「雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!」だとか喚いて、高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかない現役カルト信者
現役カルト信者は本当に話題提供に活躍してくれています。ここまで来ると、「もっと親鸞会教義の誤りを示せ」と促して下さる還相の菩薩様のようにも思えてきます(笑)
それはさておき、彼はまたこんなことを言っています。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
雑行、雑修、自力の心を振り捨てて
御文章よくよく読まれ(笑
どうせ正顕できんと思うけどww
蓮如上人の御同行に雑行棄てて無い方々がおられたか
けんにんかのとりのれき
雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!
即、本願の船にのり、他力の信心を得る。
それ以外無い
2019-02-10(10:28) : 元会員
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
どうやら「信前に雑行は捨てられない」「信一念まで雑行はある」という異安心に陥っているようです。そして、これが親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかないようなので教えてあげます。
以下、『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会より。
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『三経往生文類』の20願をみておきます。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。
(現代語訳)
「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。
ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。
三願転入の文を読めば明らかです。
「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。
要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
20願の行者は、「雑行と雑修(助業)を捨てて念仏1つ」となった行者です。その20願は信前ですから、信前に「雑行」が捨てられないのでは行者は20願を通らずに信心獲得することになります。これは
高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』の完全否定
です。こんなことも判らない愚かな現役カルト信者だということが分かります。
では、領解文や『御文章』5帖目15通等に言われている
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて
もろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて
は何かと言いますと、これは「自力心」の別名です。「自力心」があるから「もろもろの雑行雑修」に心をかけるのです。その「もろもろの雑行雑修」の元である「自力心」をふりすてて、ということです。「もろもろの雑行雑修」は行体、つまりものがらです。ものがらは自分で捨てることができます。「自力心」はものがらではなく迷いの因です。これは自分で捨てることができません。他力に帰す、信心獲得するまである心です。
その「自力心」は自分でふりすてるのではなく、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのむ
一心にふかく弥陀に帰する
ところに阿弥陀仏のお力によって捨てさせられるわけですから、私達にとっては何よりも「助けるぞ」の弥陀の勅命を聞いて、仰せの通りに後生をまかせることが大事なのです。これを「唯信」、つまり信心と言います。
本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。(『唯信鈔文意』)
とある通りです。これと奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験とは訳が違います。
あと、領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味については
『飛雲』会員との問答(後生の一大事について)
に書かれていますのでそこから引用します。
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ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、
衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。
とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。
親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。
阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。
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聞邪義、献金、勧誘、無条件服従等のいわゆる「高森の行」にいそしみ、
何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向している
親鸞会会員の実態を捉えて余りありません。そうやって、気が付かなければ死ぬまで騙され続ける会員。他力の信は獲られず、「絶対の幸福」とやらも獲られず、残るのは我が身に積もる罪悪と後生への恐怖のみです。どこまでも、哀れ哀れです。
それはさておき、彼はまたこんなことを言っています。
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雑行、雑修、自力の心を振り捨てて
御文章よくよく読まれ(笑
どうせ正顕できんと思うけどww
蓮如上人の御同行に雑行棄てて無い方々がおられたか
けんにんかのとりのれき
雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!
即、本願の船にのり、他力の信心を得る。
それ以外無い
2019-02-10(10:28) : 元会員
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どうやら「信前に雑行は捨てられない」「信一念まで雑行はある」という異安心に陥っているようです。そして、これが親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかないようなので教えてあげます。
以下、『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会より。
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『三経往生文類』の20願をみておきます。
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。
(現代語訳)
「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。
ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。
三願転入の文を読めば明らかです。
「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。
要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。
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20願の行者は、「雑行と雑修(助業)を捨てて念仏1つ」となった行者です。その20願は信前ですから、信前に「雑行」が捨てられないのでは行者は20願を通らずに信心獲得することになります。これは
高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』の完全否定
です。こんなことも判らない愚かな現役カルト信者だということが分かります。
では、領解文や『御文章』5帖目15通等に言われている
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて
もろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて
は何かと言いますと、これは「自力心」の別名です。「自力心」があるから「もろもろの雑行雑修」に心をかけるのです。その「もろもろの雑行雑修」の元である「自力心」をふりすてて、ということです。「もろもろの雑行雑修」は行体、つまりものがらです。ものがらは自分で捨てることができます。「自力心」はものがらではなく迷いの因です。これは自分で捨てることができません。他力に帰す、信心獲得するまである心です。
その「自力心」は自分でふりすてるのではなく、
一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのむ
一心にふかく弥陀に帰する
ところに阿弥陀仏のお力によって捨てさせられるわけですから、私達にとっては何よりも「助けるぞ」の弥陀の勅命を聞いて、仰せの通りに後生をまかせることが大事なのです。これを「唯信」、つまり信心と言います。
本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。(『唯信鈔文意』)
とある通りです。これと奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験とは訳が違います。
あと、領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味については
『飛雲』会員との問答(後生の一大事について)
に書かれていますのでそこから引用します。
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ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、
衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。
とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。
親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。
阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。
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聞邪義、献金、勧誘、無条件服従等のいわゆる「高森の行」にいそしみ、
何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向している
親鸞会会員の実態を捉えて余りありません。そうやって、気が付かなければ死ぬまで騙され続ける会員。他力の信は獲られず、「絶対の幸福」とやらも獲られず、残るのは我が身に積もる罪悪と後生への恐怖のみです。どこまでも、哀れ哀れです。
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