「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」という聖教の根拠を挙げられない親鸞会の理想論者
根拠を挙げろと言うと挙げられない、答えに窮すると間違いものだと言っている本願寺の出版物が根拠という、実にみっともない親鸞会の理想論者であることが判ります。当ブログでは、名無しさんに改めて親鸞会が主張する根拠の提示を求めます。余計な説明は結構なので、聖教の根拠のみ示して下さい。それをしないもしくはできないならば、親鸞会の主張は親鸞聖人の仰せと異なる、それがハッキリするだけのことです。
と書いて、「名無し」さんに
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という聖教の根拠を求めましたが、案の定挙げられず、「名無し」さんの返答はこのようなものでした。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。
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➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。
あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。
また、上のコメント全体に対して下の引用(歓喜初後の論題)で答えます。
(前回根拠をあげていたのですが、文言そのものを上げる手間を省いてしまい申し訳ありませんでした。)
また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。
また、これ以外のリンクや書物でも内容はそう大きく変わらないと思います。
これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。
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http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#3kanngi
【歓喜初後】
謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。
【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念
【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。
【義相】
真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。
信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。
初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。
字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。
【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。
2019-01-26(13:16) :
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本願寺の灘本愛慈先生の安心論題/歓喜初後では都合が悪かったのか、長明寺HPの
安心論題(殿試勉強用のようなもの) 【歓喜初後】
を出してきています。灘本愛慈先生と言えば、桐渓順忍和上や山本仏骨先生などと並んで、高森顕徹会長がその著『本願寺なぜ答えぬ』で批判した相手方の一人です。『本願寺なぜ答えぬ』では、「宿善について」という灘本愛慈先生の書かれたものを掲載しています。なお、同著では、紅楳英顕先生の
『派外からの異説について』
を全文掲載すると言いながら、実際は掲載しておりません。また、紅楳英顕先生は
現代における異義の研究-高森親鸞会の主張とその問題点-
でも親鸞会教義の問題点を指摘されていますのでご参照下さい。
さて、コメントの中で「名無し」さんは
(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。
と仰っていますが、これもおかしな話です。『今の本願寺』はダメだが、『江戸時代の本願寺』ならよいのでしょうか? しかしリンク先の文章は見る限り明らかに現代文であり、誰かはよく分かりませんが前置きにあるように長明寺の方が「自分なりに纏めたもの」です。この方が江戸時代からの伝統を継承しているならば、少なくとも長明寺の中には善知識がいるということです。これは「蓮如上人以来の善知識高森先生」の否定です。会員の皆さんは、長明寺へ行って安心論題を書かれた方から聴聞された方がいいんじゃないでしょうか?
「名無し」さんはあれだけ退会者の信心を攻撃しておきながら、結局聖教の根拠が出せないのです。本願寺に助けを求めていることが見え透いていて面白いです。そして、本願寺の主張と違うならあんたらの信心は
「本願寺が説く信心でもありません」
まぁつまり間違いだと言いたいんでしょう。
「本願寺が説く信心でもありません」
というのがミソで、『今の本願寺』を肯定しているわけでもないが、その『今の本願寺』が書いているものを根拠としているという、彼の何とも言えないアンバランスな立ち位置が伺えます。
それで本文を読んでみましたが、皆さんも読んでお分かりのように私が求めている聖教の根拠はありません。それどころか【結び】の箇所では、
初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と書かれています。対して親鸞会の主張は、淳心房の言葉で言えば
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
というものですから、信一念の瞬間が行者の意業、つまり三業に明瞭に現れるという主張です。これは
初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。
とあるように間違いです。要は
真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある
とは仰っているが、親鸞会が主張するような
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
といったことは聖教のどこを読んでも見当たらないのです。当たり前です。高森会長が大沼法竜師の味わいを教義と勘違いしてそのままパクっただけなんですから。
信一念の自覚の有無については、既にこの記事で書いています。
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では真宗の信心とはいかなるものかというと、それについては
年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす(鮮妙師『意業非意業之論』)
