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親鸞会の主張を裏付けるどころか、むしろ逆に親鸞会の主張を否定する根拠を提示していることに気づかない理想論者

親鸞会の理想論者が次のようなコメントをしています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>今示された「長明寺さんの主張」に関しましては私は「同じ考えであります」が、あなたはなぜこの文言を出されて「淳心房の言われていることは間違いである」といわれているのか、がいまいち要領を得ません。

お答えしますと、「歓喜初後」では、

初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。

とあります。すなわち、二つの歓喜が説かれています。

しかし、淳心房氏は、つぎのようにコメントされています。


『言っておきますが、大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名ですからね。大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題でしょう』


つまり、「初一念の歓喜がない」がないと言う主張です。

従って、本願寺から見ても、異安心と言えますね。

だから、この根拠に反論ができなく、論点すり替え(引用することを自体を非難)しています。

しかし、祖師は儒学者を非難しながら、「論語」を引用されています。聖人を「みっともない」と仰っているのでしょう。悲しいことです。

2019-02-01(22:48)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

現役カルト信者よりは詭弁に長けていることは間違いありませんが、やはりカルト教義に脳を浸食されているらしく、国語の能力、読解力が常人と比べて著しく低下しています。

この中の「長明寺さんの主張」とは安心論題(殿試勉強用のようなもの)にある以下の文章です。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
【歓喜初後】

謹んでご論題歓喜初後を按ずるに
【題意】本願成就文では、「信心歓喜」と示されているが、その「歓喜」とは初一念からあるのか、それとも後続に出てくるものかを検討し、歓喜は初後に通ずるのであり、初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする。
【出拠】
聞其名号 信心歓喜 乃至一念
【釈名】歓喜は信心の相であり、信楽の楽の意味。楽には種々の意味があるが、ここでは「よろこぶ」「たのしむ」という意味。初後の初とは、成就文の一念(時剋の極促:初一念・信一念)とこと。初後の後とは、成就文の乃至であり、信心の後続、相続のこと。
【義相】
 真宗は信一念に正定聚不退の身になる法義である。しかし、初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む。が、初一念に歓喜はないとすれば、信楽・信心歓喜の一念であるとも言えない。ここに問題が存する。
 信楽とは「金剛の真心」「破壊すべからず」等といわれるように、初起から後続まで続いてゆく。また、信楽は無疑心であり、この心のあり方がそのまま信心歓喜と示されているのであるから、無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない。
 初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。
 字訓釈には、信楽のことを「歓喜賀慶之心」とあり、正信偈には「能発一念喜愛心」とあり、曇鸞讃には「一念歓喜するひとをかならず滅度にいたらしむ」とある。これらの歓喜は信心の異名だが、信心正因をいいかえて歓喜正因とはいわない。私が名号を信受すること、その信心こそが往生成仏の因であるという意味で信心正因というのであり、身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。
【結び】成就文に信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない。そして信心が初後一貫するのであるから歓喜も初後一貫する。初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である。
と窺います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

この中で「長明寺さんの主張」と「淳心房の主張」を比較しますと

これらの歓喜は信心の異名」⇒「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名

ですし、

初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。」⇒「大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題

です。長明寺さんと淳心房とでどこか違いますか? 普通の読解力をもってすれば同じことを言っているのがお判り頂けるのではないでしょうか。

文章から読み取れるように、『初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」』とは「信心」のことです。『信心歓喜といわれる信心と歓喜とは別のものではない』とあることからも明らかです。ここで淳心房の主張は、

真実の信楽(信心)には一念(時剋の一念)ということがある

であって、「信心歓喜」と表される真実の信楽が開け起こる最初の時がある、というものです。つまり

初起一念の歓喜ということがある

というものです。それを勝手に

「初一念の歓喜がない」がないと言う主張

と捏造するのはやめてもらいたいものです。

ここで問題は、親鸞会が主張しているように

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と言えるのかということです。この主張は言葉を換えれば、

初起一念の歓喜は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

となります。これは【歓喜初後】の文章を読めば明らかなように、

「行者の三業にあらわれたものではない」初起一念の歓喜がどうして、必ず、我々の上でハッキリと自覚できますか?

