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「雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!」だとか喚いて、高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかない現役カルト信者

現役カルト信者は本当に話題提供に活躍してくれています。ここまで来ると、「もっと親鸞会教義の誤りを示せ」と促して下さる還相の菩薩様のようにも思えてきます(笑)

それはさておき、彼はまたこんなことを言っています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
雑行、雑修、自力の心を振り捨てて

御文章よくよく読まれ(笑
どうせ正顕できんと思うけどww


蓮如上人の御同行に雑行棄てて無い方々がおられたか


けんにんかのとりのれき
雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!
即、本願の船にのり、他力の信心を得る。

それ以外無い
2019-02-10(10:28) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

どうやら「信前に雑行は捨てられない」「信一念まで雑行はある」という異安心に陥っているようです。そして、これが親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかないようなので教えてあげます。

以下、『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会より。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 『三経往生文類』の20願をみておきます。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。

ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。

三願転入の文を読めば明らかです。
論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。

要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

20願の行者は、「雑行と雑修(助業)を捨てて念仏1つ」となった行者です。その20願は信前ですから、信前に「雑行」が捨てられないのでは行者は20願を通らずに信心獲得することになります。これは

高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』の完全否定

です。こんなことも判らない愚かな現役カルト信者だということが分かります。

では、領解文『御文章』5帖目15通等に言われている

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて
もろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて

は何かと言いますと、これは「自力心」の別名です。「自力心」があるから「もろもろの雑行雑修」に心をかけるのです。その「もろもろの雑行雑修」の元である「自力心」をふりすてて、ということです。「もろもろの雑行雑修」は行体、つまりものがらです。ものがらは自分で捨てることができます。「自力心」はものがらではなく迷いの因です。これは自分で捨てることができません。他力に帰す、信心獲得するまである心です。

その「自力心」は自分でふりすてるのではなく、

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのむ
一心にふかく弥陀に帰する


ところに阿弥陀仏のお力によって捨てさせられるわけですから、私達にとっては何よりも「助けるぞ」の弥陀の勅命を聞いて、仰せの通りに後生をまかせることが大事なのです。これを「唯信」、つまり信心と言います。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。『唯信鈔文意』

とある通りです。これと奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験とは訳が違います。


あと、領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味については

『飛雲』会員との問答(後生の一大事について)

に書かれていますのでそこから引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

聞邪義、献金、勧誘、無条件服従等のいわゆる「高森の行」にいそしみ、

何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向している

親鸞会会員の実態を捉えて余りありません。そうやって、気が付かなければ死ぬまで騙され続ける会員。他力の信は獲られず、「絶対の幸福」とやらも獲られず、残るのは我が身に積もる罪悪と後生への恐怖のみです。どこまでも、哀れ哀れです。
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Re:元会員さん

おはようございます、Abcです。

>三願転入

>18・・・十方衆生
>19・・・十方衆生
>20・・・十方衆生

>19,20をおろそかにする者は十方衆生を知らない

私が親鸞会にいた時に聞いたことがある説明ですね。

以下に『飛雲』より引用いたします。

『飛雲』超選民思想の高森教と合致する19願
「結論だけ言うと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」は、

『平等覚経』では、「諸佛國人民、有作菩薩道者

『大阿弥陀経』では、「八方上下無央數佛國諸天人民、若善男子善女人有作菩薩道

に当たります。
共に「菩薩道を作す」者のことです。

もう一度言いますと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となっていますので、聖道門で修行している、修行していた人のことを意味します。」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-db97.html

『飛雲』再開した三願転入の妄想話
「結論だけ簡潔に述べますと、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない (中略)

親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。(中略)

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-c785.html

このようにございます。上記の抜き出した箇所にて更にまとめるならば、
「『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となり、20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っていますが、「19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある」ことより 三願転入はすべての人の道程とならない」となります。

