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【検証】親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得るのか

本日は、昨日の「埼玉恵日会」のお話についての記事に関して書きます。阿部信幾先生が根拠として提示した親鸞聖人の六字釈が、本当に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠と成り得るのか検証します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

この内の、「帰命は本願招喚の勅命なり」を出して先生は、

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と主張しています。しかし、「我にまかせよ」はそうだとしても、それがどうして「念仏を称えよ」ではないになるのでしょうか? この六字釈を全て読んでも、どこにも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」に該当することを親鸞聖人は仰せられていません。それで疑問だったのですが、ようやくそれが解けました。

この「帰命は本願招喚の勅命なり」とは、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻](梯實圓)』に

 こうして一般には、南無阿弥陀仏とは私が阿弥陀仏に帰命するという、私から阿弥陀仏へという方向で受け取られていたものを、一転して阿弥陀仏のほうから私のほうへと一方的にはたらきかけ、私を呼び覚まして救っていかれるという阿弥陀仏のはたらきに転換し、これによって本願力回向の宗義を明確にしていかれたわけです。とくに本来は「命に帰する」と読み、衆生の信心を表す言葉であった帰命を、「帰せよの命」であると言い切り、阿弥陀仏が大悲をこめて衆生に救いを呼びかける本願招喚の勅命であると言い切られたことは、親鸞聖人の宗教全体を特徴づける意味をもっていました。(p.243)

とあるように、私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を意味していたのです。つまり、

・帰命は「帰せよの命」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

ことを言いたかったのです。ですから、先の言葉

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

これは「 」と「 」の対応が間違っています。正しくは、「我にまかせよ」に対応する語は「念仏を称えよ」ではなく、「衆生(私)から命に帰す」の自力回向だったのです。

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

これが正しい対応になります。「行文類」の六字釈は、名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわすためにされたもの、つまり「念仏のこころ」を明らかにされた釈であり、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。

そのことは次の、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」の釈を見るとより分かり易くなります。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり

と仰せられ、私が浄土に往生したいと願う遥か以前に阿弥陀仏が「必ず往生させる」と願いを発して、衆生に往生の行、すなわち念仏を回施して下さるという他力回施が「発願回向」の心だと仰せられています。ここでも私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表していて、念仏は他力回向の行だと仰ったものであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではありません。

それから、「阿弥陀仏」の意味である「即是其行」については、

即是其行といふは、すなはち選択本願これなり

と仰っています。この説明も先の『聖典セミナー』より引用します。

阿弥陀仏という仏名が、ただの仏名ではなくて、往生の行でありうるのは、法蔵菩薩が平等の大悲心にもよおされて、一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく救いうる行法として選択された選択本願があるからです。すなわち自力の諸善万行を難劣の故をもって選び捨て、最勝にしてしかも至易の徳をもつ名号を選び取り、「我が名を称えんものを必ず救う」と選定された選択本願の行であるから、仏名が往生行となるのです。こうして称名は、阿弥陀仏の救済意志の顕現であるような選択行であるから衆生がことさらに回向しなくても自然に往生の行となる不回向の行であるといわれたのです。それを親鸞聖人は、念仏が不回向の行であるのは、阿弥陀仏が大悲をこめて選択して私たちに回向された大行であるからと展開されたのです。それをここでは、「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」といわれたのです。(p.242~p.243)

私が「南無阿弥陀仏」と称えたから往生の行になるのではなくて、阿弥陀仏が往生の行として選択本願に定めて下されているから称名することが正しく浄土往生の行業になるというのです。ここも同様に私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表しているのであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。


その後「行文類」では、『五会法事讃』を始め聖道諸師の文までも幅広く引文され、源信僧都、法然聖人の御文を引かれています。膨大な『教行証文類』の中、法然聖人の『選択本願念仏集』を引かれているのは不思議とここだけです。親鸞聖人は『選択集』の法義の真実性を証明するために『教行証文類』を書かれましたが、この「行文類」だけに『選択集』を引文されたのは、とくに選択本願念仏という行法の真実性の証明が重要だったからです。称名は仏の本願の行であるから必ず往生することができる。その証明として、宗義を表す『選択集』の題号と、『選択集』の意を集約された「三選の文」を引文されたのです。これは先哲が指摘するように『選択集』全文を引用されたという意味を持っています。