というわけで間違い、異安心です。【歓喜初後】の文章は、淳心房の主張を裏付けるものでこそあれ、親鸞会が主張するようなことを裏付ける根拠とはなりません。むしろその逆です。

・初起の歓喜は行者の三業の造作ではないことを明かにする
・初一念の歓喜が自己の意業であるとすれば、歓喜正因、意業安心、一念覚知といった誤解を生む
・無疑心(信)がそのまま歓喜心(楽)であり、信心と歓喜は別ものではない
・初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜
・初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない
・これらの歓喜は信心の異名
・初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。三業の上にあらわれるのは第二念以後の後続である


よく読んで頂きたいものです。これらを読んで

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と主張しているのだとしたら、よほど読解力に欠けています。現役カルト信者よりは随分マシだと思っていたのですが、どうも五十歩百歩のようです。親鸞会の主張を裏付けるどころか、むしろ逆に親鸞会の主張を否定する根拠を提示していることに気づかないという、実に愉快な仲間達の一人であることが明白です。


それにしても、理想論者の文章中に

本願寺から見ても、異安心

とあるのがまたミソです。この言葉の裏には

まして正しい信心を説かれる高森先生から見たら、完全に異安心

という意図があるのが見え見えです。彼は現在の本願寺の教義を高森会長の説に幻惑されて間違い、異安心と信じ込み、親鸞会、高森会長の主張こそ正しい浄土真宗だと狂信しているのでしょう。心から正しいと思っていない団体の文章を持って来て退会者の主張を間違いだとし、聖教の根拠を基に議論しないのは、自身が拠り所としている教義に自信が無いことの表れです。

親鸞会の主張こそ真実だという自信があるのなら、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という聖教の根拠を示しましょう。それがなされない限り、

親鸞会の主張は浄土真宗ではない

ということにしかなりませんので悪しからず。


なお、文章を書いている途中に新たなコメントが来たので、こちらにも紹介し、また淳心房からも質問をします。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
私の過去のコメントをよくよく見て頂いてもわかるかとおもいますが、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」とは主張していません。

過去に「その人は、救われてもハッキリしない(救われた時の自覚がない、いつとはなしに救われる)、救われても大きな喜びが起きないと言いますが、なぜだと思いますか?」

と書きましたが、これは「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

「いつとはなしに救われる」の否定が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ということではありません。

それは、前に何度も言ったように0か100で物事を考えていらっしゃるように思います。

あなたは、それを親鸞会の主張ともいわれますが、それほどまでに、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことに、こだわる理由を教えて頂けないでしょうか。

2019-02-02(07:03)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。
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No title

前の記事にコメントしましたが、こちらにもコメントします。

>私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。

→第二念後以降のことです。

ではなぜ、「救われた時の自覚」を問題にしていると、あなたは、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのでしょうか。
教えて頂ければと思います。


あなたは、上の記事で「捏造」と言われていますが、わたしから見ればあなたも「捏造」しています。

私は「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していないのに、それを主張しているかのように何度も「捏造」しているからです。


これ以外にもあなたは自分がしていることを充分に理解していません。


以前の発言に、

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
連休明けで仕事に出たところが、尋常じゃない数の荷物・・・。午前中指定は全て時間内に回り切ることを諦めました(笑) 指定すれば届くと皆さん思っているかも知れませんが、そうではありません。現場は相当混乱しているので、営業所にあるにはあるのだけれど見つからないという荷物も相当あります。指定通りに来なくて怒っている客が少なからずいますが、元々はあんたの欲望が生み出した怒りやないか(-_-;) この記事をお読みの皆様はどうぞそのような愚者になることなく。欲しい商品がありましたら、今は堪えて、どうぞ年明け以降にお願いします。で、年明けて何買おうと思ってたか覚えてないという程度の荷物は所詮要らない荷物です。そういう商品は注文されないのがベストです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この発言に対して、私が、「あなたも愚者ですよね」質問したところ、「そうです。貴方はどうですか?」と答えています。

自分が愚者だとわかっていれば、同じ愚者について、『この記事をお読みの皆様はどうぞそのような愚者になることなく。』とは書かないでしょう。

程度が低いと言わざるを得ません。

また、質問されたことが気に触れたのか、収まりがつかなかったのか。私に質問し返しています。

また、発言に品がないです。これも程度の低さを表していると思います。

Re:淳心房さん 名無しさん

こんにちは、Abcです。

>「長明寺さんの主張」と「淳心房の主張」を比較しますと

>「これらの歓喜は信心の異名」⇒「大慶喜心とか広大難思の慶心とは真実信心の別名」

 >「初起一念の歓喜は「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、行者の三業にあらわれたものではない。」⇒「大きな喜びがあるとか、無いとかというのは意業の問題」
 >です。長明寺さんと淳心房とでどこか違いますか? 普通の読解力をもってすれば同じことを言っているのがお判り頂けるのではないでしょうか。

