真の仏弟子・仮の仏弟子・偽の仏弟子

『教行信証』信巻では、三心即一心である旨を明かされた後、信心の利益について述べられています。
そのなかで、以前、一部取り上げた「横超断四流」の釈は、横超弘願の教法がもたらす利益を明かしたものです。(参考:横超と横出

その教を受けている機が真仏弟子と讃嘆されるような利益を得ていることを明らかにされている「真の仏弟子」の釈について、今回は取り上げます。

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。(教行信証信巻)

【現代語訳】『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 編 参照(以下も同様)
善導大師の『観経疏』に「真の仏弟子」(散善義)といわれている。真という言葉は偽に対し、仮に対するのである。弟子というのは釈尊や仏がたの弟子であり、他力金剛の信心を得た念仏の行者のことである。この他力回向の信と行によって、必ずこの上ないさとりを開くことができるから、真の仏弟子という。

横超の金剛心を与えられている念仏の行者は、他力回向の信と行、つまり南無(信)阿弥陀仏(行)によって往生成仏することができますから真の仏弟子というのです。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(教行信証教巻)

教行信証教巻の冒頭に、他力二種の回向を教えられたのが浄土真宗であり、往相の回向について真実の教・行・信・証があると顕かにされています。


真仏弟子釈では、真の仏弟子に対し、「真の言は偽に対し仮に対するなり」と仮や偽の仏弟子があると教えられています。どんな人をいうのでしょうか?


仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。(教行信証信巻)

【現代語訳】
さきに仮といったのは、聖道門の人々、および浄土門における自力の人々のことである。


偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。(教行信証信巻)

【現代語訳】
さきに偽といったのは、六十二種の誤った考えを持つ人々や九十五種のよこしまな教えにしたがう人々のことである。

※六十二種…釈尊在世当時の仏教以外の思想家の見解を六十二種類に分類したもの。
九十五種…釈尊在世当時の仏教以外の思想家の総称。

仮の仏弟子とは聖道門の人、浄土門の自力の人を言い、偽の仏弟子とは外面は仏弟子のふりをしていながら内心は外道を信奉しているような者を言うのです。


『教行信証』(『顕浄土真実教行証文類』)では、真実の教・行・信・証、そして他力の行信をえた真の仏弟子が往くところであり、往相・還相の本源である真仏土について真仏土巻までで述べられた後、化土巻では「仮」や「偽」について書かれています。

親鸞会で聞いてきた人は、
「あれ? 真仏土巻までは信後のことが、化土巻までは信前のことが書かれているのでは?」
と思うかもしれません。

こう思った人は、『教行信証』に取り組んでみて下さい。
原文を拝読するのが難しければ、このブログでも何回か引用している『顕浄土真実教行証文類 現代語版』(本願寺出版社)を取り寄せて、原文と合わせて読んでみたらよいと思います。


さて、真仏土巻では真実の仏と浄土が顕されています。真仏土巻終わりの真仮対弁の釈で願海・仏土に真仮があることを説かれ、化土巻の冒頭で方便の仏と化土が顕されています。

つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。(教行信証真仏土巻)

しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。(教行信証真仏土巻)

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。(教行信証化土巻)


真実の仏とは、思いはかることのできない光明の如来です。真実の浄土は限りない光明の世界です。
これは、阿弥陀仏の光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)が成就されたものです。

方便の仏とは『観経』に説かれている真身観の仏です。方便の浄土とは『観経』に説かれている浄土、また『菩薩処胎経』に説かれている懈慢界、また『大無量寿経』に説かれている疑城胎宮です。

報土と化土を比べたらその差は歴然です。化土巻の要門釈では、『大無量寿経』の胎化段と『無量寿如来会』の胎化段を引文されて、胎生(化土往生)と化生(報土往生)の得失を説かれています。

化土巻の冒頭で化土について明らかにされているのは、真仏土巻までで明らかにされた報土往生に対して、化土往生という明らかな果の失をまず示すことにより、化土往生を誡められているのです。裏からいえば、報土往生を勧めれらているのです。

では、報土往生と化土往生という違いがどうして出てくるのでしょうか?

それは、報土に往生する真実の教・行・信・証があるのに対し、化土に止まる方便の教・行・信・証があるからです。
因が他力回向の行信(南無阿弥陀仏)と、自力諸善・自力念仏というように異なれば、結果もそれぞれ真仏土と方便化土と異なってきます。そして、化土巻には、方便の教・行・信・証が明らかにされ、なぜ方便化土に止まるのかが詳しく書かれているのです。

つまり、方便の教・行・信・証は勧めるためではなく「誡めるために説かれた」のです。

真宗聖典上で諸善について説いてあると、それは実行させるためだと短絡的に解釈しているのが親鸞会であり、親鸞聖人の御心を全く知らないといわざるを得ません。

化土に止まる教・行・信・証を、報土へ往生する方便の教えだと説くのが親鸞会ですが、十九願の行信からは、化土往生しか適いません。報土往生は望むべくもありません。因が異なるからです。
その十九願を、報土へ往生する方便の行が勧められているのだと教えるのは親鸞会独自の珍しい教えです。

更にその実、定散二善とは言葉だけで、化土への行でも何でもない行(親鸞会への献金と人集め)を勧めているのですから話になりません。


先に述べたように、化土巻(本)で「仮」である要門・真門・聖道門について説かれた後、化土巻(末)で「偽」について教誡されます。

それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、(教行信証化土巻)


