FC2ブログ

聞くべきことが何かも知らない青年婦人学生諸君と、地獄脅しを復活させた高森顕徹会長

昨日の親鸞会の行事は、「青年婦人学生大会」という名目で

お釈迦様の「人間の実相」の譬えとはどんな譬えでしょうか

という質問に答える形式の、高森顕徹会長の座談会でした。内容の一部は既に

『飛雲』本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

に紹介されています。聞くべきことが何かも知らない青年婦人学生諸君はこんなことを質問し、高森会長創作の「人間の実相」の話を一日かけて聞いて、またしても時間と労力と金銭を無駄にしたというわけです。

それにしても、今まで何十回と聞いてきて、人にも話せる位に覚えているであろうことを今更また聞きたいかと不思議でなりません。これも、「人間の実相」が分からなければ「(地獄必定の)後生の一大事」が分からない、「(地獄必定の)後生の一大事」に驚き立たなければ横の線の軌道にも乗らない、横の線の軌道に乗らなければその道を進んで救われるということはない、と信じ込んでいるからでしょう。そして、より深く理解しなければ、より真剣に活動しなければと、その教えと活動にハマってゆくのが哀れ親鸞会の会員です。これこそカルトの思う壺ですが、それに気づくのはいつになることやら・・・


さて、飛雲さんもご指摘の通り、『仏説譬喩経』には無い「深海」について

底なしの海を地獄に譬えられた

と言って地獄脅しを復活させたようです。その後、地獄は自分が造り出すものだとしていつもの歌

火の車 造る大工は なけれども 己が造りて 己が乗りゆく

が出てきました。この歌は作者未詳となっておりますが、一説によると一休禅師の歌だそうです。

『真宗興正派 本山興正寺』今月の法話
『遇法のよろこび』遇法のよろこび(その七) s.63.4.1
『こころはコロコロ日録』畳の表替え

他にも一休禅師の歌として紹介しているサイトは多数あります。参考までに。


それで、その地獄を「親鸞身をもって知らされた」として出したのが『歎異抄』第二章

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

でした。5月公開の映画を意識して、『歎異抄』を絡めてきています。

会員の多くは、このように知らされたのを機の深信だと思い、そう知らされよう知らされようと思って教えと活動にのめり込んでいくのだと思われます。私もそうでした。真剣必死の求道の果てに地獄一定の苦しい体験をし、地獄の釜底に叩き堕とされた時、阿弥陀仏の呼び声が五臓六腑を貫いて救われるというような、いわゆる「救済の予定概念」を描いていたからです。高森会長の著書は

高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病

にて紹介したようにそのように思わせる書き方で一貫しています。また、『世界の光 親鸞聖人』の親鸞聖人の獲信シーンも、韋提希の獲信シーンも、深い苦悩に堕ちてからの救済という体で描かれていますから、視覚的にもそういう概念を植え付けられているのです。

まず己は地獄一定の極悪人だと知らされなければならない。これが機の深信で、そう知らされたと同時に法の深信が立つ。信心決定とは真実の自己が知らされた体験で、それには本当の自分とは何かを知らなければならない。だから、「人間の実相」の譬え話を真剣に聞いて、藤蔓にぶら下がって蜜を求め、今にも地獄に堕ちようとしている自分に気づかなければならない。そうしなければ求道の出発点にも立てない。

こんな思考回路の会員ばかりかと思いますが、これは甚だしい誤解です。一昨日の記事にも書いた通りですが、今回は『飛雲』なんちゃって二種深信を妄信する高森顕徹会長と愉快な仲間達より引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
高森会長最大の駄作である『なぜ生きる2』に二種深信の説明があります。

地獄より行き場のない身だと疑い晴れ、いつ死んでも浄土往生間違いなし、と疑い晴れているからだ。大悲の願船に乗ずると、何人も、この二つのことに疑い晴れる。
これを「二種深信」という。


大沼法竜師の二種深信の説明を劣化コピーしたものです。
高森会長は、二種深信の基礎を知らないのです。

二種深信を最初に取り上げられたのは存覚上人です。存覚上人は、蓮如上人が釈迦の化身・勢至菩薩の化身とまで絶賛され、存覚上人の解釈をそのまま受け入れよとまで蓮如上人は仰っています。
その存覚上人が『教行信証』を解説された『六要鈔』に、二種深信についてこのようにあります。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

