昨日の記事に様々なご意見、ありがとうございました。
昨日「埼玉恵日会」に伺ってきましたが、阿部信幾先生が出した根拠は「行文類」の六字釈でした。
しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。ここから、南無とは「帰せよの命」、つまり「我にかませよ」であって、阿弥陀仏の仰せは「念仏を称えよ」ではない、というものでした。以前とほぼ同じ回答でした。
先生曰く、法然聖人までと、親鸞聖人とでは違うそうです。法然聖人までは『観無量寿経』に立って、念仏を称える者を助ける本願だから、これを信じて称えよと教えられた。対して親鸞聖人は『大無量寿経』に立っている。南無阿弥陀仏が往生の証拠であり、名号のいわれを聞いて計らいの無い。南無阿弥陀仏の名号が届いているのだから、名号のはたらきに我々の方で加えるものは一つもないという立場。『観無量寿経』と『大無量寿経』の立場の違いだと言われていました。
・
「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに(尊号真像銘文)
のお言葉はどうなのかと示しましたら、それは法然聖人の教えだと言われていました。また、
・
臨終の人に念仏を称えよと勧めるか、往生の証拠が届いているから安心せよと勧めるかという問いも出されていました。その話の中で、『観経』の下下品で臨終の人に善知識が念仏を勧められたその元は、阿弥陀仏が「念仏を称えよ」と仰っているからではないのですかと質問もしましたが、そのお答えは娘が周りでカチャカチャやっていてよく覚えていません。誰か聞かれた方がありましたら補足お願いします。
『観無量寿経』と『大無量寿経』の立場の違い、念仏往生と平生業成の違い、とのことです。一方で、仰せにまかせるとは念仏することだとも教えられていました。先生の意図としては、称えて助かろうというのは自力だと自力心を誡める意味で教えられたのかと伺えますが、
計らいのまじった念仏を称えよとは仰っていないということですか?と質問しましても、それについては肯定されていませんでした。
他に出された根拠は『御文章』4帖目8通位でしょうか。私の問いと直接関係する根拠は特に無く、また和上様方のお言葉もありませんでした。
これでスッキリされた方もあるのかも知れませんが、私のモヤモヤは続いています。
親鸞聖人は、腹底では「念仏を称えよと仰った本願ではない」と思いながらも門弟の皆さんの前では「念仏を称える者を助ける本願」と教えておられたのかなぁ? 俺なら往生の一大事の問題について、そんな本音と建前を使い分けて本心と異なるようなことは説けないし説きたくないがなぁ、と思ったりもしました。
また、臨終の人に仰せが届いているから安心せよと説くか、念仏を称えよと勧めるか、この二者択一を迫られたらどう答えるか。実際その場に立ったらどう話すべきか、考えていますが現時点で答えは出ていないです。両方話したいがどっちかなぁ。その人が安心できなかったらどうしようかなぁ。難しい問題です。
結論としては、このまま質問を重ねていっても平行線かなと思いました。こちらも念仏は自力念仏、救いの条件のつもりで言っているのではないし、我々が日々お念仏しているのは「念仏を称えよ」という本願が成就してはたらいているからではないか、全て本願のおはたらき以外の何物でもないではないかとしか思えません。
先生の仰ることも分からないでもないが、だからといって「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」は無いではないかというのが正直な感想です。今後、阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているかいないかを私なりに考察し、書いていきたいと思います。どちらが正しいかではなく、阿部先生と淳心房、どちらの説を取るか、あるいは両方とも取らないか、両方の折衷案を起こすか、という視点で見て頂ければ幸いです。
なおこれは私が聴聞したこととその思いを一部書いたものなので、先生のお話を皆さんに分かってもらいたいという方は、ぜひ昨日の音声を文字に起こしたものを紹介して頂ければと思います。
【追記】
別の質問で、御恩報謝ということについて教えて頂きました。
浄土真宗の生活は御恩報謝の生活。幸せを頂いている生活。今まで気付いて来なかった幸せに気付く。おかげさまに気付く。一番は南無阿弥陀仏を頂いている。また、食事も「いのち」を頂いている。頂いた命をどう生きるか。それが御恩報謝ということだと教えて頂きました。これについては有難いお話であると思いました。
また、字で書いた阿弥陀仏に固執する親鸞会教義の誤りについても話の中でありました。南無阿弥陀仏が声と成り、字と成り、絵像と成り、木像と成っている。名号のいわれを知らないところに親鸞会のごとき固執があるのだということを教えて頂いて、これもその通りだなと思いました。
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おはようございます、Abcです。
>法然聖人までと、親鸞聖人とでは違うそうです。法然聖人までは『観無量寿経』に立って、念仏を称える者を助ける本願だから、これを信じて称えよと教えられた。対して親鸞聖人は『大無量寿経』に立っている。南無阿弥陀仏が往生の証拠であり、名号のいわれを聞いて計らいの無い。南無阿弥陀仏の名号が届いているのだから、名号のはたらきに我々の方で加えるものは一つもないという立場。『観無量寿経』と『大無量寿経』の立場の違いだと言われていました。
>・「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに(尊号真像銘文)
>のお言葉はどうなのかと示しましたら、それは法然聖人の教えだと言われていました。
私の懸念がくしくも当たってしまい、誠に悲しい限りであります。
このいわれに則しますと、「真宗」には「2通りのいわれがあって、私(阿部氏)はこちらを推す」という、モヤモヤが残る感じとなっております。詳しくは今夜にでも記しますが、やはりなんとも腑に落ちません。
Abc
法然上人と親鸞聖人説かれている事は一緒!
真仮しらず・・・混乱する
字で描いた阿弥陀仏に固執する?
名号本尊の事?
聞其名号・・・
願成就をもって至極とす・・・
「阿弥陀さまは、念仏称えよと、おっしゃっている」と、主張される方々は、
蓮如上一人の 「聖人一流章」は、どのように受け止めていらっしゃるのですしょうか?
私は、浄土真宗の教えは、ここに全て収まっているといただいております。
聖人一流の御勧化(ごかんげ)のおもむきは、信心をもって本とせられ候ふ。
そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、
一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたり往生は治定せしめたまふ。
その位を「一念発起入正定聚」と釈し、
そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなしこ、あなかしこ
「信心正因 称名報恩」から外れたら、浄土真宗ではないと思います。
南無阿弥陀仏
追伸ですが。
「阿弥陀さまは、念仏せよではなく、『南無(まかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)』と 十劫の昔から、私を喚んでくださっている 」が、阿部先生が、教えてくださる「南無阿弥陀仏」です。
だから、この世界で一番尊いお言葉が、南無阿弥陀仏です。この人生で、南無阿弥陀仏 以上に、尊いお言葉と出遇うことはありませんと、いつも 教えておられます。
私の口から出るとから出ないとか、関係なく 私を必ず救うおはたらきがあることを私に、教えてくださっているのが、南無阿弥陀仏です。
時々、「称名報恩について」、お念仏をただのお礼として、お念仏を軽視していると、親鸞会を批判している意見を目にしますが。
浄土真宗は、南無阿弥陀仏に救われて ご恩報謝の人生を生きる教えです。
人生をかけて、ご恩報謝のお念仏を称えさせていただくことの、どこが、お念仏軽視なのでしょう。
南無阿弥陀仏
RCさん、言い過ぎですよ。
信心正因の信心について
この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり。(信巻)
なんです。信心は念仏往生の願から出た、つまりは念仏称えて往生させてみせるの本願から信心が出ているので、念仏なしの信心はあり得ないわけですよ。
無信単称を誡められていますが、念仏抜きの信心はないのです。
「本願名号正定業」といふは、選択本願の行といふなり。(尊号真像銘文)
親鸞聖人が、念仏は本願の行だと仰っておられるのに、阿弥陀仏は勧めない念仏を本願に入れられたのは無意味でしょう。
蓮如上人も
「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。(正信偈大意)
と仰っているのですから、念仏は本願に誓われた往生の正定の業なのです。
行と信は一体で、どちらかが抜けたら、真実の行でも真実の信でもないことになります。
親鸞聖人蓮如上人のお言葉を正しく理解しないと、念仏軽視といわれても仕方ないです。
阿弥陀さまは、南無阿弥陀仏のお念仏となって はたらいてくださる仏さまとお聞きしています。
阿弥陀さまに、おまかになると、阿弥陀さまのご恩を感じたり、我が身の浅ましさを感じたりすると、南無阿弥陀仏のお念仏が、私の口から溢れてくださいます。
そのお念仏が、有り難く、また、お念仏を称えさせていただきます。
私のお念仏は、阿弥陀さまから 「称えよ」と いわれて、称えているお念仏ではなく、
お念仏となっておはたきくださっているおはたきが、そのまま出てくださっているお念仏です。
南無阿弥陀仏のおはたきで、嬉しいお念仏が出てくださいます。
南無阿弥陀仏と称えさせていただける身にお育ていただき、ただ有り難いばかりです。
阿弥陀さまにおませすれば、お念仏は 必ず出てくださるのですから、念仏せよって、おっしゃっる必要ない 「南無阿弥陀仏」だと思います。
南無阿弥陀仏
もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば
一心とは何に一心になるのですか?念仏ですよ。信心に一心になるのではないですよ。信心を信じてどうするのですか?意味不明です。
雑行を捨てて念仏に一心になることを仰ったのですよ。
一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば(正信偈大意)
念仏に一心になった行者に一念慶喜の信心が定まるのです。
RC様へ
はじめまして
仏願力に乗ずることを
信心と言うのではありませんか?
南無阿弥陀仏にて往生する。
阿弥陀さまの帰命せよ
と言う仰せにしたがうのが
信心と言うわけです。
仰せにしたがう形が
自然にあらわれた姿が
お念仏です。
お念仏をわたしが称えるだけで
信心と言うのは不十分です。
ですが
わたしのお救いと言う話は
阿弥陀さまの願力によって往生するのですから、南無阿弥陀仏だけで十分です。
お念仏という願力におまかせするのです。
ただ、能行としての
「念仏」
と言う解釈は様々ですから
議論の分かれるところですね。
なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ
蓮如上人は名号本尊を多くの人に書き与えられたと聞いています。
真宗の教えを聞いている人なら本尊は礼拝対象であり、同時に
念仏を称える有難いご縁になると思います。
みなみな信心決定あれかしと思われた蓮如上人が信後の人だけに
本尊を与えられたのでしょうか。
信前信後関係なく念仏するために名号本尊を与えられたと
思っていたのですが。。。間違っていたらスミマセン。
> 法然上人と親鸞聖人説かれている事は一緒!
⇒これに関しては珍しく意見が一緒だ。俺もそうだと思う。
だから、雑行を投げ捨てて念仏一行を一心に称えてこの度の一大事の往生を遂げよう。高森の行なんかという悪業悪行をやっている場合ではないよ。
> 字で描いた阿弥陀仏に固執する?
> 名号本尊の事?
⇒親鸞会の貼り合わせのコラージュ本尊のことだよ。
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。(唯信鈔文意)
元々真如法性だから色も形もなく我々には認識できない。それでは我々は救われぬわけで、釈尊は我々の認識に乗るように教えて下されたわけだ。色も形もない救いの法を形で示したのが字の南無阿弥陀仏つまり名号、絵の南無阿弥陀仏つまり絵像、像の南無阿弥陀仏つまり木像なんだね。皆「我をたのめ、必ず救う」の如来の願心なわけだ。それを絵像や木像ではダメだ、名号でなければならないと形にこだわっているのが親鸞会。これでは名号のいわれを知らないと言われても仕方ない。
◉聞即信
浄土真宗における聞と信との関係のことで、聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はないということ。
第十八願成就文に、
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」(大経 P.41)
とある中の「聞」と「信」について、親鸞は「信巻」に
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(信巻 P.251)
と述べ、また『一多文意』に
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一多 P.678)
と述べている。→仏願の生起本末 (浄土真宗辞典より)
浄土真宗の信心は、念仏を信じた信心ではないと受け止めおります。
南無阿弥陀仏が、私の往生の証拠でしたと、自力が廃ったのが、浄土真宗の信心とおお聞きして、安心できました。
南無阿弥陀仏
一心専念弥陀名号を聞き入れた法然聖人とは違う信心ということですか。
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
それではRCさんは、どこかの会と同じですよ
阿部先生の回答について個人的感想
典型的な空華の考え方ですね。
法を仰げばよい、一切の行は必要ない。
極端な話、寝ていれば良いという考え方。
今の本願寺の主流は空華です。
この考え方を突き詰めると浄土真宗は仏教かというところに行き着きます。
石泉と空華、どっちでも良いけどお念仏を信前信後を問わす称えるべきですね。
私はそう思います。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
追伸:前日の記事にもコメントしましたが、こちらの記事にも同じコメントします。
親鸞聖人蓮如上人が、信心とは念仏称えて往生できると信じたことだと仰っているのを否定して、そうでなさそうなお言葉を断章取義して、それで浄土真宗を名乗れるの?
個人的感想の追加
石泉はお念仏を行ととらえ、信前信後変わりなく称えよと言われます。
自力が間に合うとか間に合わないとかを問わず称えよと。
計らいを捨てて称えよと。
皆さん、好きな方を選んでください。
私は称える方を選びます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
少し解説すると、
信心とは、念仏称えたものを浄土に往生させると阿弥陀仏が誓われたことを信じたことであるのは、自明の理です。
聞も、念仏称えたものを浄土に往生させると阿弥陀仏が誓われたことを疑いなく聞いたことです。
だから念仏なしの信心も聞もあり得ないです。
行が信心と聞に含まれている前提で信心と聞を語ることはできても、念仏抜きで信心も聞も語れないです。
信心とは念仏の信心、聞とは念仏の聞
まるで親鸞会の会員と話をしているようです。
阿弥陀さまは、お念仏を称えよと、おっしゃっていない。まかせよ、救うと、お聞きして、南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせして、嬉しいお念仏を今日も称えさせていただいて、おります。
お念仏は、阿弥陀さまのおはたらきですから、おはたらきのがままに、今日も、なんまんだぶつ 、なんまんだぶつ です。
つまり
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
こんなのは嘘っぱちだということですね。
よーくわかりました。
これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。
弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。
この親鸞聖人のお言葉も嘘っぱちなんだね
ども、林遊@なんまんだぶです。
阿部信幾さんも大変だな。少し困っているかも。
ともあれ、本願寺派では「大行論」を論ずる場合に、なんまんだぶを「能行」ととるか「所行」ととるかに分かれて議論がされてきた歴史があります。
ざっくりいえば所行派は、第十七願の「諸仏の称名」は、仏に属するので名号は衆生にとって聞かれるものであるとして、諸仏の「教」によって行ぜしめられる所(所行)の行であるといいます。
対して能行派は、御開山が、
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
といわれているので、あくまで衆生の行(能行)であるというのでした。
とくよしみねさんが言われているように、空華では、徹底して他力の立場に立ちますから衆生の側からの造作を否定します。
ある意味では、三業惑乱によって意業を否定するあまりに衆生の能行としての、なんまんだぶの造作を否定したのでした。これを「諸仏称名 衆生聞名」と念仏は聞きものといわれた方もおられたものです。
これは御開山が、乃至十念が称名であるという根拠を『観経』では無く『大経』の第十七願に求められたことから、大行とは「諸仏の称名」である(所行系)といい、あるいは「衆生の称名」である(能行系)と主張しあったところから起こった論義です。
林遊は、わりとどうでもいいと思っていたりして、いらんこと言わずに、なんまんだぶせぇやと思ふのでした。
で、こんなことを言っていると御開山に、
十七の願に「わがなをとなへられん」と誓ひたまひて、十八の願に、「信心まことならば、もし生れずは仏に成らじ」と誓ひたまへり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願(第十一願)はせんなく候ふべきか。補処の弥勒におなじ位に信心の人はならせたまふゆゑに、摂取不捨とは定められて候へ。このゆゑに、他力と申すは行者のはからひのちりばかりもいらぬなり。かるがゆゑに義なきを義とすと申すなり。このほかにまた申すべきことなし、ただ仏にまかせまゐらせたまへと、大師聖人(源空)のみことにて候へ。 →御消息(34)
と、怒られるかもでした(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%A7%B0%E5%90%8D
こんばんわ、Abcです。
各コメントに対しての返信です。ご一読くださいませ。
>石泉はお念仏を行ととらえ、信前信後変わりなく称えよと言われます。
>自力が間に合うとか間に合わないとかを問わず称えよと。
>計らいを捨てて称えよと。(とくよしみね さん)
それでありましたら、私は「石泉」ですね。 とくよしみねさん もご存知のとおり、私のところは「念仏高田」とも称されるある意味「念仏のオニ」ともいえる教え方であります。親鸞は『和讃』にて、「南無阿弥陀仏と称えたならば閻魔や冥官なども守って下される」といわれています。この「称名(我が名を称えよ)」とは阿弥陀仏が法蔵菩薩の昔、世自在王仏のまえにて誓われた願であり、「王本願」ともいわれることでありますから、「真宗」においては宗となっております。
> 法然上人と親鸞聖人説かれている事は一緒! (元会員さん)
さようであります、ですから、私はこの件につきまして危惧してるわけでございます。
>阿弥陀さまの帰命せよ
>と言う仰せにしたがうのが
>信心と言うわけです。
>
>仰せにしたがう形が
>自然にあらわれた姿が
>お念仏です。 (こうめさん)
おひさしぶりです。前は色々と討論しましたが結果として私も学ぶところがございました。ありがとうございます。
ご存知かとは思いますが、真宗では「自然」を「じねん」と呼び習わし、「自ずからしからしむ」という意で、「阿弥陀様の縁にて口をついて出てくる」と呼び習わします。コメントありがとうございます。
>親鸞聖人が、念仏は本願の行だと仰っておられるのに、阿弥陀仏は勧めない念仏を本願に入れられたのは無意味でしょう。 (元jssさん)
お初にお目にかかります。高田派布教使 のAbcです。どうぞよろしくお願い申し上げます。
さて、「念仏は本願の行だと仰っておられる」ことにつきましては仰るとおりであります。道綽禅師は「万善自力貶勤修 円満徳号勧専称」(『正信念仏偈』より)といわれたとされ、ここでも「円満徳号勧専称(円満徳号を専らに称えよと(一切に)勧めしむ)」とあります。コメントありがとうございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
>「阿弥陀さまは、念仏称えよと、おっしゃっている」と、主張される方々は、
>蓮如上人の 「聖人一流章」は、どのように受け止めていらっしゃるのでしょうか?
