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「みみが無い」のは自分自身であることにすら全く気付かない愚かな現役カルト信者

私もかつてそうだったから判るのですが、高森教徒は実に愚か者です。たかだか350問の短冊教学を覚えて「大導師」、それに少し応用を加えた試験に合格すれば「講師」、講師試験に5回受かれば「大講師」の学階を授かり、その程度の知識で本願寺の勧学和上より上だ位に思っているのですから。

実際は『御文章』に何が書いてあるのかすら分からない、まして『教行証文類』なんて分かるどころか一度も通読さえしたことがない、七祖聖教に至っては読むことを禁止されているというのですから当然知らない、それが親鸞会会員の偽らざる実態です。

これに加えて、親鸞会の邪義ばかりを吹き込まれ、正しい意味を教えられないまま自力もどきの「高森の行」を授けられ、無常と罪悪に責めたてられて組織拡大活動に邁進しているだけなので、念仏の行者、信心の行者とは縁遠い、高森教徒の名が相応しい人々です。

ですから、親鸞会会員は真宗の知識も信心も、本願寺の勧学はおろか、司教、輔教、助教は勿論、得業という一番低い学階の先生にさえ全く歯が立たないでしょう。それどころか、在家の信者である林遊さんや、飛雲さんを始めとする博識の退会者の方々にも遠く及びません。淳心房はそれらの方々よりも知識においては下です。その淳心房ごときを言い負かせられないようでは笑止千万、話にならないです。会員は、まず自身の知識の無さ、間違った真宗教義の理解をしていることをアキラカニミテ恥を知りましょう。


聖教の根拠も挙げられず、高森教に固執する現役カルト信者が吠え続けていますが、こちらはカルト創作教義を基に議論する気は更々ありません。聖教の根拠をもって、その教えが浄土真宗かどうかを判定しようとしています。なので、創作教義を聞く耳はありません。聞いてほしければ聖教に基づいた説明をし、親鸞会教義の正当性を訴えて下さい。スマホでやりづらいなど、怠慢の言い訳でしかありません。

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いえいえ
淳心房どのにみみが無いだけ♪

2019-01-31(19:33) : 元会員

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またまたこんな面白いことを書いてきて、本当に話題提供に余念が無い現役カルト信者です。みみが無いのはどちらだとツッコんでくれと言わんばかりのコメントに失笑を禁じ得ません。

ちなみに、「めが無い」「みみが無い」と釈尊や親鸞聖人が仰るのは、他ならぬ高森教徒のことです。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らず、「みみが無い」のは自分自身であることにすら全く気付かない愚かな現役カルト信者のために、『飛雲』「凡夫の浅智」以前に無智なんですよからその意味を紹介します。

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高森会長もその信奉者も、信仰云々以前に、あまりにも無智です。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らないのですから。「凡夫の浅智」でも少し勉強すれば、「無眼人」「無耳人」の意味くらいは判るでしょうに。
無眼人」「無耳人」は『目連所問経』に説かれてあることですが、道綽禅師が『安楽集』で紹介されています。

また『目連所問経』のごとし。「仏、目連に告げたまはく、〈たとへば万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴・富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となれども、さらにはなはだ困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。

(現代語訳)

また《目連所問経》に説かれているとおりである。

世尊が目連に仰せられる。「たとえば、よろずの長い川の流れに漂う草木が、前のものは後のものを顧みず、後のものは前のものを顧みず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間のありさまもまたそのとおりで、威勢や地位や財産や、また歓楽の自由自在なものでも、ことごとく生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏のみ法を信じなかったならば、後の世に人間に生まれても、困苦の身となり、千仏の出られる国土に生まれることはできぬ。それゆえ、わたしは、〈無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、人々はこれを行じないから、往生することができず、反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人耳のない人〉と名づける。」


とあります。「九十五種の邪道に事ふ」ような人を「無眼人」「無耳人」と釈尊が仰ったのです。

これを承けられて親鸞聖人も『浄土和讃』諸経讃

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ


と仰り、また『御消息』

釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。

と仰っています。
念仏誹謗の高森会長とその信奉者は「無眼人」「無耳人」で間違いないでしょうが、真宗の同行は「無眼人」「無耳人」ではないですね。全人類が「無眼人」「無耳人」と喚く人が、「無眼人」「無耳人」です。