元会員さんが出された事案は、既にご説明なされています。お読みください。

Abc

三願的証

ども、林遊@なんまんだぶです。

御開山は七祖の伝統の上で浄土教のご法義を語られます。その意味では、いわゆる三願転入論も祖師方の解釈の上から考察すべきです。

高森親鸞会では、七祖聖教を読むことが禁じられているそうで、また浄土教の他派の教義概念を参照しないからわけが判らなくなっているのでしょう。
いわゆる「信因称報説」のドグマ(宗教上の独断的な説)に陥って「自覚」としての信心を強調してきたため御開山の豊かな浄土思想が解らなくなっているのだと思ふ。

法然聖人は、ご自身の回心の経験から「偏依善導」とされる。
http://wikidharma.org/5899c9602b997

その法然聖人の三願観はあまり明確ではないのだが、善導大師の、

 一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。 いますでに成仏したまへり。 すなはちこれ酬因の身なり。
http://wikidharma.org/5c60d548a6bec

という四十八願の基底には、全てなんまんだぶを称えて浄土に往生するという語によって、「乃至十念」と誓われている「第十八願」を「王本願」であるとされたのであった。(七祖p.1228)

この第十八願を「王本願」とすることによって、第十九願、第二十願は十八願に従属する願であるとみられたのであった。つまり主である第十八願に従ずる利益を示した願が第十九願、第二十願であると見ておられたのであった。特に臨終来迎を説く第十九願は、当時の浄土門の者にとっては、喫緊の要請でもあったからである。もっとも法然聖人は、当時の臨終行儀に関しては無関心であったことは『西方指南鈔』所収の「法然聖人臨終行儀」などによって窺うことができる。「念仏衆生摂取不捨」であるから、いまさら臨終の来迎を期する必要は無いのであった。
http://wikidharma.org/592461686b691

御開山は、この法然聖人の説を承けつつ、生因三願を再考察されたのが三願転入論であった。そこには明らかに第十八願に立って第十九願、第二十願を考察されるのだが、まさか高森親鸞会のように求道の階梯として利用する輩が現れるとは想像だにもしておられなかったのだろう。

その意は、「化巻」で、

 しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と、第十八願を別願中の別願とされておられることからも解る。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E8%A8%BC%E6%8B%A0%E9%96%80%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E2%80%A6

ともあれ第十九願、第二十願に拘泥している輩は、阿弥陀如来の第十八願を疑っている輩であるから、お互いの会話が成立しないのであった。どうでもいいけど。
ちなみに御開山が敬慕された曇鸞大師には速やかに仏果を得る道として「三願的証」という文があるのだが、「七祖聖教」に縁のない高森親鸞会の会員は、ぜひ参照することをお勧めする。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E9%A1%98%E7%9A%84%E8%A8%BC

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんにちは、Abcです。

ご解説ありがとうございます。

>高森親鸞会では、七祖聖教を読むことが禁じられているそうで、また浄土教の他派の教義概念を参照しないからわけが判らなくなっているのでしょう。
いわゆる「信因称報説」のドグマ(宗教上の独断的な説)に陥って「自覚」としての信心を強調してきたため御開山の豊かな浄土思想が解らなくなっているのだと思ふ。

そのようでございます。ですから親鸞会のなかでは、七祖につきましては、「人物名」と「主著のタイトル」についてしか語られておりません。ですから、「これら七祖の説を信じよ」と締めくくられている『文類偈』や『正信偈』については解説することができなくなっております。それでいて過去の論題に『1から学ぶ浄土真宗 ー正信偈を通してー』というのがありましたから、果たして何を説明なされたのか...と愚考する次第であります。

>ちなみに御開山が敬慕された曇鸞大師には速やかに仏果を得る道として「三願的証」という文があるのだが、「七祖聖教」に縁のない高森親鸞会の会員は、ぜひ参照することをお勧めする。

ふむ、「三願的証」ですか、あらたな角度からお聖教を学ぶことができそうですね。 ただ、これも「曇鸞大師が速やかに仏果を得る道として示された」ということから「七祖聖教」にふくまれるらしいです。現に、私が『願生偈』について講師部員に尋ねた際にも、「これは七祖聖教であるから読み解かなくてもよい」といわれました。 親鸞会自身が私に渡した『真宗聖典(法蔵館)』に記されているのにも関わらずであります。

 今、林遊さんが示された文献を熟読して、実のある質問を彼にはしていただきたい限りです。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

御文章
うれしさを昔はそでにつつみけり
・・・皆様

今宵は身にもあまりぬるかな
・・・だらぶつ

拝読した?正雑の分別、時間差有るとおもっとんが?