とあります。信一念の自覚があってもよい、なくてもよい。信一念の自覚がある人も、ない人も、共に仏智に信順したのが真宗の信心だというのです。自身は罪悪生死の凡夫、煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして火宅を出ることのできない、出離の縁有ること無い凡夫であり、そのような私が私のままで「必ず往生させる」という阿弥陀仏の本願の仰せを受け容れ、その御言葉に疑いなく慮りなく往生をおまかせする。それが真宗の信心、他力の信心です。親鸞会ではこのおまかせした瞬間、すなわち信一念の自覚が必ずなければならないというのですが、それは真宗の聖教上に根拠のない妄情であります。
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この中の「仏智に信順」した帰命の信心を淳心房は
「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」
と書いたのですが、彼にはこれが意業安心に見えるようです。それは彼が、安心論題にあるように
歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む
教えを信じているからでしょう。自身が意業安心の最中でそれが真実信心と勘違いしているから、退会者の主張が異安心だとしか思えないのだと伺えます。考え直すも何も、救うも救わないも阿弥陀さまのお計らいなんだから、他の方は分かりませんが淳心房は阿弥陀さまのお計らいにまかせてただお念仏申すのみです。自余の行では仏に成れない、それどころか自力では永遠に流転の苦難を免れない淳心房です。この度の往生は
「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」
のみです。この他に淳心房の信心はありません。
ともあれ、
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という聖教の根拠は「無い」、親鸞会の主張は「間違い」ということで決着です。文句があるのならば、私が再三再四求めている聖教の根拠を挙げて下さい。根拠のみで結構です。根拠を挙げずに何を書こうとも負け犬の遠吠えとしか私を含めて皆さん思われないでしょうから、その点よろしくお願いします。
と書いて、「名無し」さんに
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という聖教の根拠を求めましたが、案の定挙げられず、「名無し」さんの返答はこのようなものでした。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう。ハッキリするとかしないとか、大きな喜びが起きたとか起きないとか、そんなことを問題にしている人の方が合点安心です。意業安心です。私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。これが信心です。
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➝「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」これも「あなたの」意業ではないでしょうか。
あなたは、御聖教を理解した安心である『合点安心』のように思えます。
本当にご自身が救われているのか考え直された方が良いかと存じます。
また、上のコメント全体に対して下の引用(歓喜初後の論題)で答えます。
(前回根拠をあげていたのですが、文言そのものを上げる手間を省いてしまい申し訳ありませんでした。)
また、(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。
また、これ以外のリンクや書物でも内容はそう大きく変わらないと思います。
これに合わなければ、あなたの信心は本願寺が説く信心でもありません。
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http://www.geocities.jp/choumyouji/dennshi.html#3kanngi
【歓喜初後】
謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。
【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念
【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。
【義相】
真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。
信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。
初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。
字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。
【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。
2019-01-26(13:16) :
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本願寺の灘本愛慈先生の安心論題/歓喜初後では都合が悪かったのか、長明寺HPの
安心論題(殿試勉強用のようなもの) 【歓喜初後】
を出してきています。灘本愛慈先生と言えば、桐渓順忍和上や山本仏骨先生などと並んで、高森顕徹会長がその著『本願寺なぜ答えぬ』で批判した相手方の一人です。『本願寺なぜ答えぬ』では、「宿善について」という灘本愛慈先生の書かれたものを掲載しています。なお、同著では、紅楳英顕先生の
『派外からの異説について』
を全文掲載すると言いながら、実際は掲載しておりません。また、紅楳英顕先生は
現代における異義の研究-高森親鸞会の主張とその問題点-
でも親鸞会教義の問題点を指摘されていますのでご参照下さい。
さて、コメントの中で「名無し」さんは
(安心)論題というものは、『今の本願寺』が作ったのではなく、江戸時代からあるものです。その伝統を継承している限り問題はありません。
と仰っていますが、これもおかしな話です。『今の本願寺』はダメだが、『江戸時代の本願寺』ならよいのでしょうか? しかしリンク先の文章は見る限り明らかに現代文であり、誰かはよく分かりませんが前置きにあるように長明寺の方が「自分なりに纏めたもの」です。この方が江戸時代からの伝統を継承しているならば、少なくとも長明寺の中には善知識がいるということです。これは「蓮如上人以来の善知識高森先生」の否定です。会員の皆さんは、長明寺へ行って安心論題を書かれた方から聴聞された方がいいんじゃないでしょうか?
