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「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ」「信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ」

前回の記事で「他力の信心を獲たということは我々に判ります」と書きました。ところが、特に親鸞会出身者は他力の信心ということも判らなければ、信心を獲るということも誤解に誤解を重ねていますから、本願の仰せを疑いなく聞き受けていたとしても最初はそれに気が付かないということがあり得ます。

誤解の中でも最たるものと言っていいのが、最近ずっと議論になっていて親鸞会側が根拠を出してこない、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


に関する誤解です。これは、この記事で紹介している

一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた時、煩悩具足が至徳具足と転じた一刹那、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。(『顕正』p.99)

というような大沼法竜師の味わいを教義と勘違いした高森会長の妄想です。高森会長自身の体験談は

はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。『飛雲』もろもろの行業を回してただちに西方に向かふより)

とこのようなものですから、『顕正』で書いているような驚天動地の摩訶不思議な神秘的体験ではありません。信心決定を神秘体験と位置付けることで会員が「自分もそうなりたい」と憧れるように、そして組織拡大活動の起爆剤、促進剤となるように大沼法竜師の著作をパクったのでしょう。

なお、この体験談をもって高森会長の信心が真実信心だともそうでないとも断言できませんが、高森会長は華光会時代と親鸞会時代とで全く異なる信心を教えている、親鸞会創設後は大沼法竜師の著書をパクって信心を語っていることがお判り頂ければ結構です。


信前と信後で劇的な変化があると教えられていないことは「二河白道の譬え」でも明らかです。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。

旅人は、東の岸で釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞き、「決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分」したと書かれています。違いは決定して白道に乗ったかどうか、これだけです。『飛雲』高森秘事の二河白道の譬え話にあるように、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。


要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

ということです。信心獲得の際に何か奇跡的な体験を伴うと信じている人は、まずその思い込み、先入観を持つことをやめましょう。奇跡体験を求めるのならハッキリ言って他宗教に行った方が早いです。


淳心房の場合は、奇跡体験、ハッキリスッキリ体験はありません。27歳の冬のことでしたが、気が付いた時には既に如来の方からの一方的なお助けであることに何の疑いも無くなっていました。「どうしたら」「どうすれば」の心が消えて、「助けるぞ」「我にまかせよ」の仰せの通り往生をまかせるより後生助かる道は無いという思いになっていました。これで地獄へ行こうと阿弥陀さまがお連れ下さる処であり、元々どんな行もできずに地獄なのだから他にどうすることもできない。ただかたじけなくも阿弥陀さまは「浄土へ参らせるぞよ」と仰って下さっているから、その仰せに「お浄土へ参らせて頂きます」とまかせるのみ。あとはただなんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すのみでした。当時生後4ヵ月ほどの長女を抱っこしている時にこのように気付かせて頂きました。こうして本願力回向の法、只今の救いを計らい無く聞き受けた以外、特別な体験はありません。当初は訳が分からなかったので同行に尋ね、また聖教を繰り返し読んで、それでようやく分からせてもらいました。

中には、特別な体験をされた方もあるかも知れません。淳心房のような思いとは違う思いになられた方もあるかも知れません。どちらでもよいですが、親鸞会教義が前提にあると特に、他力の信心を頂いてもそれとは判らず、ただ今までと違う心境に戸惑うしかないと思います。今これを読んでいる方で、何か心境の変化があったという方。決して恥ずかしいことではありませんから、先生やお同行にどんどん尋ねてみて下さい。

『御文章』2帖目1通
そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。

『御一代記聞書』(86)
一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

蓮如上人はこのように仰り、よくよく聴聞し、信心や思いを語ってゆくことが大事だと教えられています。先生やお同行が信心を判定するのではありませんが、聴聞や談合をさせて頂くことで自身の信心が如来回向の他力の大信心なのかどうなのか分かってゆくことと思います。

信の一念の際にもの凄い体験をする、火に触ったよりもハッキリする等と思い込んでいたら、そういう体験をしなかったら、ハッキリしなかったら自分はまだ救われていないんじゃないかと思う他ありません。まして人に聞くまでもなくハッキリ判る、人に聞いているようでは信心決定ではない等と思い込んでいたら、不信心の表れだと恥ずかしく思って人に尋ねることすらしなくなってしまうでしょう。