No title

良い子は、早くねんねしな

悪い子はパチンコ行って、負けて、腹いせにキャバかホストいかれ♪

皆様方どうも可笑しいと思ったら身体の行いにばっかり目が言ってるみたい♪

三願転入・・・身体の行いで、同じ道進む人居ないんでない?

捨てよ!という雑行の大意は疑情

No title

>雑行の大意は疑情

坊やは、面白いことを言うね。
本願寺でそれを言ったらウケるよ。

芸人を目指して、まずは中学校を卒業しようね。

だらけ~

おまんら菩薩道じゃないみたいだの~

等正覚の菩薩もおらんが?

菩薩の意味しらんがけ?

No title

ここは、お子ちゃまが来るところじゃないの。
学校サボってないで、お勉強しなさい。

雑行、正行のふんべつ知らない方ばかり!


名無しは・・・名前の無い赤子ww

No title

坊やは学校行けよ。
雑行を捨てよ→雑行を自分では捨てることができない

こんな火星人並みの国語能力では、世の中で生きていけないよ

元会員様

ご返答がないのでこちらにも挙げておきます。

元会員様

あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)でしょうか。
もし、そうならば、あなたのハンドルネームは、見る人を欺いていると受け取れます。
見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。

また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)を退会されたのでしょうか。
もし、そうならば、その理由を教えて頂けないでしょうか。
あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ退会されているのかが疑問です。
また、退会されてから方針などが変わっているかもしれないのに、お布施(ご法礼)の点など、会の内側のことがなぜ分かるのでしょうか。

また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)ではなく、退会されたのでもないのでしょうか。すると、「元会員」とは、どんな宗教、どんな教えを指しているのでしょうか。
また、あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)になられないのでしょうか。浄土真宗親鸞会では、仏教を真剣に求めるならば、会員(学徒)になることを勧めています。
また、「元会員」というハンドルネームは、このブログでは、元浄土真宗親鸞会の会員(学徒)と通常受け取れます。上にも書きましたが、見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。

Re:Abcさん

ども、林遊@なんまんだぶです。

七祖聖教を拝読するには、リンク先の「註釈版聖典七祖篇を読む」を一読されたし。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A8%BB%E9%87%88%E7%89%88%E8%81%96%E5%85%B8%E4%B8%83%E7%A5%96%E7%AF%87%E3%82%92%E8%AA%AD%E3%82%80

従来は、御開山の引文の読み方によって七祖の教学を理解してきました。
しかし、七祖の教学は時代背景も違いますし、その時代時代に応じて浄土教を開顕してきて下さったのでした。
ですから、ある意味では御開山の引文は七祖のエッセンス(義)を抽出されたのであって、例えば『往生要集』の説は全文を肯定しているのではなく、そこに阿弥陀如来の本願(第十八願)の意が明瞭に顕されている文だけを引文されています。
WikiArcの七祖聖教では「inmonn」というボタンをクリックすれば、御開山の引文された部分を確認することが出来ます。

また、梯實圓和上が「浄土真宗の特長」で述べておられるように、

 この『教行証文類』では、曇鸞大師の教学の導入という独自の方法を用いました。すなわち法然聖人から伝授された選択本願に基づく念仏往生の法義を、曇鸞大師の『往生論註』の教学に示唆を受けて確立された本願力回向の宗義によって包括し、体系化していかれたのです。それによって、浄土真宗とは、往相・還相という本願力回向の二相を軸とし、その往相は教、行、信、証の四法として展開する教義体系であることを顕示されたのです。そして浄土門内に要門や真門という方便教のあることを明らかにし、さらに聖道門までも浄土真宗の方便の法門として包摂していくという壮大な体系を完成されたのです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97