そして「行文類」は有名な決釈へと続きます。すなわち

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と言われたものがそれです。選択本願の念仏は凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏が大悲をこめて恵み与えて下さる本願力回向の行であり、行者の方から回向を用いない不回向の行であると結ばれたのでした。

親鸞聖人の六字釈は、念仏が本願力回向の行法であることを証明するという意味で、この決釈と対応しています。この決釈に導きたかったがために、善導大師の六字釈を出された後で、今一度ご自身で釈を施されたのでしょう。繰り返しますが、親鸞聖人の六字釈は名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわされたものです。念仏は他力回向の行であって自力回向の行ではないぞと、「念仏のこころ」を明らかにするための釈でこそあれ、決して「念仏を称えよ」ではないなどという仏意と真反対なことを明らかにするための釈ではなかったのです。


そもそも「行文類」とは、念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられた文類ですから、その中に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠など存在するはずがないのです。よって

親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得ない

これが検証結果です。それを無理やり

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

とこじつけて仏意を捻じ曲げる先生は、一体何宗の布教使なのでしょうか。

悪意は無いのかもしれませんが、無いのだとしたら余計たちが悪いです。知らずにこんな恐ろしいことを周囲に発言しているのですから。先生には、早く誤りに気付いてこのような教説を撤回されることを切に願います。
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驚きました。

驚き、呆れました。

ご存知かと、思いますが、阿部信幾師は 浄土真宗本願寺派の 伝道院という 布教使養成施設の、研究過程という布教使になった方が、更に 質の高い布教使になろうとされる布教使さんたちの「専任講師」を もう、何年も 勤めていらっしゃる、布教使の先生です。
本願寺派の中で、お墨付きをいただいている布教をしている布教使ということです。


その方について、
「仏意を捻じ曲げる先生は、一体何宗の布教使なのでしょうか。」と言えるほどの教学の研鑽を、淳心房さんは、されたのでしょうか?

恐ろしいことを、書いてしまったのでは、ないですか?

南無阿弥陀仏


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No title

法主に対して異議を唱えた三業惑乱が起きましたが、相手が誰であるとか関係なく、平等に異議を申し立てることのできるのが、真宗だと思います。この先生は絶対だという親鸞会思考をいい加減改めませんか。

行信不離

ども、林遊@なんまんだぶです。

「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という教えを聞いて、その教えの通り信じて念仏したら、その信は「行信」を全うじた信なのでした。
この行信の、行の念仏を無視してしまったら御開山が示された「行信」が無意味になってしまいます。
こういう過ちに陥らないように、御開山は「行信不離」ということを仰ったのでした。

「行信不離」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2

「梯實圓和上の講義」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E8%A1%8C%E4%BF%A1%E4%B8%8D%E9%9B%A2


本願招喚の勅命とは「二河譬」の、

 なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。

という阿弥陀仏の「招喚」の意でしょうが、それを和上は「往生大要抄」に

 たゞ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。

とある、法然聖人お示しの「声について決定往生のおもひをなすべし」といわれたものを、名号に表現されている決定摂取の本願を聞くことだと理解し、それを継承されたのが親鸞の「行文類」(真聖全二・二二頁)の六字釈の「帰命者本願招喚之勅命也」という妙釈だったとみることができよう。

と、云われてました。
招喚に左訓に「マネク」「ヨバフ」とあるように、声となって呼ぶからヨバフなのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tanomu.jpg

なお、蛇足ですが『観念法門』には『般舟三昧経〕を引いて、

 阿弥陀仏報へてのたまはく、 《来生せんと欲せば、まさにわが名を念ずべし。休息することあることなく、すなはち来生することを得ん》〉と。
http://wikidharma.org/5c5bcdc739382

とあります。御開山は比叡山時代には堂僧として「常行三昧」を修しておられたとされますから、この経文も当然ご存じだったのだと思ふ。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%88%AC%E8%88%9F%E4%B8%89%E6%98%A7