>私は、浄土真宗の教えは、ここに全て収まっているといただいております。(RCさん)
こちらは正しくは「本願寺の教えは、ここに全て収まっている」であります。
私たち高田山専修寺におきましては、われらが師である源空聖人のお言葉
「正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」(三選の文 より)
を広めるためにおよそ800年念仏のいわれを伝え続けております。
蓮如上人は『正信偈大意』にて、
「この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。」としるされております。
よくよくご確認くださいませ。
なもあみだ なもあみだ
Abc
念仏は真実の行ですよね
真実の行はお礼の意味しかないから往生とは無関係
真実の行とは、あってもなくてもいいものなんだね
阿弥陀仏も念仏なんか本願に入れて暇だな
すみません。しかし3回聞いてもスッキリしないんです。
なので、分かっていない私に、阿部先生に代わって阿部先生のファンさんがどうして「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」と言えるのか、聖教を基に解説して頂けますか?
今回「行文類」の六字釈が根拠だと言われていましたが、意味が分からないです。そもそも「行文類」は、選択本願の念仏が浄土往生の正しき行業であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文をも引いて証明された文類です。その中で、親鸞聖人の六字釈は念仏のこころを解説されたものです。そこに「帰命は本願招喚の勅命」とあり、「帰せよの命」だからといって、それがどうして「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」ということになるのか、そのつながりが分からないです。
またその後、聖人は続いて
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。
【現代語訳】
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
とあって、選択本願において選び定められた往生の行、すなわち念仏を施し与えて下さると言われています。それはつまり、(本願を疑いなく信じて)念仏を称えて浄土に生まれて来なさいという大悲の願いからでしょう。
『教行証文類』以外のお言葉を「法然聖人の教え」と片付ける阿部先生の態度は浄土真宗の先生として如何なものかと思います。そもそも『教行証文類』は『選択本願念仏集』という法然聖人の法義の真実性を証明された御聖教だということをご存知ないのでしょうか?
また、三経一論をもって浄土宗を立教開宗された法然聖人を『観無量寿経』の立場とし、親鸞聖人は『大無量寿経』の立場と決めつけるのも如何かと思います。それに、善導大師、法然聖人が明らかにされた念仏往生の法義の内容は、『大経』の三心と組み合う『観経』彰の義ですから方便の教説と違う真実の教説なのですよ。そこに、行中摂信から別開して信心正因の義を詳しく説き開かれたのが『信文類』であって、「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」という教えはどこからも出てこないんです。
それで根拠を尋ねたり、和上様方がそう仰っているのか尋ねたりしているのです。繰り返しになりますが、分かっていない私に、阿部先生に代わって阿部先生のファンさんがどうして「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」と言えるのか、聖教を基に解説して頂けますか?
大経の意を顕わされた大経讃の1首
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
なぜ念仏成仏なの?
阿弥陀仏は念仏を勧められてないはずなのに、親鸞聖人はおかしなことをおっしゃるなあ。
信心成仏に変えないといけないんじゃね?
高森先生絶対から阿部先生絶対に変わっただけじゃなくない?
お久しぶりです、ご解説ありがとうございます。以前に、
で、それをエサに富山じゃなく埼玉へ来いというのであろう(笑
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/51677988.htmlと書き込みされておられましたが、残念なことにその意味が分かりかけてきてしまいました。別に阿部先生やRCさんの信心がどうとか言うつもりはないのですが、「阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない」発言は看過できないと思いつづっています。現在、聖典セミナー教行の巻(梯實圓和上)を読んでおりますが、当然ですけど念仏と信心、両方書かれ、両方勧められています。
もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(総序)
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(行文類)
親鸞聖人もこのように仰っている念仏を阿弥陀仏が称えよとは仰っていないとは首肯できかねます。
> いらんこと言わずに、なんまんだぶせぇやと思ふのでした
に私も一票です。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。
これも、法然聖人の教えとなってしまうのでしょうか?
そもそも、親鸞聖人の書かれたものの中で、この部分は「法然聖人の教え」、この部分は「親鸞聖人の教え」とは、何をもって判定するのでしょうか?
親鸞聖人の書かれたものは、「親鸞聖人の教えである」と理解するのは誤りなのでしょうか?
こんばんわ、Abcです。
>そもそも、親鸞聖人の書かれたものの中で、この部分は「法然聖人の教え」、この部分は「親鸞聖人の教え」とは、何をもって判定するのでしょうか?
私の側からは、わたりかねます。
そもそもの「念仏往生の側」と「平生業成の側」というたとえがわからなかったです。
「念仏往生」とは「第18願(選択本願)」のことであります。各コメント投稿者のいわれているとおり、「如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふ」のように、「称仏名」のいわれであります。
「平生業成」とは「平生のうちに業が成就する」ということでありますから、「平生のうちに「如来のちかひの名号をとなへんこと」という「弥陀(施主)と衆生(願主)」の願が成就する」というものであります。
ですから「念仏往生の側」と「平生業成の側」というそもそものたとえがいまいち腑に落ちません。
親鸞は「念仏成仏これ真宗」といわれております。
覚如上人は「正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。」といわれており、
※ここの「往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからず」を指して「弥陀は念仏せよといわれていない」とされているのでしょうが、それでもその発言は決して無視できるものではありません。
蓮如上人は、「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。」といわれています。
※この「御恩報謝」という考え方自体が、「信前は報謝の心がないから云々」となり議論となりますので、私は肯定しかねます。「報謝の心がないから」こそ「阿弥陀仏について」説くのであり、「帰せよの命(正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。)」と衆生に勧めさせていただいてるのであります。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
コメントなが~
まかせについて分かりやすく説明できる?
名号と信心と念仏の関係は誰かいる?
方便法身しってる?
