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【考察】念仏往生の法義と信心正因、平生業成について(8)

平生業成」を仰せられたのも何も親鸞聖人だけではないですし、また親鸞聖人が最初なのでもありません。実はその元となる教えも、師匠である法然聖人にありました。

問うて云く。
摂取の益をかうぶる事は、平生か臨終か、いかん。

答えて云く。
平生の時なり。そのゆえは、往生の心まことにて、わが身を疑う事なくて、来迎をまつ人は、これ三心具足の念仏申す人なり。
この三心具足しぬれば、必ず極楽にうまるという事は、観経の説なり。
かかる志ある人を阿弥陀仏は、八万四千の光明をはなちて、てらし給うなり。平生の時、照しはじめて、最後まで捨て給わぬなり。故に不捨の誓約と申すなり。
「念佛往生要義抄」(昭法全六八七頁)
『やさしい浄土真宗の教え(苦笑の独り言より)』§3 阿弥陀仏の救いは平生からより)

法然聖人は、『観経』に説かれる「念仏衆生摂取不捨」を平生の時であるとされています。阿弥陀仏の光明は平生に「三心具足の念仏申す人」を照らし摂めて、最後までお捨てにならないというのです。三心具足とは、要は念仏する者を浄土に迎え取るという本願を疑いなく受け容れていることですから、真実信心のことです。

こうした法然聖人の教説を承けて、真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に入ると現生正定聚説を展開され、平生聞信の一念に往生の得否が定まると教えられたのが親鸞聖人でした。現生正定聚説は親鸞聖人が初めてと言えますが、平生業成説に通ずることは法然聖人も仰っていたことを知るべきです。

平生業成というと一見念仏が無いようですが、念仏往生の法義から信心を別に開かれ、その信心は念仏往生の本願を疑いなく聞き受けた平生(只今)に決定し、同時に往生も決定することを言われたのですから、当然ですが念仏と無関係の教えではないのです。念仏往生に対する間違った考えをことごとく取り除いて、正しく念仏往生の法義を教えられたのが親鸞聖人であり、その法義の特徴の一つが平生業成なのでした。

聖人の時代は一念多念の諍いが絶えなかったため、臨終に往生が定まるという多念義に対して平生業成を、一声の念仏もしくは一念の信心を重んじて、多念の相続を軽んじる一念義に対して乃至十念、一生涯の念仏相続を教えられています。また、反倫理的な考えに陥る一念義の異義に対して放逸無慚を正されるお手紙を多く出されているのは既に知られている通りですが、ここでは詳しくは述べません。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。   南無阿弥陀仏『一念多念証文』

このように浄土真宗は念仏往生の法義を正当に継承された教えであり、それは本願を疑いなく聞き受けた信心を肝要とする信心正因の教え、平生に往生が定まるという平生業成の教えであったのです。


念仏往生と信心正因、平生業成は別物だと思っておられる方がありますが、とんでもありません。こうした考えは本願成就文を重視する人に多いのかも知れませんが、高森会長も『教学聖典(3)』に

問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ


と教えています。ここから「念仏は助かるのに無意味」という念仏軽視の思想が芽生え、「一切衆生必堕無間」というカルト教義と合わせて「自力念仏の者は必堕無間」という念仏誹謗の思想まで出てくるのでしょう。そんな思想に支配されている者が念仏の信心を獲ることは字の通り「難中之難無過斯」なのは当然のことです。

親鸞会では信心正因称名報恩説が行き過ぎて「念仏は信後報謝に限る」「信前も信後も念仏はお礼」などと、報謝、お礼の意味以外持たせていませんが、念仏は単なるお礼ではありません。

また、高森会長とは別ですが、念仏は「我にまかせよ」という本願招喚の勅命であると教える先生もあります。これは正しいです。しかし、それだけでもありません。念仏は本願力回向の大行であり、我らが迷いの世界を離れて真実報土に往生する業因、浄土往生の正しき行業(正定業)なのです。

