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「救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ」「信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ」という高森顕徹会長の主張を否定する親鸞会の理想論者

「埼玉恵日会」の話は今回はさておき、本分に戻ります。今日は、この記事で紹介している理想論者のコメントと、コメント欄の彼のコメントがツッコミどころ満載なのでそれについて述べていきます。まずは

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
しかし、祖師は儒学者を非難しながら、「論語」を引用されています。聖人を「みっともない」と仰っているのでしょう。悲しいことです。

2019-02-01(22:48)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

から。これは、「化身土文類末」外典

『論語』にいはく、「季路問はく、〈鬼神に事へんか〉と。子のいはく、〈事ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや〉」と。{以上抄出}

【現代語訳】
『論語』にいっている。「季路が問う。<鬼神に仕えてもよいものでしょうか>と。孔子が答える。<仕えてはならない。人がどうして鬼神に仕えることなどできようか>」

の引文を言われていると思われます。この『論語』を何のために親鸞聖人は引文されたかを全くご存知ないようなので教えてあげます。「化身土文類末」は、全ての宗教現象を真・仮・偽の三種に分類した中、偽の宗教を取り扱っています。偽の宗教とは、人の欲望や煩悩を増大し満足させる宗教、欲望を肯定し煩悩を煽るような邪偽なる宗教のことです。『絶対の幸福』だとかいう幻想的な楽を説いて人の欲望や煩悩を増大し、欲望を肯定し煩悩を煽る親鸞会のような邪偽なる宗教のことです。「化身土文類末」

それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、

【現代語訳】
ここで、さまざまな経典により、真実の教えと虚偽の教えとの区別を明らかにし、仏教以外の誤ったよこしまな考えを戒めることにする。

と書き出され、『涅槃経』、『般舟三昧経』、『大集経』、『華厳経』、『首楞厳経』、『潅頂経』、『地蔵十輪経』、『集一切福徳三昧経』、『本願薬師経』、『菩薩戒経』、『仏本行集経』等の経典、更に論釈や、聖道諸師の言葉を引いて、仏教以外の誤ったよこしまな考えを戒めておられます。その多くは鬼神に仕えることへの教誡ですが、その最後に外典の『論語』を引いて、鬼神に仕えることを誡めているのです。要は、

外道の言葉で外道を誡めているのであって、外道の言葉で仏教の真実性を証明しているのではない

ということです。

一方、理想論者は「異安心」と非難している本願寺の著作物の言葉で親鸞会教義の正当性を証明しようとしています。本願寺の学者を非難しながら、「本願寺の著作物」を引用することを正当化しているのです。淳心房が自分達の論拠に本願寺の著作物を出していると理想論者を批判しているのは「論点すり替え」なのかどうか、少し考えれば判ることです。これが分かれば、上のコメントは実に噴飯物だと判るでしょう。

親鸞会の主張が正しい浄土真宗だと言いたいのなら本願寺の著作物ではなく聖教に根拠を求めるべきです。それを彼は聖教の根拠を挙げられないものだから、「異安心」と非難している本願寺の著作物の中に自分達に都合が良さそうな箇所を抜き出しているのです。それを私は「みっともない」と言っているのです。


そして、根拠が挙げられないと今度は

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
私は「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張していないのに、それを主張しているかのように何度も「捏造」しているからです。

2019-02-02(13:59)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

と言い出しました。私は、高森顕徹会長が

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 即ち、真実の信仰には一念がある。一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた時、煩悩具足が至徳具足と転じた一刹那、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。しかし、思慮分別を越えるいっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。(『顕正』p.99)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

等と書いて、

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と主張していますから、当然高森顕徹会長を師と仰ぐ親鸞会の会員の彼はそれを信じているものだと思って、その聖教上の根拠を挙げて下さいと何度も求めてきたのです。それを突如として「捏造だ」と言ってきたのは、一つには根拠が挙げられないからであり、二つには高森顕徹会長の説を否定してでも淳心房との議論に負けたくないという勝他のためでしょう。そのため、この議論とは関係ない過去の記事の出来事を持ち出して淳心房を非難してきていますが、これについては今は省略します。

