獄の釜底に突き落とされて苦しい体験をし、間髪入れずにそのまま救うの弥陀の喚び声が五臓六腑を貫くといった摩訶不思議な神秘的体験とは違うんで、まずはそこを理解しましょう。


Abc様

方言まじりのご解説ありがとうございます。方言の説明が無いと意味が分からなかったです(笑)


2019-01-27(13:30)の名無し様

彼は大真面目だと思います。現役カルト信者の頭の中は彼と五十歩百歩でしょう。まぁ中でも彼は酷い部類だと思いますが。


チュウビ様

そうかも知れませんね。私としては彼は特に何の体験も無く、下根の機の意味を知らなくて慌てて取り繕ったように感じます。あと、元会員さんは理想論者の名無しさんとは別人物でしょう。名無しさんは元会員さんのように幼稚ではないです。


愚愚流様

我々は親鸞会で聞いてきたことがベースにあったので、尚更信心決定ということがどういうことかがよく分かりませんでしたね。ハッキリスッキリ体験をするはずと思っていたらそんなことは無く、ただ明らかに以前と心境が異なるので私は随分と戸惑いました。
その先生は実に素晴らしい知識であると話を伺って思いました。良い師に巡り遇えたことは慶びの中の慶びですね。

あぁ・・・親鸞聖人のハッキリしたお言葉

Re: 元会員様

貴方が代わりに

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

という根拠を示して頂いてもいいですよ。ちなみに「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。」と書かれている『教行証文類』を書き始められたのは聖人が52歳以降だと言われていますから、このお言葉をもってその根拠とすることはできませんがね。

世間の事でも、救われたらハッキリする事ばかりなのに・・・

お聖教だのみ(言葉じりだのみ)の異安心
お聖教全体が読めない異安心

Re: 元会員様

手術中は全身麻酔で気を失っていて、目覚めた頃には術後で病気が治っていたということがありますよ。
震災でがれきの下敷きになって気を失い、レスキュー隊に救助されて気が付いたら病院のベッドの上だったってこともありますよ。

救われた瞬間が必ずしもハッキリと自覚できるわけではないのです。必ずハッキリと自覚できるとは仰せられていません。仰せられているなら根拠を示しなさい。

No title

私も会員だったので気持ちがわからないでもありません。
根拠が有っても無くても、会の教えにすこしでも間違いがあったなら、自分は助からないという心が見えてくるので、絶対に間違いとは認められないのです。よくよく考えればおかしな話で、根拠がないのに、これが真宗の教え、となぜ断言できたのか?自分でも、当時の自分の異常さはなかなか言葉にできません。
最後は、誰がなんと言おうが親鸞聖人が言っても言って無くても、関係ない。(もう無茶苦茶で)とにかく自分が正しいと思うことを最大の根拠として正当化する【唯一絶対の自分教】になっていました。これが自力の恐ろしさです。本当に怖くて離せないのです。

阿弥陀様に守られているという実感、安心がなければこのようになっていく悲しさがあります。

52才って・・・年齢きにするのは他力の信心が臨終まで続く事を知らん、机上の信心だからである。

No title

きちんとした言葉を書けないのは、自分に対するこだわりからです。それも自力です。

本当の救いは永遠です。
臨終では終わりません。
臨終で終わるなら人間の救いにはなりません。
臨終で終わらないから人間は救われます。
南無阿弥陀仏は長生不死の神法です。

拙い文章 の 標準語の

こんばんわ、Abcです。

この前の

「五劫思惟、兆載永劫のご恩にまかせとるさけ、わいらは、何もしようとはおもわんがいや。
 なんかしようとおもったがんたら、「自力」といっとることだから、すてまっしま!と阿弥陀さまがいっとるげんて。

 「捨自帰他」は、「「自力」をほって(放って)、阿弥陀様(他力)につんだってく」のことや。親鸞聖人は、「阿弥陀様(他力)につんだっていきまっし」を「阿弥陀様につんだっていきまっしま!」っていっとるげんて。何回も読みまっしま!」



「五劫思惟、兆載永劫のご恩にお任せしているから、私たちは何もしようとはおもわないのです。

何かしようと思ったならば、それは「自力」と言われていることであるから、捨てなさいと阿弥陀様が言われているのです。 ※正確には「私が捨てる」のではなく「仏さまが捨ててくださる」なのですが、ツッコミがこなかったということはあまり読んでいないのでしょう。

 「捨自帰他」は、「「自力」を捨てて阿弥陀様(他力)に連れ立っていく(転じて、弥陀の召しに相かなう)のことです。親鸞聖人は「帰命」を「帰す」と読まずに「帰せよの命」と言い換えられています。(上の文では「他力に帰す」を「他力に帰せよ」といわれている) よくよくお読みになられて下さい。 」

です。これで、こちらにおられる方は意味をわかるのではないでしょうか。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

コメント返信

愚愚流様

親鸞会は、言ってみれば高森教であり、高森教は正しい教えと信じて選んだ自分は正しいという自分教です。自力は自分で捨てられないので他力を聞くよりないのですが、高森教は自力を助長するような教えしか説かれませんので、早くそのような自力雑行もどきの教えを離れて、本願力回向、今の救いを説く方に出遇って聞いて頂きたいものです。


元会員様

高森先生は18歳で信心決定したとか言って年齢を気にしてるじゃないか。あと、

親鸞聖人が『教行証文類』を書き始められたのは52歳の頃からだと言われています。雑行を棄てて本願に帰されたのが29歳の時だと言われていますが、それでも「いま」です。その後も一生涯に亘って『教行証文類』を推敲されていますから、晩年、臨終でも「いま」だと仰っていると伺うことができます。

と書いているからね。よく読みなさい。とにかく何でもツッコめばいいわけではないよ。それに、早く

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

という聖教の根拠を出したまえよ。コピペが無理なら御文を紙に書いてそれを打ちなさい。それをしないのは怠慢以外の何物でもない。


Abc様

> 「五劫思惟、兆載永劫のご恩にお任せしているから、私たちは何もしようとはおもわないのです。
> 何かしようと思ったならば、それは「自力」と言われていることであるから、捨てなさいと阿弥陀様が言われているのです。 ※正確には「私が捨てる」のではなく「仏さまが捨ててくださる」なのです

⇒これを他力というのですが、これを無力(むりき)としか思えない会員は自力を混ぜ込んで、自力の命がけの求道を美学としています。これでは五劫思惟、兆載永劫のご恩を聞き、仰せのままにお任せなどできる道理がないというものです。哀れ哀れです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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