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就


親鸞聖人は「正信偈」にてこのように教えられ、更に『尊号真像銘文』にて

「本願名号正定業」といふは、選択本願の行といふなり。「至心信楽願為因」といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。
「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。「証大涅槃」と申すは、必至滅度の願(第十一願)成就のゆゑにかならず大般涅槃をさとるとしるべし。「滅度」と申すは、大涅槃なり。


と釈しておられます。また蓮如上人も

「本願名号正定業」といふは、第十七の願のこころなり。十方の諸仏にわが名をほめられんと誓ひましまして、すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。
「至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」といふは、第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。これを平生業成とは申すなり。されば正定聚といふは不退の位なり、これはこの土の益なり。
『正信偈大意』

と釈されています。本願の名号は「選択本願の行」「われらが往生をとぐべき行体」であるというのですから、「念仏がないから信心一つ」でもなければ「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」でもないのです。

そして、第十七願に誓われた「本願の名号」(行)と第十八願に誓われた「真実の信心」(信)とは、

本願の名号は「選択本願の行」「われらが往生をとぐべき行体」であることに疑いないのが真実の信心

という関係です。阿弥陀仏が一切衆生を善悪・賢愚の隔てなく平等に往生成仏せしめるために、一切の諸行を難行であり劣行であると選び捨て、ただ称名念仏一行を往生の行として選び択って与えて下された行、これが本願の名号です。ところで、釈尊を始め、十方諸仏の出世本懐は『無量寿経』を説いて本願の名号を一切衆生に聞かせ与えることにありました。『無量寿経』という真実の教えは、一句の南無阿弥陀仏という本願の名号におさまりますから、名号は教であり行でもあります。

その念仏一行こそ我ら末代不善の凡夫にとってただ一つの「往生をとぐべき行」であるというのです。こうした選択の願心を聞き受け、念仏を称えて往生することに疑いないのが「真実の信心」です。

いくら往生成仏の法が成就して、私に与えられていても、それを受け容れなければ私の救いにはなりません。それで、私達にとっては何よりもこの法を疑いなく信受することが肝要ですから、

「至心信楽願為因」といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。

と信心が「阿耨菩提の因」、つまり第十一願に誓われた「大般涅槃」(証)の正しき因であると説かれるのです。

真実の信心」を獲たその時に正定聚に住し、その上に等正覚にいたり大涅槃を証するのは第十一願が成就されているからである、そのことを「平生業成」というと蓮如上人は仰っています。この短い「正信偈」のお言葉の中に、真実の教、行、信、証がおさまっていることが分かります。


今回の話をまとめると、

●平生に本願を疑いなく信受したその時より、阿弥陀仏の光明は念仏の衆生を摂取して決して捨てない
●「阿耨菩提の因」である「弥陀如来回向の真実信心」を獲るのは臨終ではなく平生である
●「本願の名号」(教・行)を疑いなく受け容れた「真実の信心」(信)によって「大般涅槃」(証)をさとる
●親鸞聖人は法然聖人の教えを元に信心正因、平生業成説を教えられ、更に現生正定聚説へと展開された

ということです。そして、行も信も共に阿弥陀如来の回向成就したまう南無阿弥陀仏を心に保ち、口に行ずることですから、行法の上で言えば念仏往生であり、機受の上で言えば信心正因なのです。その往生は臨終に決まるのではなく、平生に信心の定まった時に往生もまた定まるというのが平生業成です。このような平生業成の教えの元は法然聖人にあることを知って、親鸞聖人と共に歴代の高僧方の御恩を思うべきでしょう。



【参照】
ブログ「あなたの白道」(嶋田久義元講師)の案内 及び 成就文から念仏も死後のことも取り去ってニセモノの本願を説く高森顕徹会長
『WikiArc』平生業成
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Abcです

Sub Title:「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」について

こんばんわ、Abcです。

やはり、この文言を見ますと、なにか引っかかるので『和讃』から記しておきます。

1、「定散諸機各別の 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし」(『浄土和讃』より)

2、「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(『正像末和讃』より)

3、「弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
 生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ」 (『正像末和讃』より)

(1、2、3、と番号を打ったが、これは順序をあらわしたものではなく、説明のためにAbcが、つけたものである。)