「名無し」さんはあれだけ退会者の信心を攻撃しておきながら、結局聖教の根拠が出せないのです。本願寺に助けを求めていることが見え透いていて面白いです。そして、本願寺の主張と違うならあんたらの信心は
「本願寺が説く信心でもありません」
まぁつまり間違いだと言いたいんでしょう。
「本願寺が説く信心でもありません」
というのがミソで、『今の本願寺』を肯定しているわけでもないが、その『今の本願寺』が書いているものを根拠としているという、彼の何とも言えないアンバランスな立ち位置が伺えます。
それで本文を読んでみましたが、皆さんも読んでお分かりのように私が求めている聖教の根拠はありません。それどころか【結び】の箇所では、
初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と書かれています。対して親鸞会の主張は、淳心房の言葉で言えば
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
というものですから、信一念の瞬間が行者の意業、つまり三業に明瞭に現れるという主張です。これは
初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。
とあるように間違いです。要は
真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある
とは仰っているが、親鸞会が主張するような
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
といったことは聖教のどこを読んでも見当たらないのです。当たり前です。高森会長が大沼法竜師の味わいを教義と勘違いしてそのままパクっただけなんですから。
信一念の自覚の有無については、既にこの記事で書いています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
では真宗の信心とはいかなるものかというと、それについては
年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす(鮮妙師『意業非意業之論』)
とあります。信一念の自覚があってもよい、なくてもよい。信一念の自覚がある人も、ない人も、共に仏智に信順したのが真宗の信心だというのです。自身は罪悪生死の凡夫、煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして火宅を出ることのできない、出離の縁有ること無い凡夫であり、そのような私が私のままで「必ず往生させる」という阿弥陀仏の本願の仰せを受け容れ、その御言葉に疑いなく慮りなく往生をおまかせする。それが真宗の信心、他力の信心です。親鸞会ではこのおまかせした瞬間、すなわち信一念の自覚が必ずなければならないというのですが、それは真宗の聖教上に根拠のない妄情であります。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
この中の「仏智に信順」した帰命の信心を淳心房は
「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」
と書いたのですが、彼にはこれが意業安心に見えるようです。それは彼が、安心論題にあるように
歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む
教えを信じているからでしょう。自身が意業安心の最中でそれが真実信心と勘違いしているから、退会者の主張が異安心だとしか思えないのだと伺えます。考え直すも何も、救うも救わないも阿弥陀さまのお計らいなんだから、他の方は分かりませんが淳心房は阿弥陀さまのお計らいにまかせてただお念仏申すのみです。自余の行では仏に成れない、それどころか自力では永遠に流転の苦難を免れない淳心房です。この度の往生は
「私の心の良し悪しを沙汰せずに、ひたすら「助けるぞ」の如来の仰せをあおぐ。」
のみです。この他に淳心房の信心はありません。
ともあれ、
救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ
という聖教の根拠は「無い」、親鸞会の主張は「間違い」ということで決着です。文句があるのならば、私が再三再四求めている聖教の根拠を挙げて下さい。根拠のみで結構です。根拠を挙げずに何を書こうとも負け犬の遠吠えとしか私を含めて皆さん思われないでしょうから、その点よろしくお願いします。
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