行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり
「念仏を称える」というと、どうも自力の念仏に捉えるように思う方があるようですが、真宗で言われる念仏は、「念仏している」という行いに功を認めるような自力の念仏でないのは当然のことです。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。(「行文類」大行釈)
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(「行文類」決釈)
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(「信文類」総決)
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。(『歎異抄』第8条)
ですから、「念仏を勧める」⇒「自力を勧める」、「念仏を称える」⇒「本願のはたらきに念仏を称えるという私の行いを足す」ように勘違いされては困ります。
よく「信心を頂く」というのは聞くことがあると思いますが、同様に「行」も阿弥陀仏より頂くのです。なので
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。(「行文類」行信利益)
おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(「行文類」偈前序説)
等とあるように「行信を獲る」という表現をされています。本来は「教文類」にあるように「真実の教行信証」を回向されるのですが、「証」は往生成仏の証果で、助かった結果です。今問題なのは、助かるタネ、つまり「行信」なんです。その内、信心正因称名報恩を説く人はどうも信心を独り立ちさせて行を説かない、あるいは行を本願のはたらきとか法体名号の上でのみ語る、または信後の「必具名号」というような「信心についてくるもの」という意味合いで説かれるようなんですが、これは果たして宗祖の解釈と合致するものなのでしょうか。
私はそうは思いません。もしそうなら、
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」破闇満願)
と称名で大行を語られるはずがないからです。法の徳から言えば、称名は間違いなく私達を往生成仏させる、正しく往生が決定する行業、「正定業」なのです。念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられたのがこの「行文類」です。
また、順番としては「教 行 信 証」ではなく「教 信 行 証」となるはずです。教えを聞いて信心を獲て、報謝の念仏(行)をしてさとる、こうなりますわね。しかし説かれ方は「教 行 信 証」です。本来は行の中に摂めてあった信を別開したので、行と関係ない信もなければ信と関係ない行もありません。真実の行には必ず真実の信が伴っているし、真実の信には必ず真実の行が伴っている。行と信と二つあるように聞こえますが、これは不離不二の関係です。これを表しているのが、
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
の御文であり、末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
のお言葉です。ここでは、「行」を
本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり
と表され、「信」を
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念
と仰っています。「行」は「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせん」ですから「念仏」であり、「信」は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信というのです。念仏は私の上に現れていますが、私の行いではなく、本願のはたらきの活動相です。その活動相としての念仏をも「行」というのです。
第17願が成就し、諸仏讃嘆の名号が「南無阿弥陀仏」となって我々に届いている。我々の上に念仏となって届いているのです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えてみて下さい。私の口を通して諸仏讃嘆の名号が聞こえます。その「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信といい、これは第18願に誓われた信楽です。
ここで、念仏を言われる際にも「本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて」、信心を言われる際にも「この御ちかひをききて」とあるように、本願を「ききて」の念仏、信心というところが大切です。本願を離れた私の念仏、私の信心と思うところに誤りが発生する元があるのでしょう。
この「念仏」には、「念仏を称える」という私の行為に功を認めるような、また「念仏を称える」ことを条件に救って頂こうというような自力の計らいは一切雑じりません。「我が名を称える者を必ず浄土に迎えるぞ」と聞き受けて疑いがないからです。これを、本願に誓われた念仏と受け取らずに、私の行い、私の善のように思い、それを積み重ねて往生しようとするから「自力の称念きらはるる」なのです。
嫌い退けられるのは「自力」であって「称念」そのものではありません。「仏願の生起本末」を知らずに、何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称えれば助かるように思う無信単称、また自力心がいけないのであって、念仏そのものは本願の行なんですから、「仏願の生起本末」を聞き受けて弥陀回向の法を怠りなく申すべきなのであります。
上の末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」にも示されているように、本願は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひ」であると聖人は仰せられています。これも法然聖人の教えだとはねるようならば、ではどれが親鸞聖人の教えで、どれが法然聖人の教えなのか明確に線引きして頂きたいものです。
そういえばかの先生は以前、「称」は「秤」の意味だと説明されていましたが、その根拠は
「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。(『一念多念証文』 『礼讃』深信釈の文意)
でしょう。これも、前段の
「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。
は用いるのに、後段の
名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり
という善導大師の文意は『観無量寿経』の立場だと言ってはねるのでしょうね。聖人のお言葉をえり好みして、これは親鸞聖人の教え、これは法然聖人の教え、これは平生業成の立場、これは念仏往生の立場、これは『大無量寿経』の立場、これは『観無量寿経』の立場と、自分の説に合わせて都合よく断章取義していく姿勢は誰かさんを彷彿とさせます。邪義を説いたり私利私欲を満たしたりしてはいませんが、浄土真宗の先生ならばどの聖人のお言葉も尊く受け止めていくべきだと思います。
なお私としては、念仏往生の正しい領解、親鸞流の領解を後の人が平生業成と言われたので、両者は対立するものでも何でもない、一つだという見解ですが、これは別の機会に譲ります。