ここに3首あげましたが、それぞれ
1は「(他力信心に)通入せんとねがふべし」
2は「南無阿弥陀仏をとなふべし」
3は「有情をよばうてのせたまふ」 とございます。

これは、
1は「他力に帰せよ」という『信心』を勧められたもの、
2は「弥陀の名号となふべし」といわれるように『念仏』を勧められたもの、
3は「弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして」(『御文』2-8より)とありますように、「われひとりたすけんといふ超世の大願」であります。

ですから、命題は今でいう2の説の逆説となっております。

 また、別の箇所には、
源空『選択集』 念仏付属の章より
 「釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。」

とあり、『和讃』には、
 「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」 (『浄土和讃』より)
とありますことにより、
 親鸞は、「釈尊は、五濁のものをあわれ見られた阿弥陀仏の応現したすがたである」と観ることができましょう。

 ということは、
 「弥陀仏、定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて衆生に付属したまふ」と置き換えることができましょう、なおこの文をまるくすると「阿弥陀仏は(定散の諸行を行わないで、)念仏を称えよと仰っている」となります。

まずは、文献から記しました。

 なもあみだ、なもあみだ
Abc

Abcです

連投もうしわけございません、Abcです。

>すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。これすなはち、われらが往生をとぐべき行体なりとしるべし。

 このうち、「すでにその願成就したまへるすがたは、すなはちいまの本願の名号の体なり。」は「名号法」である「南無阿弥陀仏のすがた」であります。「御法(みのり)」とは「御教え」という下しがありますから「」でありますが、今しがた淳心房さんが記されているように「われらが往生をとぐべき行体なり」までを一括りとしまして、「」とすることもあります。

>第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す、そのうへに等正覚にいたり大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふがゆゑなり。

 こちらは「第十八の真実の信心をうればすなはち正定聚に住す」が「」、「大涅槃を証することは、第十一の願の必至滅度の願成就したまふ」が「」でありますが、「信知」と「証知」が同じように扱われるように、「どちらがどちらである」ということも明確には示すことができません。
 (いや、明確に示すことができますと、「なお義あるべし。」となりますので、「行者におきて、示すことができない」となります。)

 ですから、
>「●「本願の名号」(行)を疑いなく受け容れた「真実の信心」(信)によって「大般涅槃」(証)をさとる」  は、

●「本願の名号」(教・行)を疑いなく受け容れた「真実の信心」(信)によって「大般涅槃」(証)をさとる  ですね。これにて「真実の教行信証」となります。

 余談ですが、第11の願によって「大般涅槃(証)をさとりて」の後は、
 第12・13の願によって、「安養浄土に生まれさせて」いただきます。
 その後、第22の願によって、「還相の行者と生まれさせて」いただきます。

 なもあみだ、なもあみだ
 Abc

Re: Abc様

コメントありがとうございます。

七高僧方や親鸞聖人は主に仏の救済活動を仏の側から顕しておいでです。いわゆる約仏ですね。この立場からすると念仏往生、念仏成仏です。
それに対して、仏の救済活動を衆生の側から顕してもおられます。約生の立場からすると、本願を計らいをまじえずに聞き受け、仏におまかせするという信心正因です。

御文章は約生の立場で説かれているので、一切の自力を捨てて仏にまかせる捨自帰他、信心正因の法義が際立っています。件の発言はこの約生の立場から出たものだと思われますが、いくら何でも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」はないですね。

私も本願寺の先生がそんな間違ったことを言わないだろうと色々忖度していましたが、やはりどう考えてもこの発言は教義に反するため、間違っていることは間違っていると訴えることにしました。しばらくこのシリーズは続きますが、よろしくお付き合い頂ければと思います。


なお、後のコメントの

●「本願の名号」(教・行)を疑いなく受け容れた「真実の信心」(信)によって「大般涅槃」(証)をさとる  ですね。これにて「真実の教行信証」となります。

はその通りですね。後で読み返してそのように書けばよかったなぁと思います。時間があれば直しておきたいと思います。ありがとうございます。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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