凡夫が地獄に堕ちるのは当たり前です。こんなもの、当然の報いであって一大事でも何でもありません。その凡夫がこの度仏に成るとしたら、これは一大事です。また、そんな法があるのにそのお救いにあずかれないとしたら、これも一大事です。そんな一大事ですから、聞いて恥かくとしても一時の恥です。しかし聞かぬは一生どころか、万劫の恥です。お前こんな事思ってたんかと馬鹿にする奴もあるかも知れない。でも、語らないことには何も分かりません。とにかく、自身が信頼している先生やお同行に、心中を(言える範囲で構わないので)ありていに申し上げることが大切かと思います。もし淳心房やしゃあにお尋ねになりたいという方がありましたら、ブログ右上のプロフィール欄にメールアドレスがあるのでそちらへご連絡下さい。


ともあれ、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


に関しては、そのように仰せられた聖教の根拠は無いということで決着しました。現役カルト信者も理想論者も聖教の根拠を出さずに高森会長の説(大沼法竜師のパクリ)に固執するのみです。未だ信心を獲ていない人も、既に本願を信じ念仏申す身となった人も、「細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流」し、「信不信ともに、ただ物をい」って、皆人一同に今度の一大事の報土往生をよくよく遂げて頂きたいものです。
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いろんな信心あるんですね♪


めでたしめでたし

Re: 元会員様

この度も親鸞会側は退会者を打ち破れませんでした♪

めでたしめでたし

No title

会員は仏縁の人と、会長との縁の二種の人がいます。
仏縁の人はやがて目覚めますが、会長との縁の人は永遠に目覚めません。
何故なのかは、簡単です。
会長の生き方、がその答えです。
信心についてやはり根拠を出せなかった元○○さんはどちらでしょうか。

いえいえ
淳心房どのにみみが無いだけ♪

No title

元会員のアニキ、覚悟はよいか?

Re:元会員さん

こんばんわ、Abcです。

>いえいえ
>淳心房どのにみみが無いだけ♪

ふむ、「みみが無いだけ」ですか、それでその「みみが無い」ものに対して、あなたはどのようになされたいのでしょうか。よもや、「高森会長の教え」を聞いていただきたい とは申しませんでしょうね? もし、あなたがそのように申し上げるのでしたら、「仏法は聴聞にきわまる」とはいわれますが、「六度万行」という言葉を使わずに「高森会長の教え」を示していただけないでしょうか。

 また、「あなたが高森会長に対する思い」もあわせて記していただけたらとおもいます。よろしくお願いします。

Abc

コメント返信

元会員様

カルト教の創作教義を聞く耳なんかあるわけないじゃん♪ まぁカルト教では無眼人無耳人の意味すら知らないか。高森教という「九十五種の邪道」につかえている人を無眼人無耳人と言うんだよ。覚えておきたまえ。

かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉

反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人耳のない人〉と名づける。」

「九十五種の邪道に事ふ」ような人を「無眼人」「無耳人」と釈尊が仰ったのです。

『飛雲』「凡夫の浅智」以前に無智なんですよ
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-0fa0.htmlより



2019-01-31(18:05) の名無し様
園児様
Abc様

彼はかまってちゃんなので、まぁお時間があれば適当にお相手して差し上げて下さい。先に述べたように無眼人無耳人ですからまともな議論はできないでしょう。

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Re: 秘密コメント様

> 高森会長の教えを一言に要約すれば「嘘をつけば幸せになれる」だと私は見ています。

言われて考えてみると確かにそうですね。高森会長の経歴も華光会に在籍して活動していた過去を抹消、つまり噓をついていますし、高森会長の著書も他人からの剽窃で、あたかも自分が書いたものかのように噓をついていますし、新入生を誘うにしても配慮という名の噓をついていますし、親に対しても配慮という名の噓をついています。

言葉は浄土真宗の用語を沢山使っていますが、その中身は外道の中でも最もひどい部類でしょう。浄土真宗亜流どころか完全に邪偽の宗教です。お互い本当に退会できて、心から幸せに思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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