理想論者は更に、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>私が「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」ことにこだわるのは、貴方が「救われた時の自覚」を問題にしているからです。この「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? それとも第二念後以降のことですか? これをハッキリと示して頂きたいと思います。

→第二念後以降のことです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

とも答えています。これは明らかに「信一念の瞬間はハッキリと自覚できない」もしくは「信一念の瞬間は必ずしもハッキリと自覚できるわけではない」という立場であり、

思慮分別を越えるいっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。

という高森顕徹会長の説の完全否定です。親鸞会では、高森顕徹会長の指示に無条件に従えと講師部員に教えているのですから、当然教義に関しても異義を唱えてはなりません。高森顕徹会長の主張に対して異議を唱えることは善知識をおろかに思い師をそしる謗法罪、無間地獄に堕ちる恐ろしい罪だと徹底されています。そんな恐ろしい罪を平気で作る彼は親鸞会の何者でしょうか。次期会長候補でしょうか? いや、次期会長は恐らく息子であり、息子は淳心房の言動を非難できるような立派な振る舞いをしていないことは皆さんご承知の通りです。疑問は深まるばかりです。ともあれ、

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

ここから確かめねばなりませんので、理想論者の名無しさんには、これをまずお答え頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』真・仮・偽
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ハッキリする教えをハッキリしないと申すは親鸞学徒に非ず。

親鸞会の理想論者・・・親鸞学徒と一緒にしないで頂きたい!

Re: 元会員様

貴方の方がまだ潔いですね。

では、貴方が代わりに

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

という聖教上の根拠を提示したまえ。いつまで待たせるつもりだ? 無いと無いとハッキリ言え。

とわの闇より救われし

けんにんかのとりのれき云々

No title

親鸞聖人は頓機(突然的回心)なので一念の自覚はあります。
漸機(漸次的回心)の人は一念の自覚が無くても、現在救われている自覚はあります。
永遠の闇より救われしに矛盾しません。
http://e-kobai424.sakura.ne.jp/jhodoconversion.html
【浄土真宗における回心について】

一念の自覚が無ければならないとこだわる必要性は何ですか?

内観を受けたことのある人や、秘事法門の人は、ハッキリしないとおかしくなる立場からそのように言われるようです。信心を得るためのことを、その時にやっているので信心が得られたらハッキリしないはずがないからです。ハッキリしなければ当然その行事は終了しません。その立場で一念はハッキリしなければならない、というのなら、話の理屈として理解はできます。但し正しい信心であるかどうかは別問題です。

No title

外道の言葉で外道を誡めているのであって、外道の言葉で仏教の真実性を証明しているのではないということです。
一方、理想論者は「異安心」と非難している本願寺の著作物の言葉で親鸞会教義の正当性を証明しようとしています。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ということは、
           破邪        顕正
外道の言葉の使用   〇(外道に対して)  ×
ということだと思います。

また、儒教の言葉を使って、その他外道の者を誡めているということでしょうか。

すると、教行信証に天台の言葉である『止観』が引用されていますが、これは良いのでしょうか。

すると、教行信証に嘉祥の『観経疏』が引用されていますが、これは良いのでしょうか。

すると、蓮如上人が以下に外典を引用していますがこれは良いのでしょうか。

「しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。」(御文章)


また次に、上の記事の「捏造」に対するコメントは、論理の飛躍があります。
根拠が挙げられないからだと言っていますがそれも「捏造」です。
私は根拠が挙げられないとは申していません。