こうして真・仮・偽を明かされ、教行信証の最後、後序には、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。

と説かれています。真実とそれに対する権仮方便と邪偽を、親鸞聖人は徹底的に明らかにされましたが、親鸞会はその御心を踏みにじり、権仮方便に執着して会員を真実に近づけなくしているのです。まことに教に昏くして真仮の門戸を知らない親鸞会であります。
種々の非難にも耳を傾けず自説に固執し、親鸞会の人達が見下している道徳倫理に反する言動を指摘されても反省も懺悔もない実態を目にしては、何が真実で何が邪偽かを見定めることができない親鸞会と感じてしまいます。

ダミーサークルを名乗って偽装勧誘を続け、立場が危うくなると大学の職員に名前まで偽り、挙げ句の果てにトイレに逃げ込むという行為は、仏弟子の行為でも何でもないでしょう。高森会長に騙された道化の哀れな姿です。


一応教義上、親鸞会会員は仮の仏弟子といえないこともありませんが、実態は偽の仏弟子です。
ショックでしょうが、早く会員はこの事実を受け止め、外教邪偽の異執から離れて真の仏弟子となって頂きたいと思います。
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いつもながら鋭いです、勉強になります。

>Rudel様

会員は「自力を捨てて他力に帰する」を、同時とは説明を受けながら
1、自力が廃る→2、他力に帰する
という理解なのでしょう。
自力が廃るにはどうすればいいかと方法論ばかり論じて、自力が自力と知らされ廃るには化土への善を実行せよと教えるに至っては、珍しい教えと判定せざるを得ません。

自力で自力を何とかすることはできません。名号の中に自力を捨てて他力に帰するはたらきがあるのですから、「必ず救う」他力の法、先手の法を聞く以外にありません。方法論は置いといて、先手の法を聞いて頂きたいと思います。

No title

法然、親鸞の両聖人が諸善と弥陀の救済を関連付けられていないことなど、浄土の教えが説かれた時代背景を考えればわかりそうなものですけどねぇ、
その当時は戦乱や災害が相次ぎ、家や田畑を失ったり、身寄りが全て殺されてしまうことなど珍しくなかった。当然生きるために人殺しや盗みに手を染めなければならない人々も大勢いたわけで、善など積もうにも積みようも無い人が溢れ返っていた。
そこに、念仏の信心一つで救われるという教えが説かれたから、あれほどに浄土の教えに帰依する人が居たわけで、
それを善をしなければ信仰が進まないなどというのは、なんというか『平和ボケ』してるとしか言いようがない。

真仏弟子

お疲れさまです。

バックアップ用に『観経疏』「散善義」の深信釋中の唯信仏語を上げときます。

また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して依行し、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%B3%E7%B5%8C%E7%96%8F%E3%80%80%E6%95%A3%E5%96%84%E7%BE%A9_%28%E4%B8%83%E7%A5%96%29#.E5.94.AF.E4.BF.A1.E4.BB.8F.E8.AA.9E.EF.BC.88.E7.9C.9F.E4.BB.8F.E5.BC.9F.E5.AD.90.EF.BC.89


これを、『愚禿鈔』p522 により補足しておきます。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%84%9A%E7%A6%BF%E9%88%94_%28%E4%B8%8B%29#P--522

仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、
(雑行雑修を捨てて)

仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、
(正行(念仏)を行じ)

仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。
(異学異解雑縁乱動のところを去れ)

これを仏教に随順し、
(釈尊の教え[仏教]に随順)

仏意に随順すと名づけ、
(諸仏の意[仏意]随順)

これを仏願に随順すと名づく。
(阿弥陀仏の願[仏願]に随順)

これを真の仏弟子と名づく。

TS会では『観経疏』の深心釋も読んでないのかなあ。
御開山は『教行証文類』信巻に「深心釋を」引用してるから、『観経疏』を読めなくても判るはずなんですよね。

http://labo.wikidharma.org/index.php/%E9%A1%95%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E4%BF%A1%E6%96%87%E9%A1%9E_%28%E6%9C%AC%29#.E6.B7.B1.E5.BF.83.E9.87.88



>名無し様

当時の時代背景はあまり考えた事がなかったです。ご意見有難うございます。

仰る通り善知識方は、弥陀の救いと修善は関係づけて勧めておられません。また、善と言っても彼らの本音は人と金ですから、善という名の悪を勧めています。

善と言わず「偽装勧誘をしてでも会員を増やさなければ信仰は進みません」「お布施をしなければ信仰は進みません」と言うべきではないかと思います。

>林遊@なんまんだぶ様

いつも教えて頂き有難うございます。
『愚禿鈔』による補足は非常に分かりやすかったです。

親鸞会だと、
仏の捨てしめたまふをばすなはち行じ(雑行雑善をこのみ)、仏の行ぜしめたまふをばすなはち捨て(念仏を軽視して)、仏の去らしめたまふ処をばすなはち入る(会員を廃捨すべき要門に止める)。これを高森に随順すと名づく。これを偽の仏弟子と名づく。
といったところでしょうか?

まぁ弟子に悪業を進んで造らせている団体ですから、善どころか悪を勧めていると言えるでしょう。そんな教義にいくら無条件服従しても幸せにはなれませんね。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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