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

RC様

確かに学識や経験は私の方が明らかに下でしょう。

しかしこの「行文類」の解釈においてはどちらが正しい解釈でしょうか。ここは、念仏は他力回向の行であって自力回向の行ではないぞと仰せられたのであって、親鸞聖人の六字釈のどこをどう読んでも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という解釈は出てこないのです。

RCさんがご自身で判断つかなければ、司教や勧学の先生に聞いてみられたら如何ですか?
「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていますか」それとも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていませんか」と。またその聖教上の根拠も尋ねてみたらよいでしょう。

私は「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っているし、親鸞聖人もそのように教えられている」と答えます。根拠は、以前メールで示した通りです。それを、これは法然聖人の教えだといって親鸞聖人のお言葉を聞かないというならそれまでです。


秘密コメント様

以後の記事では気をつけます。

No title

阿倍先生の回答に対する個人的感想

親鸞聖人の六字釈だけで説明するのは不親切だと思います。
仮にも輔教さまです。
能行、所行の面からとか、行信不離だとか名体不二など知らないはずはないのです。
淳心房さんか何度も聞いているのです。
大先生なら対応の仕方があるのではないですかね。

ちょっと残念ですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>念仏は他力回向の行だと仰ったものであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではありません。

仰るとおり、「念仏」は「他力回向(阿弥陀様がご用意されたもの)の行」であれ、「念仏を称えよ」ではありません。 いや、なにか文章がおかしくなってしまいましたが、阿弥陀様は「わが名を称えよ」といわれ(これを本願招喚ともいわれます)、釈尊がそのいわれを『浄土三部経』にしるされています。 ですから、この『浄土三部経』は「わが名を称えよ」ということを阿難やイダイケ、わたしたちに伝えて下されている書物なのであります。

この『浄土三部経』のほかに意訳書として『如来会』、解説書として『観経四帖疏』などがございます。みなみな「わが名を称えよ」と言う事柄を伝えんがための書物でございます。

ありがたいことであります。
なもあみだ、なもあみだ  Abc

[ 以下、参考文献 及び 考察]
『大経』
「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。」
※「ことごとく咨嗟して、わが名を称せず」が「大行」
 「至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて」→「一心に願生して」が「大信」であり、親鸞は主著にて
 「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。」と記されております。

「いかんが作願する。心につねに願を作し、一心にもつぱら畢竟じて安楽国土に往生せんと念ず。如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり。」(『往生論』より)
「一には一心にもつぱら阿弥陀如来を念じてかの土に生ぜんと願ずれば、この如来の名号およびかの国土の名号、よく一切の悪を止む。 二にはかの安楽土は三界の道に過ぎたり。もし人またかの国に生ずれば、自然に身口意の悪を止む。 三には阿弥陀如来の正覚住持の力、自然に声聞・辟支仏を求むる心を止む。この三種の止は如来の如実の功徳より生ず。このゆゑに「如実に奢摩他を修行せんと欲するがゆゑなり」といへり。」(『往生論註』より)

「下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。 この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。 命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。 この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」(観経・意)と。 この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。 終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。」(『観経四帖疏』 玄義分 より)

等といわれております。あわせてお読みください。

信心正因

ある親切なお同行の方が、「安心論題」の 信心正因の文章を送ってくださったので、示させて、いただきます。
(ありがとう ございます!)

以下が、その文章です。
●しかし、信心で往生決定か、称名で往生決定か、を論ずる場合には、信心で往生が決定するのであって、称名するというわたくしの行業によって往生が決定するのではないといわねばなりません。なぜなれば、名号をわたくしの心に領受したとき、往生の因は決定するからであります。

南無阿弥陀仏

Re:RCさん

こんばんわ、Abcです。

>しかし、信心で往生決定か、称名で往生決定か、を論ずる場合には、信心で往生が決定するのであって、称名するというわたくしの行業によって往生が決定するのではないといわねばなりません。