また、淳心房氏は以前のコメントに私が主張した「捏造」に対して

『それは申し訳ありませんでしたね。では、貴方は「信一念の瞬間は必ずしもハッキリと自覚できるわけではない」という立場なわけですね。もし違っていたらお知ら下さい。』

と書いています。今回の記事と態度が違うように見えます。

前の「捏造」との言いがかりは、申し訳なくて、今回の「捏造」との言いがかりは、問題ないのでしょうか。



また次に、『顕正』75頁に

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
信楽開発の一念は時剋の極促であるから私達の分秒にかかるものでは絶対にありませんから実時が判る筈がないのだ。その判るはずのない獲信の実時に記憶がなければならないなどと私が語る道理がないではないか。獲信の実時は判る必要もなければ、記憶出来るはずもない。しかし、獲信の一念の実時は判る必要も判る筈もないけれども、仏智満入した明かな不退転の大自覚まで、凡夫に判らないもののように思っている人が多いから、そんな馬鹿げたものではないぞ、金剛の真心が徹底すればツユチリほどの疑いもない明かな自覚があるぞ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そして、上の記事に『顕正』の99頁が挙げられていますが、この段は「真宗の極意」という題で、95頁から書かれています。その最初の部分を挙げます。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
超世不共の唯心独達の法門が徹底して、この明信仏智、破闇満願の妙境にとび出さされた初起の一念を信の一念と名づけるから、実時に用事がある筈はなく晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切なのだ。これを蓮如上人は『御文章』に「もろもろの聖教をよみ、物を知りたりというとも一念の信心の謂れを知らざる人は徒事なりと知るべし」とか、「これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。」とまで仰有っている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

つまり、一念の瞬間というものは、分秒にかかるものではないので、私たちには分別できません。私たちが認識できるのは、せいぜい10分の1秒程度でしょう。その私たちが時剋の極促と言われる瞬間を正確に認識できるという主張の方がおかしいです。とはいっても、救われて1秒もあれば認識できるでしょう。その程度の分別は人間にもあります。

『顕正』99頁では、それを「明かな自覚」と表現しているだけです。
なぜなら、一念の信心は相続するからです。私たちがとても認識できない一念の瞬間にこだわる必要は全くありません。「晴れた一念の味が大切」なのであり、それが問題なのです。

祖師は、教行信証の信巻において、本願の三心を一心(信心)とし、その信心に時剋の一念と信相の一念があることを明らかにされました。

なぜなら、別序にある通り、「定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し」と嘆かれ、信を明らかにされたのです。それが、ハッキリしなくても良いというならば、なぜ聖人は書かれたのでしょう。聖人の御苦労が無駄になってしまいます。そんなことを言えば、聖人が悲しまれるでしょう。

元会員様

元会員様(名前訂正しました)

あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)でしょうか。
もし、そうならば、あなたのハンドルネームは、見る人を欺いていると受け取れます。
見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。

また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)を退会されたのでしょうか。
もし、そうならば、その理由を教えて頂けないでしょうか。
あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ退会されているのかが疑問です。
また、退会されてから方針などが変わっているかもしれないのに、お布施(ご法礼)の点など、会の内側のことがなぜ分かるのでしょうか。

また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)ではなく、退会されたのでもないのでしょうか。すると、「元会員」とは、どんな宗教、どんな教えを指しているのでしょうか。
また、あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)になられないのでしょうか。浄土真宗親鸞会では、仏教を真剣に求めるならば、会員(学徒)になることを勧めています。
また、「元会員」というハンドルネームは、このブログでは、元浄土真宗親鸞会の会員(学徒)と通常受け取れます。上にも書きましたが、見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。

No title

理想論者の名無しさんは、相手を間違えていますね。
「元カルト」ではなく「元会員」でしょう。

どうでもいいことですが。

それから

>とはいっても、救われて1秒もあれば認識できるでしょう。その程度の分別は人間にもあります。

これが間違いだと言っているのですが、何を言っているのやら。

この根拠を出しましょう、あなたの理屈などどうでも良い。

Re: 2019-02-11(22:23)の名無し様

取り急ぎ、高森顕徹著『顕正』を引用して親鸞会教義と自身の正当性を主張していますので、

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

については「高森顕徹会長の教えを信じている」という立場だと判りました。もし違っていたら次のコメントで必ず訂正して下さい。よろしくお願いします。

それと、主張や文面から貴方のことは判るつもりですが、名無しでコメントされる方が他にもいますので、何か適当にハンドルネームを決めてコメントして頂けませんか? 「親鸞学徒」とか、他の方と明確に区別できる名前で構いません。