淳心房は淳心房に非ず信楽房が如し
コラージュ本尊???( TДT)
親鸞聖人直執の本尊を・・・
追記
福光の温泉行った際に立ち寄ったお墓で・・・親鸞聖人直執の字体と同じお墓が有って、ご縁の深さに思わず!合掌
衰退していた本願寺を立て直し、日本に浄土真宗の教えを広めてくださったのは、蓮如上人です。
蓮如上人が 「ご文章」で ご布教してくださらなかったら、今 私たちは、弥陀のご本願を知ることは、できませんでした。
その蓮如上人が「聖人一流章」という題名で、書いてくださった 「信心正因 称名報恩」のお言葉で、500年間伝わった教えを 「浄土真宗」と、呼んでいるのではないでしょうか?
確かに、親鸞聖人は 法然聖人のお弟子めすから、法然聖人の教えと同じことを書き残していらっしゃいます。
でも、覚如上人が、教行信証を読まれて、法然聖人の「念仏往生」とは違う教えであったので、浄土真宗と別立てされたとお聞きしています。
「(親鸞)聖人一流章」とは、親鸞聖人しかおっしゃっていないから、親鸞一流章と名付けてくださったとお聞きしています。
七高僧は、おっしゃっていない、親鸞聖人だけがおっしゃってくださった教えが「浄土真宗」です。
「念仏往生」は、浄土宗の教えかと思います。
私は、浄土真宗の布教使さんから、「親鸞聖人の教えは 念仏往生だ」と、お聞きしたいことがありません。
親鸞聖人の教えは、「私の往生は 阿弥陀さまのお仕事で、私が足すことは、何もない 、無条件のお救い」と、お聞きしています。
私のお念仏を足す必要など、全く無い、南無阿弥陀仏 に、頭が下がるばかりです。
私は、無条件で救う南無阿弥陀仏のおはたらきに、出遇えました。
私を救う南無阿弥陀仏が完成しているのに、なぜ お念仏を足す必要があるのかわかりません。
浄土真宗は、「もう 救いが、完成している」というご法義です。
そういうご法義を聞いて、「信前」なんて無いはずです。
南無阿弥陀仏は「もう お前を、仏にすると仏が、いるよ。まかせよ。安心せよ」の阿弥陀さまのお呼び声です。
私がしなければいけない行などありません。全部 阿弥陀さまがやってくださったのですから。
私の代わりに、全部 行じてくださった阿弥陀さまに、ご恩報謝のお念仏を申して、おかげさまの日暮らしをさせていただくというのが、浄土真宗の門徒と 受け止めております。
南無阿弥陀仏
RCさん、もうやめませんか、その親鸞会と同じ主張の仕方を。
蓮如上人がどう教えられているかは、すでに私が書きましたよ。
信心正因の信心は、念仏称えて往生できると信じたことを言いますから、念仏抜きで往生はあり得ないのです。
念仏往生とは、親鸞聖人蓮如上人のお言葉です。
雑行を捨てて一心に弥陀に帰命するとは
雑行を捨てて念仏に一心になることだと言いましたよね。
都合の悪いお言葉を拒否して都合よく断章取義する親鸞会の思考を脱却すべきです。
おはようございます、Abcです。
>「(親鸞)聖人一流章」とは、親鸞聖人しかおっしゃっていないから、親鸞一流章と名付けてくださったとお聞きしています。
七高僧は、おっしゃっていない、親鸞聖人だけがおっしゃってくださった教えが「浄土真宗」です。
ふむ、であるならば「唯可信斯高僧説」と締めくくられている『正信偈』と『文類偈』には則さないとお考えですね。わかりました。
>親鸞聖人の教えは、「私の往生は 阿弥陀さまのお仕事で、私が足すことは、何もない 、無条件のお救い」と、お聞きしています。
私のお念仏を足す必要など、全く無い、南無阿弥陀仏 に、頭が下がるばかりです。
こちらは法然上人の「義なきを義とす」というおしえであります。
「私のお念仏を足す必要など、全く無い」ですか。
確かに「自力の専心きらはるる」とはいわれますが、「であるから、私はお寺にいっても念仏を申さない」といわれるのでしょうか。「第四の称名」は違えていると申すのでしょうか
>私は、無条件で救う南無阿弥陀仏のおはたらきに、出遇えました。
>私を救う南無阿弥陀仏が完成しているのに、なぜ お念仏を足す必要があるのかわかりません。
>浄土真宗は、「もう 救いが、完成している」というご法義です。
>そういうご法義を聞いて、「信前」なんて無いはずです。
「親鸞」が「範宴少納言の君」として走り回っていた時期は「なかった」と仰せですか。私はいまいち腑に落ちませんが、そのようなことなのでしょう。
ただ、「もう 救いが、完成している」というのは「十劫安心」という意安心につづきますので注意したほうがよいかとおもいます。
Abc
ご本人の申し出により、「阿部先生のファン」さんのコメントは削除しました。
ABCさま。
私は、阿弥陀さまのご恩を喜んで、お念仏申しております。
私の救いは、阿弥陀さまのお仕事だったということを申し上げております。
南無阿弥陀仏
> まかせについて分かりやすく説明できる?
意味位自分で調べなさいな。現代語なんだから。
https://www.google.co.jp/search?source=hp&ei=TcNYXJO9I83bhwPQlb2gCw&q=%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%8B&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&oq=%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%9B%E3%82%8B&gs_l=psy-ab.3..0i4l6j0l2.5157.6184..6726...0.0..0.99.725.8......0....1..gws-wiz.....0..0i131i4j0i131.KqWNA9f10ig弥陀をたのむ⇒往生は弥陀にまかせて自力の計らいを離れる
阿弥陀仏の思し召し通りに順い、小賢しい凡夫の詮索を差し挟まないことだよ。
> 名号と信心と念仏の関係は誰かいる?
簡単に言うと、法蔵が阿弥陀仏と救主になった名乗りが南無阿弥陀仏という名号、南無阿弥陀仏が我々の心に帰命の信として届いたのが信心、南無阿弥陀仏が口に出たのが念仏。名号、信心、念仏と名前は違うけどこれらは全て本願のはたらきで同じことを言っているのだな。高森教徒は判らんか。
> 方便法身しってる?