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良く言って「雑行の勧め」、実態は雑行にもならない「悪業悪行の勧め」をしている親鸞会は浄土真宗どころか仏教どころか「九十五種の邪道」そのものでしょう。行を見ればその人の宗教が分かると言われますが、

・高森会長の話を自力で命がけで聞く
・親鸞会に人を勧誘する
・親鸞会に献金する
・会長及び上司の指示に無条件に従う


これらを中心に、孝養父母や親切、言行一致等の世俗の善行をくっつけて体よく見せているのが「高森の行」ですから、ただの一新興宗教であり、「九十五種の邪道」の一つです。対して、浄土真実の行、選択本願の行として親鸞聖人が選定されている真実の行

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。「行文類」大行釈

です。本願力回向の称名大行こそが「浄土真宗の行」なのです。無碍光如来の名を称する、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来と称えることが「浄土真宗の行」であり、南無阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来という名号のいわれを計らいをまじえずに聞き受けて如来の計らいにまかせている、本願力に乗託して自力を離れているのが「浄土真宗の信」です。

こうした「浄土真宗の行信」を知らず、信を誤り行を軽んじ、あまつさえ

自力念仏の者は必堕無間

等と念仏誹謗しているのが高森会長と愉快な仲間達です。「信仰云々以前に、あまりにも無智」と飛雲さんに一刀両断されるのは当たり前の当たり前の話です。


退会者や本願寺の先生方にきく耳を持ってほしいなら、まずは国語の能力と最低限の知識を身に付けるところから始めましょう。そして聖教に基づいて親鸞会の教えこそ「唯一絶対にして真実の宗教」と宣伝して下さい。それをしない、できないならば、退会者の批判を指を加えて黙って見ているよりありません。尤も、高森会長が公開法論に応じないままもうすぐ7年ですから、その下がまともな法論に応じないのは当然ですが。
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20願の入り口を閉ざし…

>自力念仏の者は必堕無間
そんなコトまで言ってたのですか、高森さんは…
としか言いようがないです。

20願(自力称名)の入り口を閉ざすコトで、18願にも入れなくして…
て、その前に…
《19願にも入れなく》してるのでしたね、高森さんは…
ただただ閉口するばかりです…!

Re: まあち様

> >自力念仏の者は必堕無間
> そんなコトまで言ってたのですか、高森さんは…

⇒高森会長の主張によるとそうなります。親鸞会では、

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(『御文章』2帖目2通)

を断章取義して、信心決定していない全ての人は無間地獄に堕ちるとカルト教義を説いています。ですから、外道の人、一般の人、聖道門自力修行の人、浄土門内でも自力諸行往生を目指す人、自力念仏往生を目指す人、全て関係なく獲信していなければ必堕無間というわけです。これこそ因果の道理に反しているのですが、これはなぜか疑問に思わないのが愉快な仲間達です。

高森会長としては20願に入って専ら念仏してばかりで19願の布施をされなくなったら困るので、会員は18願はおろか20願にすら入れません。実質は、仰る通り「高森の行」ですから

《19願にも入れなく》してる

わけです。会員の皆さんは早く高森の邪道を出でて、選択本願の行信に帰依して頂きたいものです。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

私にとっては「念仏ないから信心ひとつ」ですかね。これほどに突き刺さったものはありません。

釈迦:「念仏:称仏名 称南無阿弥陀仏」をすすめられる。

源空聖人『選択集』より
 「釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。
 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。」

浄土三部経『観経』
「仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。」
 「仏告阿難 汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名。
仏 説此語時 尊者目犍連・阿難及韋提希等 聞仏所説 皆大歓喜。」

善導禅師『観経四帖疏』 には、
 「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」
 とあります。ここに「弥陀の名号を付属して」とありますように、「真宗」の宗とはすなわち「称名念仏」であります。