なお、その他の主張については追って返信するか、記事にしていきます。

Re:淳心房さん 名無しさん

こんばんわ、Abcです。

名無しさん
>―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
>超世不共の唯心独達の法門が徹底して、この明信仏智、破闇満願の妙境にとび出さされた初起の一念を信の一念と名づけるから、実時に用事がある筈はなく晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切なのだ。
 これを蓮如上人は『御文章』に「もろもろの聖教をよみ、物を知りたりというとも一念の信心の謂れを知らざる人は徒事なりと知るべし」とか、「これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。」とまで仰有っている。
>―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(中略)
>祖師は、教行信証の信巻において、本願の三心を一心(信心)とし、その信心に時剋の一念と信相の一念があることを明らかにされました。

>なぜなら、別序にある通り、「定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し」と嘆かれ、信を明らかにされたのです。それが、ハッキリしなくても良いというならば、なぜ聖人は書かれたのでしょう。聖人の御苦労が無駄になってしまいます。

名無しさんが示されたことは、
「晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切なのだ。」であるから、私たちが「ハッキリしなくても良いという」ということは聖人が悲しまれるのではないか と言われているとうかがうことができました。

ですが、親鸞聖人が言われたことは蓮如上人の言葉からは「一念の信心の謂れ」のことであり、「晴れたか晴れないか の晴れた一念の味」ではございません。仮に「晴れたか晴れないかの晴れた一念の味」が是であったならば、「意業安心(自らの心にて「助かった」と思うこと)」となります。

 親鸞聖人は、この事柄について、
 「 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。」

赤色の箇所に該当いたします。

この「自力」につきましては、別の箇所にて、
 「 また正念といふにつきて二つあり。一つには定心の行人の正念、二つには散心の行人の正念あるべし。この二つの正念他力のなかの自力の正念なり。定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。」

と、「19願の行者は、来迎を待たなかったならば、辺地・胎生・懈慢界にも生まれることができない」といわれておりますが、「真宗の目的」は「辺地・胎生・懈慢界にも生まれること」ではありません。ですから、「聖人はこれを「極速円融の真詮」と仰有って長い間かかってすこしずつ諦得する御慈悲なら極速とはいわれないが、聞即信の一念のはやわざだから極速といい、その一念で仏智満入、仏智全領して微塵の不足もなく大満足させられるから円融の真詮といわれたのである。」(『顕正』P100 より)のであって、「晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切」(『顕正』P96 より)ではないのです。

 この「極速円融の真詮」として、「聞即信の一念のはやわざだから極速といい、その一念で仏智満入、仏智全領」するのは、第11の願の利益であり、この世のことではありません。この世では「助かったかはハッキリしないが、阿弥陀様が「私たちを助けてくださる」という謂れがあることは頼もしいことである」と思わさせていただくぐらいであります。

 さた、「なぜ、助かったかはハッキリしないか」につきましては、七高僧、親鸞聖人は「煩悩の所為なり」と釈されております。

聖人は、『正信偈』にて、源信僧都のお言葉を紹介して、
 「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
  煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といわれており

蓮如上人が記された解説書 『正信偈大意』には、
 「 「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

 「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」といふは、真実信心をえたるひとは、身は娑婆にあれどもかの摂取の光明のなかにあり。しかれども、煩悩まなこをさへてをがみたてまつらずといへども、弥陀如来はものうきことなくして、つねにわが身を照らしましますといへるこころなり。」

と記されております。 また『歎異抄』第9 には、
 「(前略)よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざる煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。(中略)踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]」といわれております。

 高森さんは『歎異抄』のうち前十章を見られておりますから、反論がない場合、「高森さんの主張は間違っている」となりますから、可及的速やかに反論文を提出していただきますようよろしくお願いします。

淳心房さん

>これは明らかに「信一念の瞬間はハッキリと自覚できない」もしくは「信一念の瞬間は必ずしもハッキリと自覚できるわけではない」という立場であり、

「思慮分別を越えるいっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。」

>という高森顕徹会長の説の完全否定です。

(中略)

>「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

この問いですよね、私も興味深い事柄であります。
 私の見解は、上述した次第でありますから、ご一読いただき、ご不明な点は追ってご連絡いただきますようよろしくお願いします。

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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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