法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。(唯信鈔文意)
真如そのものである法性法身が、衆生救済のために名を示し形を現した仏身のこと。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%96%B9%E4%BE%BF%E6%B3%95%E8%BA%AB
おはようございます、Abcです。
>まかせについて分かりやすく説明できる?
>名号と信心と念仏の関係は誰かいる?
>方便法身しってる?
申し訳ございません、熱中しすぎると文章が長くなってしまいますので・・・
「まかせ」とは「弥陀におまかせする」という事柄であり、「信心」といわれます。
「名号」は「六字名号」、「九字名号」、「十字名号」、『正信偈』からは、「七字名号」「三字名号」などもございます。
「信心と念仏」については、こうめさんがいわれているように、
「阿弥陀さまの帰命せよ
と言う仰せにしたがうのが
信心と言うわけです。
仰せにしたがう形が
自然にあらわれた姿が
お念仏です。」 であります。
「方便法身」とは「影も形もない仏様を衆生に見えるよう」にするため、の「仮のすがた」です。
「方便法身尊号」といわれる「名号」
「方便法身尊像」といわれる「絵像・木像」がございます。
Abc
私は、親鸞会を辞めて、ご本願を喜んでいらっしゃる方々が、「念仏する者を浄土に迎えとるご本願」を信じた信心の方だとは、思っていませんでした。
自分と同じ、「無条件のお救い」を、喜んで、念仏申しておられる方ばかりかと思っていたので、実は、かなり驚いております。
それで、念仏往生の皆さんが、どなたから、念仏往生(念仏一行で往生できると信じたのが、浄土真宗の信心)のお話しを、お聞きしているのか、教えていただきたいのです。
私には、蓮如上人のご文章が、念仏往生の教えとは、全く受け取められません。
また、色んな布教使さんのお話も、お聞きしてきましたが、そこでも 念仏往生が親鸞聖人の教えだとお聞きしたことがありません。念仏一行という言葉も、出たことがありませんでした。
「安心論題」にも、浄土真宗の教えは、信心正因 称名報恩と書いてあり、念仏往生とは書いてなかったと思います。
本当に、浄土真宗の教えとして「念仏往生」が示されてあるのか、確認したいです。
私も、投稿文などで、いろいろ書かせていただくご縁がありますのでは、、浄土真宗の教えでないことを、浄土真宗の教えとお伝えしているとしたら、申し訳ないですし。
日本の中なら、どこでも、お参りさせていただき、お話しを伺いたいです。
そして、念仏往生を「浄土真宗の教え」として布教されている先生がいらしたら、そのお話しを、ご本山が浄土真宗の教えとして認めているのかも キチンと 確認したいです。
私も 中途半端な気持ちで、「埼玉恵日会」をさせていただいているわけでないですので。
正確な情報、よろしくお願い致します。
南無阿弥陀仏
その先生のお名前やお寺を コメント欄に書くのは、その先生のご迷惑になるかもしれませんので、私のアドレスに 送ってください。
rokujinotsudoi@yahoo.co.jp
よろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
念仏往生という言葉は、親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も存覚上人も、何回も普通に使われている真宗の言葉です。
検索したら、一杯出てきますから、御自身で見てください。
御文章でいうなら3箇所あります。
体失不体失往生の諍論でも、念仏往生の機とあるのは御存知ですよね。
念仏往生を否定したら真宗にはならないのです。
それと法然上人と親鸞聖人は違うと拘ってるようですが、確かに違うところはあっても肝心なところは当然一致しています。
親鸞聖人は法然上人の念仏一行という教えを聞いて救われたのですから、それを否定される訳ないです。否定したら、親鸞聖人は法然上人を「よきひと」とも仰ることはありませんし、法然上人とは別の善知識から教えを受けたことになりますよ。
法然上人と親鸞聖人との違いは念仏の行の扱いであって、念仏自体の有無ではありません。念仏は絶対に外せないですが、自力の念仏の行についての見解が少し違っているだけです。それを勘違いして、往生に念仏は要らないとするなら、親鸞会と全く同じ邪義です。
言葉遣いに気を付けた方がよろしいです。
ども、林遊@なんまんだぶです。
RCさん。
人は自分の聞きたい事だけ聴くように、脳内フィルターをかけているのかもです。
ともあれ、御開山は法然聖人の教えを体得されて、その上で発展展開されておられますから、基底である法然聖人の教えを知る事も大切かも知れません。
法然聖人の教えを知らないで、食わず嫌いで否定だけしていると御開山の豊かな浄土思想が判らなくなります。法然聖人がいらっしゃったから御開山の思想が生まれたのでした。
梯實圓和上は、
「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」
とされておられました。例えば御開山の特長として語られる『歎異抄』の「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機の法語も醍醐本『三心料簡事』には「善人尚以往生況悪人乎事」とあり法然聖人のご法語でした。また御開山の晩年の御消息を拝見しても法然聖人を語られることが多く、『歎異抄』では、関東から訪ねてきた門弟の問いに答えて「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と断言されておられましたね。
「西方指南抄」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84もちろん御開山は、法然聖人もビックリというような体系を示されるのですが、法然聖人や七高僧の思想を知る事で、御開山の素晴らしさが判るかもです。
「浄土真宗の特長」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97なお「聖人一流章」の語の初出は「帖外ご文章」、
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%B8%96%E5%A4%96%E3%81%94%E6%96%87%E7%AB%A0です。
wikiarcにUPしてある『やさしい 安心論題の話』の「安心論題/信心正因」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BF%A1%E5%BF%83%E6%AD%A3%E5%9B%A0には、宗学の上でいう「業因」と「正因」の別を論じてありますからお読みいただければと思ふ。
我々はともすれば言葉のマジックに嵌って、言葉で示されたもの以外を排除しがちなのですが、柔軟な思考で学んでいきたいものですね。
ちなみに「教学」というものは、どれだけ学んでも浄土真宗の「ご信心」の因とはなりません。ある意味で大したもんやなあという安心の上の遊びでした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
> コラージュ本尊???( TДT)
コピー&ペースト正本尊
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2010/04/07/コピー%EF%BC%86ペースト正本尊/
親鸞会の本尊は貼り合わせの偽造本尊だよ。知らなかった?