【参照】
安心論題/正定業義
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。(「行文類」大行釈)
あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。(「行文類」決釈)
しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(「信文類」総決)
念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。(『歎異抄』第8条)
ですから、「念仏を勧める」⇒「自力を勧める」、「念仏を称える」⇒「本願のはたらきに念仏を称えるという私の行いを足す」ように勘違いされては困ります。
よく「信心を頂く」というのは聞くことがあると思いますが、同様に「行」も阿弥陀仏より頂くのです。なので
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)
しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。(「行文類」行信利益)
おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(「行文類」偈前序説)
等とあるように「行信を獲る」という表現をされています。本来は「教文類」にあるように「真実の教行信証」を回向されるのですが、「証」は往生成仏の証果で、助かった結果です。今問題なのは、助かるタネ、つまり「行信」なんです。その内、信心正因称名報恩を説く人はどうも信心を独り立ちさせて行を説かない、あるいは行を本願のはたらきとか法体名号の上でのみ語る、または信後の「必具名号」というような「信心についてくるもの」という意味合いで説かれるようなんですが、これは果たして宗祖の解釈と合致するものなのでしょうか。
私はそうは思いません。もしそうなら、
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」破闇満願)
と称名で大行を語られるはずがないからです。法の徳から言えば、称名は間違いなく私達を往生成仏させる、正しく往生が決定する行業、「正定業」なのです。念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられたのがこの「行文類」です。
また、順番としては「教 行 信 証」ではなく「教 信 行 証」となるはずです。教えを聞いて信心を獲て、報謝の念仏(行)をしてさとる、こうなりますわね。しかし説かれ方は「教 行 信 証」です。本来は行の中に摂めてあった信を別開したので、行と関係ない信もなければ信と関係ない行もありません。真実の行には必ず真実の信が伴っているし、真実の信には必ず真実の行が伴っている。行と信と二つあるように聞こえますが、これは不離不二の関係です。これを表しているのが、
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
の御文であり、末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
のお言葉です。ここでは、「行」を
本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり
と表され、「信」を
この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念
と仰っています。「行」は「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせん」ですから「念仏」であり、「信」は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信というのです。念仏は私の上に現れていますが、私の行いではなく、本願のはたらきの活動相です。その活動相としての念仏をも「行」というのです。
第17願が成就し、諸仏讃嘆の名号が「南無阿弥陀仏」となって我々に届いている。我々の上に念仏となって届いているのです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えてみて下さい。私の口を通して諸仏讃嘆の名号が聞こえます。その「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信といい、これは第18願に誓われた信楽です。
ここで、念仏を言われる際にも「本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて」、信心を言われる際にも「この御ちかひをききて」とあるように、本願を「ききて」の念仏、信心というところが大切です。本願を離れた私の念仏、私の信心と思うところに誤りが発生する元があるのでしょう。
この「念仏」には、「念仏を称える」という私の行為に功を認めるような、また「念仏を称える」ことを条件に救って頂こうというような自力の計らいは一切雑じりません。「我が名を称える者を必ず浄土に迎えるぞ」と聞き受けて疑いがないからです。これを、本願に誓われた念仏と受け取らずに、私の行い、私の善のように思い、それを積み重ねて往生しようとするから「自力の称念きらはるる」なのです。
嫌い退けられるのは「自力」であって「称念」そのものではありません。「仏願の生起本末」を知らずに、何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称えれば助かるように思う無信単称、また自力心がいけないのであって、念仏そのものは本願の行なんですから、「仏願の生起本末」を聞き受けて弥陀回向の法を怠りなく申すべきなのであります。
上の末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」にも示されているように、本願は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひ」であると聖人は仰せられています。これも法然聖人の教えだとはねるようならば、ではどれが親鸞聖人の教えで、どれが法然聖人の教えなのか明確に線引きして頂きたいものです。
そういえばかの先生は以前、「称」は「秤」の意味だと説明されていましたが、その根拠は
「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。(『一念多念証文』 『礼讃』深信釈の文意)
でしょう。これも、前段の
「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。
は用いるのに、後段の
名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり
という善導大師の文意は『観無量寿経』の立場だと言ってはねるのでしょうね。聖人のお言葉をえり好みして、これは親鸞聖人の教え、これは法然聖人の教え、これは平生業成の立場、これは念仏往生の立場、これは『大無量寿経』の立場、これは『観無量寿経』の立場と、自分の説に合わせて都合よく断章取義していく姿勢は誰かさんを彷彿とさせます。邪義を説いたり私利私欲を満たしたりしてはいませんが、浄土真宗の先生ならばどの聖人のお言葉も尊く受け止めていくべきだと思います。
なお私としては、念仏往生の正しい領解、親鸞流の領解を後の人が平生業成と言われたので、両者は対立するものでも何でもない、一つだという見解ですが、これは別の機会に譲ります。
【参照】
安心論題/正定業義
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