この文節では、釈迦、善導禅師、源空聖人の書物を用いましたが「七高僧」はどの書物を紐解いても

「ただ(唯)、浄土を通入す可しと明かし」(道綽禅師)
「偏えに安養に帰すべし」(源信僧都)
「安楽国を願生せよ」 → 「一心に尽十方無碍光如来に帰命せよ」(天親菩薩・曇鸞大師)

 「もし人疾く不退転地に至らんと欲せば、
恭敬心をもつて、執持して名号を称すべしと」(龍樹大士)
「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。」

とございますし、親鸞は以上のことをもって、「唯可信斯高僧説」と『正信偈』をしめくくられています。

高森さんはこの「念仏:称仏名 称南無阿弥陀仏をすすめられる」という45年の教えを「念仏ないから」の一言で片付けてしまうという、ある意味「すごい人」です。

Abc

Re: Abc様

> 私にとっては「念仏ないから信心ひとつ」ですかね。これほどに突き刺さったものはありません。

念仏高田と呼ばれる高田派からしたらそうでしょうね。
念仏を抜いて信心を強調し、その信心を摩訶不思議な神秘的体験と位置付けて、会員を獲信・往生とは別の方向へ導いているのが親鸞会だというのは明らかです。

阿頼耶識が弥陀のつくられたみみで名号を聞と聞くので・・・

皆さんをみみ無し!ww(笑

と、だらぶつが罵ったまでです。皆さんの如く。

Re:元会員さん

こんばんわ、Abcです。

>阿頼耶識が弥陀のつくられたみみで名号を聞と聞くので・・・
>皆さんをみみ無し!ww(笑
>と、だらぶつが罵ったまでです。皆さんの如く。

たしかに「聞」とは「弥陀より賜りたる信心」でありますから、その通りですが、同行をそのように謗ることはいただけないと私は考えております。

親鸞は『お手紙』にて
 「この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。」

と記されております。

また同書には、
 「いかにいはんや、往生極楽の大事をいひまどはして、常陸・下野の念仏者をまどはし、親にそらごとをいひつけたること、こころうきことなり。

 第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。」 と

「阿弥陀仏のいわれを言い惑わして 念仏者を惑わし、(ここでは親に空言をいいといわれているが、)親鸞に空言を言われることは心憂き(こころうき / 悲しいこと)ことである。

 「選択本願を 萎んでいく華に例えられて 全て捨て去っていく」と聞こえること本当に謗法であり、五逆の罪を好んでひとを惑わすことは悲しい限りである。」

と親鸞や阿弥陀仏がかなしまれています。よくよくお読みになられてください。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

>阿頼耶識が弥陀のつくられたみみで名号を聞と聞くので・・・
皆さんをみみ無し!ww(笑
と、だらぶつが罵ったまでです。皆さんの如く

→ 自力の執心。まだ気づかんか。まだ気づかんか。

Re: 元会員様

> 阿頼耶識が弥陀のつくられたみみで名号を聞と聞くので・・・

⇒高森教徒の盲信そのものですね。こんなことをどこに仰っているんですか? 私は親鸞聖人が阿頼耶識がどうとか仰った御文を知らないので、そう教えられた聖教の根拠を示して下さい。お手持ちの法蔵館の真宗聖典のページ数を示して下されば結構です。

Re:淳心房さん

こんばんわ、Abcです。

>私は親鸞聖人が阿頼耶識がどうとか仰った御文を知らないので、そう教えられた聖教の根拠を示して下さい。

「阿頼耶識」は「八識」のひとつですが、このことは「真宗」では語られてはいません。よって、私のほうより論拠の提出はできかねますが、もしかしたらあるかもしれません。

贔屓目に「親鸞の教え」にあわせますと、この「八識」、「身口意の三業」はともに「凡夫自力」でありますから、「すてよの命 帰せよの命(捨自帰他)」といわれている「すてよの命」に当たります。
 ※「すてよの命」とは「命を粗末にする言葉」のように聞こえてしまいますので、あまりつかわれることはありませんが、

 「浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。」『消息集』より

 「はかりみれば、
それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」『選択集』三選の文 より

などの太字の箇所は同じことを言われております。
源空聖人の御言葉には、さらに「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり」と記されておりますが、これこそが我らが真宗の宗(むね)である、「称名念仏」であります。