おひさしぶりです、Abcです。
>人は自分の聞きたい事だけ聴くように、脳内フィルターをかけているのかもです。
>ともあれ、御開山は法然聖人の教えを体得されて、その上で発展展開されておられますから、基底である法然聖人の教えを知る事も大切かも知れません。
仰るとおり、人は多かれ少なかれ「自分の聞きたい事だけ聴くように、脳内フィルターをかけて」いるのやもしれません。
私も熱くなりすぎると、御聖教から外れたこと(俗に言う失言)を言ってしまいますが、、林遊さんが「御開山はこのように開かれている」とご教授いただき、それによって学ぶこともあります。
ただ、この「学ぶ」ということも林遊さんがいわれているように、「どれだけ学んでも浄土真宗の「ご信心」の因とはならず、ある意味で大したもんやなあという安心の上の遊び」であります。これからもよろしくお願いします。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
こんばんわ、Abcです。
>それで、念仏往生の皆さんが、どなたから、念仏往生(念仏一行で往生できると信じたのが、浄土真宗の信心)のお話しを、お聞きしているのか、教えていただきたいのです。
私は、「親鸞 と 常盤井さん」ですね、常盤井さんは常々「我々 高田は、「念仏高田」と称されるように、「ただ念仏に生き」、「ただ念仏を弘め」、「ただ念仏を称させていただく」のである」といわれております。本寺は栃木県に、本山は、三重県に各々ございますが、どちらも「念仏」をお勧めさせていただいております。
>私も、投稿文などで、いろいろ書かせていただくご縁がありますので(云々)
このようにコメント欄に記していただける形で問題ありません。
こちらの管理人は淳心房さんですが、淳心房さんとRCさんは面識があるようですので、淳心房さんさえご迷惑でなければ、こちらにて意見を拝聴させていただいております。
よろしくお願いします。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
浄土真宗の教えとは、親鸞聖人の教えのことです。
布教使の方が、浄土真宗の教えを説いているか否かは、親鸞聖人の書かれたお聖教に合致しているか否かで判断するものだと思いますが、如何でしょうか。
浄土真宗の教えは念仏往生であると、親鸞聖人は、
浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり 『一念多念証文』
と仰せです。
○○先生が仰っているから、本山が認めているから、ということで浄土真宗の教えか否かが決まるのでなく、あくまでも親鸞聖人が教えられたことか否かと立脚するのが大事かと思います。
浄土真宗の教えとして「念仏往生」が示されているか否かは、親鸞聖人が書かれたものを拝読すれば、自ずと答えはでます。先入観なく、親鸞聖人の書かれたものを拝読されることを願います。
ども。林遊@なんまんだぶです。
Abcさん
ご法義と関連し、聴聞を遊びと表現して真面目な方から怒られたことがありました(笑
稲城選恵和上は、お説教を聴くのに、一番たちが悪いのが目を皿にして聞いとるんが、たちが悪いんです。とよく法座で仰ってました。
聴いた私の確かさをものにしようとするからでした。
こういうところが浄土真宗のご法義聴聞の難しい処ですね。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「今が目的」
http://wikidharma.org/5c598d8f33c11
続きです。
●親鸞聖人の教えは、「私の往生は 阿弥陀さまのお仕事で、私が足すことは、何もない 、無条件のお救い」と、お聞きしています。
私のお念仏を足す必要など、全く無い、南無阿弥陀仏 に、頭が下がるばかりです。
私は、無条件で救う南無阿弥陀仏のおはたらきに、出遇えました。
私を救う南無阿弥陀仏が完成しているのに、なぜ お念仏を足す必要があるのかわかりません。
●私は、親鸞会を辞めて、ご本願を喜んでいらっしゃる方々が、「念仏する者を浄土に迎えとるご本願」を信じた信心の方だとは、思っていませんでした。
自分と同じ、「無条件のお救い」を、喜んで、念仏申しておられる方ばかりかと思っていたので、実は、かなり驚いております。
→何か誤解されているようですが、「念仏往生」とは、本願力にこちらから念仏を足して往生を遂げるという信心ではないですよ。それでは、20願の自力念仏の行者です。
念仏往生とは18願に誓われた往生であり、「念仏往生」と「無条件の救い」とは、何も矛盾するものではありません。
こんばんわ、Abcです。
>番たちが悪いのが目を皿にして聞いとるんが、たちが悪いんです。とよく法座で仰ってました。
>聴いた私の確かさをものにしようとするからでした。
この「目を皿にして聞いとるんが、たちが悪いんです。」と聞きますと、講師部員の方たちが言われたことが思い出されますね。
ご指南ありがとうございます。
なもあみだ、なもあみだ
Abc
このコメントは管理人のみ閲覧できます
RC様へ
私だけかもしれないですが
お聴聞で気をつけていることがあります。
それは私がどうやって仏さまに救われていくか、と聞かないようにしています。
そうではなくて
仏さまがいかに私を救うか、と聞かせていただくことです。
無条件、とはそういう意味だとご領解させていただいて居りますです。
なまんだぶは、わたしが助かる条件じゃなくて、わたしを助ける阿弥陀さまのおはたらきです。
なまんだぶ、なまんだぶ、なまんだぶ
お念仏について、いろいろ教えいただき、ありがとうございます。
そのお念仏。
「歎異抄」では、「ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべし」と書かれ、「ご文章」では、「ただ口にだに南無阿弥陀仏と称えれば助かるように 皆 人の思えり。それは覚束なきことなり」と書かれています。
「ご文章」の中で、蓮如上人が指摘されている方々も皆さんも、「お念仏をして、阿弥陀さまに助けていただける」と 信じて お念仏を申していらっしゃったと思います。
歎異抄で 助かると言われる「お念仏」。
ご文章で「覚束ない」と言われる「お念仏」。
また、信行両座の諍論では、念仏往生の法然聖人は、信の座に入られていらっしゃいます。
蓮如上人は、歎異抄を見つけても、歎異抄で布教はされずに、ご文章を書かれて、「お念仏して救われよ」ではなく、「 南無阿弥陀仏は、往生の証拠。弥陀をタノメ」というご布教で浄土真宗を広めてくださいました。
法然聖人が 教えてくださり、歎異抄にある「お念仏」の教えと、「ご文章」の教えは、真髄の信心は同じ、他力の信心であり、他力の信心から称えさせていただく 他力のお念仏 だと、思います。
横からさんがおっしゃってくださっている