善導・法然両祖の提唱された、穢土と浄土という相対の世界観に曇鸞教学を導入することによって、本願力回向という「誓願一仏乗」の大乗仏教の仏法を顕されたのでした。
「正信念仏偈」に、

「天親章」に
 広由本願力回向 為度群生彰一心
  広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。
とあり、
「曇鸞章」には、
 往還回向由他力 正定之因唯信心
  往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

と、天親菩薩は、「本願力」ということを教えて下さって、曇鸞大師はそれを「他力」であると教えて下さったのでした。
高森親鸞会では七祖を学ばないから、矮小化された「信心」に狂い、「行の一念」を忘れ、あほみたいに「信の一念」云々を論ずるのでしょう。これはある意味での信一念義の自分で拵えた妄想でした。
このような会員は閉じらた世界で培養されてますから、教祖の書以外を読むことは謗法とそしられるのでしょう。何故なら自己の描いた高森教のハッキリ信心が壊れてしまうから(笑

御開山は、なんまんだぶと称える「大行」の上で「大信」を論じておられるのであって、これが信のみというキリスト教の信と違うのでした。
ちなみに信という漢字は、和語では「まこと」とか「まかせる」という意味であり、真実なるものに己をまかせるという意味が「信心正因」という意味でした。

高森親鸞会では、七祖を読むことを否定しているそうですが、浄土真宗の中核である「本願力」や「他力」という言葉の出拠を知らないから、矮小化された「信」に狂うのでしょうね。知らんけど。

ともあれ、曇鸞教学の導入によって、浄土真宗の信心の意味が転換されているのでした。これが、御開山が示された「横超の菩提心」であるような信心でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%80%E5%BF%B5%E8%BB%A2%E9%87%88

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメントを頂いた皆様 とりわけ 2019-02-13(00:06)の名無し様

いつも、ブログへのコメントありがとうございます。全てに返信できていませんが、目は通させて頂いております。さて、


2019-02-13(00:06)の名無し様

> ご返答がないのでこちらにも挙げておきます。
>
> 元会員様
>
> あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)でしょうか。
> もし、そうならば、あなたのハンドルネームは、見る人を欺いていると受け取れます。
> 見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。
>
> また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)を退会されたのでしょうか。
> もし、そうならば、その理由を教えて頂けないでしょうか。
> あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ退会されているのかが疑問です。
> また、退会されてから方針などが変わっているかもしれないのに、お布施(ご法礼)の点など、会の内側のことがなぜ分かるのでしょうか。
>
> また次に、あなたは、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)ではなく、退会されたのでもないのでしょうか。すると、「元会員」とは、どんな宗教、どんな教えを指しているのでしょうか。
> また、あなたの主張は、浄土真宗親鸞会で教えられている主張だと思いますが、なぜ、浄土真宗親鸞会の会員(学徒)になられないのでしょうか。浄土真宗親鸞会では、仏教を真剣に求めるならば、会員(学徒)になることを勧めています。
> また、「元会員」というハンドルネームは、このブログでは、元浄土真宗親鸞会の会員(学徒)と通常受け取れます。上にも書きましたが、見る人を欺いて、真実を明らかにすることは適切ではないと思いますがいかがでしょうか。

⇒この意見については私も同じです。ところで、私は

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

と質問しているのですが、これに対する貴方の立場を明確に聞かせて下さい。お返事が無い場合は、貴方は

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じている

だという前提で話を進めていきます。貴方が示した『顕正』の中にも

実時が判る筈がない

とは書いてありますが、

仏智満入した明かな不退転の大自覚
ツユチリほどの疑いもない明かな自覚

があると断言し、

晴れた一念の味が大切

と言っています。明らかに「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」との主張です。

後で「捏造だ」と言われても困りますので今一度確認です。「信じている」「信じていない」だけで結構ですので、よろしくご返信下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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