→「阿弥陀様から賜る信心」によって往生必定するのであって、「自力の信心」によって往生必定するのではない。

→また、同じことになるが、「阿弥陀様から賜る念仏」によって執持名号(専修念仏)するのであって、「自力の念仏」によって雑持名号(雑修念仏)するのではない。

 なぜなれば、名号をわたくしの心に領受したとき、往生の因は決定するからであります。

→「なむあみだぶつの心」(作仏す 執心す 専念す ・・・)が「ふたごころなく」受け取った時に、(この「ふたごころなく」の意も「なむあみだぶつの心」に含まれています) 弥陀浄土への因は定まります。 ただ、この世においては「煩悩」が妨げとなって、「身口意の悪を止む」と言うことはございません。ただその中におかれましても「弥陀のお誓い(自然)」のこころは私たちに差し向けられております。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

何だか、意地でも称名念仏したくない様にしか見えないのですが。
折角西も東も高田派も集う有難い場所で貴重なご意見を頂いているのに、
耳を塞いで善知識帰命を貫いてどうするのですか。

称名報恩

信心正因 称名報恩 です。

ご恩報謝のお念仏を、今日も、嬉しく称えさせていただいております。

おかげさまで、南無阿弥陀仏 です。

お念仏となっておはたらき下さる阿弥陀さま

阿弥陀さまは、お念仏となっておはたらき下さる仏さまです。

だから「まかせよ、救う」の南無阿弥陀仏におまかせしたら、その「おはたらき」が、私の口からお出ましくださいます。
「お念仏」は 「阿弥陀さまのおはたらき、そのもの」「阿弥陀さま」ですから、おまかせしたら、必ず 称えさせていただけるのです。
「念仏せよ」では、「おまかせでない、お念仏を」称えてしまうことにもあるかもしれません。
でも、おはたらき(=お念仏)に、「おまかせ」したら、そのおはたらきで、必ず、お念仏させていただくのです。
お念仏は、阿弥陀さまが おはたらき下さっている証拠であります。
南無阿弥陀仏のおはたらきにおまかせしたら、証拠は必ず 現れて下さるのです。

おはたらき

ども、林遊@なんまんだぶです。

RCさん、正確に引きましょうよ。
>>
 第十八願は、名号を信じさせ称えさせて、真実報土に往生させようという誓いであります。如来の名号がわたくしの心に届いたのが信心であり、それが声に顕われるのが乃至十念の称名で、信心も称名も共に名号をいただいたすがたにほかなりません。それゆえ、他の諸行の法に対しては、他力の念仏をもって本願の法を示されます。念仏往生・念仏為本というのは、この意味であります。

 しかし、信心で往生決定か、称名で往生決定か、を論ずる場合には、信心で往生が決定するのであって、称名するというわたくしの行業によって往生が決定するのではないといわねばなりません。なぜなれば、名号をわたくしの心に領受したとき、往生の因は決定するからであります。
>>
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E4%BF%A1%E5%BF%83%E6%AD%A3%E5%9B%A0

と、いうわけで機が法(なんまんだぶ)を受け容れたことを「正因」というのでした。要するに信心一発するときの、時間の「前後」を論ずる時に信心正因というのでした。
つまり、永遠の救いの法である「名号法」が私の上に届いた(領受)時剋を指して信心正因を論ずるのでした。もちろん、そのような信は私の上にあるけれども、私の物ではないのですね。

なお「はたらき」という語は、仏教では「体・相・用」の用を云います。
法然聖人は「四箇条問答」で、体・用を論じておられるので参考までにリンクしておきます。
http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E8%A5%BF%E6%96%B9%E6%8C%87%E5%8D%97%E6%8A%84/%E4%B8%AD%E6%9C%AB#.E5.9B.9B.E7.AE.87.E6.9D.A1.E5.95.8F.E7.AD.94

なお、御開山は浄土真宗を、

 ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E6%95%99%E6%96%87%E9%A1%9E#.E5.AE.97.E4.BD.93.E3.82.92.E6.B1.BA.E7.A4.BA.E3.81.99.E3.82.8B

と、名号を「体」とするご法義であると述べておられましたです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

No title

以前に阿部師のことを大沼師に似ているとコメントしたら、林遊さんから批判されましたが、少しは私の気持ちを理解できたのなら、嬉しいですがね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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