「→何か誤解されているようですが、「念仏往生」とは、本願力にこちらから念仏を足して往生を遂げるという信心ではないですよ。それでは、20願の自力念仏の行者です。
念仏往生とは18願に誓われた往生であり、「念仏往生」と「無条件の救い」とは、何も矛盾するものではありません。」
は、その通りなのだと思っています。
(ありがとうございます。)
法然聖人と、親鸞聖人の信心は同じですから。
でも
歎異抄で 助かると言われる「お念仏」。
ご文章で「覚束ない」と言われる「お念仏」。
です。
「お念仏を称えて往生」から、阿弥陀さまのお慈悲を お話ししたら、どうしても「覚束ないお念仏、自力で称えて、助かろう」とお念仏を掴んでしまうのが、自力の本質だと思います。
法然聖人がお勧めくださった念仏往生を、お弟子達が、そのまま 正しく受け止められなかったから、一念多念の争いが起こったとお聞きしています。
他力のお念仏を称えさせて、往生させてくださる弥陀のご本願ですが。
私達に、他力のお念仏を称えさせるために、「念仏せよ」ではなく、「弥陀にまかせよ」と いう 教え、「もう 法蔵菩薩さまが、阿弥陀さまになっておられる。私を仏にするおはたらきが完成している。その証拠が 今 聞こえている、南無阿弥陀仏。今称えられているお念仏。私のはからいには用事がなかった」という教えを、蓮如上が 選んで、教えて くださったのだと思います。
「まかせよ」のご本願をお聞きして、阿弥陀さまのお慈悲を知らされて、称えさせていただくのが「他力のお念仏、ご恩報謝のお念仏」といただいております。
私の往生には、私の称えるお念仏は、役に立つわけもない。
それが、有り難く、また、南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏
今の話題からは、少し外れますが。
親鸞会を辞めて、阿弥陀さまのお慈悲を知らさせて、本当 お聴聞が楽しくなりました。
南無阿弥陀仏のおはたらきを お聞きできる身に 阿弥陀さまがお育てくださっんだなぁー、全部全部 お手回しだったんだなーと、しみじみ思い、あの絶望も、苦しみも 涙も 今、南無阿弥陀仏を聞かせるための阿弥陀さまのご方便だったと思うと、泣けてきます。
「幸せに涙する」なんてことが、私の人生に待っているとは、想像さえできませんでした。
何もかもが、おかげさまでした。
私は、ただ 南無阿弥陀仏が有り難く、南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせしているうちに、なぜか、埼玉恵日会のお手伝いをさせていただき、また 教学もないのに、このようなコメントもさせていただいております。
世間では、南無阿弥陀仏のお話しで、こんなに熱心に意見を交わすこともありませんが。
親鸞会という縁から、こんな場か生まれているなんて。
南無阿弥陀仏のおはたらきの真ん中に置いていただいていることを知らされて、やっぱり、南無阿弥陀仏です。
至らない私の言葉で、誤解されたりしている方もあるかと思います。
まあ、それで、ご縁で 信心の沙汰をさせていただけるわけですから、私の至らなさも ご縁にしてくださる南無阿弥陀仏に、ただ 頭が下がります。
こうめ さま、ご縁があったら、一緒にお聴聞させていただけてら、嬉しいです。
南無阿弥陀仏
ども、林遊@なんまんだぶです。
RCさん。
本願寺派の「浄土真宗の教章」には、
本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
とあります。ここでの括弧はイコール(等しい)と云う意味です。括弧を外したらという僧俗も少なからずおられます。
何故かというと、浄土真宗では「名体不二」ということを云うからです。
「名体不二」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%90%8D%E4%BD%93%E4%B8%8D%E4%BA%8C「安心論題」では「所帰人法」という論題があって、阿弥陀仏に帰するのか名号に帰するのについて論ずるところから「名体不二」ということを云います。「安心論題/所帰人法」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E6%89%80%E5%B8%B0%E4%BA%BA%E6%B3%95RCさんは、少しく混乱されておられるようですが、「無上の功徳」という視点から、お念仏と阿弥陀仏と浄土を講義された梯實圓和上の講義をリンクしておきますのでご参照まで。ひまが有ったら脚注をつけるかもしれません。
「無上の功徳」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E3%81%AE%E5%88%A9なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
林遊@なんまんだぶ さま、いろいろご紹介くださり、ありがとうございます。
少しずつ、学ばせていただけたら、と思っております。
まあ、私も含めて、その人、その人のご縁の中で 南無阿弥陀仏とのお出遇いだと思いますので、「助けるおはたらき」は、同じでも それを言葉にすると表現が、違ってくることが、少なくないのかと感じております。
だから、やはり 教学が 大切になってくるのでしょうね。
でも、南無阿弥陀仏の尊さを ほとんどの方が知らない現代の日本で、共に お念仏を喜ぶ皆さんと、このように、やり取りをさせていただけますこと、本当、有り難いご縁と思います。
インターネットの普及が、仏縁を繋げ、広げてくださっているんですね。
スマホの中にも、パソコンの中にも、阿弥陀さまがいらっしゃらないところはないんだぁーと、実感しています。
また、よろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
RC様へ
コメントありがとうございます。
残念ながら私は遠方に住んでいますので
恵日会にはお参りに行くことができません
阿部先生にお聞きしたいことが
いくつかあるのですが
代わりに聞いていただくことは
出来ますでしょうか。
差し支えなければ
よろしくお願いします。
こうめさま。
はい、阿部先生に、お聞きいたします。
それで、その内容につきましては、
rokujinotsudoi@yahoo.co.jp
に、メールしていただけますか?
よろしくお願いいたします。
こうめさんが 書いてくださった文章は、とても優しい言葉で綴られていて、嬉しく読ませていただきました。
阿弥陀さまのお話は、いつも阿弥陀さまが
主語ですね。
阿弥陀さまが、私を救うだけで、私が救われる者になれるわけではないですからね。
阿弥陀さまとのお出遇いのある人生で、良かったですね。
南無阿弥陀仏