エントリーを立てての詳細な説明、ありがとうございます。読ませて頂きました。

このなかで「理想論者」さんは、
>初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。

とあります。すなわち、二つの歓喜が説かれています。

この文言は理解できますが、

>しかし、淳心房氏は、「初一念の歓喜がない」がないと言う主張です。

と言う箇所は依然として要領を得ません。

このエントリーにて、淳心房自身も
>「初起一念の歓喜ということがある」

といわれているように「初起一念の歓喜」につきましてはその通りかと思いました。ただ、

淳心房さんが、 「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものではない」、「信・不信ともに云々」 といわれ、

長明寺さんの主張として、「初一念の歓喜とは、「仏願力の摂受に対して疑雲の晴れた即時の心相」であり、身口意の三業によろこびをあらわすのは、後続の歓喜である。聖人が、「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿であり、初一念の時に身心にわたって歓喜があらわれるという意味ではない。」、「身口意にあらわれる喜び(歓喜)が因となって往生が決定するのではない。よって歓喜正因ということはできない。 → 初起の歓喜は行者の三業の造作ではない」 と記されており、

親鸞は「「言歓喜者、形身心悦予之貌也(信巻)」「歓喜といふは、歓はみをよろこばしむるなり、喜はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてむずと、かねてさきよりよろこぶこころなり(一念多念文意)」といわれるのは、相続の姿」として顕され、今議論されている「行者の三業」に関しまして、

『歎異抄』9
 「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。(乃至)踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]」

とございます。先ずは、論拠の提示と致します。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re:名無しさん

こんばんわ、Abcです。

>あなたは、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのでしょうか。

 淳心房さんが当問題を議論となされているのは、高森さんが「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」といわれているからであります。
 名無しさんが、「高森さんはこのように言われているが、わたしはこのように考えている」と示していただけたらカタがつくかとおもいます。

>私は「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していないのに、それを主張しているかのように何度も「捏造」しているからです。

ふむ、あなたは「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できると主張していない」と仰りますか。この主張を通しますと、「高森さん(親鸞会)の教義は違えている」となりますが、それでよいでしょうか?

私は「宅配の荷物の件」については詳しく書きませんが、宅配業者は、クライアント(エンドユーザー、顧客)に届ける際、その「顧客の感情」をもって「次の励み」にもなり、「ストレス」になったりします。極論をいいますと、「ドローンで家の前の所定の場所に置くようにプログラムする」という行い(amazonなどが実験的におこなっています)もありますが、宅配業者としましては「お客様に商品を確かにお渡しする」ことがなによりの励みになりましょう。

この「世の生業」は仏教と直接の関係性はございませんが、
淳心房さんにおいては、「世の生業:宅配」と「六字のみ名を称え:称名念仏 南無阿弥陀仏」はともに大切なものでありましょう。

Abc

コメント返信

>私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。
>
> →第二念後以降のことです。

⇒お答え頂きありがとうございます。それでは、貴方は

 即ち、真実の信仰には一念がある。一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた時、煩悩具足が至徳具足と転じた一刹那、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。しかし、思慮分別を越えるいっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。(『顕正』p.99)

と書いている高森顕徹会長の説を否定する立場なのですね。よく分かりました。


> ではなぜ、「救われた時の自覚」を問題にしていると、あなたは、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのでしょうか。
教えて頂ければと思います。

⇒上に書いたように、高森顕徹会長が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と断言しているからです。貴方は、そのような高森顕徹会長を師と仰ぎ、その教えを受けている親鸞会の会員ではないのですか?


> 私は「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していないのに、それを主張しているかのように何度も「捏造」しているからです。

⇒それは申し訳ありませんでしたね。では、貴方は「信一念の瞬間は必ずしもハッキリと自覚できるわけではない」という立場なわけですね。もし違っていたらお知ら下さい。



Abc様

> 淳心房さんが当問題を議論となされているのは、高森さんが「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」といわれているからであります。
 名無しさんが、「高森さんはこのように言われているが、わたしはこのように考えている」と示していただけたらカタがつくかとおもいます。

>私は「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していないのに、それを主張しているかのように何度も「捏造」しているからです。

ふむ、あなたは「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できると主張していない」と仰りますか。この主張を通しますと、「高森さん(親鸞会)の教義は違えている」となりますが、それでよいでしょうか?

⇒代弁して頂きましてありがとうございます。そういうことです。親鸞会会員は、高森顕徹会長の教えを絶対的なものとして信じている人達ですから、当然「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していると思っていたのです。

名無しさん、このようなわけです。名無しさんは、「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか、信じていないのですか、お答え頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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