親鸞は「帰せよの命」 「義なきを義とす」 「流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ (流転輪廻の私たちであるから 阿弥陀様は弘誓のふねにのせられたのである)」 「恭敬の心に執持して 弥陀の名号称すべし(一心に(ふたごころなく)弥陀に任せて 弥陀の名号を称えるのだ)」と懇ろにいわれております。

※「南無阿弥陀仏」と「帰命尽十方無碍光如来」について、
 『消息集』に
 「ある人の申し候ふなる、南無阿弥陀仏ととなへてのうへに、帰命尽十方無碍光如来ととなへまゐらせ候ふことは、おそれあることにてこそあれ、いまめがはしくと申し候ふなる、このやういかが候ふべき。」
 「南無阿弥陀仏をとなへてのうへに無碍光仏と申さんはあしきことなりと候ふなるこそ、きはまれる御ひがことときこえ候へ。帰命は南無なり、無碍光仏は光明なり、智慧なり、この智慧はすなはち阿弥陀仏なり。阿弥陀仏の御かたちをしらせたまはねば、その御かたちをたしかにたしかにしらせまゐらせんとて、世親菩薩(天親)御ちからを尽してあらはしたまへるなり。このほかのことは、少々文字をなほしてまゐらせ候ふなり。(乃至) また南無阿弥陀仏と申し、また無碍光如来ととなへ候ふ御不審も、くはしく自筆に御消息のそばにあそばして候ふなり。かるがゆゑに、それよりの御文をまゐらせ候ふ。あるいは阿弥陀といひ、あるいは無碍光と申し、御名異なりといへども心は一つなり。阿弥陀といふは梵語なり、これには無量寿ともいふ、無碍光とも申し候ふ。梵・漢異なりといへども、心おなじく候ふなり。」

とございましたので、あわせて記しておきます、ご一読ください。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

> 「阿頼耶識」は「八識」のひとつですが、このことは「真宗」では語られてはいません。よって、私のほうより論拠の提出はできかねますが、もしかしたらあるかもしれません。

⇒そうですか。Abcさんは私と違って真宗の専門家ですから、そのAbcさんが知らないのでは当然私が知っているはずはありませんね。

人の体を書いて、頭が「上の心」、腹底が「下の心」と分けまして、「下の心」が聞と聞いたのが信心決定というのは以前から高森教で言われていたことなのですが、Abcさんはご存知でしょうか? だから現役カルト信者はそれを信じ込んで堂々と書いてきているのでしょう。

Re:淳心房さん

おはようございます、Abcです。

>人の体を書いて、頭が「上の心」、腹底が「下の心」と分けまして、「下の心」が聞と聞いたのが信心決定というのは以前から高森教で言われていたことなのですが、Abcさんはご存知でしょうか?

親鸞会にいた時にわずかに聞いたことがあるたとえ話ですね。「そういえばこのようなたとえ話があったなー」と今、おもいだしました。

当然ですが「真宗」では「この例えそのもの」がありません。
なぜならば、先にも記したように、「信心」「念仏」ともに「如来より賜りたる」ことでありますから、「自分の上の心が」、「自分の下の心が」と「自分が」とつけている時点で「自力」以外のなにものでもありません。

親鸞は、「自分の身について」、『和讃』にいわれております。
 「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ

 「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは 苦海をいかでかわたるべき

 「蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん

のように、「無慚無愧のこの身」「小慈小悲もなき身」「蛇蝎奸詐のこころ」といわれ、ここには示しませんでしたが「有漏の穢身」ともいわれております。

このことより、「上の心」、「下の心」ともに「自力」でありますから、親鸞は上記のように言われております。
 (ここからは推測ですが、「上の心」が「意識」で、「下の心」が「阿頼耶識」なのかなとは想像できます。)

Abc

Re: Abc様

知っていらっしゃいましたか。Abcさんは在籍が短かったようなのでご存知かどうかと思ってお尋ねしました。

仰せの通り、上の心が、下の心がと自分の心を問題にしている時点で自力そのものです。そんなものはどうでもよろしく、ただ本願の仰せを聞いて本願力をたのみ、自力を離れる以外に信心は無いことを知って頂きたいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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