機の深信については、「正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず」「聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて」とあります。地獄とかそんな内容のことは一切ありません。
善ができてもできなくても関係なく、自分の行いによる功徳では、出離できないことを知ることです。
「善をしなくても助かる」という退会者に対しての反論として高森会長が指導したのが、

「では悪をすれば助かるのですか」と言えばよい

でした。善をしないなら悪をする、という発想が機の深信に無知な証拠です。善をすることも、悪をすることも共に、「自力の功」です。この一点だけでも、高森会長が機の深信を体得していないと言えます。
存覚上人の解説をもう少し詳しく見ると、「聖道の諸教」と比較されています。

つまり、機の深信とは元々、聖道門では出離できないという内容なのです。それは善導大師の告白を読むとよく判ります。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

聖道門では出離できないのではなく、身命を惜しまずに修行した多くの法友が出離していった中で、自分は落ちこぼれの凡夫だから出離することができないのだ、との告白です。

地獄より行き場のない身」だなんていう低レベルの話かどうかは、聖教をちょっとでも読んだら判る話です。

法の深信についての存覚上人の解説は簡潔で、「出離は偏に他力に在ることを明かす」「偏に仏力に帰す」です。聖道門に代表される「自力の功」では出離できないが、阿弥陀仏の18願によって出離することができる、と深く信じたことを法の深信というのです。
いつ死んでも浄土往生間違いなし」ではなく、浄土往生の道は「他力」「仏力」だと深く信じたことです。

地獄が判るわけでもなく、浄土が判るのでもないです。あくまで出離の手段、浄土往生の手段が自力ではなく他力と判ったことを二種深信というのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

これが二種深信の意味です。問題なのは、二種深信がどうやって立つのか、立つのはいつかということです。それについて教えられているのが二河白道の譬えです。今は簡単に言いますと、二種深信が立つのは自分の力ではなく、東の岸で釈迦の発遣と弥陀の招喚とを聞き、その仰せに信順することによってです。仰せに順い、旅人が「白道を進んでいこう」と心が定まった時が二種深信が立った時です。それは煩悩と闘って白道を進んでからではなく東の岸にいる時ですから、求道していった先の未来ではなく只今です。

自力の命がけの求道、親鸞会の組織拡大活動をしていって立つものではありません。「偏に仏力に帰」したのが二種深信であり、それはただ「弥陀をたのむ」ということです。今回、高森会長は

蓮如上人は「弥陀をたのめ」と言われた。これは「願船に乗せてもらいなさい」ということ。
「たのむ」とはお願いではない。まかせるということ。


と珍しくまともなことをチラッと話していました。この部分だけは正しいです。ところが、今まで聞いてきたことが邪魔をして、会員の皆さんは「まかせるまでは求道していかなければならない」と固く思い込んでいるでしょう。そうではなく、只今、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の仰せを聞いて、その通り、只今往生を阿弥陀仏におまかせするのです。他には何も要りません。これだけです。これが他力の信心を獲た念仏の行者です。これを『歎異抄』では

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(第一章)

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(第二章)

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(第三章)

等と言われているのです。これが長い求道の果てのことだと考えているのと、高森会長が専修念仏の否定を説いていること、及び他力信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころを説かないのとで、会員は何も判らず獲信・往生とは無関係な組織拡大活動に振り回されているのです。


親鸞会にいる限り、邪義を聞き続けるためどうしても救われるのは求道していった先、宿善が厚くなった未来、横の道を進んで縦の線まで辿り着いた時であって今ではないとしか思えないと思います。加えて、雑行や雑行もどきの悪業悪行の実践を余儀なくされ、念仏一行などと言おうものなら揃って「信仰の幼稚園だ」などと非難されることは想像に難くありません。そして、「聞く一つ」といっても聞くべきことが説かれていないので、信心も安心もないまま後生に対して不安な日々を送らなければならないのは今まででよくお判りかと思います。

藤蔓が切れるまで、猶予はないかも知れません。8年前の今日の出来事を、一体誰が予想できたでしょうか? 親鸞会の教えで今宵の後生に間に合うか、会員の皆さんはよく考えて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード